冬と春の間の季節、雪と花が同時に落ちる本宮大社の庭に背を向け、
冷たい空気など気にも留めずに戸は開け放つから、ひどく寒くい、
指先さえもかじかむようなところでただ、火鉢だけを共にして、書物の頁をひとつひとつめくっている、
誰も彼に声をかけない、それは暗黙の了解で、いつ始まったとも知れぬことであったけれど、ヒノエはそれを気にせず彼の名を呼ぶ。
すると彼は顔だけこちらに向けて、言うのだ。
「どうしました?」
なんでもなく、いつも同じく優しい顔で笑う。
静かにすぎる時間。それ以外に何も持たずに彼はそこにいた。
ヒノエの叔父、弁慶は小さい頃に熊野を出たという。
別当だった父と彼との仲は良好だったけれど、他の身内とはそうでもなく、叔父はあまり熊野に寄りつかなかったので、親戚といえど数える程、おそらく、片手と少しで足りる程しか彼と顔を合わせたことはなかった。
なのにたったそれだけでも、ヒノエにとって弁慶という人物は忘れることなど到底できぬほど鮮明な存在だった。
何故なら彼は来るたびに面白い土産物や噂話などをヒノエにたっぷりと持ってきてくれたから、ということもあるが、それと同時に来るたびに散々とヒノエを苛め倒してくれたからだ。
世の姫君が言うには「優しそう」というその微笑みで……実際ヒノエにだってそう見えたっていうのに、8つ年上の叔父は口を開けばろくでもない嘘ばかり吹き込んだ。調子のいい事を言ってヒノエの好物を取り上げたり、間違った文字も教えられた、姫君を口説いていれば横から割り入り邪魔もされた。
しかも、散々なことをされた挙句、いつだって彼はいつのまにか消えてしまって、いつだってヒノエは一方的に逃げられてばかりいた。
関わると酷い目に会う叔父、それが主な弁慶の印象だったけれど、それでも結局、世間の姫君と同じように「優しそう」というその微笑みになんとなく騙されて、ヒノエはどうしても彼を嫌うことができなかった。
だからそう、不覚にも、そう不覚にも、春の京、何の因果か彼とばったりと再会してしまったとき……長い髪をさらりとなびかせ、すらりとした足を惜しげもなくさらし、なにより花よりも華やかに笑う可憐な姫君に巡り合えた時も、彼女よりも、隣で笑っていた叔父を見てしまい、
異様な再会と似合わない組み合わせに驚きつつも、ヒノエは懐かしさに言葉を失ってしまった。
とはいえそれは一瞬、そんなヒノエとは裏腹に、彼の方はあっさりと、淡々と口にした。
「ああ、君も八葉なんですか」
隣の可愛い姫君とは対称的なその言葉。それだけで途端、懐かしさも柔らかな印象もあっさりと崩れさる。風情も桜も、なにより姫君が台無しだ。だから、
「あんたがいたのか、最悪だな」
再会するなり出たのは、結局そんな本音だった。
彼と会うのは三年ぶりだった。
一年前くらいにもう一度熊野を訪れていたようだが、その頃ヒノエは交易の為に宋へ出向いていたから詳しいことは知らない。その後はヒノエも別当になってしまって余裕もなにもなかったものだから、本当に久しぶりだった。
「知り合いなんですか、弁慶さん」
「ええ、少し」
姫君に向き直った彼の黒の衣がふわりと揺れた。
なんとなく目を奪われるけれど、
「不思議な縁もあるものですね」
再び向けられた言葉に視線をあげれば、叔父上は悠然と微笑んでいたものだった。
「これからは八葉としてよろしくお願いしますね、ヒノエ」
告げられる言葉も春の風ほどに柔らかで、
言葉にしてたったの二言、三言。黒の下から覗く微笑みひとつで彼の記憶はまた色を変える。
熊野での彼。
叩きのめされた思い出と同じ程に忘れられない景色がヒノエの胸には残っていた。
言葉よりも鮮明な本をめくる指先やかすかな音、風に揺れる柔らかな髪のひとつひとつさえも過るようで……、
「ヒノエ?」
脳裏に降り積もる記憶は、けれど叔父上の声で遮られる。
不思議そうな彼を見……、結局、ヒノエは複雑な心地で、腰に手をあて諦めたように笑った。
「これも何かの縁なんだろうね、ま、あんたはともかく神子姫様のお役にたちましょうか」
「ええ、僕たちの神子のために」
こちらの心中を知ってか知らずか、雪降る春以来の再会に、弁慶は随分と麗らかな笑みを浮かべていた。
