思い立ったら行動は早いのはヒノエだ。
次の日、ヒノエは望美と九郎に「悪いけど気が変わった。次の戦は協力できない」とだけ告げて京を去ることにした。
望美や白龍は傷ついた顔をしたが、ごめんな、と一言だけ告げて景時の家を出た。
ただ……弁慶はもしかしたらヒノエを逃がしはしないのではないか、など、結構本気で思ったけれど、結局一切の警告も脅しも受けることはなかったから、挨拶ひとつでヒノエは彼らと別れ、故郷へ戻った。
弁慶が裏切るために一体どこで何をするつもりかなんて、まっとうな別当でしかないヒノエにはとんと見当もつかなかったけれど、源氏の軍師が平家に裏切るならそれ相応の手土産が必要になるだろう。だからきっと動くなら次の戦だ、そう思ったヒノエは帰るなり、水軍の用意をし、再び京へと舞い戻った。
父親には何をするのかと探られたが誤魔化せば、向こうもそれ以上は追及しなかった。やはり彼にはまだまだかなわないとも思わされたが、それはいい。まずは先に父より叔父だ。
普段は読まない戦術書を枕代わりに、六波羅に潜み源氏が動くのをゆっくりと待ちわびる。
一日千秋の想いだった。この時期いつもならば吉野の落葉の紅を纏い、秋刀魚や真鯖を存分に味わっているだろう。京の秋だってそれは愛しむべき美しさだったけれど、それらを楽しむ余裕は到底もてず、焼け落ちた集落から見る景色はどこか薄い靄がかかったように見えた。
やがて季節が冬へさしかかった頃、九郎率いる源氏の軍はようやく屋島へと向かい進軍を始めた。
平家は福原を追われた後、屋島に仮の御所を建ててそこを拠点にしているという。九郎たちは南、阿波から上陸して北上、それを叩く作戦のようだ。
本当は北から攻めた方が楽だろうに、それができないのは源氏の水軍の弱さゆえ。それでも、ヒノエが手に入れた情報によれば、平家の兵力もかなり落ちていて、なおも源氏に有利に見えた。……なのに裏切るのだ。
髪をくしゃりとしながらヒノエは地図をさらりと広げる。
ヒノエには結末がおぼろげに見えている。源氏と平家双方の情報を持っているからだ。
普通ならそんなこと起こり得ないものだが、それをやってのけるのが熊野の烏。
そして双方の情報を持てば、おかしなところは見えてくる。そう、軍師ではなくても、軍師が何をしようとしているのか想像することが容易になる。ヒノエはただその裏をかけばいい。
情報さえあれば、そう難しいことではなかった。とはいえそれなりに戦力を投入しなければならない戦況、心は痛んだけれど、振り返ってはいられない。
出陣の時だ。準備は万端、憂いはない。
隠れ家を飛び出し馬に乗り、熊野で一番速い舟を隠しておいた漁港を目指す。
頬切る風は冷たく、ばたばたと耳元で音がする。失敗は許されない。今までと違い、ヒノエひとりの戦いじゃない。
人一人救うために、仲間から離れ、部下を危険な戦場へ送るのだ。
ヒノエが掴んだ情報によれば。
源氏は南から屋島へと攻め込む途中、讃岐国の海岸近くに築いた砦、総門を通る。
ここは安徳帝のおわす行宮への最後の砦、当然守りは固めなければならないのだが、どうしてかここにいる兵が圧倒的に少ない。
その代わり、どうにも総門の東、五剣山から志度浦のあたりに兵が集まっている気配があるという。しかも規模からして、戦力のほとんどを集めるのではないだろうか?
……つまりは、源氏が総門を制した直後、もしくはそこを離れた後に全軍でそこから奇襲するつもりなのではないか? というのがヒノエの読みだ。
だったらヒノエ率いる熊野水軍は秘密裏にそれを阻止しなければならない、が、山中で戦などもっての他。屋島の西であらかじめ待機しておいて、機を狙い、海路を東に進んで総門へ向かいこれを討つ。
こういう時、熊野水軍は無類の強さを発揮する。なんといっても商船漁船に偽装するなどお手の物。そうして舟のほとんどは既に讃岐や阿波に潜ませていた。あとは頭領であるヒノエが合流するばかりだったけれど、
船旅も順調、当然といえば当然に、ヒノエは無事九郎たちより屋島へとたどり着いて水軍衆と合流することができた。
先に来ていた彼らをねぎらった後、すぐさま偵察のために総門近くへ。
平家の兵は本当に少なかった。不審な程だ、これならヒノエが何もせずとも九郎自ら罠に気付くんじゃないか?
