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(2)

 今は戦の真っただ中、きっと機会は直ぐに訪れるだろう、そう思ってはいたヒノエだけれど、本当にすぐにやってきた。
 ヒノエが京に住み着いて二月ちょっと。最初の戦、三草山。
 気を引き締めなければならん、なんて、九郎は過剰に緊張していたようだけど、軍事殿が集めていた情報を横からちらりと覗き見していた限り、戦力に大差はない。その上京を落としたい平家に対して、山越え来る彼らを追い返せばいいだけの源氏。楽な戦いになるだろう、と、部外者であるヒノエは気ままに思った。
 だというのに、当日、いざ戦場へとさしかかったところで、
「このまま進んだら駄目だよ!」
と、いきなり言ったのは神子姫だった。
 九郎も軍師も、もちろんヒノエも驚いた。確かに彼女の剣の腕はたつ。けれど戦術に関しては特別目立った風にも見えなかった望美がいきなり軍策に口を挟んできんだ、無理ない。けれど彼女の様子は尋常じゃなく、結局「偵察するだけすればいいんじゃないかな」という戦奉行に連れだって見に行ったら実際に予想した場所に平家の陣はなく、ヒノエたちは再び驚いた。
 源氏軍は奇襲を免れた。
 それは神子姫様のお手柄。大したものだね、と、素直に感心したけれど……だったら、ヒノエも案がある。

「あんたたちは平家を落としたいんだろ? だったらここは置いといて、このまま福原に攻め込めばいいじゃん」
 言うなり、再び九郎が、そして軍師も驚いた。そんな事全く考えていなかったという顔で。そうだろう、これはヒノエが身軽な部外者だから言えることだと、自分でも思う。現に景時は猛反対された。
 でもヒノエは無責任にそんなことを言った訳じゃない。軍師にいいところを見せたいという欲目もあったのは認めるけど、それより本当にそれが上策だと思ったから言った。争いなんてとっとと終わらせるに限る。
 具体的にどうすればいいのかまでは、地の利もなければ騎馬部隊を捌いたこともないヒノエにはなんともいえない。だけどそれこそ……この叔父上ならどうにでもするに違いない、と決めてかかっていた。できないならそれまでのこと、ヒノエの期待が過剰だったと認め、また新しい恋を探すだけ。
 でも結局、軍師は将を促して、福原を攻めた。その手際はヒノエが望んだとおりに着実で、その夜のうちに九郎は見事、雪見御所を制圧、三種の神器こそ逃したものの平家の重鎮も何人か捕えた。
 それは数日のうちに京はおろか、熊野や鎌倉にまでとどろく程の大勝利だった。


 雪見御所を落として二日の後。九郎たちは慌ただしくしていたけれど、一段落ついたところで景時は鎌倉へ、残りの八葉と神子は一旦、京へ戻ることとなった。
 馬に乗り、神子や、彼女の連れてきた敦盛と並び、行きとは違うゆったりとした旅を楽しんでいたヒノエだけど一度だけ、ふらり、と黒い影が並んだ、晩春の木漏れ日受けて滲む髪が眩しくヒノエの視界で揺らいだ。
「何か困ったことはないですか」
「弁慶さん! なんだか久しぶりですね。お仕事お疲れさまでした」
「ありがとう望美さん。君にそう言って貰えると、疲れも吹き飛ぶようですよ」
 横を見ると、神子ににこやかに語りかける姿。直接話すのは福原攻めの前以来だった。少し眠そうな、だけど彼にしたら随分と分かりやすくご機嫌な瞳。見つめていたら、こちらを向いた。
「……今回は君のお手柄でしたね、ヒノエ」
 それに、ヒノエは少し、ほんの少しだけたじろいだ。だってそれはあまりにも穏やかで、
多分今まで、ヒノエが見たことのないような。
「ま、これくらい望美の為なら任せてほしいね」
「ヒノエくんてば……でもうん、ヒノエくん凄かったよ!」
「ええ。大したものです」
 たったそれだけで心が跳ねた。
「このオレが力を貸すって言ってるんだ、当然だろ?」
 冷静を装いたかったけれどこらえるなんてできなくて、結局ヒノエは勝ち気に応えた。
 叔父は嬉しそうに笑っていた。



