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 その叔父にヒノエが最初に会ったのは8年前、9つの時だった。でも名前だけはずっと知っていた。父をはじめとするヒノエの身内親類がよく口にしていたからだ。
 随分と幼いころに熊野を離れ、今は比叡で修行する身だという叔父を飾る言葉は人によってまちまちだった。ほとんどは悪く言うものばかりで、耳にするたびにヒノエは歪んだ大人の噂話にうんざりしていたけれど、逆に、良く話す人はとてもにこやかに彼の事を話していたから、そんな幾らかの人たちに、ヒノエはよく叔父を話を強請ったものだった。
 特にいつもヒノエに優しい人……ヒノエの父や二人目の姉、平家に嫁いだ伯母から聞く噂話は別格だった、とても身内の、しかもヒノエと8つしか年の違わぬひとの話とは思えなかった。勉学が好きで、兵法や薬学にも明るく、その上武術の心得も多少持ち、夜な夜な僧兵を率い京の街であちこちの勢力とやりあってるとか、いないとか。まるでお伽草子に出てくるような存在で、どんな人物なのだろう、と、ヒノエは胸をときめかせ目を輝かせ夢中で耳を傾けていた……
……らしい。
 だから9つの時、彼が熊野へ来る、ついに会える、と知ったときはそれはもうおおはしゃぎで、丁度熊野にやってきたばかりの敦盛を引っ張って、まだ荷も解いていない彼に大急ぎで会いに行った……
……そうだ。
 そのどれをも17のヒノエはおぼろげにしか覚えてなかった。
 確かに見知らぬ叔父に憧れのような、そんなものを抱いていた記憶はあるが、そこまでだ。彼の話に頬染めていた過去など、今からしたら焼き捨てて灰にして土をかけて埋めてしまいたい程に恥ずかしくて到底信じることはできなかったが、今も昔もヒノエの大切な伯母が言っていたことなので、きっと大体は事実なのだろう。

 それでも、彼に最初に会った時の事ははっきり覚えている。
 話術に長け、剣の滅法たつという源氏の御曹司とも互角にやりあった挙句、意気投合してしまったので今度、連れだって北へ発つらしい、なんて、さらに武勇伝に拍車をかけた叔父は……一見、どうみてもそんな人物に見えなかったからだ。
 特に最初、忍び見るように柱の影から顔をのぞかせた瞬間、ヒノエと敦盛……二人とも男にしては綺麗な顔立ちだと当時から言われて互いにそれが嫌だった、その二人からしても、女人だろうかと勘違いする程だった。黒目がちな大きな瞳、白い肌で、珍しい色の髪は彼を華やかに彩り、勝手にやってきた子供たちににこり、と微笑んだ顔はそれはそれは綺麗で、敦盛と二人、身を強張らせて立ちすくんでしまったほどだった。
 けれど、それはほんの一瞬。
「……ああ、兄上の子供ですか。どうしました、入ってきても構わないですよ」
 と、実に優しげに彼は言った。素直な敦盛はそれで更に顔を赤らめていたけど、ヒノエは見た。柔らかな声音に騙されなかった。
 目が全然笑っていなかったのだ。
 京の貴族として大事に育てられた、否、性質の優しい敦盛には分からなかったみたいだけど、散々悪戯を繰り返し熊野の走り回っていたヒノエは知っている。
 子供が嫌いな大人の目だった。
 ヒノエを鬱陶しく思う大人は多い。『生意気』だからだ。そんなの承知で更に減らず口をたたくヒノエだ、だからいつもだったらそんな顔されても気にもしていなかったけど、けれどこの叔父に関してだけは、違った。麗しい見目とあまりにも対称的だったからだ。
 それになにより視線が怖かった。不似合いな、それだけ他の誰かのものなんじゃないかってくらい力を持った目。大袈裟な噂話を納得させるに十分なそれ。刺される、というよりは、潰されるようだった、と今なら思う。
 だけどヒノエはひるむことなく、立てついた。色々攻撃的な事を言った。
 敦盛は隣ではらはらしていた。でも肝心の叔父はヒノエの言葉など痛くもかゆくもない様子で、柔らかな声音で難しい言葉をつらつらと…多分こっちが分からないのを承知で紡ぎ翻弄する、押し返す。歯が立たなかった。ヒノエは悔しがり、彼はその度にご機嫌に笑む。
 そんな日々が数日続いた後、彼はいなくなった。結果……たったの一度も彼の綺麗な笑みを崩せないままヒノエの元を、熊野を去っていった彼の姿は、ヒノエの脳裏に鮮烈に焦げついてしまい、どんな姫君に出会ってもそれが消えることはなかった。