思ったけど、結局、暫くの後にやってきた源氏は、総門制圧後、立ち止まることもなくまっすぐ北へ向けて進軍してしまった。
「……少しくらい疑えよ」
九郎の単純さに呆れたが……やはり、軍師殿はこの後総門を平家に襲わせ、源氏の背後を取らせるつもりであるようだ。
……それはヒノエの読みが当たったということで、同時に本当に弁慶が裏切るというなによりの証。
林の中から、ヒノエは弁慶が残していった部下たちをぼんやり見つめる。
彼は一体何をしたいというのだろう。……静かな部屋に一人こもり、全てに背を向けることも、切り捨てることもかまわない彼は、一体何を見ているのだろう?
答えなど知らない、それでも、
ヒノエはすぐさま本陣へ引き返す。舟に飛び乗り副頭領に命じる。
「じゃ、ここはまかせた。手筈通り、姿を現すのは総門が攻め込まれてからな」
「あいよ頭領」
まだ見つかる訳にはいかないヒノエたちは、総門に平家が攻め込むより早くそこを通り抜けなければいけないのだ。
ヒノエは三隻の舟を連れて、東へ急ぐ。
総門から行宮へ進むには大きく二つある。
早くに海を渡り屋島を進む西側の道か、行宮の手前まで北上する牟礼の浜経由の道か、だ。
弁慶がどちらを通るか、というのはある意味賭けだった。後者を通られると見通しが悪いし、なにより平家の兵が近くにいる。そうなったら別な手を打たなければならないと危惧していたが、奇遇にも九郎義経の一行は西側、ヒノエたちの方にやってきてくれた。
ならばあとは簡単だ。
海流を使い平家が総門を攻めるより先に源氏に追いついたヒノエは、彼らが屋島へ上陸したのを確認後、商船に扮していた装いを一転、熊野水軍の旗を高々と掲げ、彼らに接近する。
わざとらしく、ここぞとばかりに一等大きい旗を持ってきたのだ、ひらひらと、強い北風を受けながら旗はひらめく。おかげで舟は大きく揺れて、ヒノエでさえも帆柱を掴んでいなければならぬほどだったが、源氏の軍は突然現れた水軍に動揺を示した。
伏兵だと思われたのだろう、彼らは弓を掲げ、矢を放つ。それをかわすべく、また、早く先頭へ追いつくように、こちらも速度を上げてぐんぐんと北へ進軍してゆく。
すると、次第に攻撃は途絶えてきた。突如現れた中立の筈の熊野の船。しかも、敵意を見せているわけでもないのだ、ためらうのも当然で、むしろありがたい。
そうしているうちに、完全に攻撃がとまった。同時に見慣れた影が馬に乗って浜辺に躍り出た。
景時だ。
「やっぱり、ヒノエくん!?」
「やあ、久しぶりだね」
船縁に身を乗り出し声をかける。指示を出して陸に近付いてゆくと、彼は遠目でもはっきり分かるほどに怪訝そうな顔をした。
「う〜ん、一体何をしにきたのかな?」
「もちろん、見て分からない? 加勢だよ」
「熊野水軍が今更源氏に与するのかい?」
「そうなるね、でも、オレの土産は水軍じゃないよ、よっと」
強い風に飛ばされないよう、肩にかけた上着をしっかりと押さえながら、ヒノエは船縁に足をかけ立つ。めいいっぱいに島に近づくのを待たずにひょいと青を飛び越えれば、両足がさくっと砂浜に刺さった。
「……相変わらず元気がいいね」
「だろ? それより耳寄りな情報があるんだけど、戦奉行殿」
単身飛び込み、背の高い彼を見上げてにやりと笑ってみせれば……信用されてないのは明白だけど、それでも景時は部下を振り返り、
「……彼に馬を貸してあげて」
「はっ」
と、ヒノエに馬を貸し与えてくれた。
「…………何がしたいのか分からないけど、とりあえず九郎のところに行こう」
「話が早くて助かるよ」
ヒノエの陽動はそれなりに効果があったらしい。
彼が九郎のところへたどり着く頃には、軍はすっかりと前進をやめていて、結果、彼らが行宮に着くより先に、ヒノエは彼らに追いつくことができた。
見慣れた顔が見えてきたところでヒノエは馬から飛び降りる、と、望美が同じように馬から降りて駆け寄ってきた。
「ヒノエくん!?」
「久しぶり、姫君。こんなところだってのに相変わらず綺麗だね」
「ヒノエ!!」
が、感動の再会は九郎によって邪魔をされる。