そうして突如八葉と宣言されたヒノエは、白龍の神子、望美に連れられてそのまま源氏の戦奉行である梶原景時の家に居候することとなった。
丁度源氏とか平家とかの動向も探っていたところだし、何より神子姫様たちは可愛らしい。一石二鳥、否、それ以上だと始めた生活はそれなりにヒノエにとって楽しく、日々はやはり慌ただしく、滑るように過ぎていった。
そんなある日。
ヒノエが何気なく景時の邸をふらふらしていると、ふと、見覚えのないところから闇が覗いていた。
特段、景時の家を探っているなんて無粋なことはしていないが、それでも普段あまり見たことない場所にぽっかりと開いた間、開かれた扉。
なんだろう、と何気なく覗いたのは純粋に好奇心、が、見るなりヒノエは後ずさる。
中には部屋を覆い尽くさんばかりの書、巻物、仏像、等など見るからに怪しげなものが山となって積まれていた。
「うわ、」
その量はヒノエには全く共感できないほどで思わず声が出る。けれど、
「ヒノエくん?」
たまたま後ろから景時がやってきたものだから思い出す。
ここの家主は陰陽師だった。こういうものも集めたりするのだろう。
「凄いもんだね」
……神職であっても自分には無理だな、なんて思いながら、素直な感想を言うと、けれど景時ははは、と気さくに笑った。
「違うよ、それは弁慶のだよ」
「……はあ?」
突如飛び込む耳慣れた名前、不意打ちに鼓動が跳ね上がった。
「比叡にずっと置いてたものをいい機会だから引き上げてきたんだって」
景時の説明にヒノエはもう一度そちらを見る。
山だ、まさしく山だ。これは他人の家に置いていい量じゃない。
「……だからってなんでここに」
「まあ……」
景時と弁慶はこんな、荷を置く置かれるな程に仲がいいのだろうか?
ヒノエがここへやってきてから数日。神子たちや叔父上とともにこの邸で彼らの人となりを見てきたつもりだったけど、そこまで親しかったのは意外だった……とはいえ口ごもり複雑そうな景時の顔を見れば、単純に押し付けられたのかもしれない。
「ここが一番置きやすかったんじゃないかな。というか、九郎の家にもあるしね……」
「まだあるのかよ」
ヒノエはもう一度その山を見た。それにしても凄い量だ。
そういえば、弁慶は何度か熊野に来た時、いつも帰りは膨大な荷とともに去っていたような気がした。
「集めるのが好きなんだって、こういうの」
「へえ…」
けれど、叔父が熊野に来るときに荷を持ってきたことはなかった。
だから、ヒノエはその山のような『お宝』を見て、素直に思ったのだ。
「そんなにあるなら熊野におけばいいのに」
なのに、その数刻後に本人とすれ違った時に直接言ったら、
「結構です」
の一言で片付けられた。
「なんで? うちなら広いじゃん?」
「あの家に物騒なもの置けませんよ」
ヒノエの提案はさらりと流され、
「結構厄介なものも多いですからね」
とだけ告げた彼はあっけなく立ち去ろうとする。
……それはごく普通の、普段の彼そのものにヒノエには思えた。
なのにどうしてか、どうしてかヒノエは通り抜ける彼を振り返り言葉を紡ぐ。
「今更それ言う? あんた自体が穢れじゃないの?」
冗談と本音が半々でそう告げてもさらりと弁慶は笑うばかりで、
「そういうことを言うものじゃない。神職失格ですよ、ヒノエ」
「それこそあんたに言われたくないね」
「……中身がどんなものか君は知らないでしょう? それなのに簡単に言うものじゃないですよ、神域が穢されたら君じゃどうにも手に負えないのだから、面倒なことに首を突っ込んでいくのは感心しませんよ」
と、結局そんな風に断られた。
そう、多分、断られるなんて思ってもみなかったのだ。昔馴染みだという九郎ならともかく、景時の家にまで厄介になるくらいなら熊野で預かるのが当然だと思っていたのだ。
だから素直に聞いただけだった。
別当として懐の大きさを見せておこうとか、源氏の軍師殿に借りでも作っておこうとか、なにより景時に迷惑かけるっていうのが熊野の棟梁として気になったとか、そんな魂胆も全くなかったとは言わないけれど、どれをとってもヒノエにとっては「そんな程度」のことでしかなかった。
なのになんだか、あっけなく断られた姿は、