 さあ次はどうしてあげようか? なんて、ヒノエは虎視眈々と狙っていたというのに、世の中そんなに簡単には行かないものだ。
 よりにもよって、九郎と神子が次に選んだ行き先は熊野だったからだ。
 神子姫は避暑だとはりきっていて、真実そうだったらヒノエだって全身全霊で熊野を案内できた、むしろ望むところだった。だけど残念ながら、九郎やあの人からすれば、熊野を源氏の味方につけるのが目的。それは全く歓迎できなくて、さすがに今回ばかりは叔父を落とすことなんて考えてる余裕ないかもね、と雲行きの怪しさを憂いていたというのに、
その上いざ懐かしの熊野へ帰ってみたら、幼いころからヒノエが遊びまわった熊野川が怨霊に穢されていたものだから、もはやそれどころじゃない。源氏ですらどうでもいい。最低だ。熊野を狙うなんて許される事じゃない。八葉すらも関係ない。この熊野別当が知った以上、絶対に叩きのめしてくれる。ヒノエは誰より怨霊退治に燃えていた。

 幸いな事に問題を起こしている怨霊の居所はすぐに分かった。でも法皇に守られていて、手が出せない。
 それでも黙ってるわけにはいかない。ということで、「海水が苦手なんじゃないか?」そんな推測の元、船を用意し一緒に乗りこんでみた。熊野の為ならそれくらい容易いことだ。
 そこまではよかったものの……ヒノエにとってはごく当然なのだが、凪いだ海、上等な船の上は至って安全。このまま安全な航海をすれば、船乗りとしての評価はあがるだろうが、怨霊を海水に浸すなどできない。熊野の平和は守れない。現に最初はおびえていた怨霊も、すっかり法皇と楽しそうにしている。
 このままで済ませるわけには当然いかない、でもどうしたものかと悩んでしまう。熊野の為なら船の一隻くらい失っても構わないけどそれは最後の手段だし……
なんて色々考えてみたものの埒はあかないし、なにより面白くない。
 ヒノエは青い海から八葉へと向き直り、満面の笑みで言った。
「ま、考えてても仕方ないさ、それより泳ぐのは無理かもしれないけど、海水に手を入れるだけでも気持ちいいぜ」
 と、『泳げないのが勿体ない』と言った譲の隣を陣どり、海に手を浸す。本気の夏には少し早いけど、だからこそ適度に冷たい海水は、触れるには適温だ。気持ちいい。ちょっと楽しくなってきた。
「呑気だなあ〜」
「折角の船遊びだろ……ほらっ!」
「冷っ! ヒノエくん〜、急になにするんだよ〜」
「ははっ、隙だらけなのが悪いんじゃないの、戦奉行殿」
「うーん、言われちゃったね〜っうわっ!!」
 続けざま、景時に水をかけると、彼は逃げるようにヒノエから離れた。
「ヒノエ」
 代わりに背後から呼ばれた。
 振り向いたところで、顔に海水をぶちまけられた。
「っ…!」
「いたずらがすぎますよ」
 そのまま、もう一回。
「かっ」
 …けすぎだろ、と言おうとしたところで、間髪いれずにもう一回食らった。滲みる視界の向こうで叔父上は楽しそうに笑っていた。今度はヒノエがそれに容赦なく水をかけた。さすがに暑いのか、外套を落とし晒しっぱなしの髪めがけて大量に。親戚だし、遠慮なく。同じだけやり返したところで気が晴れた。声上げて笑ってしまったのは演技じゃない。ついでに叔父の……水したたる肌だとか、前髪から垂れる雫を嫌そうに見つめる少し幼い顔にも興をひかれたが、やめろよ、と口を挟んできた譲にも熊野を味わってもらったところで、策は成った。
 こちらを羨ましく思った法皇様御自らの手で、怨霊は本性を現した。あとは神子姫にかかれば一瞬。刹那の間に穢れは消え、熊野は救われ海がざぶりと揺れた。

 船を降りたところで、姫君に礼を言われた。
 彼女の賞賛は値千金で、いつだってヒノエには歓迎すべき事だ、それには丁寧に礼を返したけれど……、
その向こうで、同じく神子と言葉をかわす姿。
 九郎に呼ばれ、望美はすぐに去った。自然、彼と目が合う。
 彼はヒノエを見て微笑んだ。それは……福原で見たそれよりも、違う。違った。もっとはっきりと温和な微笑み。
 ……捉えた。確信した。
 焦らされ続けた心が動き出す。翼を持って海風に乗る。止まらない。最早止まるつもりもない。
 憧れは恋情に完全にすり替わっていた。どこまでが本気で、どこまでが錯覚か? そんなことはどうでもいい。くだらない事を悩むなら、その間に羽ばたいて射止めてみせる。
「帰ろうか」
 逸る心でヒノエは言った。
「そうですね、随分濡れてしまいましたから、急いで戻りましょう」
 可憐に微笑むその向こうで、叔父の目はこちらを値踏みするように確かに鋭くきらめいていた。