「お前……突然いなくなって、一体どこで何をしていたんだ!?」
普段は天然だと望美や将臣に散々からかわれている彼だが、さすがに源氏の大将、騎乗の姿も相まって、見下ろされると凄味がある。
「それ、もうだいぶ前の話だろ? しつこい男は嫌われるよ」
「大分前だと……? どれだけ皆不安を感じたと思っている!!!」
「だから、ちゃんと熊野に帰るって言ったじゃん」
「九郎、それより今は」
仲裁したのは景時だった。言葉に素直にうなづく九郎は、
「ああ、そうだな。それはいい、今はあの水軍だ」
と、彼と並走する形で近づいている熊野水軍の三隻の舟、及び、降りてきた五人の水軍衆を見やりながら、実に機嫌悪く問う。
「どういうつもりだ? 以前は協力できないと言っていたくせに、何故今更こんなものを引き連れて、しかも今やってくる?」
「もちろん、あんたを助けにきたんだけどね」
「理由になってない」
九郎は今にも斬りかかりそうな勢いでヒノエに食ってかかっている。否、思うに、むしろ普通は斬るところだ。だっていかにも怪しいじゃないか。それができないのが結局、弁慶の企みに気付けない九郎なんだろう。
「……ま、今はそれがありがたいんだけど」
やれやれ、と、溜め息混じりでヒノエは腕を組む。
「このまま進むと危険だよ。それを教えに来てやったのさ。あんたはともかく、オレは神子姫様たちを危険な目に会わせたくはないからね」
「何?」
同時に水軍の男たちがざっと動いてひとりを取り囲む。
「弁慶さん!?」
「ヒノエ、お前何を!!!」
向こうも身構えてはいたようだけれど、呆然とする八葉たちの目の前で、ろくな抵抗ができるわけがない。
ヒノエは、刀を突き付けられ馬から引きずり降ろされた源氏の軍師をちらりと見、九郎に言う。
「叔父の不祥事は熊野別当の責任、そうはいっても、この貸しは高いよ、九郎」
「何をさっきから訳のわからないことばかり言っている! ふざけるな、その行為、源氏へ刃を向けていると見なすぞ!?」
騎乗したまま、九郎は柄に手をかける。その目は本気だ。でも、こっちも本気だ。
「源氏なんて今でもどうでもいいけど、だからって…」
けれどそれを遮る声、
「ああ、熊野は平家につきましたか。まさか君がそうするとは思わなかったな」
場違いな程に、少なくともヒノエにとっては柔らかに聞こえた、その声音。
ここにきてはじめて、本当の主役、裏切りの軍師が素知らぬ顔で口にした。
ヒノエも彼に向き直る。
「裏切った、なんていわれるのは心外だね」
「水軍を引き連れてよく言いますよ、あんなの、脅し以外のなんだっていうんですか?」
ゆっくりと、水軍衆によってヒノエの方へ引っ立てられながらも不敵な言葉、
「他に君がここにいる理由なんてない」
それは実に、叔父上らしい言葉。ヒノエはますます笑った。
「……オレがここに来たのがそんなに不思議? だろうね、あんたからすれば、オレは『あんなふう』に口止めされて、誇りを傷つけられて熊野に逃げ帰った軟弱者なんだろうからね、意地が邪魔して二度とあんたの前に顔は出せないとでも思ってたんだろ?」
……だから別れの時も引きとめもしなかった。
悔しかった秋の記憶が過れども、ヒノエは笑う。焼きつけるようにつらつらと続ける。
「でも勘違いだよ。頭が回りすぎるのも考えもんだね、弁慶。世の中自分と同じだと思ったら大間違いさ。確かに底なしに意地が悪くて負けず嫌いなあんただったらそうしたかもしれない、でも熊野別当は白状じゃないから、それくらいで手を引くなんて考え、端からないんだよね、あんたと違ってね。だから、裏切りの話もそう、自分がそうだからって、オレも一緒にされるのは御免だよ」
「……裏切り、って、どういうことだよヒノエ」
「どうもこうも、裏切ろうとしていたんだよ、こいつ」
「な、なに言って…」
「平家の本体は総門でも行宮でもないところにいる。こいつはそれを知っていて進軍させたんだ」
きっぱりと真相を話すと、八葉たちはどよめいた。特に九郎は馬からひらりと飛び降りながら刀をすらりと抜きかけ、
