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 そのまま熊野水軍と望美、源氏の力で平家は敗れ去り、白龍も元の力を取り戻し、神子と龍神の戦いは幕を閉じた。
 間を置かず、望美と譲は元の世界へ還っていった。名残惜しくもそれを見送って、ヒノエも元通り熊野へ帰る。
 弁慶も、九郎や景時と共に鎌倉へ向かったようだ。
 詳しい話は知らない。熊野にいつでも遊びにおいでよ、なんて言葉も、朔には言ったが彼らには一切かけなかった。あの負けず嫌いに限って、いきなり『源氏やめました』とか言って熊野に住みつくなんてまずありえなかったし……そもそも彼は、熊野が好きじゃないんだ、変に誘って意地になられても困るだろう。
 熊野へ戻ってもやはりヒノエは落ち着くことができなかった。帰って数日も経たぬうちに伊勢に出向かねばならなかったのだ。
 八葉の役目を終えてから最初の大仕事で、本宮を出た頃は満ちていた月が消えそうなほどに細くなるまで伊勢に滞在する羽目になった。お陰でようやく全てを片づけて我が家に戻った頃には春が満ちて、楽しみにしていた花の蕾は一通り開いてしまった後だった。
 木に大地に色を落とす花、新緑の緑も強まって、空は青、それは綺麗だったけれど、どうせならば刻一刻と移りゆく様を眺めたかった。残念だけど仕方ない。が、やはり諦めきれない。
 ので、ヒノエは帰ってきて最低限の指示を水軍衆や神官たちに出すなり、まっさきに境内へ花見へ繰り出すことにした。

 当たり前のように熊野で生まれ育ったヒノエにとって、この景色は当たり前のように親しんだもの。春の風景だって何度見たか分からない。それでも毎年少しずつ違っていて、毎年違う印象を受けるから趣深い。中でも今年は心なしか、よく花がついているように見えた。怨霊とか龍脈とかと関係あるのだろうか、だったらいいと、少し思った。春が綺麗なのはいいことだし、それに、
 と、その時、緑に色散る鮮やかな色彩の中、なんだか……視界の端にふわりと、場違いな黒が映ったような気がした。
 丁度そんなことを考えていたところだったから、見間違いだろう、なんて思いつつ、どうしてか否定できない……ヒノエは瞬きした後改めてそちらを見やるが、既に何もない。建物の影に入ってしまったのだろうか、と、駆け寄ってみたが、やはりなにも、誰もいなかった。
 伊勢では散々な目にあったし、疲れでも溜まってるのだろう。実際腕を振り回せば、ボキボキと骨がきしむ。これは重症だ。
 散策もある程度終わったところだったし……予定変更。昼寝に切り替えだ。
 もちろん褥まできちんと戻ったりなどしない、そんなことをしたら醍醐味が半減だ。この広い本宮大社の全てがヒノエの昼寝場所で、風音や鳥のさえずりを子守唄にすることがなによりの至福なのだ。
 いつもだったらここで、心地いい場所を探すことから始めるところだけど、今日は別。
 赤間関から帰ってきて伊勢へ向かう間、専ら通っていたいた場所がある。ヒノエはそこを目指し、離れへ向かう。
 静かで、物のない、風通しのいい部屋。大きく南に開いた蔀戸は今の季節にもってこいで、輝く陽射しも御簾を降ろせば風情ある薄明かりに変化する。とはいえ殺風景な場所だから、こんなに通うのなら、今度花瓶でも置いて花でもいけてもらおうかとも思う。本宮が久しぶりなのだから、そこも当然久しぶりで……、
と、屋敷へあがり、渡殿を進み目的の場所へ差しかかったところで、何か、
御簾の向こうに人の気配。覗けば丸く黒い影があった。
「……?」
 まさか、と思った、場所が場所だけに見間違いを疑った。
 けれど、その黒い影が振り返って
