夜の帳が下りてから数時間。…約束の八時はとうに過ぎた。
ユーリルさんが部屋を出て行ってから、もう二時間だ。
時間の流れが腹立たしい程緩やかに感じられる。夕方一人で街を歩いていた時の比じゃない。
気を紛らわすために、やるべきこともやりつくしてしまった。
ただぼうっと待ち続ける時間がこれ程残酷なのかと、そんなことを考えたのは久しぶりだ。
本を開いても、今目に映るのは記号の羅列でしかなく、無意味にページをめくる自分に無駄に苛立ってしまう。
――もしも彼が、彼女の想いに応えてしまったら。
そんなはずはない。彼女と二人で笑いあっている姿を想像して、怖くなってすぐに自分に言い聞かせた。
あれだけ何度も好きだと言ってくれた彼が、何度も抱いてくれた彼が、自分以外を好きになるなんて。
しかし自惚れた考えを消し去るように、次の瞬間自問する声が内に響いた。
何故、そう言い切れる?
現に彼は出て行った。躊躇いもせず、あまりにも素っ気無く。
「…ユーリルさん…」
何か不安なことがあるたび、その不安を拭ってくれるのは彼だった。大丈夫だよ、そう屈託なく笑う彼の笑顔に何度救われたかわからない。
だが今は脳裏に蘇るその笑顔こそが、私を底なき不安の中に突き落とす。
宿の入り口を見下ろせる窓。小さな机に腰掛けてそれをもう何度見下ろしたか。
未だ戻ってくる気配のないそこを見て溜息をつくと、目を閉じて、祈るように手を組んだ。
カチ、カチ、カチ。
時を刻む音が、心音と混じって煩わしい音を立てる。
…早く、戻ってきてくれないだろうか。それとも今から彼らの約束の場所へ行ってみようか。
いや、行ってどうする。お礼を言われたのならもういいでしょうと、彼を連れ戻しでもするのか。そんなことをすれば彼が困るだけだ。
『あなたには私がいるじゃないですか』? …何を考えているんだろう。それこそ自惚れもいいところだ。
さっきよりも深い息をついた。あんなことを言っておいて、今更思い浮かぶのは彼を困らせることばかりだ。
「…ただいま」
ゆっくりとドアの開く音と共に、ようやく、待ちわびた人の声が飛び込んできた。
落ち着け。動揺しちゃ駄目だ。…落ち着かないと。
意を決して立ち上がる。いつも通りに、普段と同じように迎え入れればいいんだ。
「お帰りなさい。どうでしたか?会って話はできました?」
「うん。まぁね」
出て行ったときと同じ、素っ気無い声で返される。
「そうですか。…どんな方だったんですか?」
「…可愛い子だったよ。すごく女の子らしいし。話してみると意外と話が合ってさ。楽しかった」
彼はまっすぐに私のほうへ歩いてきたが、それ以上何も言わず、そのまま脇を通り過ぎていった。
どうすればいい?何を聞けばいいんだろう。
彼女に何を言われたんですか?…いや、駄目だ。そんなの彼の問題であって、私が関わっていいことじゃない。
考えれば考える程、わけがわからなくなる。私は一体何を言いたいんだろう。
「え…、ええと…、あの」
言葉が上手く出てこない。言葉を重ねすぎて、自分の心が見えない。
『お礼以外に何か言われていませんよね』?
『お礼を言われるだけなのに、どうして二時間もかかるんですか』?
……違う。駄目だ、違う。
「…告白された」
「……え…?」
「助けてもらった日から、毎日街の中で僕のこと見てたって。…で、付き合ってくれないかって」
「…そ……そう、…ですか」
心音が煩い。冷たい血が手や足の先にまで巡っていく。
…待っている間、何よりもまず彼の顔を見たいと思った。いつものような、笑うと子供っぽくなる、あの悪戯めいた笑顔を。
『何だ、もしかしてあの子と何かあったんじゃないかって心配してた?そんなことあるわけないだろ、本当に心配性だなぁ』
そう言って笑いながら背を叩いてくれたら、そう思っていた。
だけど今は怖い。彼の顔を見るのが怖くて、振り返ることができない。
何て都合のいいことばかり考えていたんだろう。自分から送り出しておいて。
しかもこうなるかもしれないと、予測できた上で。
「…それで、あなたは」
「……いいよって言ったよ。付き合うことにした。あの子だったらいいと思えたし」
……何?
…私は何を聞いているんだろう。
今の言葉は、本当に彼のものなんだろうか。
「…………」
「今からまた会いに行くから。夜遅くなると思うし、先に寝ててくれていいよ。…おやすみ」
「……おやすみ…なさい」
オウム返しのように繰り返した言葉は何もかもが抜け落ちた、抜け殻のような音でしかなかった。
遥か彼方とも思える程、遠くで扉が閉まる音が聞こえる。
誰もいなくなってしまった部屋で、しばらくはただ呆然と立ち尽くしていた。
思考がついていかない。
ふらつきそうな足を踏みしめて、ようやく立っているくらいの感覚。
彼が出て行ってしまった扉を無言で眺めていると、何故か出てきたのは笑い声だった。
「…ははっ…」
乾いた音を立てて、感情の篭らない笑い声が響く。自分が発しているとは思えないような、酷い声だ。
「…そうか。…よかった、…ユーリルさんが、幸せ、…そうで」
そこまで言った途端に、視界が思い切り歪んだ。
偽りの言葉はもう続けることができず、ぱたぱたと音を立てて、次から次へと雫が足元に落ちていった。
「…ぅ、く…っ、うぅ…っ」
動くことができずに、その場でくしゃりと前髪を掻いた。零れる雫があっという間に掌を濡らす。
しゃくりあげそうになる惨めな声を殺し、俯いた。嗚咽を漏らしたら、まだ傍にいる彼に聞こえるかもしれない。
重ねた嘘の先に待っていたのは、最悪の結末。
……失くしてしまった。誰よりも大切な人を。
初めて出会った日のこと。
悪夢にうなされ続けた夜に、抱きしめて眠ってくれたこと。
身体に触れられることが怖かった自分を、精一杯気遣いながら抱いてくれた日のこと。
全て、何にも代えられない記憶。
何にも代えられないくらい、大切な人だったのに。
「……なんで。…なんで…っ」
何故言えなかったんだろう。簡単なことだった。たった一言でよかったんだ。
『幸せそうでよかった』、そんな偽りの言葉なんていらなかったのに。
醜いと決め付けた本音の上にくだらない嘘を並べて、手を離してしまったのは自分だ。
何よりも大事だったはずなのに。
誰よりも傍にいてほしい人だったはずなのに。
「……かないで。…っ、…行か…ないで、……ユーリルさん…」
ようやく出てきた本心が、堰を切って溢れ出す。
一度溢れたものを押し戻すことはできず、もう目の前にいない人の名を呟き、何度も同じ言葉を繰り返した。
聞こえているはずのない、けれど今度こそ、偽りない言葉。
…今更。本当に今更だ。
「…うう、…ひ、…っく、…ぅ…」
どうやっても漏れてしまう嗚咽をもう噛み殺すことができずに、その場にしゃがみこんで、膝に顔を突っ伏した。
痛い。胸の奥が痛くてたまらない。斬られるよりも、殴られるよりもずっと痛い。
きっともう二度と、抱きしめてくれることもない。キスしてくれることも、抱いてくれることも。
腕の中の温度も、耳元で囁くように名を呼んでくれる声も、もう私のものじゃない。
全部……全部、あの人の。
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