ところが、彼の帰る場所は京でさえなかった。
熊野は源氏に与しない、けれどヒノエは個人として望美に同行する、そう宣言した後、ヒノエや神子、八葉は京へ帰還、その後福原の酷い戦いも経て、また京へと戻ってきた。
自分の気持ちに気がついてどうしたか、といえば……情けないと自分でも痛感しつつも、叔父の普段通りのいわゆる「優しそうな微笑み」を見るのがどうにも恐ろしくて……なんというか、彼が口にした言葉に例えるのもますますふがいないけど、「面倒なことに首をつっこむな」という教え通り、底の見えない彼の様子に、なんとなく距離をおいていた。
それは向こうにもお見通しだったと思う、間違いないだろう、なのに弁慶はあれ以来、なんでもなくヒノエに接してくれたからよかった。そういうところばかり年上を感じた。
その彼が、ある日突然共も付けずに街へ出るといった。
彼が街へ赴くのはよくあることだ。
源氏の軍師で薬師で、情報、薬草に加え、書やら仏像やらを集めてくることさえも好きな彼だ、むしろ外にいる方が普通に思えたけれど、どうしてかその時は、妙な勘が働いた。
きっと街で「弁慶が京を滅ぼした」なんて物騒な噂を耳にしたからだろう、挙句、本人自ら、望美や九郎が止めるのも聞かずに、
「噂の出所を確かめてきますね」
などと言って出ていってしまったせいもあるのだろう。
そんな噂放っておけばいいのに、とヒノエは思ったけれど……そういえば叔父上はやられたことは倍返しが基本だったな、なんて思い出せば懐かしく……同時に胸が痛んだ。
だから、って訳ではないけれど、自分の勘は信じることにしているヒノエは彼をこっそり尾行することにした。
とはいえひらひらと揺れる黒い影を散々追いかけまわしてみたものの、叔父上は街の中をくるくると回ってばかりで特に噂がどうのうとか、物騒なことをする気配はなかった。
帰ってもいいのだろうか? とも思ったが、どうも予感が晴れない。こういうときは徹底的についてゆくのがヒノエの心情。気のすむまでやるのが妥当。ヒノエは影に隠れなおも付きまとう。こういったことは得意だったからなおさら自信があった。というか、半ば執念に近かった。
そのかいあったのか、夕暮れ時、確か、夕飯までには戻ります、などと言っていたくせに、それまで街の中でのんきに買い物などばかり繰り返した弁慶は、するすると梶原邸とは反対の方向へ歩き出す。
京の西。随分な街はずれ。
嫌な予感は的中したらしい。ヒノエの心は鼓動を早める。まるで熱でもあるかのように汗ばんで、妙に気持ち悪い。
そのままついて行けば、弁慶はよりにもよって、それはどうみても源氏の人間ではない風貌の男と会っていた。……まさか、平家? 向こうの敵をこちらに引き抜こうとしているのか?
思いつつ、話を聞いていたら、違った。
「では、僕の事は話は通していただけているのですね」
「はい。一族皆が受け入れているわけではないですが、清盛様の耳には」
「十分です。ありがとう」
それは……どう冷静に聞いても、ある結果しか導かないのではないか?
眩暈がした。八葉であるのに……八葉としての役割を誰より知っているはずなのに?
望美や九郎にあんなにも信頼されているというのに?