「おかえりなさい」
 なんて言うものだから、さすがに……幻覚ではないのだろう、
 ざあと、ヒノエの目の前を風が抜ける。こちらを見上げる彼の外套が小さく揺れる。
「……なんであんたが」
「何言ってるんですか。以前から僕はここで本を読んでいたの、覚えているでしょう?」
 言う声も微笑みも穏やかで、記憶に残る綺麗で優しい叔父上そのままだった。けれど、少し違う。
「いや、ていうか、」
「ふふ、鎌倉殿からの書状をお持ちしたんですよ、熊野別当殿」
 くすくすと零しつつこちらを見上げる姿はどこか悪戯な様を含んでいる。そういう彼を、少なくともここでは見たことはなかったから、ああ、幻じゃないんだとヒノエは実感して、とりあえずほっとした。
 それに、いくら鎌倉殿の使者といっても彼がここに来る必要はない。だったらわざわざ来てくれたってことになる。それをヒノエは素直に喜んだ。
 弁慶は書を読んでいたようだ。向き合う形でヒノエは座る。
「持ってきたの?」
「いいえ、君の部屋から拝借しました」
「ふーん」
 ここにいれば、自然過るは過去の事。幻と見間違えるほどに、ヒノエの瞼に焼きついた光景。
 自分がいて、彼がいた。
 けれど昔みたいに、彼がただ綺麗なだけじゃないと知っているし、あの頃はこんな風に向き合うこともなかった。
 少しのずれが生じた関係。その差がきっと、一年間八葉として彼と年月を越えたことの差なのだろう。だとしたら嬉しい。
 にこにこと上機嫌にヒノエが彼を見ていると、弁慶も書をぱたりとたたんでこちらを見た。
「さすが水軍の頭領だ、面白い本を持ってますね」
「源氏の軍師殿に気に入って貰えたなら、なにより」
 なのに、そう答えた途端、目の前の叔父から笑みが消えた。
「……ヒノエ、ここは怒るところでしょう」
「なんで?」
「もう僕たちは八葉ではないんです。僕は源氏の軍師、君は熊野別当。今でこそ穏やかな関係ですけど、いつどうなるか分からないってのに、敵に手の内を見せてどうするんですか」
 さっきまでとは裏腹の、感情の無い声。
 まったくいきなりの変貌、しかも、勝手に人の書を見ておいての物言い。随分と自分勝手なそれに、それこそ本来なら怒るところだ、
けれど、ヒノエはどちらかといえば戸惑った。
 声音も無機質だったけれど、なんだか目にも力がないように思える。少なくとも去年見てきた源氏の軍師としての彼とは雲泥の差だ。鎌倉の使者というからにはまだ軍師をしているのだろうに……なにかあったのだろうか?
「……聞いていますか?」
「ああ、一応ね」
 気になりつつも問うことはせずに、ヒノエは彼から目をそらす。
 彼に致命的な何かがあった風には見えなかった。ただ、なんだか軽いのだ。さっきまでのヒノエと同じように寝ぼけているのだろうか? それこそこの春風に飛んでいきそうな印象を受けた。
 目をそらしたついでに、部屋の中をぐるりと見回す。旅人一人やってきたというのに、部屋の中には大したものは存在しない。
 静かな、何もなく殺風景な部屋。彼が持ってきたものといえば、毬ほどの大きさの麻袋がいくつかと、大きな薙刀だけだ。
「懐かしいですね」
 声をかけられて、ヒノエは視線を戻した。叔父は部屋の中を見回しながらなんでもなく微笑んでいて、
「君とはよくこうして過ごしたものですね」
相変わらず感情の無い声でそう告げた。
 そよそよと、風を受けながら紡ぐ姿は見とれるに値するものだったかもしれない。けれど彼の真意が分からないヒノエは、呑気に目を細めるわけにはいかなかった。
 書状はまだ受け取っていない。ならば、話があるということなのだろう、けれど一体彼は何を言おうとしているのか……?
