珍しくたて込んだ仕事に翻弄され、気付けば夜も白々と明けている。
通い慣れた屋敷へと足を運ぶ暇もなく…寂しい想いをさせてしまっただろうか。…いや、寂しいのは私の方なのかもしれない。あの人が私を恋うて「寂しい」などと言ってくれるのならば、今からでも……次の夜明けを見るまでも、抱きしめ続けていたいと願うのに。
普段通り出仕してきた者へと引継を済ませる途中、女妾から静かな視線を頂いた。
それは、公の書類とは別口で、静かに届いた文。
まるで恋文を運ぶかのような経路で……だがしかし、開いてみるとそれは、治部省の堅物【藤原鷹通】…非公開の役職で私の対を勤める【天の白虎】であり、もう少し非公開の話になれば、私の【恋人】でもある、身堅い男からの文であった。
鷹通からの文など珍しくもない。……しかし、なんだろう、この違和感は。あの男からの文ならば、さりげなく公務の書類を匂わせる形で舞い込んでくるのが常であった。
そこには素っ気ない書跡で、今すぐに会いに来いという内容の詩が記されている。
珍しいを通り越して、不安に駆られる。
これが本人の意志としても、何か別の意図があるにしても、あまりにも不自然だ。……あの男の有り様からは、想像すらできない。
鷹通…?
勝手知ったる他人の屋敷を忍び歩く。
文机の部屋を通り越して、寝室として使う部屋に滑り込むと、ぼんやりと夜着を纏った鷹通の姿が…。
「これは、お早いお着きで」
どうしたというのだろう。他人を見るような冷ややかな視線が、服の裾を見つめている。
「……具合でも悪いのかい」
口の中が乾くのは、緊張しているせいだろうか。
鷹通が何かに怒っているように見える。…そしてこの男がこんな顔をする時は、私の方に落ち度があると…なぜだか、そんな心持ちになる。
「いえ、体の調子は悪くありません」
ならばどうして、夜着の中に身を沈めたまま、動こうともしないのか。
傍に寄り、片膝を着こうとした刹那、低く厳しい声が響いた。
「こないでください…っ」
涙も流さずに、泣いている姿。
何が君をそこまで追い詰めたのか、見当もつかない。
夜毎、逢瀬を重ねて…その身体も心も知り尽くした気持ちになっていた。それは私の奢りだというのか。
来ないでほしいと泣くのならば、なぜ私を呼んだのか。
続く言葉の響きを怖れて、その領域を踏み越える。
言霊を紡ぐことなく夜着ごと抱きしめた、その腕の中で…小さな呻き声のようなものが、意味のある言葉を紡いでいた。
「もう……お別れしたいのです」
何故だろう、そんな言葉を聞く気がしていた。
今までに何度も聞いた、恋の終わり。
だがしかし、過去の恋のように言葉のまま受けることも、ましてや聞き流すこともできはしない。……どうして、こんなに本気になってしまったのか。失うことが怖いのならば、何も愛さなければいい…誰も心の奥底に住まわせなければいい。それが解っていながら、なぜ、この男を抱いたのだろう。
「離すことなどできないと、わかっているくせに…」
どうにかしぼり出した声は、自分で聞いたことのない程に掠れて枯れていた。
「貴方の都合は知りません。…私は、これ以上、己を失いたくはないのです」
己を、失う?
「恋いに狂い、泣き暮らすような…まるでか弱い女のような、そんな自分を認めるのは、もう嫌なのです。仕事も手に着かず、貴方を待ち侘びて…これほどまでに己を厭わしいと思ったことは、過去になかった」
驚くほど熱い言葉を聞きながら、そっと夜着を覗き込めば、桃色に染まった肩先が震えている。
……何も着けていない。
それが鷹通を苦しめた業であることは、解った。
「それでも。……君を苦しめると解っていても、諦めることなどできないと。私の答えは知っているのだろう?」
苦しいのだと。なんとかしてほしいのだと。……限界だったのだろう。鷹通がこんなに素直に甘えてくるとは思わなかった。
取り乱してすがりそうになった自分を……否、そんな姿を晒してしまえなくて、焦がれる心ごと切り捨ててしまいそうになった私を、鷹通の弱さが救った。
ずっと一緒だと。
そんな誓いを立てることが、これほど難しいとは考えてもみなかった。
「君が欲しい」
今の私に言えるのは、そんな小さな言葉だけだと。
だから、夏も秋も冬も……ふたたび巡る春も、躊躇うことなく君を抱き寄せよう。
この腕の中へ。…君が帰るべき場所へ。
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譲葉が晒した萌え絵に、見事なまでに食いつきました。 |