 その後、熊野の本宮へ辿り着き、別当のふりをさせた部下に、源氏にはつかないと言わせると、九郎は当然不服そうにしたけど、意外にも、軍師殿まで少し傷ついた顔をした。
 分かってたんじゃないの…? なんて疑問は残ったけど、それはもういい。……これで理由は十分だ。

 夜になって、久しぶりだから散策してきますね、と言って闇に消えた彼を追って庭に出た。
 相手が相手だから何か企んでるのか? なんて思いもしたけれど、追いついたところで彼は本当にただ庭で呑気に月など眺めていた。
「何、随分珍しいことしてるじゃん? あんたが呑気に空なんて眺めてるの初めて見るかもね」
 源氏に属さぬヒノエとしたら、三草山よりよほど、今の方が重要な戦のように思えた。柄にもなく緊張したが、勿論そんな態度は隠してヒノエはひょいと、手頃な石に座っている叔父の顔を覗きこむ。
「ふふ、たまには、ね。僕も少し疲れましたから。それに、君が僕を追いかけてくるのも珍しいと思いますよ」
「まあね」
 曖昧なままに、ヒノエは身を翻して倒木に腰を降ろす。斜め前で彼は底知れぬ微笑みをたたえていた。今にも木々に身を隠してしまいそうな月は上弦、屋敷も遠く光は微か。視界は鈍くとも彼を隠さない。
「ここは変わらないですね」
 お見通しなんだろうな、思ったヒノエは切り出してしまうことにした。
「分かってたんだろ?」
「何がですか?」
「熊野水軍は源氏に味方しないって事」
 現熊野別当が源平の戦いにうんざりしてるなんて、彼は……もう一年になるか、その頃から知っている筈なのだ。そうきっぱりあの時言ってやったのだから。
 なのに彼は表情を変えない。
「そうでもないですよ」
「……よくそんなこと言えるよな」
「君は望美さんの為なら動かしてくれるんじゃないか、と思ってましたから。僕も彼女に頼まれたら断れないかもしれないな」
「よく言うよ、姫君を源氏に引きこんだの、どうせあんたなんじゃないの?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。彼女がたまたま最初に出会ったのが朔殿だった、朔殿はたまたま景時の妹君だった、それだけのことです。それに、あんな可愛い人を戦場に置き去りになんて僕にはとても」
「……それは同感」
 『……だったら、オヤジは巻き込んでも構わなかった?』 そんな言葉もこぼれそうになった。でも無言でヒノエは彼を見る。
 沈黙が流れる。山頂から滑り落ちてきた清浄な風が通り抜ける。ヒノエの知っている熊野だ。なのに、目の前に静かに微笑む叔父がいるだけで、どうしてこうも景色が違う。
 否応なしに幼かったころが過る。彼を慕うヒノエと、彼に憤ったヒノエ。ぐるりと廻り、立ち尽くす。でも、それさえも越えて。それら全てを振り払うようにしっかりと、したたかに笑み、ヒノエは言った。
「だけどあんたも案外、詰めが甘いんだな」
「何がです?」
「あんただったらオレに水軍を動かさせることなんて、簡単なんじゃないの?」
 装いを変えて問う。そう、別に物騒な話を引きずりたいわけじゃない。今のヒノエが求めるのはただ、彼そのものなのだ。
 彼は少し訝しげにヒノエを見た。距離は詰めずにヒノエは続ける。
「あんたは熊野別当の正体を知っている、それを利用しようとは思わないんだな、ってさ」
「君を? 僕が? ……まさか」
 挑発を彼は軽く笑って流した。けれど、
「流石に冷酷非道と噂のあんたでも、一度利用した熊野水軍をもう一度壊滅させようとは思わないって?」
 追い討ちをかければ目が鋭くなった。ぞくりとする。ほら、昔からたとえ子供相手でも絶対負けようとしなかった性格はそのままだ。
