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一途な欲望 -5-

一途な欲望

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  5  

 知哉は苛立ちをぶつけるように、バーの扉を乱暴に開けた。
 琥珀色の薄暗い照明の店内は、週末ということもあってかなり混み合っている。
 入り口で立ち止まり店内の様子を窺う知哉に、振り返った何人かの客が意味あり気な視線を送ってくる。知哉の顔立ちは人目を惹く、こんなバーでなら特に。
 真に渡されたカードの店――『entwine』――同性愛者の為のバーだ。
 古い雑居ビルの地下にあり、静かにジャズが流れる店内は、落ち着いたアンティークな雰囲気に包まれている。
 実は知哉がここに来るのは初めてではない。何度か高原に連れられて来たことがあった。
 ただ、いつも場違いな気分で落ち着けない。どうしてもこの場所が好きにはなれなかった。
 まだ自分がこちら側の人間だと思えない知哉には、間違って足を踏み入れてしまった場所ような気がしてしまうのだ。何よりも耐えられないのは、この店に高原と一緒に来ることで、自分がこの高原に――男に抱かれているのだと、周りから暗黙のうちに見られてしまう事だった。
 苦い思いで店内を見渡すと、一番奥のカウンター席に真の姿を見つけた。
 そこはいつも高原が好んで座る席だ。
 偶然ではないだろう。真はここが高原の行き付けの店だと知っているのかもしれない。
 昼間のラフなジーンズ姿に、黒のジャケットを軽く羽織っただけの出で立ちだが、それだけでもぐっと艶っぽく大人びて見える。長い脚をカウンターの下で持て余すように組み、グラスを傾ける姿は、認めたくないが絵になっている。
 知哉の視線を感じたのか、不意に振り返った真と目が合った。はっと我に返った知哉は、真に見惚れてしまっていた事に気付き、慌てて目をそらした。
「知哉さん、来てくれたんだ。残業お疲れさま」
 カウンターに歩み寄ると、真がほっとしたような笑顔を見せた。
 知哉は立ったままで、
「良かったな……思い通りになっただろ?」
 皮肉を込めて冷たく言うと、黒い携帯電話を取り出しカウンターに置いた。
 シルバーのチェーンストラップが真の指に当たる。真はストラップを指に掛け、携帯電話を掬い上げると、
「まあね、知哉さんなら届けてくれると思ったんだ」
 と、少しも動じることなく笑う。
「こうでもしなきゃ来てくれなかったでしょ?」
 結局は真の思惑通りということか――
 本当は今夜だろうが、いつだろうが、二度と真と会うつもりはなかった。渡されたカードも見ずに、すぐに捨ててしまっていた。待ち合わせの場所を知らなければ、無駄に悩む必要もないと思ったからだ。
 しかし、そんな考えも全て見抜かれていたらしい。
 社に戻った知哉が、書類の間に見つけたのは、見覚えのない黒い携帯電話。二つ折りの携帯には、店のカードが挟んであった。
 すぐに真の顔が浮かんだ。
 別れ際に腕を掴まれ、急に引き寄せられたのを思い出した。きっとあの時、知哉の鞄に携帯を滑り込ませたのだろう。
 全く悪びれる様子もない真を目の前にして、怒りに任せてここへ来てしまった事を後悔した。
 この男には何を言っても無駄な気がしてしまう。
 もういい……これ以上振り回されるのはごめんだ。
 無言のまま帰ろうとすると、強い力で手首を掴まれた。
「待って! お礼に一杯奢らせてよ」
「いらない……放せ」
 無理に振り解こうとはせずに、静かに睨み付ける。
 決して真に会いに来た訳ではない。もう用は済んでいる。
「知哉さん……怒ってる?」
「……放せよ」
 もう一度繰り返すと、真の手が少し緩んだ。
「本当にごめん……知哉さんの優しさに付け込むような真似して……」
 叱られた子供のように項垂れる。
「まさか、そんなに怒ると思わなかったんだ……ごめん、やり過ぎた」
 予想外のストレートな謝罪に、それ以上拒絶の言葉を継ぐことが出来なかった。 肩透かし食らった気分だ。
「頼むから帰らないでよ。約束通り行儀良くするし……もう二度とこんな卑怯なコトしない。今日だけ、一杯だけでいいから、付き合って……ね、お願い」
 縋り付くような目で必死に懇願されると、逆に自分が悪者になった気分になってしまう。
 ――本当に甘いな。