 身体が無意識に強張ってゆく。
 彼が熊野での話をするのは、はじめてだった。
 沈黙を催促ととったのか、弁慶は微笑みながら、彼の隣に無造作に置いている書物の中から、一冊を取り出し、差し出した。受け取って、表紙を見る。
 弁慶の隣の本の山の中、そのひとつだけがヒノエの持ち物ではなかった、けれど、見覚えがある……
「君は随分と僕が書物を持っていくのを気にしていたようですからね」
 思いだすより先に、弁慶が口にした。
 そうだ、これは夏に彼が持って行った、彼の本のうちの一冊だ、
「なんで」
熊野になどもう帰らないと決めていた、裏切るつもりだった彼が、この地と縁を切ると言い放ちながら持ち去ったものだった。
 それ今更、本当に今更、わざわざ持ってくる。目の前の叔父は膝の上に手を戻しながら目を細める。よく目にした優しい仕草なのに、……けして昔の彼のように、拒絶しているわけでもないのに、なおも春の麗らかな陽気から随分と浮いて見えた。
「いい機会だから、話しておきましょうか」
 口調は更に物悲しく、ヒノエの不安を妙にあおる。それでも無関心を装って、ヒノエはぱらぱらと受け取ったばかりの書をめくってみる。
「ヒノエ、それに関して君はひとつ勘違いをしていたんですよ」
「……何が?」
「夏に望美さんたちとここへ来た時、僕が書物をまとめて持っていったのは、ただ必要だったからです。熊野に帰るつもりはないとか、そんな殊勝なことを考えていたわけじゃない。……いつだか、君も言っていましたね、『人の思惑を探るのはいい、でも頭が回るのも考えものだ、世の中皆自分と同じことを考えているわけではない』と。その言葉、そっくりお返ししておきましょう」
「……冗談、やめろよな」
 一瞬、書をめくる手が止まった。すぐにまたぱらぱらとはじめるけれど、内容は全く目に映らない。
 妙な不安は一気に期待へと翻る。
 だって……弁慶はつまり、ヒノエがこの書を見て何を思っていたか……弁慶が熊野に帰らないと勘違いして奪い取ろうとしていたことを知っている、それでなお、そういうつもりではなかったと言い訳して、こちらに返すということは……、
一体どういうことなのか。
 指先が震える、書をうまくめくれない。
 けれど、浮かれるのはどうやらヒノエひとりだけ。
「ほら、また勘違いをしている」
 まさにヒノエに水をさすように続けられた言葉は本当に冷たく……少なくとも、好意は見えない。
 ヒノエはぱたりと、今度こそ書をめくるのをやめ、顔を上げる。
「僕にとって書物は知らない知識をくれるものでしかありません。けして、君や僕の感情を絡める媒体ではない」
 真意が見えない。
「それって、」
 問い返す言葉は困惑をはらむ。
 そんなヒノエを見、眼前の叔父は満足そうに月色の髪を揺らしながら笑む。
 その姿は不似合いなまでに柔らかい。なのに、
「ええ、君にそれを渡すのは、もうそれが不要なものだからです。僕からすれば、使わない書物などどこに置こうが大差はない、結局のところどうでもいいんですよ、ただ便利なところに置いておくだけです」
告げられた言葉は不釣り合いな程に軽い。その現実感のなさが、一蹴するかのようにヒノエの心に突き刺さった。
 本当に、そういうやり方は、どこまでも、
「……あんたらしいね」
 吐き捨てて、本をばさりと床に投げる。髪をくしゃりと握りながら、鼻で笑った。
 同時に顔が歪む。そんな顔を見せたくなかったけれど……笑える筈がながった。
 だってそれは、全否定だ。
 ヒノエがその書をどう見ていたのかを……弁慶に対する想いを知りながら突き返す。返しながらヒノエの価値観を否定して、同時にヒノエのことも否定している。
 暗に、書もヒノエも、そして熊野でさえも、彼にとってはどうでもいいものなのだと、彼は告げている。
 これが結果か。
 一年前、久しぶりに会った叔父上はただの叔父でしかなかった。
 それが揺らいだ熊野での夏、突き放された秋の京、そして、追いかけた冬の屋島。
