「ユ、…ユーリルさん、ちょっと…」
こんな状況で、こんな場所で、突然キスされるなんて。
何を言っても答えず、ただ抱きついてくるだけのユーリルさん。そして突然のこの行動。
一体何が何なんだろう。頭の中がぐちゃぐちゃに絡まる。
彼は私が身体を押し返そうとするのも構わず、何度も何度も唇に触れるだけのキスを落とした。
ちゅ、ちゅっ、という音がごく近いところで響いている。何度かユーリルさんに制止の言葉を投げかけたが、彼は全く気にする様子もなく、キスを繰返した。
そのうちに、触れるだけのキスは私の唇を舐め、唇を割って歯列をなぞり始めた。
「…あ、…っ」
岩壁を背にした状態で逃れることもできなくなり、触れるだけだったキスは次第に深い口付けに変わっていった。
舌が中に入ってくる。口腔を撫でられ、舌を捕えられる。
「…ユーリル、…さんっ」
無理矢理唇を引き離し、目の前を見つめる。
奇怪な行動の理由を問おうとしたが、彼はそれよりも早く私の目を覗き込み、微笑んだ。
綺麗で優しく、穏やかな笑顔。
彼のする表情の中で一番好きで……そして一番苦手な笑顔。
これを見せられたら、もう何も言えなくなってしまう。
ぞくりと、腰のあたりに疼きが走った。
彼はじっと私の顔を見つめると、人差し指で私の唇に触れた。そして感触を確かめるかのようにそこを突付き、輪郭をなぞるように撫でる。
唇をゆっくり重ねられ、再び食まれる。恐る恐る口を開くと、舌の温度が侵入してくるのを感じた。それに応えるように、自分の舌を絡める。
「…ふっ…、ん…」
熱が絡み合う。目を閉じ、与えられる温度を貪った。それでも満足できずに背に手を回す。
心地良い温もり、柔らかい髪の感触、この人の優しい匂い。
全てを手放したくなくて、無意識のうちに今度は私のほうがユーリルさんに縋っていた。
思えば、ここで気がつけばよかったのかもしれない。
奇妙すぎる彼の行動の訳に、そして私たちが今いる場所がどんな場所であったかということに。
そして何より…この人は時として、私の想像の範疇を超えることを、躊躇いもなくやってのける人だったということに。
「……何が絶対騙されない、だよ」
――今の声、は。
ぼうっとしていた頭がその瞬間一気に冴えた。
今、震えを押し殺したような低い声が小さく、けれど確かに響いた。
声の主は――間違うはずもない。
けれど声の出所はここじゃない。ここであるはずがない。
目の前の彼は、今まで私とキスを交わしていた。…それならばこの声はどこから。
「…ッ」
思わず口付けを交わしていた目の前の、声の主であるはずの人物を引き離した。響いた声は間違いなくユーリルさんのもの。
声がしたのは、出所は、一体どこだ。
慌てて辺りを見回すと、目の前にあった岩の間から、その人は姿を現した。
「…ユーリルさん…!?」
俯き加減に、僅かに肩を震わせていた青年は、声と同時に視線だけを上げてこちらを見た。
いや、睨んだと言ったほうが正確かもしれない。とにかく、間違いなくそれはユーリルさんその人だった。
「…な…、えっ、…何…?」
全く同じ姿をした人間が、二人、いる。
落ち着け、そう自分に言い聞かせるが、混乱してしまった頭を紐解くことができない。
目の前にいる彼と、私を睨みつけている彼とを交互に見ていると、睨みつけているほうのユーリルさんが口を開いた。
「…まだわからないのかよ」
「…えっ…?」
「そいつは僕じゃない。僕に化けたマネマネだ」
「!?」
――まさか。
立ち上がって、瞬時に身構えた。マネマネ。魔物。これが…?