「……他人みたいじゃん」
そんな風にヒノエには映った。
とはいえ、今は八葉同士、こちらの都合で素性は隠している……、
だからそう、ヒノエはただ、自分がひとりで勝手に期待した、それを裏切られて傷ついた、その程度のことだと思って、その時は忘れた。
だけどそんなの、八葉だからとか、本当はそんな理屈ですらなかった。
ヒノエにとっての彼は熊野で静かに過ごす叔父でしかなかった。
八葉としての弁慶でも、源氏の軍師でもなんでもなかった……だから、そんなの当然な筈なのに。
月日は巡った。怨霊は京にはびこっていたし、三草山では戦に駆り出され、その他にも小競り合いだとかなんだかんだとやっているうちに、毎日が勝手に過ぎていった。
こっそりと別当としての任もこなしているからなおさらだ。姫君とももっと遊んでいたかったけれどなかなか体が開かず、再会した敦盛とも大して言葉をかわせず仕舞い。
そのうちに、ヒノエは彼らと熊野へ帰還することとなった。
夏の熊野。
ずいぶん不思議な巡りあわせの末の帰省はいわくつきで怨霊やら源氏やら、一通り面倒ごとと一緒で、ようやく本宮大社まで辿りついたころにはヒノエですらくたくただった。
彼でこうなのだから神子姫たちはもっとだろう。だから九郎に「源氏の味方はできない」ときっぱり告げたあとはしばらく皆をもてなすからってことにして、数日滞在してもらうことにした。
九郎は怪訝な顔をしたけれど、彼にだって最早断る理由はない。他には誰も反対しなかった。
そうして彼らは二日、三日、と過ごしてゆく。
ヒノエはやはり別だった、ここでも慌ただしくしてばかりで、神子姫を案内する役割さえをも敦盛にすっかりとられた、そんな日々、
いい加減息抜きもしたいと社を抜け出し一人で木陰で涼んでいた時、そういえば、とあの部屋を思い出した。
広い敷地の中でも家の者しかよりつかないような離れ。そこの一角。
広いのに、物のない部屋。およそ生活に使う道具はない。いわゆる特定の人間専用の客間のようなものだった。
二方の蔀戸を上げると、風が巡りヒノエの髪を揺らす。
広い、というよりは空虚。その中をヒノエはひたひたと歩く。
隅にたどり着き、しゃがむ。そこにはひっそりと書が5冊ほど山積みになっていた。
もうヒノエからしてみたら遠い昔だ。
それでもこうしていれば思い出す黒い衣の後ろ姿。
彼は……8つ年上の叔父は何度も熊野にヒノエの父に会いに来ていたけれど、彼と、子供でも分かるほどによからぬ密談をする時以外は大抵この部屋で書を読んでいたものだった。
それをひっそりと覗き見るのがヒノエは好きだった。
他の場所では彼に出くわすなり声をかけ、散々な目にあっていたヒノエだけれど、この部屋ではどうしてか、少しだけためらった、それを思いだした。
最後に目にした冬はもちろん、春、夏、秋、一年の様々な季節に彼はここで過ごしていた。
記憶と共に季節がめぐる。
小さな卓に向かう、凛とした背中。
見つめていれば、次第にヒノエはどこか寂しさを感じていた。
なのに名を呼べば彼はいつだって振り返って微笑んだ。
微笑んでいるからただ安心していた。安心して、ヒノエは彼にまとわりついた。
何の書? と問えば彼は微笑み史書ですよなどと答えた。
「あいつ、ここ覚えてるのかな?」
ふとつぶやいた。ひとりごとだった、けれど風のいたずらか、それはここの主代わりを呼んでいた。
「覚えてますよ」
声に驚き振り向いた、けれど姿はない。叔父は既にヒノエの横を通り抜けて部屋の中に、そういつも彼が書物に没頭していたあたりに立っていた。
「……いたのかよ」
「ええ、いましたよ」
佇んで、くるりとあたりを見回す。その仕草は昔を偲ぶものだ、
「懐かしいかい?」
「そうですね」
でもその後ろ姿は凛として、どこか声をかけずらく、
「へえ、あんたでもそんなこと思うんだね」
かける軽口さえさえない。
それでも弁慶はヒノエに向き直った。
その微笑みはあの日と同じ、昔のヒノエが好んだものそのものだった。なのに、
「失礼ですね、ヒノエ」
目にした途端ぞっとした。
「僕だって熊野には色々思い出があるんですよ」
それはおそらくあの日と同じような柔らかで、穏やかな笑みだった、なのに今見れば分かるのだ。