全身が焼き焦げるようだった。冷静にならないと、話をきちんと聞かないと、思うのに、留められない。
それはヒノエに与えられた八葉としての力である炎のように膨れ上がって、
「……何しようとしてんの?」
それでも、そう声をかけたのはきっちり辺りに人影がなくなってからだったのは、よく耐えたと思う。
赤い景色、負けぬほどに燃えたぎる心を抑えヒノエが低い声で呼べば、弁慶は黒の衣を翻しくるりと、ゆっくりと振り返った。
瞳は冷徹、赤い陽を背にした彼は白く、綺麗だった。微笑みはとても恐ろしい顔をしているように見えた。
「裏切るんですよ」
挙句、きっぱりとはっきり言い切った。じり、と拳を握りしめる。
「……随分はっきりと答えてくれるね、オレにばれても大したことないって?」
「ええそうですよ。これが景時だったら話は別かもしれませんが、君は熊野別当、余計なことをする力はない」
これが事実なら自分は軽視されているということになる、けれど、分からない。
普通に考えればむしろ冗談だと取るべきだ、なのにもうそんなこと思えなかったのは、きっと彼の瞳は冷徹なままなのに、すっかりといつものように笑っていたりするからだ。
過るは夏の熊野。為す術もなく、ただ彼が本を手に遠ざかって行ったのを見ていたあの日。
些細な出来事、でもヒノエにとってはそうではない。
「本当にそう思ってるの?」
それをなおも踏みにじるように弁慶はただただ笑う。一歩、二歩と近づいてくる。
「思ってますよ、思ってますとも。君こそ自分ごときがこの流れをどうにかできるとでも?」
目が離せない、離すのが怖い、だって、彼はまるで綺麗で、
もしかしたら、相手にされていないのではなくてここで、
「さあ? できるかもしれないんじゃない? 例えばここであんたを説得するとか」
殺されるんじゃないか? ヒノエは息をのむ。
弁慶はそんなヒノエを見、一度ゆったりと瞬きをした。否、もしかしたら一瞬だったのかもしれない、けれどそれは随分と長く感じられた。
そして再び彼がヒノエを直視したとき、今までよりも更に別の人のような、恐ろしい形相になっていた。
「思い上がりも甚だしい」
嘲笑うように弁慶はゆったりと近づいてくる。
揺れる黒、まるで影に呑まれるかのようだった。さっきまでとは段違い、
「一人でできることなどたかがしれているのですよ、ヒノエ。何の犠牲も出さずになど、そう、そんなのはしょせん、夢物語」
このままでは本当に、視線だけで殺されかねない。ヒノエはあえて笑い飛ばす。
「夢物語? ……言ってくれるね、夢ってのはオレにとっては実現させるものなんだけど?」
言いながらも洒落にならない状況だ、ヒノエはしっかり身構えた。薙刀は警戒していた。けれどその間合いを超え踏みこんできて、
予想外に、腹に一発、素手で飛んできた。
景色が前に流れて、かわりに背中に衝撃。
「だから君はいつまでたっても子供なんですよ。少しは成長したかと思いましたけど、」
丁度背後に伸びていた大木にぶつかってヒノエは止まった。息もとまる。その間も黒い彼は近づいて、ヒノエを釣り上げ喉元を木に抑えつけながら、
「腹立たしい」
と、口にした。
それはこっちの台詞だ、思ったけれど息が詰まってうまく言えない。
「君の思い上がりで君一人が痛い目に合うだけなら構いませんけど、紛いなりにも熊野別当、余計なことをされたら困るんですよ、大人しくなさい」
「……へえ、説教、久しぶりだね、ていうか、何、そんなに、怒ってんの?」
それでも彼に、彼だけには弱みを見せたくないという意地だけで、睨む目をはねのけるように笑いながら弁慶を見下ろす。いつもと逆転した身長差、
「……いい眺めだね」
挑発するように言うと、首を絞める力が強くなる。
「ああ、目撃者隠滅で、口止め?」
同時にまずは逃げなければ、と、ヒノエは口先でごまかしながら画策するけれど、どうにも不利だ。ぐいぐいと締めあげてくる腕を掴めどびくともしない。荒法師だとか九郎義経とやりあったとかいう過去の実績はヒノエが思っていた以上だったようだ……それに、今でもなおあの優しい過去の微笑みに騙されているような気さえする。こんな姿を目の当たりにしたというのに!
とはいえこうなったらヒノエの武器は口しかない。余裕を装ってなおも笑えば、弁慶は眉をひそめた。
「……口止め?」
「ああそうさ、非情な軍師殿のことだから俺をここで酷い目にあわせてくれるのかと思った」
それにしても逆光の荒法師殿は恐ろしい。恐ろしい程に綺麗に笑う。
「酷い目、ですか?」
ごくり、と、唾を呑んだのは多分、彼の視線に圧されたからだけじゃない。
「殺したりしたら八葉が欠けてしまうし、見えないところを殴りつけるのも多分、白龍あたりにはばれそうですね。治療するのは僕だし、それも馬鹿馬鹿しい。だったら、凌辱でもすればいいのかな? 服を剥いで、無理矢理痴態を引きずり出して脅せばいいと?」