 真の携帯を捨ててしまうことが出来なかった時点で、知哉の負けは決まっていたのかもしれない。
「……すぐ帰るからな」
 毒気を抜かれた知哉は、諦めたように溜め息をつき、真の隣に座った。
「――同じものを」
 近付いてきたバーテンに真のグラスを示すと、
「待って! これ、ノンアルコール!」
 と、真が慌てて割り込んでくる。
「え? 飲めないのか?」
「や、飲める。けど……今夜は知哉さんが来てくれるか不安で、お酒に逃げちゃいそうだったから……って、うわ、なんかカッコ悪……」
 バツが悪そうに顔を背ける。
 その言葉をそのまま信じるつもりはないが、真の耳が少し赤く染まっているのに気付いてしまった。
 素直に可愛いと思ってしまう。
 全て計算づくなのかもしれないと、ずっと知哉の中で警鐘が鳴っているが、この厄介な年下の男は、警戒心を解くのが上手いのだ。
 二度と会いたくない男だったはずだ。この男が何をしたか忘れてはいけない。そう自分に言い聞かせながら、注意深く会話を切り出した。
「よく来るのか?」
「ここ? んー、知哉さんよりは常連かな。高原さんほどではないけどね」
 意味あり気に高原のことを付け加える。
 ずっと気になっていた、高原と真の接点――それが少し見えた気がして、聞かずにはいられなかった。
「……高原さんとは、ここで会ったのか?」
「会うっていうか、顔見知り程度。お互いよく来てるから。実は、知哉さんとも何度か会ってるんだけど……オレのコト、覚えてない?」
「え、いつ?」
 あのホテルで初めて会ったとばかり思っていた。
「高原さんと二人で来てたでしょ? オレ、あのへんのテーブルから、熱い視線を送ってたんだけどな。知哉さんってば高原さんしか見てないから……」
「別にそんなことは……」
 言葉が続かなかった。そんなことはない、と言い切れない。
 事実、真も他の客のことも一切記憶になかった。それは高原だけを見ていたからではなく、恥ずかしさで周りを見れなかった……と言った方が合っているかもしれない。
「あれは半年ぐらい前かな――たぶん、こういう店が初めてだったんじゃない? 知哉さん、凄く周りを気にしてて。高原さんが席を立つとさ、不安そうな顔でずっと高原さんの背中を追ってた」
 その頃は全てが知ったばかりの世界で、知哉は生まれたての雛のようなものだった。高原が手を引いてくれなければどこにも行けず、はぐれてしまわない様に必死だったのだ。
「それがすごく可愛くて……それからここに来る度、知哉さんの姿を探してた。だから――」
 真はしばらく言葉を躊躇っていたが、心を決めたように言った。
「だから、高原さんにオレから声を掛けたんだ……オレを買ってよって」
「……買う?」
「一晩だけ高原さんに買われた。金を貰ったんだ。何の金かは……分かるよね?」
「……それは」
 何の金か――知哉をレイプする報酬だ。
 こんな話を聞かされても、不思議と心は穏やかだった。自分の体なんかに金が動いたのかと思うと、いっそ可笑しいくらいだ。
「高原さんが3Pの相手を探しているらしいって聞いて。……でも、お金が欲しかった訳じゃないよ。もしかしたら、その相手が知哉さんかもって思ったから。そう思うと居ても立ってもいられなくなって。他の下品で乱暴な連中に知哉さんが抱かれるのは我慢できなかったんだ」
 まるで他の男達から守ってくれたような言い分だが、代わりに真が同じ事をしただけだ。都合のいい言い訳にしか聞こえない。
「お前は下品で乱暴じゃないって言うのか?」
「……オレのセックスは下品で乱暴だった? 優しくしたつもりだけど……って、それが問題じゃないか」
 自嘲気味に笑う真を見ていると、なぜか胸が痛んだ。
「知哉さんの言いたいことは分かるんだ。オレの自分勝手な自己満足だった、よね……」
 高原との異常な関係に、真を巻き込んでしまったような気がする。
 高原にとっては暇つぶし程度の遊び――知哉も真もその被害者なのかもしれない。
「もういいよ……オレは、別に高原さんと付き合っている訳でもないし。気まぐれなのはいつもの事だから……」
「そう? 付き合ってないなら、どうしてあいつと寝てるの? いろんな人を見てきたけど、あんなに歪んでる男いないよ?」
 真剣な面持ちの真に対して、曖昧に微笑む事しか出来なかった。
 どうして高原と関係を続けるのか……答えがあるのなら教えて欲しいぐらいだ。