「お前……どこまで弁慶を愚弄すれば気が済むんだ? 親戚だといえど限度が…」
「九郎!」
「景時! 離せ」
ヒノエに斬りかかろうとしたけれど、すんでのところでやはり景時が抑えた。けれど九郎の激昂がおさまるはずもない、が、
「待ちなさい、九郎」
弁慶が言えば、さすがの九郎も、また、他の八葉も、口を閉ざして彼を見つめた。
視線の中心にいる弁慶は恐ろしく冷静に見えた。目を細め、ヒノエを見ている。
「とんでもないことを言いますね、ヒノエ。僕が九郎を裏切る?」
「しらじらしい。そもそもあんたが言ったことだろ」
「九郎とはこれでも、それこそ君などより余程長い仲なんですよ。なにより源氏が有利な今、どうして僕が裏切ると?」
「そんなのは知らない。知らないけど、大方昔になにかやらかしてるだろ、あんた。三年前とか」
「三年前……?」
三年前。それは口から出まかせだった。
本当は何も知らない、彼の事なんて何も、何も知らないのだ。
それでも記憶に刻まれた後ろ姿、三年前の冬の終わり、静かに部屋で書を読んでいた……療養していた彼はつまり、鎌倉に帰れなかったから熊野にいたのだ、それと今回が全くの無関係だとは思えない。
告げたら弁慶は顔色ひとつ変えずに沈黙した。……当たりか?
「言いがかりはよせ!」
「そうだよ、ヒノエくんどうしちゃったの?」
遮られてもヒノエは弁慶から視線を離さない。そこへ割って入ったのは、意外にもリズヴァーンだった。
「九郎、神子、待ちなさい」
「リズ先生、しかし!」
「ヒノエ、お前の言動はあまりにも皆の理解を越えている。説得したいなら、なにか証拠を示しなさい」
「ああ…確かに、さっすがリズ先生だね」
「リズ先生……?」
望美が不安そうな声を出す、他の八葉も似たような顔をした。
「証拠? 面白いですね、見せていただきましょうか」
楽しそうなのは弁慶一人きりだった。どうせ証拠など出せないと思っているんだろう。でも甘い。
「まあ、待ちなよ。そろそろだ……来たな」
「ん……あれは」
走り寄ってきたのは弁慶の部隊にいた男。
「九郎殿、申し上げます。平家の伏兵に総門を討たれました」
「なんだと!?」
「それで、皆は無事かい?」
「はっ、幸い見計らったように現れた熊野水軍の助けがあって、平家の軍は引き返しました。おそらく総門は平気でしょう、ですが引き上げた軍がこちらに来る可能性も捨てきれません、かなりの人数です」
「……そんな、ほんとうに…?」
「……なるほど、俺たちが急いで行宮に向かっている隙に総門を落とし、行宮についた辺りで後ろから突くつもりだったのかな」
「そういうこと」
ヒノエの予言と違わぬ報告、景時の冷静な分析に、九郎は一瞬落胆した、が、弁慶はそれを許さない。
「ああ、僕たちは敵の策にはまってしまったんですね。油断しました。軍師失格だ」
などと、さらりと言ってのけた。逃げる気だ。
「何言ってるんだよ、あんたの策だろ? だからあえて、総門に最低限の人数しか残さなかったんだろ?」
「まさか。部隊を裂くのは好ましい策ではない、基本です。敵の本陣は行宮だと、僕は思っていましたからね。その為にはあれ以上の人数を残すことはできなかった」
被害者ぶって、挙句続ける。
「で、君はわざわざそれを知らせにきてくれたんですか?」
「だから、そう言って…」
「だったら、不思議ですね。どうして君は平家の本体が別にいて、総門を襲うと知っていたのでしょうね」
鋭利な瞳がゆらりと瞬く。ああ、来た。弁慶とは対照的にヒノエの顔から笑みが消える、
「悪いけど、あんたの企みを止める為に熊野の烏を最大限利用したからね。……その力、知らないとは言わせないよ」
「そうですね、それはよく知っています。けれど、そもそも熊野が本当に僕たちの味方だという確証はない。今だって君が戯言で九郎を足止め、その間に総門を超えた平家の軍と水軍が、後ろから僕たちを討つ、という可能性も、なくはない」
「弁慶さん……」
「それに、平家を待たずとも、今ここで舟から矢を射られ、九郎が討ち取られればそれで僕たちはおしまいです」
それは、確かに彼の言うとおりだった。望美や九郎からすれば、むしろ水軍がここにいることが不自然だ。