彼の笑顔は偽りだと知っていた筈だった。
けれど多分、結局のところ、認めたくなかったのだろう。
「そんなこと、君にしたところでそれこそ無意味でしょう? それを君は望んでるのだから」
なんて、意地悪く楽しそうに言う人間だとは、知っていたけれど多分、どこかで思いたくなかったのだ。
「てめえ」
「本当のことでしょう、気付いてないんですか? 君が?」
挙句、にやりと……本当に歪んだ、虐げるような微笑みで、ヒノエの下腹部をざらりと触った。
「っ!」
陰湿で意地の悪い触れ方だったとはいえ、あり得ない程に体が震えあがった、ぞくりとして、同時に嫌悪した。反射的に足が出た、腹を狙ったつもりだったけれどやけくそな一撃は空を切り、代わりによりにもよって弁慶の手に囚われる。
「生意気って言われたことないですか?」
「あんたこそ性悪って言われたことあるだろ?」
「褒めてくれるんですか? 軍師冥利につきますね」
墓穴とはいえ絶体絶命。自慢の武器である言葉さえも紡げずに唇を噛みしめる。
けれど、幸いなことにそれにせせら笑いながら弁慶は両方の手を離した。どさりとヒノエの体が大地に落ちる。
「……」
睨みあげた。そんなヒノエを見下ろしながら弁慶はくるりと衣を返した。
「待てよ」
もう微かになってしまった空の紅が金の髪に映り輝く。こんな状況なのに目を奪われる。
綺麗だった。見とれる、それこそ彼の言うとおり、もうどうにかしてくれても構わないと、そんなことさえ思うほどに、けれどそれも刹那、
「おとなしくしてなさい。無駄に熊野の国力を落とすなど、許しませんよ」
夜が降る。赤も何も全ての色彩は消え、目の前にいた男も黒の衣と共に闇に溶けてしまった。
「……よく言うよ」
彼が離れると同時に酷い吐き気がした。
追いかけるなんてできる筈がなかった。
冬と春の間節、雪と花が同時に落ちる本宮大社の庭に背を向け、
冷たい空気など気にも留めずに戸は開け放つから、ひどく寒い、
指先さえもかじかむようなところでただ、火鉢だけを共にして、書物の頁をひとつひとつめくっている、
誰も彼に声をかけない、それはもうずっと熊野では暗黙の了解で、彼は何食わぬ顔でいつも書を読んでいたものだけど、ヒノエは大抵それに臆することはなく声をかけた。
すると彼は顔だけこちらに向けて、言うのだ。
「どうしました?」
なんでもなく、いつも同じく優しい顔で笑う。
静かにすぎる時間。それ以外の一切を持たず、彼はそこにいた。
きっと、彼に触れたいとずっと思っていた。
最初はただ彼の孤独が不思議で仕方なかった、だから彼に、年長者の特権で散々騙されいじめられからかわれ搾取されても近づくことをやめることはなかった。
再会して日々を過ごしていくうちにそれはどんどんと重みを増していった、
きっと思い出の彼が目の前にいるからだろう。
彼がどれだけ望美や九郎に向けて微笑んでいても、冷たく横を通り過ぎて行っても、ましてや殴られようとも、結局記憶の中の後ろ姿だけは、いつしか名前を変えていた感情は消えることがなかった。
遠い日々、書をめくる指先やかすかな音、風に揺れる柔らかな髪のひとつひとつさえも過るようで、
熊野に残したものをヒノエから奪うように連れ去ってしまった、あの日の風の生温かさまで思いだせるようだった。
かわした言葉は数多く、全てを覚えていなくとも、この身に刻まれて揺るがないことだってある。
夏の日以降混乱して見失っていた。
あの広い部屋で一人、静かに書を辿っている彼を見るのが好きだった。
小さく何も知らないヒノエに彼の姿はとても不思議なものに見えた。
熊野のことならなんでも知っていると自負していた少年だけれど、その黒い影はまるで異世界。
そうして本から顔をあげて、ゆるりと微笑んでくれる彼が好きだった。
それが作り笑いだと知ったのはついこの前で、
彼の性格の悪さを痛感したのはたった今で、
けれど多分遠い昔から知っている。彼はただちょっと意地の悪いだけの、ただ優しい人間なんだってことは知っている。
簡単なことだ。だって、熊野の男はいつだってそういうものなのだ。
だからそう、もし九郎や望美が分からないとしても、ヒノエの目は欺けない。
言葉で傷つけようとも一過性、冷たさに驚いてもいずれは溶けて通り過ぎ、温かな気持ちだけが残るのだ。
「このオレ相手に口止めしないなんて……詰めが甘ぎる、軍師失格なんじゃない?」
故に、見過ごすわけはないだろう?
人畜無害な幼い甥っ子相手に綺麗に作り笑い浮かべて誤魔化してたような馬鹿が、今更何のために源氏を、神子と龍神を裏切るっていうんだ?
ヒノエはひとり拳を握りしめる。爪が食い込む程に、痛みなど、さっきのあの刺すような目に比べたら、感じない。
「……ぶん殴ってやる」
ヒノエの記憶の中で弁慶はいつもただ綺麗で優しかった。
あんな、自分を貶めるような笑い方をする弁慶に、ヒノエは用なんてこれっぽっちも持ちえないのだ。