 走り続けたのはそうしたかったからだ。遠いあの日、この部屋で見つめるだけだった彼の背を掴みたかった、ましてや、裏切る彼なんて見てられなくて、殴りつけるような気持ちで意地で陰謀の邪魔をした。
 それが前提、
「ほんっとに、あんたらしいよ」
 ……だからってヒノエだって慈善でそんなことをしていたわけじゃ当然、無い。
 だってヒノエはそんなにお人よしではない。訳のわからない世界に飛ばされたというのに神子として戦っていった望美や、なにより誰かの命の為に自分の全てを捨てるような、目の前の馬鹿な叔父とは違う。
 優しいから彼を止めたんじゃない。欲しいから……彼の視線を自分に向けたかったから、必死だった。
 なのに、その結果がこれだ。
 振り落とされる。
 『身の程にあったこと以上をすると、必ず面倒なことになる』なんていう、散々聞かされた叔父上の言葉がよぎる。つまり、こういうことだったのか、はじめからヒノエのことなど興味がないと、彼は暗に告げていたのか……。
「……そんなにそれが大事だったんですか、君は」
 なのに、切り捨てることを選んだくせに弁慶は意外そうに口にした。確信犯の癖に、知らない振りして言うなんて、どこまで性格悪いんだ。最低だ。
「ああそうだよ」
 だからきっぱりと返した。泣きそうになって、睨み返すことさえできずに、ただ精一杯に、涙をこらえて目を見開いて、片膝を抱える。

 夏の日、顔色ひとつ変えずに荷物を持ち去ろうとする彼を呼びとめたのは、彼が熊野と繋がっているんだという証なんていう、そんな不確かなものを欲したわけでは結局、なかった。証なんて自分で作るものだってくらい、ヒノエはとうに知っていた。
 ただ……そう、その本はヒノエにとってはささやかな、けれど大切な思い出だったのだ。
 この広い部屋で一人、静かに書を辿っている彼を見るのが好きだった。
 小さく何も知らないヒノエに彼の姿はとても不思議なものに見えた。
 熊野のことならなんでも知っていると自負していた少年だけれど、その黒い影はまるで異世界。
 そうして本から顔をあげて、振り返り、ゆるりと微笑んでくれる彼が好きだった。
 そんな彼の本当の姿を垣間見たと思っていた。近づいたと思っていたのに、
結局、全ては勘違い。結局、あの日と同じように、あっさりと自分に背を向けようとする彼が、つらい。
 近づくのは認めたくない現実。
 ふられるのだ、と、ヒノエははじめて無力を痛感した。

「ほんっとに最低」
 それでも、結果としてヒノエを見てくれなかった彼を責めるつもりはなかった。
 ただ、ヒノエのことなんかどうでもいいなら、早くこの場から立ち去ればいいと思ったし、そうするべきに決まっていた。けれど、そんな簡単なたったのひとことすら口にできずにヒノエはうずくまる。
それでも黒い影は動こうとはしなかった。挙句、
「昔」
と、ぽつりと何か、語りはじめた。
「僕は、随分と自分に自信がありました」
 言葉は音としてしかヒノエの耳に留まらない、何を言っているのかよく分からない。それでも弁慶は続けた。
「比叡の同年代では並ぶものがいないほどの知識を身につけていた。武術もそこそこはできましたし、人当たりもよく、いわゆる、要領がとてもいい子供で、何もできないことはないのではないか、と、自負していました」
 穏やかな、耳触りのいい声は、少しずつ、少しずつヒノエの耳に届き始める。
「ある日僕は九郎に出会って、源氏に与することになりました。僕は彼と一緒に平泉へ行き、いつか京を荒らす平家を叩くため、力を蓄えることにしました」
 それは、ヒノエが一切知ることのなかった彼の過去の話だ。
 顔を上げる。目が合う、弁慶は微笑んでいた。どこか切なく、なのにどうしようもなく優しいそれにヒノエの胸はますます詰まった。
