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(3)

 そんな、ヒノエの願いが追い風になったかのように、源氏の軍はどんどんと西へ進んでいった。
 福原の後は屋島、そして壇ノ浦。
 ここを落とせば終わりだ、敦盛が言った。平家にも知り合いが多いヒノエも複雑だったが、決戦という舞台に誰もが慎重になっていく。
 望美や九郎はそれでも明るかったが、対象的に景時の顔がどんどん曇ってゆく。何故か譲も口数少なくなってきた。
 あの人は、というと、表向き普段通りだったけれど、ヒノエにはやつれているように見えた。
「あんた最近寝てるの?」
 問いただしてみたら、
「僕を心配してくれるんですか? ずいぶん優しいですね。それとも暇なのかな?」
と、また腹の立つようなことを腹の立つ顔で言ったが、それは無視して、
「軍師が戦で倒れるなんて洒落にならないことになったら困るだろ?」
追及してもさらりとかわされる。
「少し遅くまで薬を調合していただけですよ」
「薬、ねえ」
 一体何の薬なんだか。調合の材料になるようなものを持ちこんでないことをヒノエは知っている。なおも睨んでいると、珍しく彼が肩をすくめた、
「本当のところ、気になることがあるんですよ」
珍しく弱音を零した。
「何もなければいいんですけれど、どうもそうはいかないらしい。その先の事を思うと、気が重い」
「先?」
 それきり、彼は言葉を閉ざした。二度とそれに触れることはなかった。

 まだ追いつけないのか、頼っては貰えないのか、と、歯がゆかったのはわずかの間だった。
 知ったからだ、彼が口を閉ざしたのはヒノエを軽んじたからではなく、それは口に出すべき事柄ではなかったということを。

 鎌倉殿と呼ばれる源頼朝の弟、源九郎義経の活躍はあまりにもめまぐるしく、今やその名を知らぬ者はいないという程で、
頼朝が九郎を疎んでいるという噂を、よそのお家事情とはいえヒノエも掴んでいた、ただじゃ済まないんじゃないかと若干思っていた。
 だからってまさか清盛を討ったその直後、その手で、その腕で……よりにもよって景時に九郎が撃たれるなど……そんなことは考えてもいなかった。
 あっけないほどの勝利は一転して決定的な敗北へ落ちた。しかも、今までの味方がほぼすべて敵になったんだ、これ以上なく絶体絶命だった。ヒノエも神子も、そして彼も、還内府だった将臣の手まで借りてその場から離脱するのがやっとだった。