そこを突かれる事を想定して、敢えて彼らを足止めしたのだけれど、
「……あんたの部下の報告聞いた? 水軍は助けてくれたって言ってなかった? それを信じないの?」
「そうだ、今情報を持ってきたのは昔からのお前の手のものではないか」
「でも、水軍が出てきたらすぐに敵は退いたのでしょう? それが演技かもしれない。水軍は仲間だと僕たちを安心させているのかも」
「だけど、そんなことをするくらいなら、もっと早くに攻めた方が、効率はよかったんじゃないかな」
「熊野水軍は強力です、けれど所詮武士とは違う、真っ向から戦ったら源氏にも平家にも敵わないでしょう。だから、奇襲が必要だった。それに、現に今こうしている間にも平家はどんどん体勢を立て直しているのでしょう、これで、行宮へ行ったら誰もいなかった、なんていったら、それは君が逃がしたせい、ということにもなりかねませんね」
止めどなく流れる、理屈を通す言葉。
「そもそもどうしてここへ来るより先に、行宮を攻めなかったんですか?」
「オレの優先順位が帝よりあんたたちだからだろ、そんなの」
「……だがヒノエ、お前が安徳帝を保護すれば、全ての戦いは終わったはずだ」
「いくら熊野の烏が優秀でも、さすがに安徳帝がどうされてるかとか、そんな重要な情報はほいほい手に入れられるもんじゃないだろ、だからそっちの動きは分からないし、御座船を捜してる間にどっかの軍師様が裏切ったら、元も子もないじゃん、部隊を裂くだけの余裕がある戦力差じゃないのは分かってたし」
「……うん、筋は、通るね」
「……通りますね、けれど、そもそもヒノエ、君がそんなに情報を持っていることすらおかしいんですよ。熊野の烏は優秀です、それでも源氏と平家、両方の動きを把握できる程ではないでしょう? それができれば僕は廃業しますよ」
否定し続ける言葉を、ヒノエは自分でも驚くほど冷静に受け止め続けていた。
なんとなく、見当がついていたのかもしれない。
彼の本気を今のヒノエはもう知っている。
秋の京であんなに酷い顔をした彼を知っている。
「ほんっと、いいトコ突くよね軍師殿。……そう、確かに熊野の烏の力だけでは、平家のこれだけの情報を手に入れるのに精一杯だった。源氏の方には回せなかったんだ」
「それで? なんの言い訳ですか?」
「……言い訳? まさか、ただ、源氏の情報を手に入れるのに全く困りはしなかった、って言いたかったんだよ」
思い当りもしないんだな。そう出かかったけど、呑み込んだ。感情ごと呑みこんだ。
言いたくなかった。だってこんな簡単な事なのに、弁慶は本当に分からないように首を傾げていて……一歩、二歩と彼に近づいてきた敦盛の姿を見て、ようやく全てを理解するのだ。
「敦盛くん、ですか」
「ああ。ヒノエからあなたが裏切るつもりだと話を聞いた」
「ヒノエ……巻き込んだんですか?」
怒りを含む瞳がヒノエに向かう、けれどそれを遮るのは敦盛。
「話は聞かされた、けれど、情報を流すことを決意したのは私の意志だ」
きっぱりとした声は、波音にも揺るがない。
「最初、あまりの話に私は信じられなかった。ヒノエの事も知っているが、あなたの事も昔から存じている。裏切りとは無縁に見えた。けれど逆もまた然り、ヒノエが悪戯に、そんなことを言うことがないのも私は知っている。だから……私には、どちらが正しいとか、そんな事を考えることが少しもできなかった。けれど、ひとつだけ、筋が通る理屈に思い当った」
敦盛は胸元で拳を握りしめ、まっすぐ告げる。
「三草山で八葉として出会った時……あなたは私の名も、この穢れた身にも気付いていただろう、なのに九郎殿に逆らう形になってしまうにも関わらず正体に触れず、神子と共に看病してくれたことを、私は覚えている」
普段喋らない人間が口を開くとこうも周りを引きつけるものか、その顕著たる例が今ここにある。敦盛の言葉は染みわたるように響いてゆく。
「だから、あなたは一人で何かを為すために、源氏を裏切るのではないかと思ったのだ。そして、神子や九郎殿を傷つけてまですることならば、それは、それは必ず誰かの為になることだと、思う。ならば、あなた一人を犠牲にはできない」
