大国、エンドールの城下町。
世界各国から人の集まるこの街で、情報収集と日頃の疲れを取るための休養を兼ね、私達は数日前からこの街に滞在している。


重ねた嘘

束の間の休息の時間を、皆が思い思いに過ごす夕暮れ時。
宿の部屋に戻り少し経った頃、私は街に買出しに行くことにした。
普段なら大抵「一緒に行く」と言い出すユーリルさんに声をかけてみたが
この日の返事は珍しく「行かない」だった。

「…ごめん、今日ちょっと疲れたんだ。夕飯まで寝てるから、行ってきて」

ベッドに寝転がったまま、彼はそう言って肩越しに手を振った。
眠そうな声が「行ってらっしゃい」と呟いた後、その手がぱたりと落ちる。
直後に寝息が聞こえてきた。…よっぽど疲れていたんだろう。
振り返ってベッドのほうまで歩いていき、彼に毛布をかける。
眠っている顔はいつもよりも幼さを増し、そのあどけなさに思わず笑いが漏れた。

「おやすみなさい。…行って来ますね」

頬に触れて、そっと撫でてみる。起きる気配がないのを確かめて、そこに唇を落とした。
それでも起きないユーリルさんを後にして、私は静かに部屋を出た。



不要になったものを売り、不足している薬草を買ってしまうと、何もすることがなくなってしまった。
時間が、普段よりもゆっくりと流れている気がする。

『次あそこ行ってみようよ、クリフト!』
『何かあそこで面白いもの売ってる』
『うわっ、あの食べ物見たことない!ちょっと行ってみようよ』

「…そうか…」
緩やかな時間の流れの理由に気付き、息を吐いた。
いつも無駄にあちこちを回りたがる人が、今日はいないんだ。
何だか自分の隣に妙な隙間があるような錯覚に陥る。すかすかする、と言えば適当だろうか。
まだ日も暮れ始めた頃なのに何もすることがないなんて、どれくらいぶりだろう。
手持ち無沙汰になってしまい、それならと宿に戻ろうとした時、背後から声をかけてくる人がいることに気付いた。

「…あの、すみません」

振り返ると、少女…とも言えるくらいの年齢の女性が一人、私を見上げるようにして立っていた。
ちょうどユーリルさんと同じくらいの年頃だろうか。ひょっとすると今、何度か声をかけられていたのかもしれない。
「…すみません。…私に何か?」
その少女は少し躊躇った後、思い切ったようにこう言った。
「神官さまですよね?勇者様ご一行の…」
思いがけなかった言葉に驚いたが、まだ何か言いたそうな表情を見て、私は頷いた。
「…ええ、そうです。私たちをご存知なんですか?」
彼女は頷き、そして少し躊躇った後にこう言った。
「…あの、いつも一緒の方……勇者様は、今日は?」
「あ、ああ、ええと……今日は何だか疲れていたようで。今は宿で休んでいるんです」
それだけ言うと、少女は少し残念そうに「そうですか」と呟く。
「いつも一緒の方」という言い方が引っかかった。…まるで毎日見ていたとでも言うような言い方だ。
しばらくもじもじとしていた少女は、何かを決意したかのように、俯いたまま何かを目の前に差し出した。
「……これ、渡していただけないでしょうか」
そう言って手渡されたものは手紙だった。
驚いてただそれを見つめていると、彼女はまだ少し俯いたままで言う。
「…勇者様たちがこの街にいらした日に、私、街の入り口で魔物に襲われたんです。
 そこを勇者様が助けてくださって……私、どうしてもお礼が言いたくて」
「…は、…はぁ…」
地面を見つめた彼女の頬が、みるみる赤く色づいていく。
彼女が嘘を言っているとは思えない。ユーリルさんも、目の前で魔物に襲われている人を見て、放っておく人じゃない。
きっと彼女の言葉は真実だろう。
…けれど、彼女が純粋に「お礼を言いたい」、それだけを望んでいるとはどうしても思えなかった。
「…あの」
「よろしくお願いします。引き止めてしまってごめんなさい。…それじゃあ」
「…あ!ちょっ…」
声をかける間もなく、少女は走り去ってしまった。
ぽかんとしてその背を眺める外成す術もなく、私はしばらくぼうっと彼女の後姿を見つめていた。
そして遠ざかっていく彼女の姿が消える頃、ようやく手の中にあるもののことを思い出した。
残されたのは、この手紙だけ。

――あの人は、ユーリルさんのことを?