「…まさか、そんな」
目の前のユーリルさんは、状況を把握することができないでいるのか、それとも魔物故に人間のような心を持ち合わせていないのか。
座り込んだまま、とにかくぽかんとした顔で私を見上げている。
……無表情。今までキスをしていたとは思えない程の。
…こんなことがあるんだろうか。
本物との違いなんて何一つなかった。抱きしめた時の感触も、髪に触れた時の手触りも、匂いまで一緒。
何より殺気がない。今まで、向かってくる敵にこんな奴はいなかった。
だから気付かなかった……なんてことを言っても焼け石に水だと言うことは、本物の彼の様子を見れば想像に難くない。
「……ほら見ろよ。絶対間違えないなんて、やっぱりアリーナに対してだけなんじゃないか」
「ユーリルさん、違う、違うんですっ」
「何が違うんだよっ!疑いもせずにキスに酔いしれてただろ!」
「…それはっ…」
全部見られていたのか。完全に怒っているユーリルさんに対して弁解する言葉すら見つけられずに、熱くなった顔を俯かせるしかなかった。
「大体お前もだ、ニセモノ!」
怒りの矛先が変わった。偽者と呼ばれたほうのユーリルさん…マネマネは、突然怒鳴られて驚いたのか、びくっと身体を竦ませた。
「何やってるんだよ、お前は!口には絶対するなってあれだけ言っただろっ」
「なっ…ユーリルさん、あなたが仕向けたんですか!?」
そう言うと彼は一瞬「しまった」という顔つきになったが、すぐにまた顔色を戻した。
「うるさい、ニセモノとキスして気持ちよさそうにしてたくせに! …クリフトならきっと…っ」
言いかけた言葉を途切れさせ、彼は視線を落とした。
だがすぐにまた顔を上げると、偽者を指差して怒鳴った。
「それよりもマネマネ、お前一体何聞いてたんだよ!口以外にしろって教えただろ!わざわざこうやって!」
そう言って自分の唇を指先でつついて見せる。
すると目の前にいる偽者は、困惑気味だった顔を、なるほどという表情に変えた。そして立ち上がるや、再び私の唇にキスをした。
「んんッ!…ん…っ!」
逃げようとしても、ユーリルさんと同じ力を持つマネマネに対抗することはできない。頭と背に腕を回され、強引に口を塞がれた。
「あーっ!バカ、違うッ!」
キスしている人物とは違うユーリルさんが叫んでいるのが聞こえた。
ちゅく、くちゅ、ちゅっ。耳を犯すのはすぐ近くで響く水音。
拒んでも、偽者は執拗に口腔を貪った。飲み込む間もなく、唾液が唇の端から伝う。
何となく状況が読めてきた。…恐らくこのマネマネは「口以外にキスしろ」を「口にしろ」だと勘違いして、ユーリルさんの命令に従順でいるつもりなんだろう。
「んっ、んぅ、は、ぅ…」
無理矢理口付けてくるユーリルさんもどきを振り払おうと、腕に精一杯力をこめたが、やはり敵わない。
頭ではわかっている。口付けているのは、彼の姿形を真似た魔物。ユーリルさんじゃない。
それでも――この温度、この匂い、この感触…本物のユーリルさんとキスしているときと、本当に何も違いがない。
膝が震え、立っているのが困難になると、逃げようとする意志とは裏腹に体勢が崩れてしまう。
「…立ってられなくなっちゃった?」
不意に、震える身体を後ろから支えられる。
耳元で優しげな声が聞こえた。崩れかけた身体を引っ張り上げられ
「…随分気持ちよかったんだね。立てなくなっちゃうなんてさ。……しかも、ニセモノとのキスで」
最後の言葉が低く響く。…まずい、機嫌が悪い時の声だ。それも、相当。
「僕も混ぜてよ。ねぇ…クリフト」
「…ッ」
まるで「子どもじみている」と言った私をなじるような、少年っぽさの消えた声。
耳元を舐め上げられる瞬間に、首筋を彼の髪が掠める。それは声と一緒に私の背を震わせた。
この震えは恐怖故か、それとも得も知れぬ期待からなのか。
早くも揺れ始めた思考の中では、もう判断することはできなかった。