「けれど、僕は気付きました。平家の繁栄は、京の龍脈を利用しているからだと。それを断てば清盛公を倒せると。兵などなくても京から平家を追い出せると、知ってしまったのです。それから僕は数年かけて準備をし、清盛を倒すため、ついに京の龍脈を消滅させたんです。……もう、4年も前のことですね」
 けれど、それは……こんな、突然聞かされるには途方もない話だった。
「龍脈を、あんたが?」
「ええ。僕が応龍を滅ぼした。けれど……言い訳ですけど、本来はすぐに戻る筈だった、けれどいつまでたっても応龍は生じることなく、京はますます荒廃していった……黒龍の力が清盛に奪われたままだったからです。だから僕はどうしても平家を、清盛を倒さなければならなかった。……今思えば、八葉になったのもその因果だったのかもしれないですね」
 ただ、納得はいった。
 彼の口癖を思い出す。やはり身の程以上の事をしたのは、彼自身だったんだ。
 それに、あんなに必死に、裏切ってまで一人で清盛を倒そうとしていたのは、優しさじゃなくて、ただ、自分の罪を償うためだ……
 呆然とした。目の前の彼の姿がまた揺らぐ。まだ、ヒノエは彼のことなど知らないのだと叩きつけられる。
「屋島で望美さんや敦盛くんは散々に僕を褒めてくれましたが、当然のことをしただけなんですよ……さあ、そろそろ僕に絶望してくれませんか?」
 弁慶はもう笑っていなかった。ただ、まるでこちらを探るように見つめていた。本来探るべきはこっちの筈だ、けれどヒノエは悪態すら口にできず、さっきまでの絶望も忘れ、ただただ瞬きをして彼を見上げる。
 確かに、最低だ。
 彼が京のことを思った気持ちは本物だと……思いたいところだけれど、龍脈を消滅させるなんて、人の身でやっていいことじゃない。
 お陰でとうとう過去の、この部屋で見つめ続けた彼の印象は完膚無きまでに砕け散った。
 今目の前にいるのは目的の為に手段など選ばない、ただ不遜なだけの罪人だ。
「……」
 それでもどうしてか、ヒノエは彼を罵ることができなかった。
「どうして、今更そんなことを」
 だからとりあえず口にした。
 けれど弁慶は屋島の時さながらに、なおもヒノエに問い詰める。
「質問に質問で返さないでください」
「先に聞きたい」
「だったら、僕も聞きたい」
 挙句、弁慶は口にした。
「……どうして君は、そんなに僕を追いかけるんですか?」
 その声は半ば怒りを含んでいて……、
多分、いきなりあんな事を言い出したのは、ヒノエが何も知らないのが不幸だと彼が思ったからだ。
 もっというと、彼はヒノエと違うと言いたかったんだ。
 彼は京の為に必死になる理由があった。立派すぎる理由だ。
 それに対して、それを止めたヒノエはどうなんだ、と言いたいのだ。
 そんなのだから好きだからだろって散々言っても、なおも彼は分からないのか。もしくは、なんで好きなのかと問いたいのか。それこそ馬鹿だ、色恋に理由なんて必要ないことが……ヒノエとは違う価値観で生きているらしい叔父上は分からないのだろう。
 ヒノエだって彼が分からない。分かるはず筈がない。
 こっちの綺麗な思い出を平気で踏みにじった後にこんなことをいう奴を、永遠に理解できる筈がない!
「あんたが馬鹿だからだろ、そんなの」

 それでも結局、ヒノエは彼が好きだった。
 京の龍脈を滅ぼして、他の全てを捨てなきゃいけない状況に自分で陥って、子供相手にも作り笑顔で遠ざけて、親友だとかいう自分の大将にも何も言えずに裏切る始末。心底馬鹿で、最悪で、最低で、と思うと同時に、どうしても彼を軽蔑することができなかった。
 関わると酷い目に会うって分かっているのに、なのに、結局……ヒノエは遠い昔から、なんとなく騙されたままなのだ。
 理不尽に苛められていた幼い頃から、世の姫君が優しそうだという彼の笑顔に、ずっと騙され続けたままなんだ。
 そう、彼が嘘つきなことなんて、ヒノエは誰より昔から知っていた。
 そのヒノエがこんな、今更になって、贖罪のように過去を口にした彼を、ここで見捨てるなら最初から追いかけたりするものか!
