突然豪快な水飛沫が上がって、水が鼻の穴に入ったはみっともなくむせた。 胃のあたりがむかむかとして、このまま咳を続けると本気で吐いてしまいそうだ。 しかし吐き気をこらえられるほどの余裕など今のにはなく、ただひたすら咳をする。 周りを見る余裕もほとんどない。 ほとんどなかったけれど、かろうじて何故か今自分がお湯に浸かっていることは分かった。 勝手に涙を零す目で確認できるのは白い湯気だけだ。 その白い湯気の向こうから、唐突ににゅっと腕が伸びてきた。 「――――っっっ!?」 混乱する頭ではその腕から逃げるという思考さえ浮かばず、 の二の腕は強い力で引っ張られ、次の瞬間激痛が走った。 「痛っ!痛い痛いぃ・・・っげほ!ごほっ!」 腕をひねり上げられたのなんて、生まれてこのかた初めてだった。 痛みと気持ち悪さと苦しさと恐ろしさ。 ――いっぺんにこんな酷い仕打ちを受けるなんて、私の今までの行いはそんなに悪かったのか! そんな考えが一瞬過ぎったそのとき、頭上から声がした。 「お前・・・どこかの忍か間者か? いや、それにしちゃ随分間抜けな上に非力だな。」 「げほっ!や・・ばい、マジで吐く・・・っ!」 「What!?」 今英語が聞こえたような気がするが、幻聴に違いない。 わざわざ日本語に英語を織り交ぜて喋るなんて、某有名人ぐらいだ。 そんなことよりもにとってはこみ上げる吐き気の方が重大だった。 「っふえ!?」 自分の腕をひねり上げていた手に急に身体を抱き上げられて、は目を白黒させる。 おかげでお湯から出られたものの、水を吸ったマフラーが首から重く垂れ下がって苦しい。 それに気付いたらしき腕は、をいささか乱暴に床に降ろすと、マフラーを首からほどいてくれた。 喉元が一気に楽になると同時に、最早吐き気に耐えられなくなって、はとうとうその場に嘔吐した。 喉に焼け付くような痛みが走り、出すものを出した後も咳き込む。 「・・・Are you all right?」 聞き間違いかと思ったが、どうやら相手は本当に英語を喋っているらしい。 そして低い男の声だ。 さっき日本語も聞こえたような気がしたが、まだ落ち着かない頭で、は英語で返そうと必死に考える。 しまった、高校時代にもっと真剣に英語を勉強しておくんだった。 いつか役に立つときがくるのよ、という先生の言葉は本当だったんだ。 「けほっ・・・っ、は。 No・・・I'm very ・・・painful・・・.」 「あんた異国語が使えんのか!」 「はい・・・?あなただって使えるじゃないですか、ルーさん・・・。」 「誰がルーさんだ、誰が。」 湯気の向こうで苛立った声がする。 お湯から上がったせいか、湯気が少しずつ薄くなって視界がクリアになってくる。 吐くとかなり楽になり、咳もようやくおさまってきた。 「いや、だからあなたが・・・。」 「ふざけんのもいい加減にしろよ? 俺は奥州筆頭伊達政宗だ、Do you understand?」 「はあ?」 濡れた口元を拭いつつ、は素っ頓狂な声を上げた。 そんなに歴史が得意でなかったでも、伊達政宗くらい聞いたことがある。 相手の言葉の意味がよく分からないものの、 頭の隅で、床にそのまま吐いてしまったことを今更ながらふと申し訳なく思う。 せめてビニール袋でもゴミ箱でも用意してもらえば良かった。 もっともそれまで吐き気を耐えられなかったかもしれないが。 そして湯気がほぼ引いたところで、ついに伊達政宗と名乗る相手の姿が見えた。 「――――。」 右目に眼帯をしているとか、眼帯をしていない方の目がひどくキツいとか、 よく見るとすごく美形だったりだとか、そういうことよりもは相手の服装に度肝を抜かれた。 腰布一枚。 「・・・もしかしてもしかしなくてもここってお風呂場ですか?」 「知らずに乗り込んできたとは言わせねえぞコラ。」 「ししし知りませんでした失礼しますっ!」 慌てて立ち上がろうと床に手をついたが、それを再び強く掴まれた。 やばい、やばい、もしかして自分、貞操の危機か!? 必死で逃げようとするも、腕を掴んだ手はびくともしない。 「名を名乗れ。」 「あなたが伊達政宗なら私は織田信長です!」 「あんたみたいなのが魔王なら尾張は滅んでるだろうな。 おい、とって食やしないから、早く名を名乗れ。」 細められた左目がだけを鋭く見ていた。 本能的に、この相手にはごまかしがきかないし逃げられもしないと、は悟る。 「、・・・で、す。」 「苗字持ち・・・。あんたどこの姫さんだ?」 「姫!?いやいや、超一般庶民です!」 自称伊達政宗はふいに立ち上がると、再びを抱き上げた。 憧れのお姫様抱っこも、こんなわけの分からない状況では嬉しくもなんともない。 降ろせと大暴れしようとするも、それを見越した独眼が睨みをきかせてきた。 「Just stay quiet. 」 「はいぃっ!」 そのまま脱衣所らしき場所まで連れられて、やはり少々乱暴に床に降ろされる。 こいつにジェントルマン精神はないのだろうかと男を見上げると、 男はその場にいた驚き顔の着物の女性に声をかけていた。 驚くのは当たり前だろう、家族が見ず知らずの女を抱えて風呂から出てきたのだから。 母親・・・にしては若いので姉か妹だろうか。 しかし今時家で着物を着ている女性も珍しい。 あれ、そもそも一般家庭にあんな豪華な温泉があるのか? ここは旅館か?それともお金持ちの豪邸? 「おい、ここから一番近い空いた部屋を用意して、その部屋にすぐに小十郎を呼べ。 小十郎以外には他言無用だ。」 女性は驚いた顔のまま、小さく返事をしてすぐさま去っていった。 それを見届けることなく、自称伊達政宗は傍らの布を掴むなり、の頭にばさっとかぶせた。 「わっ!」 「とりあえずそれで身体拭いとけ。 あんたが本当に怪しい奴じゃないことが分かったら、ちゃんと着替えをやる。」 「・・・怪しい奴のままだったら?」 何の気なしにそう尋ねてから、は激しくその発言を後悔した。 布から顔を出したとき、眼前に突きつけられていた、『それ』。 伊達政宗を名乗る男は、にいっと恐ろしげな笑みを浮かべた。 「そんときゃ一生さよならだな。」 ――なんで現代日本人が、風呂場に日本刀を持ち込んでるんだ。 |
うちの政宗様は、いくら丸腰の女でも不審な人間であれば、すぐにちゃんと扱ってはくれません。
ところでこの時代、偉い人がお風呂に入るときって外に護衛がいるんでしょうか。
だったらこじゅが側に控えててもいいよなあと思ったんですが、今更言っても手遅れですね。