 もうそれ以上、高原の話も、あの夜の話もしなかった。
 他愛もない話、明日になれば何を話したかも覚えていないような、そんな会話を楽しんだ。
 ふと訪れる沈黙も不思議と苦痛でなく、真の隣で過ごす時間は思いがけず心地よかった。
 この店で気持ちよく酔えたのは初めてだ。すぐ帰ると言って席に着いた筈が、ついつい飲みすぎてしまっていた。
 昔から深酒には良い思い出がない。さすがにそろそろ帰ろうかと時計を見れば、もう終電を逃してしまっていた。予想はしていたが、タクシーで帰れない距離ではないので、いつも時間を気にせず飲んでしまうのだ。
 真を残して先に店を出ようとすると、
「こんな時間に一人で歩かせられないよ。もう少し自覚しろってば!」
 残りの酒を一気に飲み干して、真も後に付いて出てきた。
「お前はまだ飲み足りないだろ? オレはいいから……」
「タクシーにちゃんと乗るまで離れませんから!」
 フラフラと揺れる知哉の両肩を、ガッチリと掴んで放さない。
「無防備すぎてムカつくから!」
 知哉をこんな状態で夜の街に出したら、まるで誘蛾灯のように男を引き寄せてしまうに違いない。
「あのさ……知哉さんがどうしてもって言うなら、ウチに来てもいいよ? タクシーならすぐだし、寝心地のいいベッドもあるし」
 軽い口調の誘い文句。本気なのか冗談なのかも読めない。
「買い置きの酒もいろいろあるよ。まだまだ飲み足りないって顔してるからさ」
「はぁ? 誰が? オレはもう酒はいい……」
 少し歩いたら、さらに酔いが回ってきた。
「お前、最低だな。どうせ酔わせて、押し倒すつもりなんだろ?」
「まぁね。それが嫌なら知哉さんが押し倒す?」
「……遠慮しとく」
「若くて美味しいと思うよ。食べる? 味見だけでもしない?」
「お前が黙って食われてるようには思えない」
 本気になって拒絶するのもバカバカしかった。
「せっかく終電の時間を内緒にしてたのになぁ……タクシーで帰るなんて卑怯じゃない?」
 ちょうど空車のタクシーが近づいてきた。
「楽しかったよ。オヤスミ」
 そう言って笑いかけた知哉を、次の瞬間、真が近くの街路樹の陰に引きずり込んだ。
「――っ!!」
 何が起きたのか分からなかった。背中に幹の感触が堅く痛い。
 タクシーが知哉に気付かずに通り過ぎていった。
「……甘いよね。ホント心配」
 息がかかるほど近くに真がいる。
「あんまり甘いから教えてあげるよ」
 ゆっくりと知哉に言い聞かせる。
「オレはね、優しくしてつけこもうと思ってる。そこにある――」
 知哉の胸を指差す。
「その隙間……入り込もうと思えば簡単だよ」
 知哉を射抜くその目に、さっきまでの年下の男はもういない。間違いなくあの夜、知哉を犯した男が目の前にいる。
 街路樹を背に真に囲い込まれて、目を逸らすことも出来ずに、二人は視線だけで深く絡み合った。
 得体の知れない恐怖に、知哉は幹に爪を立てる。
「……ね、知哉さん……キスしても、い?」
 囁きで問いながら、真が自分の唇を舐めて湿らせる。
 艶かしい舌の動きに、確かに見覚えがあった。唇の感触も身体中で記憶していた。
 その記憶が知哉を誘惑するのだ。
「キスもダメなの? 高原さんに叱られるから?」
「……高原さん?」  掠れた声で名を呼び、高原のことを考えた。
 知哉が誰とキスをしようと、セックスをしようと、きっと高原は気にも止めないのだろう。
 その事実が知哉を打ちのめす。
「……ごめん。そんな悲しそうな顔しないで……」
 大きな手のひらが知哉の頬を包む。
「大丈夫だよ、約束したでしょ? 行儀よくするって。守るから……今日は、ね」
 頬からそっと手が離れ、真の視線がふっと和らいだ。
 呪縛を解かれ体が動く。
「タクシー来たみたい。待ってて」  真は何事も無かった様に、近づいて来るタクシーを停めに走って行った。 「知哉さん、タクシーつかまえたよ!」
 ドアの開いたタクシーの横で真が手を振っている。
 知哉は落ちた鞄を拾いタクシーへ歩き出した。
 まだ知哉の鼓動は痛いくらい激しい。真の脇を擦り抜ける時には、軽い眩暈を感じた。
「次は逃がさないからね……知哉さん」
 背中に囁かれた言葉に気付かないフリをした。
 知哉は一度も振り返らずに、逃げるようにタクシーに乗り込んだ。
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