そう、敦盛自身がそうであったように。
ヒノエたちは知っている。敦盛がどれほどの覚悟を持って自らの家を裏切ったのか、知っている。その覚悟がどれほどつらく、苦しく、けれど尊いものだったか、誰もが知っている。
その彼が弁慶も同じだと言った。凛とした瞳で言った。
そうしてまっすぐに立つ敦盛に、まず頷いたのは望美だった。
「……そう、だね」
頷いて、長い髪をひらりと海風に揺らしながら、一歩前に出て敦盛の隣に並んだ。
「弁慶さん、そういう人ですよね。弁慶さんかヒノエくん、どっちかが嘘をついてるってことになるとしても……、でも……、二人とも、九郎さんに酷いことをしようとしているとは私には思えない。それで、思い出しました。弁慶さん、いつも皆が傷つくのを気にしてた。いつも私たちの怪我の手当てはしてくれるけど、自分のことは後回しで。だから、今回もそういうことなんじゃないですか? 皆を守るために、一人で平家に行って決着をつけるつもりなんじゃないですか? ……戦いを早く終わらせたいってよく言ってたこと、気づいてないと思ったら大間違いなんですから」
場違いな程に声音は軽い、それは鮮やかにヒノエの耳をさらってゆく。突然のことだったのに、こんなに簡単に言ってのける姫君に、敦盛に、ヒノエも言葉を失って、見惚れた。
弁慶も同じだったのではないだろうか。
……そもそも、逃げることなどいくらでもできたと思う。ここで熊野の水軍を叩き斬って行宮へ向かうことくらい彼には簡単だっただろう。
それでもそうしなかったのは……結局、望美たちの、ヒノエの推測が正しかったからに他ならない。
私利私欲のためだけに裏切った訳じゃないということ。
「……君たちは」
挙句、今など言葉まで失う始末、
ああ、この軍師殿は本当に詰めが甘すぎる。しかも不意打ちに弱すぎる。そこで黙ったら認めてるようなものじゃないか。ヒノエは思わず息を吐く。もう子供だましは通じない。
「だ、そうだ、叔父上」
目を細め、声をかけると弁慶はヒノエをまっすぐに睨んだ。秋の京でその姿に恐れをなした、けれどもう怖くない。
通じないと知ったのか、彼は最後に、ただ静かに九郎を呼んだ。
「九郎」
「……なんだ」
「と、彼らは言ってますが、そろそろ決めてくれませんか? 僕とヒノエの言い分、どちらが正しいか。ここにいつまでもいるわけにはいかないでしょう?」
「……お前とヒノエと、どちらが嘘を言っているのか、という話か?」
「ええ」
ここで九郎がヒノエ、と言い切ったらどうするつもりだったんだろう、それだけの勝算があったのだろうか、弁慶はにっこりと微笑んで九郎に言った。
それが彼の一番の誤算だ。
「そんなの、どうでもいいだろう」
「……は?」
「九郎?」
きっぱりはっきり言った九郎に、さすがのヒノエも絶句した。そんな動揺お構いなしで、彼はヒノエと弁慶、双方を見比べながらなおも続けた。
「……ヒノエ、行宮はもぬけの殻だと、お前は言ったな?」
「ああ、そうだよ」
「平家は総門を再び制圧して俺たちの退路を断ち、行宮に着いたところで取り囲むつもりだった。熊野水軍の働きで今でこそ総門にはいないが、それでも大軍をどこかに潜ませて狙っていると」
「そういうこと」
「だが、確かに総門は攻撃されたが、その規模は分かっていない。総門を落としたのは遊撃部隊で、本体はやはり行宮に陣取っているかもしれない。行宮の様子は、ヒノエ以外の俺たちは知らない」
「そうですね」
「だったら簡単じゃないか」
鐙に足をかけながら言う九郎の言葉はあまりにも毅然。
「平家の軍がどこかにある、それは間違いない。それが行宮にあるのか、他の場所にあるのか、の違いだろう? だったらもう少し進んだところで行宮の中の様子を探らせればいいだけだ。ヒノエが正しいならそれを逆手にとって平家を討つ、弁慶が正しいなら、正面から打って出る」
言い切って、その太刀を掲げた。
「行くぞ!」
「おおおーーーー!!」
「九郎!?」
