【貴方を好きな私の事情】
「藤原くん」
確かにそれは私の名前だったはずだ。
ここで反応しなくてどうするんだと呆れるほど、間違えなく私の名前だったはずなのに。
「鷹通‥‥どうしたんだい?」
耳元で囁かれて、ハッと振り返る。
みるみるうちに耳まで赤く染まる自分を意識しながらも、言い訳一つ浮かんでこなかった。
確かにそれは、私の名前で。
ここは学校なのだからと、この方に何度も教えつけて、ようやく守ってもらえるまでになったばかりの、私を示す記号で。
「ふふ。やはりファーストネームで呼ぶべきではないかな」
無理などしないで‥。
楽しげな含み笑いを否定するだけの気力もなく、項垂れて「勘弁してください」と呟くしかなかった。
「構わないさ。君を苛めるのは本意ではないからね」
嘘つきは泥棒の始まりです‥‥。
心の中で無駄に反抗しながら、気持ちを切り替えて顔を上げた。
ここは遙時学園。
私にちょっかいを出してきた意地悪な大人は、保健室を任されている養護教諭、橘友雅先生。揺れる時代の煽りを受けて、この学園にもクラスに馴染めない子供が数名いるようだが、それでも登校拒否とまでいかず「保健室登校」と呼ばれるギリギリのラインで踏みとどまっているのは、ひとえにこの方の魔法に他ならない。
故に、校内ではちょっとしたカリスマ。
‥‥‥‥恋人は、気が気でない。
「ちょっとしたタレコミがあってね。信頼できる君になら、情報をあげたいと思って来たのだが」
「信頼ですか。‥‥それが条件であるなら、情報の見返りは要求しませんよね?」
「まさか」
カラカラと弾けた悪気のない笑顔が、どれだけの毒を含んでいるのか知るのは、この世に私だけだと主張したい。
「私は校内の噂など、どうでもいいのだよ。‥‥君を誘う口実に、君が欲しがるソレを掻き集めているだけだ。知らなかったのかい?」
「知りませんでしたね」
呆れて溜息を吐く自分と、心の中で含み笑いを噛み殺す自分と。どちらも私なのだから、仕方がない。
「謹んでお受けいたしましょう。お聞かせ願えますか」
にっこりと満足げに頷いた貴方と、視線で絡み合う。こんな公衆の面前で、不埒に愛し合う。
見返りを期待せずに与え続けるのが本物の愛と言うが、ならば私のこれは愛ではないのでしょう。
貴方ほどの方が私を想って動いてくださる。
それが嬉しくて、絆されてしまう。
こんな私は本物の愛などではないけれど。
「‥‥‥というわけだよ。役に立ったかい?」
「大変助かりました。‥‥早めに切り上げて伺いますね」
「極上の酒を用意してお待ちしよう」
密かに笑い合う共犯者には、本物などではない私の愛が好評らしい。
学園内のトラブルや相談事を一手に引き受けて解決へと導く『コーディネーター』という職種で働く新人教師には、心理学に基づく専門知識と、情報通な恋人の存在が不可欠だ。
これが、貴方を好きな私の事情。
それでもこれは、紛れもなく私の愛であり。
「そろそろ切り上げないかい?‥‥仕事ばかりしている真面目な教師は、生徒にも恋人にもウケが悪いよ?」
「ふふ、そうですね。橘先生は今からお帰りですか? それでは駅まで乗せて頂けると有り難いのですが」
「おやすい御用だよ。今日はデートなのだろう、愛しい方と」
「ええ、まあ、そんなところです」
他人行儀な会話の中で告白を繰り返してはクスクス笑い合う、こんな生活を私達は気に入っているのですから。
誰にも文句は言わせません。
「や‥‥‥こんな所で」
「何を言うかな。ここはもう、君が嫌う『公衆の面前』ではないのだよ」
「せめてベッドまで我慢できないのですか!!」
「できないねぇ」
背中から強く抱かれた身体。
乱されたシャツの裾からスルスルと指が入り込んで、私を掻き乱す。
「‥‥‥ハン‥ッ‥」
鼻から抜けた甘い声に驚きながら、そっと身を凭れさせて貴方の首筋へ‥‥その柔らかな髪の中へ、顔を埋める。
「ァッ‥‥アー‥‥‥」
私を求めて動く指先が、理性を掻き乱して。
悪い夢を見せる。
「ベッドに運ぼうか」
「いえ‥‥。このまま、ここで‥‥貴方をください」
誘うように身を捩って柔らかく笑う。
「そうかい?‥‥ふふ。それでは壁に手を付いて、君の中を私に見せて」
いつの間にか弛められたスラックスを落としながら、言われるままに貴方を待つ。
「その姿勢のままでいるのだよ?」
開くことはない玄関に、それでも無防備に自分を晒しているのは、どうにも恥ずかしいけれど。‥‥それすら快楽の元になる。
貴方と出逢って、私はずいぶん変わってしまった気がします。
「寝室ではないからね、近い場所から潤滑油を調達してきたよ」
手にしているのは‥‥調理用のオリーブオイル?
「これは、まあ。なんと素敵な眺めかな」
クツクツと皮肉気な笑い声を降らせながら、ゴムの上にオイルをまぶして。
「良い子で待っていたご褒美だよ。さぁ、たんとお食べ」
慣らしもせずに、そのまま入り込む。
「ふっ、ああぁ‥‥‥‥」
「ここは奥の寝室ではないのだよ。大きな声を出すと廊下に筒抜けではないかな」
まあ、私は構わないがね?
意地悪な貴方を、それでも、どうしても、憎むことができない。
「‥‥‥う‥はぅ‥‥」
口を塞ぐ為に充てた指を、無意識にクチュクチュと弄ぶ。
「おやまあ、すっかり誘い上手になって」
そのまま振り向いて満足げな貴方を煽ると、誘われ上手な恋人が熱い溜息を吐いた。
「イケナイ恋人だね。‥‥私をこんなにして」
今夜は寝かさないよ?
甘い声と、不埒な響き。
私にとっては、その全てが愛しい貴方を示す愛の形なのです。