「熊野が動かない、それだけで僕には十分なんですよ」
「九郎はそうでもなかったみたいだけど?」
「九郎はなんでもいいから鎌倉殿の力になりたいだけです」
 水軍を動かす気もない癖に、と彼の目が言う。
 けれど本当のところ、ヒノエは少しだけ迷っていた。源氏と平家、どちらが有利かといえば、まだ五分だろう、それでも九郎には望美という神子姫がいる。彼女の力は思っていたより……大きい。
 ヒノエは立ち上がり、近づいた。
「ふーん、それでもいいけどさ……たとえばあんたがしとやかにお願いしてくれるなら、オレも心変わりするかもよ?」
 すっと彼の首筋に手を当て、そのまま顔を近づけて至近距離で覗きこむ。視線がくるりと上向いた。間近で見ても彼は綺麗だった。臆することなく見定めるまなざしは錆びることない玉のよう。ますます彼が欲しくなる。だけど……誰かを口説くなんて、ヒノエにとっては取るに足らないことなのに、相手が相手、八年間の焦燥の果てだ、らしくなく、くちづけひとつにヒノエは……戸惑う。
 だけど、そんな油断は当然命取り。
「ああ、」
 急に空いている方の腕を、肘の上あたりを掴まれた。
 と同時に目の前の黒い男が立ちあがった、掴まれた腕が高くにあげられ、軽く吊るされるような形になったヒノエに言った。
「そういうことですか」
 珍しくはっきりと声音が躍っていた。何故かそれに、背筋が凍る。
 見上げると、月光の下、やはり……うっとりするような愉悦でヒノエを見ていた。
「君も随分大胆になりましたね、いや、無謀なだけかな?」
「は? 何が?」
 迂闊としか言えなかった。呑まれそうな雰囲気だ、そうはさせるかと虚勢を張るも、
「だけど、詰めが甘いのは君の方ですね、ヒノエ。ここで持ち出すなら水軍の話じゃなくて、正直に、父親を巻き込んで傷つけた代価を払って貰おうか、と脅せばいいのに」
「っ」
鋭利な口調に、見下ろす瞳に、押される、あっけなく。
「……でも、その件に関して、僕は君に何一つ譲るつもりも話すつもりもない。だから今回は君の素直さが吉と出ましたね、ヒノエ」
 言葉と同時に肩を掴まれた、そして下から見上げられた。視線は重圧でヒノエを統べる、簡単に。でもそれを振り払おうと、
「おまっ」
「とはいえ……折角追いかけてきてくれた別当殿に無礼をはたらくわけにはいきませんから」
口を開けど遮られ、挙句唇を塞がれた。奪われた。ヒノエが…本当に、本当に不覚にも一瞬躊躇ったことを他愛もなく、遠慮もなく吸われる、舌が割り込み絡め取ってゆく。上手かった。あれだけの口説き文句を普段から並べておいて、下手だったらとんだお笑い草とはいえ不覚にも抵抗できない。
「ふふっ、まだまだ可愛いものですね」
 そう言われ、うっかり目まで閉じていたことに気付いて、ヒノエは慌てて彼から離れようとした、けれど、掴まれた手がそれを阻む。
「逃げるんですか?」
「っ!」
 そんなんじゃない、と反射的に答えそうになったが、ここで売り言葉に乗っても自分が損するだけだ、口は閉ざすが……混乱は免れない。
 だって不意打ちもいいところだ。自分が、この目の前の不敵に笑う黒い叔父を、だったはずなのに……、
けれど忘れてた。目の前の相手の本性を。散々叩きこまれていたというのに!
「心配しないでください、多分期待にはこたえられるんじゃないかな、君相手なら、ね」
「っに言ってんだよ」
「君こそ、よく言いますね」
 ぐい、と手をひかれ、耳元で彼は囁く。
「ここで引いたら熊野の男とは言えないですよ、ヒノエ」
 ……その言葉を出されてしまったヒノエに、羽織った上着の下へ伸びる手を、背をなでる指を払うことなど…できる筈がない。