源氏の武士たちがそれに倣い刀を掲げ声を張り上げる中、
「もしヒノエが偽りを言っていたら熊野水軍は敵だ、それがどういうことか分かってないんですか!?」
「平家と熊野を両方相手にしなければならないということか。何、その時は弁慶、お前がどうにかしてくれ!」
と、馬鹿正直に言う九郎に慌てるのは弁慶だけではない。
「ちょっと待てよ九郎、じゃあ、もし弁慶が裏切ってたら、その時は」
「殴る」
なのに、軽く言って、九郎は手綱を握り、先陣をきって行ってしまった。
「まっ、待ってよ九郎!」
「九郎さん!」
そのあとを慌ててついてゆく源氏の武士たち。
呆然と立ち尽くしヒノエが見ている前を、彼らと共に、景時や望美も着いていって。
後には二人、ヒノエと弁慶、それに、おそらく二人を見張るためだろう、リズヴァーンが残った。
「……すごい理屈だな、あれ」
馬鹿もあそこまで行けば、いっそすがすがしい。ヒノエは半笑いで彼らを見送るが、弁慶は明らかな怒りを九郎の背に向けていた。
「……信じられない」
「いいんじゃない? あんたの長年の実績が認められたってことじゃん」
声をかければ、それは純度を増してヒノエの方を向く。まっすぐに。
「……君も随分嬉しそうですね」
「当然だろ、源氏の軍師様の暴挙を止めることができたんだからね」
「このために姿を消したと?」
「当然。戦は準備が全てだろ。望美には悪いことをしたと思ってるけど、結構慎重派なんだよね、勝てる戦にしたいのさ」
歯ぎしりの音が聞こえてきそうな程に睨みあげられれば悪い気はしない。
それを見上げ、ぱさり、と肩にかけた上着を翻しながら、ヒノエは悠然と宣言した。
「よく見ておくといいよ、これが熊野別当の戦いさ」
そう、思い知ればいい。
京から荷を全部とりあげて熊野に縛りつけるつもりはない、
源氏でも平家でも、笑っていてくれるならそれでいい、
馬鹿でも嘘つきでもなんでもいい、ただ、
「オレの叔父上は綺麗であって然るべき、だろ?」
勝手に滅びるつもりなら、何度だって止めてやる。
言いきれば、弁慶は前髪の奥に隠すように目を伏せ、ようやく口を閉ざした。
結局ヒノエの言った通り、行宮はもぬけの殻だった。
踏みこんでいたら間違いなく四方を囲まれ九郎も望美も命が危なかっただろう。全くとんでもないことをしてくれたものだ。ヒノエは彼の周到さに少し呆れた。
その後の決着はあっけなかった。待ち伏せされていることが分かっていて引けをとるほど九郎義経は愚かではない。安徳帝や還内府は既に屋島を離れていたものの、平忠盛を捕え、雷光の如き速さで屋島を制した。
とはいえ、ヒノエと弁慶、どちらが嘘をついていたのか、ということは、現状では全く証明できず、曖昧なまま終わった。熊野水軍が平家に攻撃をしたし、源氏の軍を守ったし、ということでヒノエの無罪は確認されたが、弁慶が裏切るつもりだったのかどうかは、今となっては闇の中。
そういうことも相まって、今回の事は……望美と九郎が弁慶と……何故かヒノエも巻き添えを食って、凄い剣幕で説教された他には特に何もなく、元通りに収まった。
ついでに、ヒノエは勝手にこの策は弁慶が為したものだと、八葉以外の何も知らない兵たちに言いふらしておいた。譲にはやりすぎだ、と呆れられたが、それを耳にした将が賞賛の言葉と共にかけつけてきたときの弁慶のやりきれないといった、憮然とした顔が見れらから、ヒノエとしてはご満悦。
矜持の高い叔父上だ、これに懲りてもう裏切りなどたくらまなければいいと思ってやったことだったが、ヒノエよりも行動力があって素直な神子や譲や白龍がそろって弁慶を監視するものだから結局要らぬ心配だったようだ。さすがの彼も諦めたのか、おとなしく怪我人の手当てなどしているうちに、源氏の船は屋島を離れた。
もちろん熊野の水軍も一緒だ。賑やかな彼らが加わり、一気に活気づいた源氏勢をヒノエはご機嫌で眺めていたが、それを見、呆れたように、まるで負け惜しみかなにかのように船の上で弁慶はぽつりと言った。
「……君が京を離れたのは、熊野を守るためだと思ったのに」