 そもそもヒノエも好奇心は旺盛な方で、おもしろそうだと思ったことは片っ端から手をつけずにはいられなくて、昔から姉妹や敦盛を困らせてばかりだった、という。
 圧倒したまま熊野を後にした叔父の存在は、そんなヒノエに更に火をつけることとなった。
 だって、叔父といっても年は8つ違い。ならきっと射程範囲、追いつけるかもしれない。小さいヒノエは彼がいなくなったその日から必死に様々を学んだ。本を読み、和歌だって嗜んだ。街にも行った。武術も磨いた。源氏の御曹司とやりあうには遠いかもしれないが、その辺の性質の悪いごろつきから自分や敦盛、弱く可憐な花たちを守る程度なら負けないようになっていた。
 勿論、熊野の男が船に乗れないんじゃ話にならないと船にも乗った。
 船は他の何より楽しかった。大きな海へ繰り出し風切りながら海原を駆けることはたまらなく魅惑的だったし、振り返り仰ぎ見る熊野の風景に、陸の色に、ヒノエは心を奪われた。もっと小さい頃から漠然と、自分はずっと熊野にいるのだろうと思っていたけど、熊野を手に入れたい、そう思うようになっていた。

 そうして年月はあっという間に過ぎた。

 最初の出会い以降も、叔父は何度か熊野へやってきたので顔を合わせることもあった。
 彼は相変わらず穏やかを装ってヒノエの事を気にかけるふりをしていた。が、ヒノエの方は、敢えて遠巻きに様子を見るにとどめておいた。だってまた以前のようにあしらわれたら悔しすぎる。折角ならもっと大人になって、対等に渡れるようになってから見返してやりたかった。

 そう思っていたのに。

 ヒノエにとっての均衡が崩れたのは16の夏、霧の朝。
 今まで確かに憎たらしい、と思ったことはあれど、それは結局自分が彼を好んでいることの裏返し。そんなのずっと分かっていた。
 でもその時だけは違った。本気で叔父が憎くて、本気で彼を殴った。
 殴られた叔父は、何も返すことなくただ、作り笑いにすらなってないひどく悲しい笑顔を向けるばかりで、それがヒノエの心に残って、
残って、消えない。





 『女性を見るなり後先考えず口説くのをやめなさい』 いつだか叔父に言われた言葉だ。
 ヒノエとあの人が共に過ごした時間は結局のところそう多くはなかったものの、彼はやたらたくさんの小言めいた言葉をヒノエに残していった。多分、見た目の割に相当気の強かった叔父だ、ヒノエに好き勝手言わせておくのがなんだかんだで腹立たしかったんだろう。
 その言葉も一環だったけど、言った本人が女人に甘ったるい言葉を振りまくのを、小さいヒノエでさえよく目撃していたので説得力が全くなかったし、なにより彼の言う事など、ヒノエが大人しく聞くはずもなかったので、一瞬で忘却していのだけれど、
春色の長い髪を揺らした姫君を、柄の悪い連中から守って一時の語らいをしていた途中で、思いださずにはいられなかった……のは、彼女を取り巻く環境のせいだろう。
 出会った姫君は可憐で、ヒノエは一目で興味を持った。その上意志の強い眼で、はっきりとしたもの言いをする、なのにちっとも不快じゃなくて、笑えば麗しい姫君、好みそのもの。だから彼女と知り合えた事はヒノエにとって幸運でしかなかった。
 でも直後、白銀の子供に「八葉」と言われた。面倒事に巻き込まれた予感がした。
 更に、彼女たちを追いかけてどこかで……あまりよくないところで見たことのある背の高い、軽そうな男がちらりと見えて、あれ、まずいかも、と思ったし、
熊野の別当になってまだ半年、人知れず力量不足を感じていたヒノエは極力、そういうことには巻き込まれたくなかったんだけど。
 だったら、八葉、と言った子供の言葉など戯言だと笑い飛ばしてしまえばよかった。京を守る龍神の神子の伝承はヒノエも知っていたけど、お伽噺に同じだと思っていたのだから。
 なのに邪険にできなかったのは、確かに神子と呼ばれた姫君と銀の子供がえらく清浄な気を纏っていたのと、それになにより。
 きっと彼もここにいる。先駆けて思ってしまった。
 そして、再会を望む自分を知る。

 半年前の霧の日以来、ヒノエのあの人への憧れは憎しみに変わっていた。その筈だった。
 なのに、神子姫と一緒にいた、見知った男が源氏の戦奉行梶原景時だと知った時、挙句、景時に九郎義経だと、一人の無愛想な男を紹介された時、ヒノエの胸は切なく痛んだ。
「九郎義経……あんたが? ほんとに?」
 と、思わず口にしてしまった程に。
「なにか問題があるのか?」
「いいや、なにも。で、何? オレもここで世話になってもいいのかい? 麗しの姫君と寝食を共にできるなんて、サイコーだね」
 と、思わず話題をそらさずにはいられなかった程に。
 随分と簡単なものだな、と自分で自分を密かに笑った。たった半年前の事だ。あんなにも憎んでいたのに、殴りさえしたのに、あの日ヒノエや彼を覆っていた霧のようにそれらがうつろうよう。でも……それは多分、当然だ。
 だってあの悲しそうな笑顔は消えることなかった、心に残って離れなかった。それは自分が彼を気にしている何よりの証拠なんだ、ヒノエは思う。