 そのあとも悲惨だった。将臣が、ヒノエがどれだけ手を尽くしても、既に一帯は鎌倉殿の配下。九郎以下、ひとり欠けた八葉と神子はなすすべもなく揺られるだけだった。
 軍師は平泉という地名を出した。だけどそこへゆく為の安全な道を持ち合わせていない。保証のかわりにただ彼は笑っていた。大丈夫ですよ、と紡ぐ言葉は罵りたい程に優しくて、神子姫も同調すれば、一行はいくらかの笑顔を取り戻した。それでも……如何せん人が足りない。戦奉行景時がいないことが、敵になっていることがなにより大きかった。
 だから一度熊野へ上陸することにしたのは、当然の結果だと言えた。それしかなかった。それでも船頭もろくにいない戦船だ、熊野は遠い。ヒノエの指揮で、将臣と九郎と、敦盛や譲も加わって必死に漕いだ。
 その間に軍師は必死に策を練っていたようだった。一人、雨風しのぐために乗せられた小屋にこもりきり。気になったけど、持ち場を離れるわけにはいかないヒノエは遠くから神子たちが激励に向かうのを眺めるだけで精いっぱいだった。
 ようやく様子を見に行ったのは熊野へ行くことを決めてから丸二日たった頃、海が荒れて船が出せず、やむなく土佐のはずれで停泊することになった時だった。
 かの人が一人篭っている部屋を訪れると、小さな、気のめいるような明かりの中、紙にいくつも案を書きならべていた。
「ヒノエですか」
 顔さえあげなかった。
「邪魔した?」
「大丈夫ですよ」
 声まで低い。どう見ても大丈夫ではなかった。この前までの壇ノ浦での様子より更に深刻、それでも休めとは言えない、かわりに斜め向かいに腰を降ろして紙を覗きこんだ。
 だけど。
 見て、まずぞっとした、
その次に怒りがこみ上げた。
「なんだよ、これ」
 彼に対して……否、なにかにこんなに激しい感情を抱いたのは、あの一年半前の霧の日以来。
 そのヒノエにしれっと軍師は言う。ただし、あの日と違い淡々と、まるで冷たい憎悪さえ混じっていそうな顔で。
「何って、策ですよ」
「そういう問題じゃねえだろ!」
 それでも手が出なかっただけ成長したと思った、けれど怒りは収まらない。
「これの……どこが、策だよ」
 並べられたものは十に満たない。まず熊野へ行き、そのあとは陸路、海路様々に奥州平泉へ。それはいい。
 なのにどれこれも、その内容が酷かった。全てが神子と九郎を先に行かせて自分は囮となるものばかり。
「大事なのは九郎が逃げのびることですから。……叶うことなら望美さんを元の世界に還してあげたかったけど」
「……そんなことしてあいつらが喜ぶ訳ないだろ」
 吐き捨てずにはいられなかった。
「心配してくれるんですか? だけど、君らしくない事を言わないでください。明日槍でも降ったら今の僕たちにはどうしようもできない」
「いい加減にしろよ」
 言葉はもう止まらない。
「あんたは、……あんたは、そんな奴じゃないだろ!? いつも相手の先を読んで、心を見抜いて、道を開いて、冷酷にだってなれる。九郎義経を常に勝利に導いた稀代の軍師なんじゃないのかよ!」
 悔しかった、彼が冷静に自分の死までを見越していることが悔しかった。
 それをこんなに他人事のように、当たり前のように語る事が悔しかった。
 だというのに、ヒノエが噛みちぎるほどに吠えれば吠えるほど、弁慶は笑んだ。その微笑みはああ……、
「……そこまで、買いかぶってくれていたんですか。嬉しいですね」
「ああ、そうだよ」
「でも九郎の勝利は彼自身の力ですよ、僕はただ、裏で暗躍していただけで」
「そんなこと言うなよ」
「……」
「結局あんたに勝てなかったオレにそんなこと言うんじゃねえよ!」
過る、思い出す、焦がれる、なりふり構わず張り裂けそうになる。
 彼の第一印象は鮮烈だった。綺麗で遠い、性悪な、掴めない叔父上。
 今と全く同じ顔で微笑むばかりの彼をずっと追いかけていた。憧れだった。見つめ続けていた。軍師としても優秀だと信じていた。だってヒノエは手玉に取られっぱなしだった。彼にできないことなど何もないんじゃないかと思っていた。どんなに悲惨でも彼ならどうにかしてくれるんじゃないか、ずっと思っていた。
 なのに、どうしてこんなものを広げて彼は笑う?
 偶像は崩れる。霞むことなく音立てて崩落する。悔しかった。悔しくて吐き気がした。だけど一番悔しかったのは、憧れの叔父上がつまらないものに見えてしまった、そんな理由じゃない。
「僕だって、死にたい訳じゃありません。けれど手がない。それともヒノエ、僕を差し出せば君が僕を助けてくれますか?」
 ふわりと微笑む叔父上は、相変わらずに綺麗な顔で酷いことを言う。
 殴ってやりたかった。……だけど今のヒノエには。
「……できる訳ないだろ!!」
 言い捨てて、逃げるようにそこを離れるしかできなかった。

あんなひどい策しか紡げない軍師は最低だ、
けれどそれに手を差し出すことができない自分が、無力な自分がなにより悔しくて仕方なかった。



 数日後、熊野に上陸した一行は、ヒノエだけを残して休む事もなく高野山から吉野、京へと旅立って行った。
 小さくなる姿。永遠の別れではないと信じている、季節がひとつ巡る間離れるだけだ、それでも一緒に行けないことはそれなりにヒノエを追いつめた。
 反論すらできなかったのだ。
 確かに、弁慶にとって大事なのは九郎と望美だ、軍師としては他の人間がどうでもいいのは当然。だからあの策は酷いけど……それを、熊野を守るために帰ってきたヒノエが非難することなど、結局できるわけがなかった。
 塞ぎこむ。だけどこうなった以上、自分はやるべきことをやるしかない。彼らを支援するとしてもしないとしても、国力をつけなければ明日は我が身だ。このまま鎌倉に喰らわれることだけは御免だった、絶対に。
 忙しいのは嫌いじゃない。たくさんのすべき事柄は、ヒノエをどんどん冷静にする。それでも弁慶が練っていたあの策の一覧が頭から離れない。怒りが消えることはない。こんなんばかりだ。あの霧の日と違って理解はできるから尚更だ。夜はなかなか寝付けなかった。いつしか彼の御魂がここを通りぬけ向こう側へ行くのではないかと、夜闇を見据えずにはいられなかった。ただ、熊野はヒノエに優しい。庭の向こうで、いつかの記憶が陰となりふわりとヒノエを苛もうとも陽射しは暖かく彼の背を癒し、秋風は火照った頭を冷やす。なにも知らぬ人々はヒノエを慰めてくれたし、事情を知る人は叔父をほめたたえて大丈夫だと肩をたたいた。それだけで庭に残る思い出は簡単にヒノエの味方になる。崩れた憧憬も霞んでゆく。自分を取り戻す。
 なによりヒノエが信頼してやまない烏たちが一向に九郎の訃報を持ってこないことがなによりの支えだった。これで九郎までが破れたら。散々だ。