それは海に呑みこまれる事を見越した独り言だったのかもしれない。ヒノエが振り返った時、彼は少し驚いたような顔をした。
「なにか言った?」
聞こえてなかった振りで問う、それも嘘だと筒抜けに、弁慶は少しいらだったように、改めて口にした。
「九郎が頼んでも動かさなかった癖に、今更源氏に恩を売るつもりですか?」
「言えてるね」
そういえばそんなこともあった。夏の事を思い出しつつ、
「でも、屋島でも言ったけど、九郎のことなんてオレはどうでもいいんだけどね」
案に弁慶は違うんだと言ってみせれば、ますます不機嫌な顔をした。
「水軍を引き連れてくるなんて。敵が平家だけだと思ってるんですか、君は」
「……言いたいことは分からなくはないよ。確かに熊野だって一枚岩になった訳じゃない、オレがいない隙に頭領転覆を企てられるかもしれないね。でもだからって、ただ守りに入ってるなんてオレには向かないし」
「君が大事なのは熊野でしょう? だったら身の程に」
「あったこと以上をすると、必ず面倒なことになる……だろ?」
散々聞かされた説教に口を挟むと、叔父上はますます眉を寄せる。
「だったら」
それはきっと、彼の人生の裏返し。
屋島での敦盛や望美の言葉を聞いて、ああもしかして、と、思った。
京を弁慶が穢したという噂は本当だったのかもしれない。過去の彼が、身の程をわきまえずに何かをしようとして、そんなことをしたのかもしれない。
だから、それ以外の全てに、熊野にも、九郎や望美にも、もしかしたらヒノエにも背を向けて、一人で平家へ行こうと思ったのかもしれない……。
全ては推測だ、それでも、
「分かってるよ、だからそのありがたいお言葉に従って、今回だって敦盛を巻き込んだんだけど」
「……それは偶然うまくいっただけで、毎度同じとは限らない」
「確かに、そうかもしれない。肝に銘じておくよ、でもね弁慶、分かってないのはあんたの方さ」
確信があった。
きっぱりと言い返すと、弁慶はつまらなさそうな顔をする。それにためらうことなど、ありはしない。
「あんた一人を奪還することの、どこが身の程以上だっていうんだよ? 源氏と平家に板挟み、ってならともかく、惚れた相手と熊野を両方守るなんてこと、ちっとも大袈裟じゃないだろ、侮ってもらったら困るよ」
だったらなおさら、無力を言い訳に諦める姿を、彼の目前にさらしたくなんかなかった。
潮風を背に受けながらヒノエは言い切る。弁慶はなおも表情を変えない。挙句、ふう、と小さく弁慶は溜め息をこぼした。
「そんなことの為に……君のお陰で、屋島でまた人が死んだ、僕が裏切ればもっと被害は少なかったのに、あれでは怨霊がまた増えてしまう」
「ああ、やっぱりそういうことだったんだ」
ようやく分かった動機ににやりと笑むと、海風に外套を重くひらめかせながら弁慶は更に呆れた顔をした。
「分かってなかったんですか?」
「分かるわけねぇだろ、そんなの」
「本当に呆れた」
「……でも、知ってても変わらなかったと思うよ、……怨霊になった人たちには同情するけど、だからって、オレはあんたが死ぬのを見過ごすわけにはいかなかったし」
弁慶は本当に強情だ。これだけ口説いてみせたって、とことんこちらを見下した、まさに叔父としての表情が崩れることはなく、説教も止まらない。
「だから君は甘いっていうんですよヒノエ。気の多い君のことだから、その調子ではいつ身を滅ぼすことか」
「言ってくれるね、でもその時はその時じゃん? あんたがこの世から消えて後悔する方がよほどオレには不似合いだと思うよ」
通り抜ける波音や帆を打つ風の音に乗せ、さらりと口にする。
弁慶はいよいよ酷い顔をした。
「恋だ愛だの知った風な口をきくものじゃないですよ」
「あんたこそ、オレがいつまでも子供だと思って見てると足元さらわれるよ?」
「子供ですよ、ええ子供です」
その顔をみて、どっちが子供だよ、と、つい口を出しそうになる。なのにそれより先に、黒の外套が頭からふわりと落ちて、
「だからこんな風に、僕を追ってきてくれたんでしょうね」
眩しい陽射しの元、不意打ちで微笑まれたら、こっちが後ずさるしかなかった。