 胡座の上に置いた拳を握りしめ、ヒノエは全ての想いを込めるように弁慶を見つめる。
 そんなヒノエを、今だって彼はただ理解できぬと言いたげに眺めているのだ。そういうところが馬鹿で、詰めが甘いっていうんだ、この叔父は。何か言い返してヒノエをへこませればいいのに、それをしない、否、できない。
 でも、馬鹿なのは多分、そんな彼が好きでたまらない自分の方だ。

 ヒノエは息を吐いて、無理矢理、本当に無理矢理笑った。
「でも、やっと納得がいった」
「なにが、ですか」
「あんたもずっと片思いだったんだな」
 もう意地でしかなかった。惚れた弱みとか、そういった類のものだ。賛辞を並べ口説くのはヒノエは好きだったけれど、いくらなんでも、いい加減、思い知らないのか、彼は。
「でも京という姫君は龍神の元へ嫁いでいってしまった。だったら、あんたも心残りはもうないよね? いい加減、こっちの話を聞く気になった?」
 とはいえ、上手く笑えている自信は全くなかった、これまで散々口説いてきたけれど、……今まで一番、怖いと思った。
 だって違う、散々追いかけていただけの過去と違って、多分、今、はじめて彼はヒノエを見ている。
 今までの一方的なものとは全く、全く違う。
「それが君の答えですか」
「ああ、そうだよ」
 言葉は相変わらず無機質だった。なのに途端、目の前の叔父上の顔がくしゃりと崩れた気がした。
 はっきり見えなかったのは、一瞬だったからだ、手が伸びて、ふわりと抱きしめられた。
「君は……本当に困った子だ」
 囁きは耳元で響く。普段は饒舌な叔父上はそれきり口を閉ざす。
 しがみつかれるような抱擁、ヒノエもただ、その体の熱を感じる。
 軽かった。
 叔父は元々背が高い方ではなかったが、それでもあの薙刀を振り回したりヒノエを突き飛ばしてくれた力はある、なのに、驚くほど軽かった。軽くて、まるで振ればからからと音がしそうな程で、
先程からの彼の声音の無機質さが、しっくりときた。
 妙に納得してしまった。
 なんとなく不安になって、ヒノエはおずおずと背中に手をまわす。すると、
「僕は君が嫌いだった」
弁慶がぽつりと言った。
「君には何もなかった。罪も責任も、何も。8つも年若いのだから当然だったけれど、この熊野の中で君だけが綺麗に見えた。それが憎くて、同時に嬉しかった。だから、君が僕のせいで別当になったとき、どうしようもなく後悔した。二度と君を巻き込んではいけない、と、思ったんですけどね」
「なっ……なんだよそれ」
 それは随分唐突な……本当に唐突な告白だった。ぽつぽつと、間近で言葉を紡がれる度に意識が揺さぶられてゆくようで、
「君との記憶は、随分と優しかった。僕は熊野の人によく思われていなかったし、僕も父を含めここの人は嫌いだった。だからここで一人でいることが好きで、君が話かけてきたときも、どちらかといえば鬱陶しかった筈なのに、けれど、不思議ですね、思い出すと随分と温かなものだったんですよ」
紡ぐ言葉にヒノエは戸惑う。今度こそ、戸惑う。
 ゆるやかな時間、向けられる笑顔、知らない知識、通り抜ける風、
彼とこの部屋で過ごした時間はヒノエにとってとても大切なものだった。けして熊野に留まりはしない弁慶との思い出は、いわば浅はかな偶像。
 けれど、それはヒノエだけのものかと思っていたのだ。まさか……、自分が彼の背をみていたように、彼もまた、自分を見てくれていたのだと、そんなこと。
 ぐるりと、季節が巡る。くるくると記憶が時空を超え、過去が過る。
「……だから、」
 黒の衣にしがみつきながら、ヒノエは紡ぐ。
「だから、京から解放されて、空っぽになったあんたは、何かを求めてふらりと熊野に来てみたくなったってわけ?」
 ……彼が言うところの、温かな記憶ってやつを求めて?