 半年前、夏の終わり。
 父に言われ、ヒノエが少し京の様子を探りに行っている間、父はどうしてか、水軍を率いて厳島まで攻め込んでいた、という。
 ヒノエは一切知らなかった。知らぬ間に出て、知らぬ間に負けて帰ってきた。京で烏たちと合流することもなかったので、何も知らぬまま、本宮で床に伏せている父を見て、はじめ、何が起きたのか分からなかった。攻め込まれたのかと思った。でも熊野に戦の傷跡はない。命も危ない父をみて、無我夢中で、父に付き添っていた叔父にどういうことだと問いただしたのに……『水軍と厳島まで共に行った』、それ以上のことは曖昧に言葉を濁すばかりで何も言わないものだから、
殴った。
 まず彼が父を巻き込んだのだと思っていた。あの叔父にそそのかされて源氏の為にそうしたのだと思っていた。ずっと信じて疑っていなかったし、故に彼を憎まずにいられなかった。
 だけど、そう決めつけていた自分をもまた、知る。

 源氏について景時の家までやってきたものの、かの人はどうやら不在でしばらく帰ってこないらしい。それに安堵したような、複雑な気持ちを抱きながら、だったら、とヒノエは色々探ることにした。
 京の様子、源氏の思惑、平家の現状。そして、半年前の、父と叔父の行動の真意。
 あの頃と違ってヒノエはもう大人だ、別当だ。そして彼はここでは源氏の軍師だ。うっかり余計な事を言って、熊野を危険に巻き込むわけにはいかない。だから、本人を目の前にして感情的になってしまう前に、それとなく九郎と景時を窺ってみよう。
 と、早速行動に移してみたのだけど……何も出なかった。
 確かにこちらも別当であることは隠している、向こうも情報の全てを出してくるとは思えない、それでも九郎は本当に何も知らない風だったし、景時も『頼朝さまの命ではないと思うよ』と、そんな風な意味の事を言っていた。
 それもまたヒノエの憎しみを霞めてゆく。戸惑った。てっきり上からの命令だと思っていたのに……それで腹を立てていたのに、
だとしたら、自分の名を売るために、そんなことをしたというのか? それに父も乗ったというのか? もしくは、父が叔父をそそのかしたのか。
 知らないのはヒノエばかりだ。


 結局叔父と再会したのはそれから半月ほどたった後だった。
 時間はあった、色々と覚悟もできていた筈だったのに、いざ本人に会ったら、言葉に詰まった。
 振り上げる言葉の剣はすっかりと霧に溶かされてしまっていて、だからといって別れた時の事を思えば親しげに語りかけるのも、なにか違う。別当として振る舞わなければ、そんな思いもあった。昔とは違うのだと、
けれど、それよりなにより単純に、
「ああ、君も八葉なんですね」
久しぶりに再会した叔父は、最初こそ少し驚いたようにみえたものの、すぐにゆるりと微笑んで……半年前の事など何もなかったかのように、しれっと、そんな言葉を返した、昔良く見た姿そのままに。
 少し違うのは、幾許かの疲労が混じっていることだろうか、
なんでも福原まで乗り込んで来ていたという事で、長旅の心労がたたっているだけかもしれないけど、それにしたって、その笑みは、
「……あんたも本当に変わらないね」
八年の間、眺め続けたあの、にこりと微笑む食えぬ笑顔。ヒノエの半年の憎しみなど、知らぬふりを決め込んで封じ込めようとするその傲慢さ。
 それだけ、たったそれあけで、迷いも躊躇いも失せてゆく。
 単純だ、酷いものだね、なんて自分でも思ったけれど、背に腹は代えられない。聞きたいことも後回しだ。
 だって、8年もの間ヒノエの脳裏に焦げ付いて離れなかった、追い求めた彼が目の前にいるんだ。無理もない。想いとは裏腹に、積み重ねてきた様々な想いが、半年前の怒りだって含めて、ヒノエの中で壮麗に鳴る。囃したてるように、追い立てるように。そして気付く、こんなにも彼に会いたかったのかと、その背を捕まえたくて、抜き去りたくてたまらなかったのだと。結局ヒノエは彼が好きなのだ。半年間憎んでみたけれど、やっぱり叔父が憧れで魅かれているのは変わらない、軽蔑するなんてできなかった。
 だったら、今度こそ。
「これからはよろしくお願いしますね、ヒノエ。頼りにしてますよ」
 叔父は昔と変わらぬ、人当たりの良い笑顔を……まるで昔と同じ、子供扱いでヒノエに告げる。ヒノエに追いつかれることなど想定してないその笑みだ。目障りな。
 思わずにやり、と微笑みを返した。
「……ああ、任せなよ。このオレの本気を見せてやるよ」
 本当なら今すぐ成長した自分を見せつけてやりたかった、でも負け戦は好きじゃない。
 なにより幸いな事に、今は同じ八葉だ。きっと京の穢れが消滅するまで、ヒノエと彼の絆が途絶えることはないのだろう?
 その間に、彼を越えて見せる。振り向かせてみせる。
 恋に似てるな、と、17になったヒノエは思った。






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