どくんと、大きく心臓が音を立てる。
…駄目だ。
これは本来彼だけが目にするはずのもので、私が見るべきものじゃない。
わかっているはずなのに、震える手を抑えられない。
…少しだけ。少し見るだけなら。…最終的に彼に渡せば問題はないはずだ。
自分自身に何度も言い聞かせ、そっと封筒を開ける。
そこに書かれていたのは、たった数行。
夜、街のある場所に来て欲しいと、ただそれだけの言葉だった。



部屋に戻ると、まだユーリルさんは眠っていて、ドアを開けても全く気がつく様子もなかった。
ベッドに横たわったままの彼を見て、溜息を吐く。
暮れかけた空から射した茜色の光が、眠っている彼の頬を染め上げていた。

改めて思う。……この人は綺麗だ。

顔立ちが整っていて、髪も瞳も、あまり見ない不思議な色を帯びていて。
黙っていれば(と言うのは失礼かもしれないが)道行く人が振り返るような見目をしている。
同性の自分が見てもそう思うのに、まして女性ならなおのこと、その美しさに見惚れてしまうのではないだろうか。


ユーリルさん。
天空の勇者。力も行動力も申し分ない。
そして、魔物に襲われているところを助けられたと言っていた。

「…惚れない、わけがない…」

胸の中に、言いようのない不安が垂れ込める。
もしも、彼女がユーリルさんに思いを告げたとしたら、彼はどうするだろうか。
女性に好意を持たれたことを、素直に喜ぶだろうか。面倒だと言って相手にしないのだろうか。
彼が女性絡みの話をすることも、好意を持たれたという話も、そういえば聞いたことがない。想像ができないから余計不安になる。
…そうだ。今思えば、彼に浮いた話がひとつもなかったことのほうが、むしろおかしかったのかもしれない。


何度もキスを交わし、身体も重ねた。
だからいつの間にか自惚れて、安心しきってしまっていたのではないだろうか。
男性のユーリルさんからすれば、本当は同じ男よりも、ああいう可愛らしい女性のほうがいいに違いない。
今まで機会がなかったというだけで、きっかけさえあれば、…もしかしたら。
そんなことをぐるぐると巡らせていると、ベッドの上から声が落ちてきた。
「ん……おはよ、クリフト。…おかえり」
目を擦りながら眠そうに言う姿を見て、胸がどくんと大きく鳴った。
夕日に照らされて一層美しく見える彼の姿を目にしたこと。
それももちろんあるが、それ以上に、隠し持っている先程の手紙のことが心に引っかかって離れない。
――捨ててしまおうか。彼に言う前に。
卑しい考えが浮かび、思わずそれを心の中でかき消した。
何てことを考えているんだろう。彼のことに私が介入していいはずがないのに。
これは彼にと宛てられた手紙。それなら彼に渡すのが道理だ。

「……あの、ユーリルさん」
手と声が震えそうになるのを抑えて、努めて普段通りに話しかける。
まだベッドの上で寝ぼけ眼でいる彼は、眠そうな顔をしながらも微笑みを向けてくれた。
「何?」
また心臓が鳴った。…渡したくない。本当は。
今ならまだ間に合う。なかったことにしてしまえば。
だが、さっきの女性の顔を思い出すと、なかったことにしてしまうなんてできない。
あの人はきっと、本当に、…この人のことを。

様々な思いに苛まれ、ようやく出した結論は「渡す」だった。

「…これ、あなたに」
突然差し出された封筒に、ユーリルさんはきょとんとして私と封筒とを交互に見つめた。
「…何これ」
「手紙です」
「それは見りゃわかるけど…」
誰から?何で僕?
目で訴えかけてくる彼の視線から逃れるように、私は彼に背を向け、風の吹き込む窓を閉めた。
「ユーリルさん、街で女性を助けたそうですね。…その時の女性に街中で会いました。
 どうしてもあなたにお礼を言いたいそうですよ。そう言っていました」
「あ、…あぁ、あの時の。何かちょっと可愛い感じの子だよね」
今度は胸を抉るような痛みを感じた。
そんなこと一言も聞いてなかった。知らない間にそんなことがあったなんて。
何故言ってくれなかったんだろう。
…いや、別に私に言う義務なんて彼にはない。…そんなことはもちろんわかっているけれども。
可愛い子、と彼は言った。覚えていたんだろうか。彼女を助けた時にも、何か二人で話したりしたんだろうか。
すぐさま後悔した。…言わなければよかったのかもしれない。こんなこと、馬鹿正直に。
「…開けてみたらどうです?」
背を向けながら、必死に冷静を装って言った言葉。返事はなく、少し間があって、封筒を開ける紙の擦れる音がした。
「……お話したいことがあります。今夜8時、街外れの街灯の前で」
彼の声が文字を辿る。さっき読んだものと同じ文章。一字一句耳に届くたび、小さく身体が震えた。
覗き見をしてしまった罪の意識?…いや、そればかりではないことは、もう十分すぎる程理解している。
「…今夜ですか。…行ってあげたらどうです。きっとあなたのことを待っていますよ、彼女」
『行かないで下さい』
喉元まで出掛かっていた言葉を何とか押し殺して、本心とは真逆の言葉を投げた。
正直、甘い考えを抱いていた部分があった。
私がこう言っても、これだけ疲れた様子をしているんだ。
面倒だと言って行かないでいてくれるんじゃないだろうかと、卑怯な期待をしていた。
だが、そんな私の考えを嘲笑うがごとく、彼の出した結論はこうだった。

「…わかった。それじゃ行ってくるから。今夜八時」

淡々と言う彼の言葉に、今更何も言うことなどできるはずもなく。
たった一言「はい」とだけ、声を震わさないように言うのが精一杯だった。

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