「……ヒノエ?」
 突然の言葉に、弁慶がゆっくりと離れ、ヒノエを見下ろす。
 ヒノエはそれをまっすぐに見る。一時もそらさないように、逃さないように、見上げる。
 その彼に告げた。
「だったら、ここにいろよ」

 それはヒノエが今まで封印してきた言葉。
 彼を手に入れてもそれだけは口にしないと決めていた言葉。
 恋心を抱く前からずっと、彼に熊野にいてほしかった、けれどどうしても言えなかった。
 言ったが最後、彼はもう来ないことが分かっていたからだ。幼い頃からヒノエは欲張りだったけれど、それだけはどうしても口にできなかった……冬の初めの屋島のことだって、全然全力ではなかったんだ。彼を救っただけで、彼を奪いにいったわけじゃなかった。

 案の定、口にすれば、弁慶の顔が淀んだ。困っているのがはっきり分かった。やはり自分の事を好いてくれているわけではない、はっきり感じで、心が痛む。
 それでもまっすぐに彼を見る。目をそらしたら本当に終わってしまう。彼はからっぽのまま帰ってしまう。二度と手の届かないところに。
「そう、だな……あんた、散々オレを振り回してくれたんだから、しばらくいたってバチは当たらないだろ?」
 止まれない。弁慶の片恋は終わったのだと、弁慶が熊野の全てを嫌いだった訳ではないと知ったからには止まらない。
 彼も所詮、自分の為にだけ戦っていたのだと、ヒノエと同じなんだと知ったからには止まらない。
「……きっかけはどうあれ、最終的に僕が君を心から愛してしまえば何の問題もない、とでも言うつもりですか? そんな脅しのようなものが熊野別当の戦いですか?」
 叔父上はなおも無表情でそう言った。愛、という、彼に似合わぬ言葉が耳に残る。
 彼の言うことはもっともだった、
「そうだね、あんたと大して変わらない方法だね」
「なるほど、確かに人にやられると、苛立つものですね」
自分でやるのも嫌なやり方だった。それでもなりふり構っていられるか。
 もう一度思い出す。身の程を知れと繰り返していた彼を思い出す。
 そんなの冗談じゃないと思っていた、けれど……彼がここに留まるはずなどないのだと、無意識で悟り、最初から諦めていたのはヒノエだって同じだったんだ。
「そういうこと」
 なんでもない風に返せば、彼は笑った。
 それは相変わらずどこか無機質だ。言葉とは裏腹で、軽蔑すら浮かべていないし、
「ですが……困ったな、名目を与えられてしまうと、どうしようもない」
困惑しているようにさえ見えない、ただ……あまりに彼には不似合いの、透き通るような透明さで、弁慶はヒノエに手を差し伸べる。
 指が顎に触れる、近づく瞳がゆっくりと閉じて、唇がざらりと触れた。
 ついばむような、いつくしむような仕草、それはまるでこの叔父とは不釣り合い。
 けれどどうしてか、柔らかさなど微塵もない、面白みのない男の唇の感触も含めて彼がこんなことをするのは、どうしてか全く違和感がなかった。
 刹那のうちに顔は離れ、こちらを見据える瞳と交差したところでようやくヒノエは我に返って、慌てて口元をぬぐった。
「やっぱり、君が憎たらしい」
 そのヒノエに叔父はきっぱりと言った。言い返そうと思ったけれど、彼の瞳に奪われる。
「……弁慶?」
 さっきまであんなに希薄だった瞳にどうしてか、光がしっかりと宿っていた。
 悔しいと、目は高らかに感情を告げる。
 ヒノエは呆然と彼を見る。
「本当は、僕が裏切った理由だけを告げて、あとは知らぬふりを決め込もうと思っていたのに……やっぱり秋に叩きのめしておけばよかった」
 表情は歪み、睨み、言葉は鋭利で呪詛のよう。
 それでも、まっすぐに感情だけで向けられたそれは全く怖くない。さっきまでの底の見えぬ空虚さとはもう違う。だったら、
 憂いなど感じている場合じゃない、口元が歪む。
 だって……、
だって、やっと彼は振り向いた。
「物に思い出は宿らない、思い出など罪の連鎖でしかなかったから、嫌いだったけれど……認めたくもないけど、それでも確かに僕はこの部屋が好きだった」
 とん、と肩を押された、ヒノエは床にそのまま倒れる。
 覆いかぶさる黒い影、するりと頬に落ちた金に似た色の髪、けれど、何も言えなかった。言える筈がなかった。