 月が一つ巡った頃だろうか、平泉の様子を見て来い、と父が言った。
 彼の言い分としては対鎌倉への備え、だそうだが、ヒノエの様子を気にしているのは目に見えていた。
 ヒノエは迷わず頷いた。
 実際、九郎の安否は今後の重要な要素だ。それに、
現役を退いた父はもう少し働くべきだし、何より、頼るべき男なのだ、どこかの軍師とは違って。




 ヒノエが熊野を立ち三河まで来たところで、源九郎義経が平泉に迎えられたという噂が、紅葉とともに北から飛んできた。行き先々でも同じで、越後あたりまで来た時には民衆の間にも広がる程だった。
 最悪は免れた。けれど……あの策だ、皆の安否は分からない。弁慶だけじゃなく先生と…敦盛も身を呈しそうな性格だし、状況だ。朔も捕えられているかもしれない。
 考えたくもなかった、けれど、考えることはやめない。一番最悪な状況を考える。ヒノエは彼とは違う、悲惨な状況も御免だし、勝手に先に死んでやることもできないのだ。


 だというのに。
 ついてみれば拍子抜け。街は平和そのもので、
九郎も、神子も、将臣も敦盛も、そして黒い衣を纏った軍師殿も呑気に晩秋の平泉を探索していた。
「ヒノエくん!!」
「……その調子だと元気そうだね、神子姫」
「うん、御館のお陰で、今は凄く安心して暮らせてるよ!」
 愕然とし、脱力しながらも、嬉しそうな神子に、ヒノエはまず再会を喜んだ。
 人知れず安堵したあと、腰に手をあて弁慶に向き合う。
「……で、あんたもピンピンしてる訳?」
「ええ、おかげ様で」
 怨霊なのではないか? と、疑わずにはいられなかった。だってあの策のどれを選んでも、彼が生き延びる道など書いてなかったのに。
 ゆえについ、ちらり、と隣の敦盛を窺ってしまったヒノエに、全くいつもの調子で弁慶は笑う。
「もしかして、あの夜に並べてた策の事を言ってるんですか?」
「ああ、そうだよ」
 素直に言えば、彼はますます微笑んだ。
「ヒノエらしくないですね、まさかあれで全部だと思うなんて」
「!」
 言われてみれば、確かに……そうだった。唖然とするヒノエに悪びれもなく彼はさらっと言う。
「軍師たるもの、常に策は作れる時に作っておくものですよ。あの日はたまたま、最悪なものばかり考えていましたから」
 全く、可愛いですね、と、最早口癖となったそれを紡ぎながらゆらりと外套を揺らす弁慶。
 あっけにとられて見ていたのは束の間。すぐにあの船の日と同じ、否、それ以上の怒りが浮かんだ。
「……だったら言えよ!!」
 肩からずり落ちた上着も気にせずヒノエは叫んだ。少し離れたところにいた九郎たちが驚いて振り返ったのが目に入ったが、構わず顔を片手で覆う。
 してやられた。確かにあの時の最低な策ばかり並んでいたのは偶然かもしれない、それでも明らかにヒノエが勘違いしていたってのに言い訳も訂正もしなかったのは、彼の謀事に違いないのだから。
 本当にどこまでも性格の悪い。憎たらしい、忌々しい。とんでもなく腹が立つ。煮えくりかえるとはこのことだ。
 ……それでも、
「まさかこんなに叱られるとは思ってなかったですからね、ありがとう、ヒノエ」
 なんて、幼いころから恋していた優しい声で言われれば、
見慣れぬ笑顔で言われればそれだけで。
 視界が滲む。
 ああそうさ心配した、勝手すぎる、今更謝っても遅い、そんな言葉がぐるりと一通り過った。
 でもヒノエは口にしなかった。その全てを笑い飛ばすように、胸を張る。
「勘弁してくれよ……オレはまだあんたに聞かなきゃならない事があるし、なにより、あんたを口説き落とさなきゃいけないんだからね、弁慶」
 口にすれば、無理矢理の笑顔は心からのそれに変わった。あの霧の日や船上の夜に抱いた怒りも、八年の間ずっとくすぶっていた焦りさえも消えて、後にはただ、再会できたという喜びだけが残った。





(07/01/2009 - 11/06/2010)



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サソ