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一途な欲望 -3-

一途な欲望

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「――さん? ……津田さん?」
 ぼんやりとパソコンの画面を見つめていた知哉は、はっと我に返り顔を上げた。
 何度か声を掛けていたのだろう、野田さつきが怪訝そうな顔で立っている。
「さつきちゃん……ごめん。何?」
「この資料も必要みたいなので、コピー取りましたよ。届けてもらってもいいですか?」
 知哉のデスクに書類の束を置く。
「届ける?」
 おうむ返しに聞くと、野田はちらりと時計を確認した。
「会議室行かないんですか? ――そろそろ会議ですよね?」
「もうそんな時間っ?」
 月曜の朝は部署ごとの定例会議がある。もちろん知哉も出席しなければならないのだが、もう会議まで15分ほどしかない。何の準備も出来ていない状態に、知哉は慌ててファイルを開く。
「どうしたんですか? 津田さんらしくないですよ?」
 朝からずっと気だるげな様子の知哉に、野田は興味津々だった。
「何か悩み事ですか〜? それとも寝不足……あ、昨日はデートだったりして?」
 ついに好奇心に負けたらしく、無遠慮な質問をしてくる。
「ぼーっとしてただけだよ」
 苦笑いしながら野田に答える。
 女子社員の間で知哉の人気は高く、他部署にまでファンが多かった。きっと午後には、いろいろな憶測が給湯室発信で飛び交っているだろう。
「そういえば、今日の会議って推進部の高原部長も来るらしいですよ」
「高原……部長が?」
 高原の名が出た瞬間、知哉は凍りついたように動けなくなった。
「なんで……?」
 部署もフロアも違う高原とは、しばらく会わないでいられると思っていた。
 今はまだ高原に会いたくない。
 体の奥の重い痛みが息を吹き返す。痛みは嫌でもあの夜を思い出させる――
 途中から意識を無くしたらしく、知哉が翌朝目を覚ますと、高原も男も既に部屋にはいなかった。
 2人の男に代わる代わる嬲られた体は、立ち上がる事すら出来ず、知哉は夕方まで1人ホテルで過ごした。
 休日の間に体はだいぶ楽になったが、心はまだ鉛のように重く、裂かれたように痛んでいる。
「営業に活でも入れる気じゃないですか? あの部長ちょっと怖いですよね〜」
「そう、だね」
 作り笑いが引きつるのが分かる。
「……じゃ行ってくるよ。コピーありがとう」
 野田に悟られないように、ファイルを抱えて足早に部屋から出た。
 5階の会議室へは、いつもなら階段の方が早い。迷わず階段へ向かった知哉だが、今日はエレベーターを使った方が正解だったようだ。階段を昇るたび、知哉の顔が苦痛に歪んだ。


 海外推進部の部長である高原が、営業企画部の会議に参加するということは、何か重要な話があるのだろう。
 気持ちを入れ替えて、仕事に集中しないと……
 会議室の前でスーツの襟を正し、高原の姿に動揺しないよう気持ちを落ち着かせた。
「遅れてすみません」
 会議室には知哉以外の全員がもう揃っていた。いつにもまして緊張感がある。
 その原因は高原だろう。コの字形に配置された席の中央に、圧倒的な存在感を持って彼がいた。
 会いたくないと思っていたのに、姿を見ただけで痛いくらいに胸が高鳴る。急激に体温が上がるのを感じながら、平静を装って席に着いた。
 高原はそんな知哉を軽く一瞥しただけだ。その隙のない横顔からは何も読めない。

 知哉が入社してすぐに、手腕を買われた高原がヘッドハンティングされ入社してきた。
 4年で海外推進部の部長にまでなった高原は、能力も人柄も評価は高い。
 そんな高原とは、たまにすれ違うぐらいしか接点がなく、噂を聞いては遠い世界の人のように思っていた。
 そして――訳も分からないまま、高原に抱かれた――
 それから半年、もう数え切れないほど体を重ねてしまっている。
 学生時代から女性に不自由したことのない知哉は、それなりにセックスも奔放に楽しんできたつもりだった。しかし、初めて知った深い肉欲に全てが狂ってしまった。
 男を知らなかった知哉の体は、高原に与えられるまま淫楽を覚えていった。
 週末になると、高原は知哉をホテルへ呼び出す。
 誘いを断ろうかと悩んだ時期もあったが、次第に週末になれば体が疼くようになってしまった。
 自己嫌悪に涙しながらも、高原を求めずにはいられない。