二人の間を静かに風がふわりと流れる。場違いな程に熱を帯びた初夏の風が、目前の叔父の前髪を、衣ごと重そうに揺らす。
その向こうの叔父の笑顔はどうしようもなく綺麗だった。
綺麗なのは偽りだからだ、
心が少しも笑ってなどいないからだ。
途端、すべてが崩れ落ちるような気がした。
すべての記憶が、思い出が、笑顔も、ヒノエの心さえも歪む。
ここに来なければ、同じ場所でこうしていなければ分からなかったかもしれない、だって少なくとも幼いヒノエなど簡単にすり抜け続けていた、
通り抜けて感覚だけを残す。春のような微笑みは記憶の深底に冬の冷たさだけを残す。
ああ、幾度となく見つめてきた黒の背中はきっとそれゆえに近寄りがたく、
それゆえの孤独。
それは刃に似ていた。目は口ほどに物を言う、蘇る三草山、まるで戦場の軍師のような鋭利さで、懐かしいのがお前一人だと否定する。
だってそれは、
言葉を失ったヒノエに構うことなく、弁慶はすたすたとヒノエに近づいてきた。
ぞくりとした。反射的に身構えたが、なんていうことはなく、弁慶はヒノエのすぐ隣、埃と共に積んであった書物をがばりと全て抱えて立ち上がった。
はじかれたようにヒノエは彼を見上げる。
「あっ」
「なんですか?」
その声音はすっかりといつもの彼だ、なのにひどい寒気はとまることがない。
「……それ、どうする気?」
無理矢理言葉にする。弁慶はなおも微笑んだ。
「持っていきますよ。ここにあっても仕方ないものでしょう」
黒の下から覗く目は全く笑っていなかった。今までで一番距離を感じて、
『熊野には色々思い出があるんですよ』
言葉がよぎった、理解した、
凍りついた、その刹那の隙に、何食わぬ顔で彼は横をすりぬけた。
「まっ」
とっさに呼び止める。……けれど呼び止めてどうする?
それをお見通しなのだろう、弁慶はにっこりと笑っていて、ヒノエは悔しくて顔が赤くなる。
「勘違いするまでもないと思いましたけど」
言葉は冷たく、ゆるりと笑む姿は残酷な愉悦。
「僕が熊野に近づきたいと思うはずないじゃないですか」
と、完膚無きまでにヒノエを封じ、彼はするすると足音も立てずに遠ざかる。
その姿はまるで亡霊、もしくは怨霊。熊野に、神域に立ち入れないといった言葉さえも繰り返されるようで、
「じゃあ、京ならいいってのかよ……」
吐き捨てるように言った。
荷を持ち去ろうとする、ということはつまり、彼はもう熊野に戻らないつもりなのだろう……この場所との関わりを断ち切りたいということなのだろう。
この部屋とのそれが嫌だとはっきり思った。
ざわりと心が波を打つ。こんな時になってやっと思い知るのだ。
ヒノエはとっさに彼を追う、乱暴に外套を引っ張り振り向かせる。
体勢を崩した弁慶は目を見開いて書をひとつふたつと落とした。それをヒノエは拾いあげようと身をかがめ手を伸ばす、
なのに、
猫かなにかにするように背後から襟元を掴まれた。
「……興味ないでしょう?」
「読むかもしれない」
苦しいと思いつつも返すが、やはり通じない。
「まだ分からないんですか」
声は穏やか、ゆるりと顔をあげると表情も穏やか、なのに、力だけはめっぽう強く、
弁慶はひょいと、本当に猫でも扱うようにヒノエを放り投げる。
「八葉と別当と、そんなに忙しいのに、君に悪影響を与えるようなもの、叔父としては見過ごすわけにはいきません」
板張りの廊で思い切り腰を打ち、痛みで顔を歪ませながら彼を見上げると、弁慶はなにもなかったかのようにするすると、再び背を向け歩き去って行った。
ヒノエはただそれを見つめていた。
事実は心に落ちてヒノエを大きく揺さぶる、
ヒノエの記憶の叔父を……ヒノエをからかっては笑っていた彼や、あの寂しそうに見えた黒い後姿を水面に映して揺らしてゆく。波紋は広がり、きらきらと細かく光を映しては全てを消し去ってゆく。
ヒノエは遠ざかる叔父を見つめていた。
ありし日の彼が消えてゆくのに、今の彼など何も知らなかったというのに、
こんなに唐突に思い知るなんて思わなかった。書を奪おうをすること、彼との絆を求めるなど考えるのは、それは。
見送りながら唇をかみしめていた。ぽたりと板間に血が落ちた。