「君がいて、僕がいて、他の事など、例えばどんな会話をかわしたかなど覚えていないけれど、僕は確かに、ここが好きだったんです」
 二人は同時に同じ時を共有した。ただ、それぞれ反対側から見ていたから気付くことはなかった。
 なのに、二人は同じ感情をその記憶に抱いていた。それが今、時を越えて重なる。
 それはきっと、奇跡にも似た何か。
「京の龍脈を戻すために、僕はたくさんの物を失ってきた。けれど、失ったたくさんのものは、すべてここにあるのかもしれませんね」
 独り言に似た言葉は、ヒノエの心にしっかりと響いてゆく。
 だって実際、そうなんだ。
 ヒノエが諦めていたものの、弁慶が焦がれていたものも、きっとそう、ここにある。
「……あんたの言葉を借りるなら、部屋に思い出は宿らない、だったらオレたちの記憶を持っているのは熊野だよ。あんたにその血が流れる限り、熊野はあんたを忘れない」
 二人が過ごした時間だって、きっとこの地が覚えていたんだ。
「だから、そろそろ認めれば? あんたも熊野の男なんだってこと」
 ヒノエはそう、突きつける。弁慶はようやっと複雑そうに微笑んだ。
「そうですね……そろそろ甘えるのもいいのかな」
「そういうこと、里帰りに理由なんていらないよ」
 言いきれば、弁慶は一瞬、不思議そうな顔をした後、おかしそうにくすくすと笑う。
「君は本当に、熊野が好きなのですね」
「当然だろ? あと、あんたもね」
「言ってくれる」
 笑い声は柔らかに部屋の中にくるりと溶けてゆく、風の音のかわりに本がぱたぱたと音を立て、それらを浚ってゆく。
 倒れて見上げる天井は、思い出の中には存在しない。もうヒノエの知らないものだ。
 冬と春の間の季節、雪と花が同時に落ちる本宮大社の庭に背を向け、ひどく寒い部屋のなかでひとり、弁慶はここにいた。それをヒノエは後ろから見ていた。
 そんな記憶が溶けてゆく。動き出す。
 流れてゆく、まるで帆を受けた舟のように、速く、速く、加速して、刹那の間に遠ざかる。まるで海に沈んでゆくように、幼い自分と、少し若い叔父が、ゆらりゆらりと揺れる水面に滲み、かすんでいく。
 そう、きっと、あの冷たい冬と春の間に留まっていたのは弁慶じゃなく、ヒノエの方だった。
「だから言うけど」
 はらりと落ちた髪を指に絡め、ヒノエはそれを握りしめた。
「おかえり弁慶」
 それでも結局、彼はここに留まることはないだろう。
 だけれど、今、こうして同じ部屋で向き合っていることは、また、記憶として積ってゆく。
 どれだけ嬉しい言葉をかわしても、きっと些細な内容など、ヒノエは簡単に忘れてしまうだろう。それでも熊野がある限り、ここにいたことは忘れない。
 この春風の温かさを、きっとヒノエは忘れない。





少し長めにあとがき
最初は1話目だけの予定だったんですが、
途中で頑なな弁慶さんにイラっとしてつい変な方向に長くなってしまいました
そんな弁慶さんをおいつめる?のはとても楽しかったです。
ついでに最後の弁慶の髪を掴んでるあれはヒノエの歌からお借りしてきました。あの歌はいい弁ヒノですよね。
源氏組に関して、ルート外での奴らはどうしてるんだろう、鎌倉殿に狙われてないかな
と、いつも心配してしまい、今回も偽装工作??とかしてもらおうかな?とも考えたんですが、
でもいちいち細かいこと考えるのも無粋じゃない? ってヒノエくんなら言いそうだよねってことで、
敢えて全く気にしないで書いたらとてもすがすがしかったです。
やっぱりせっかく頑張ったんだからED後はみんなに幸せであって欲しいです。

ここまでおつきあいしていただいてありがとうございました!


(03/07/2009)






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で、
ここで終わっておけばいいものの、
なんとなーくおまけを書いてみました
ぬるいけどエロなので苦手な方、18歳未満の方はご遠慮ください
その他もろもろはおまけクオリティ(意:本編にできなかった)で察してください

熊野少年Ex (R18)