 でも、これは愛ではない。きっと違う。
 高原は恋人ではない。
 それだけははっきり分かっている。
 分かっているはずなのに……呼び出しのない週末、自分以外の誰かを抱く高原を想うと眠れない。
 どうしようもなく心が軋んで苦しい。
 なぜこんなに傷付いてしまうのだろう。
 高原は恋人ではない。
 恋人になりたいのだろうか……その答えが自分でも分からない。
 きっと混乱しているのだ。
 訳も分からず抱かれた最初の夜からずっと……愛情と欲情の区別がつかないほどに。
 高原は簡単に他の男に知哉を与えた。
 これが答えなのだ。
 高原は恋人ではない。
 恋人になりたいのか……悩む必要など無い。
 自分はセフレの1人に過ぎない。
 同じように、セックスだけの関係だと割り切ればいいのだ。
 心が壊れてしまう前に、早く――


「推進部の高原です。今日の会議には、私も参加させて頂きます」
 高原の凛とした声が会議室に響く。
「海外推進の要となる、今回の拡張計画ですが、現地の企画力がまだまだ弱く、予定より遅れているのが現状です」
 計画の中間報告と、今後の見直し案について読み上げていく。数字を見れば、かなりの苦戦を強いられているのが分かる。海外支店の営業部が、充分に機能していないのは確かだ。
 知哉の所属する3課を含め、4課まである営業企画部は、全国内で勝ち抜いてここまでのシェアを築いてきた実績がある。
 高原の狙いは、営業企画部からの人員補強らしい。
 高原の報告が終わると、営業部長の長谷川が話を引き継いだ。
「営業企画1課から3名、2課から2名、拡張計画のサポートとして、高原部長と現地調査へ同行する」
 高原は海外への出張が多かったが、出発前に知哉に連絡があったことはない。
 日本に居ない事を知るのは、いつも人伝だった。
「3課と4課には、サポートに入る者の仕事を引き継いで欲しい」
 どの課もパンクしそうなほどの仕事を抱えて、ギリギリで回していた。
 高原もそれは充分理解しているのだろう、一言一言噛み締めるように話し出した。
「急な話で大変だと思うが、調査の結果次第で今後の動きが180度変わる可能性もある。
 皆が人任せに出来ない自分の仕事を持っているのは分かる。
 それぞれ負う仕事は違うが、目的は同じはずだ。無理はさせるが、必ず結果は出す」


「津田くん、だったね?」
 会議も終わり、部屋を出ようとした時、高原に呼び止められた。
「……はい」
「明後日の出発まで、資料の整理を手伝って欲しい。課長には承諾を得てある。早速で悪いが、このまま残ってくれ」
 不安な顔をした知哉を残し、皆ぞろぞろと部屋を出て行く。
 静かになった会議室に、高原と知哉の2人だけが残った。
 ……あの夜以来だ。
 まだ高原の目を見ることが出来ず、手元の資料を見ながら俯いていた。
「高原、部長……海外に行かれるんですね」
 ドアの向こうに誰かがまだいるかもしれない。知哉の口調は緊張している。
 自分でも気にしすぎだと思うが、絶えず人の目が気になる。高原との関係が疑われているのではないかといつも疑心暗鬼だ。
「ああ、現地から納得できる報告が来ないからな。自分で見てきたほうが早い」
 淡々と高原は言う。
「本当はお前を連れて行きたいが……仕事にならないだろう?」
「た、高原さんっ」
 表情の変わらない高原とは逆に、知哉は真っ赤になって辺りを気にする。
 知哉の反応に少し表情を和らげた高原は、手際よく机の上のファイルをまとめて知哉に渡した。
「資料を纏める人手が欲しいのは本当なんだ。お前を指名したのは俺の我侭だが……」
 渡されたファイルはかなりの重さがある。
 少しでも高原の手助けになれるのなら嬉しいと思う。
「時間が無いのも本当だ。明後日までかなりの量の頼む事になるが……出来るな?知哉」
 有無を言わせぬ迫力と、はっきり感じ取れる自分への信頼。
「はい、部長」
 ファイルを持つ手に力が入る。
 高原の下で働いた事はなかったが、高原の部下が彼を尊敬し、その背中を追いかける理由が分かる気がする。
「2週間」
「え?」
「帰国は2週間後だ。他の連中は1週間で帰すが、俺は事後処理があるから2週間かかる」
 知哉の持つファイルの上に、次々と資料やCD-Rを積み重ねていく。
 両手一杯に抱えて身動きが取れない。
「俺がいない間……」
 そこまで言って言葉を切ると、そっと掌で知哉の頬を包む。
 じっと見つめられて目が逸らせなかった。
「……いや、何でもない……その資料を頼んだぞ」
 すっと手を引くと、1度も振り返らずに部屋から出て行った。

 知哉は大きく息を吐くと、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。冷たい壁に額を押し付ける。
 高原に触れられた頬が熱かった。
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