 8年の差は大きいと思っていた、
けれど三草山で、熊野で、彼に追いついたと思っていた。
 思っていただけだった。
 結局こうもあっさりと、ヒノエは半端な年齢差の叔父上に返り討ちにされてしまった。



 こうして不覚なまま熊野の旅は幕を閉じた。
 敗北の代償は大きかった。あの夜は結果、散々醜態をさらす羽目になったし、なにより自分が幼い頃だけではなく今も気にかけているということが知られてしまった。

 この気持ちを知られたら、あの性格の悪い男が何もしないわけがない。
 それはすでに帰り道から始まった。
 吉野の山中、何かの拍子で、敦盛が、昔ヒノエとクジラを捕まえた話を望美にしていたので、加わって話していたら随分ご機嫌にヒノエを眺めて、
「昔話ですか。可愛いですね、君にもそんな無邪気な頃があったなんて。今じゃこんなにしたたかなのに、ね」
だし、
偶然熊野の烏と喋っているところを見つかれば、
「仕事熱心ですね。頑張ってますね。そんな君も可愛いらしい」
だし、
更に怨霊との戦いでちょっと怪我したら、
「ふふ、そんなに僕に触れて欲しいんですか? 可愛いですね。だけど、怪我はよくない、もっと気をつけてください」
だし、なにかにおいて積極的に絡んでくるようになったのだ。
 彼に限ってまさか本心で言ってるなんてありえない。勿論、からかってるに決まってる。とはいえそれくらい聞き流せないヒノエじゃない。
 問題なのは、それを八葉の前だろうがなんだろうがその調子なので……それでも望美や九郎は深い意味を探ってはいなかったけど、景時や譲にはどうしたのなんて聞かれるし、敦盛にはまた怒らせたのだろうとか叱られるし。対応も面倒だったけど、ヒノエが悪いみたいに思われるのが心底我慢ならなかった。
「可愛い可愛いって、あんたそれしか語彙が無いわけ?」
 いつだかそうつっかえしてやったこともあったけど、それすらも、
「そうですね。可愛い君ほど僕は言葉を手繰るのは上手くないから。それに事実ですから」
「よく言うよ。その口でどれだけ騙してきたか、オレには見当もつかないね」
「じゃあ君をも騙そうとしてるのかもしれないですね」
とか訳の分からない言葉を並べて結局煙にまかれる。当然だ、ヒノエが言い返すのを待ちかまえているのだ、奴は。それを押し返すのが好きなんだ。昔と全く同じまま。忘れてた自分がバカだった。
 だったら一刻も早く形勢逆転してやろうと、果敢にヒノエは夜な夜な挑んでいくけれど、結局いつも結果は同じ。組み敷かれるは自分の方で、
「別に、僕に勝ちたいとか、そんなふりしなくても構わないんですよ。可愛い甥っ子だから気が引けるところもありますが、正直に言ってくれればいいんです、僕の事が好きで好きでたまらないから抱いてください、とね」
なんて言われても、最初こそふざけるな自惚れるんじゃねえと反論していたものの、だんだんと回数を重ねていくうちに、自分でもそうなのでないかと……彼に女のように扱われ可愛いと言葉をかけられる為に逢瀬を重ねているのではないかと、錯覚しそうになって来たけれど、
……その度、可憐な神子姫たちを眺めては、オレは違うオレは熊野の別当だこんなんでどうする、と、頭を冷やしてまた挑み、気付けば翻弄されている。
 一体いつになったら彼をこの手に入れることができるのだろう。
 叔父の笑顔はヒノエの眼前でおぼろげに、現れたり消えたりを繰り返しているようだった。
 それはまるで霧のように。


 あの日もそうだった。あの夏の熊野。彼に本気で憎悪を抱いていたはずの日。
 今となってはヒノエ自身、どれだけ彼を憎んでいたかなど覚えていない。味方となったらなんでも有りで隙だらけの九郎の事を笑えない。ただ、殴った感触と、その時の彼の顔だけはくっきりと、火傷の痕さながらにヒノエに残留しているから、憎んだ心は事実なのだろう。
 あの時叔父は何も言わなかった。
 言い訳くらいしろよ、と言っても、何も言わなかった。今だってヒノエの事を結局どう思ってるのか分からない。最低でも好意を持ってくれているならそんなこと、ヒノエにとっては他愛ないことだから、どうでもいいけど……、
順番を間違えたな、と、たまに思う。いや、まさかこういう事になるつもりじゃなかったからやむを得ないとはいえ、やっぱり先に聞いておけばよかったと思った。
 だって今更謝れない。
 今なら分かる。父が別当を退いたあれだって、少なくとも野心と欲望の為に利用した訳じゃなかったんだ。ヒノエを抱く彼の仕草はいつでもひどく丁寧で、それが彼の本質で誰にでもそうなのかもしれないけど、なんだかんだでヒノエに付き合ってくれる分、優しいのか、もしくは悔いているのだろう。だったらそれで、今のヒノエには十分に思えた。幼いヒノエの人を見る目は確かだったのだと、少し誇りに思った。
 三種の神器を奪還して、彼が落ちついたならその時にでも改めて、ゆっくり話をしてみたい。代替わりした別当として、彼が認めてくれたその頃に。







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