(3)
常識がないということは恐ろしい。自分がどこまで何を分かっていないのか、全く見当つかないからだ。
弁慶と九郎が望美たちの世界に住みつくようになって約一月半。今更ながらに、京にきたばかりの望美や譲がどれだけ苦労していたのか、身に刻まれるように知ってゆく。
最初は良かった。なにもかも分からないことしかないから簡単だった。けれど、少しずつ、少しずつ慣れてゆくうちに、分かっている、と思っていたことが間違っていたり、新たに別の問題が現れたりして、そういう時にすごく困る。
それこそ最初は望美や有川兄弟についてまわっていたせいで、いちいち彼らが丁寧に、少し余計なことまで教えてくれたからよかった。勘違いしていても修正してくれた。
でも最近は彼らには彼らの生活があるから頼るわけにはいかず、自分で知識を集める日々。もともとそういう事が好きで、なにより、この世界は便利だから情報集めは驚くほど簡単で……すっかりと弁慶はテレビと友達になっていたのだけれど。
そのテレビ画面を見て、手に持っていたせんべいをぽろりと落とした。
『ケーキひと切れは、ご飯一杯ぶんに相当しますから、食べたいけど、食べ続けてると将来メタボになっちゃ〜う! そこで、今日ご紹介するのは、ご家庭で簡単に……』
どーんと、テレビに映し出された光景に目が釘付けになる。見事にたるんだ腹の画像。昔なら気にもとめなかった、だけど……、
ぽむ、と、腹を押さえ、なでなでと感触を確かめる。
弁慶はいよいよ青ざめた。
「ただいま、弁慶」
夕方、将臣に紹介してもらったバイトを終え、九郎は足取り軽く家まで戻ってきた。
弁慶に会えるのも勿論だったが、今日は彼が夕飯を作る番だったので、それも楽しみだったのだ。
けれど、いつもならエプロン姿で『お帰りなさい』なんて出迎えてくれる姿がいなかった。かわりに、
「九郎、おかえりなさい」
と、どんよりとした顔で、テーブルに頬杖ついたまま、視線だけこちらに向けた彼がいた。
「どうした、具合でも悪いのか?」
食卓にも何もない。今までこんなことは一切なかったので、九郎は心配した。すると弁慶は首をふる。
「いいえ、なんでもないですよ、ええ、なんでもないです」
「そうは見えん」
「……とりあえず、着替えたらどうですか?」
心配そうにのぞき込んでも、憂鬱な瞳でこちらを見上げるだけだ。ぺたり、と額に手を当てる。
「熱はないですよ」
「だが熱い」
「君は外から来たところでしょう」
「ああ、そうか」
不安は残るが、弁慶が頑なにそう言うので、とりあえず上着など脱いでから、ゆっくり話を聞こう、と、九郎は一度、隣の部屋へと姿を消した。
ダイニングへ戻ると、さっきまではなかった食事が並んでいた。ただし、一人分。
「君の分ですよ」
「先に食べたのか? 珍しいな」
「いえ、僕の食事はこれです」
言うが、目の前にはなみなみと水の注がれたグラスがひとつ。
「なにか、特殊な水なのか?」
「いいえ、そこの蛇口をひねって出てきた水です。便利ですよね、当たり前のように飲み水が永遠に出てくるんですよ」
「確かにすごいが……なんでそれだけなんだ? やはり具合が悪いのか?」
「ふふふ……関係ないですよ、これはいわば、僕の罪の代償ですよ」
ふう、と、再び、重く重く弁慶は溜息ついて、首をかしげる九郎を見上げた。
そう。先週と先日と、調子に乗ってプリンだのケーキだの、食べまくった結果はあっさりと弁慶の体に現れていた。贅沢品だと思っていた糖が手頃な、むしろ格安な値段で買えるのが幸せで、譲の手作りは別格で、九郎の手によるものだったら、それはもう誰にも渡せないほどで、つい弁慶は、そして多分九郎も食べ過ぎた。
だがケーキひときれで、まさか食事一回分に相当するとは思わなかったのだ。だから、既に蓄えてしまった分、しばらく食事を控えなければならない。確実にやらねばらない。やらなければあのテレビの映像のようになってしまうのだ。そんなことになるわけにはいかない!
「……よく分からない。もっと詳しく話せ」
九郎は首を傾げ、食事と弁慶を交互に見た。けれど、弁慶は彼にそれを言うわけにはいかない。弁慶はおおよそ、望美や譲の前では素敵な大人を演じていて…九郎にまで、そんな風に振る舞うことはなかったけれど、やっぱり『弁慶は頼りになるな!』と眩い笑顔で褒められる環境だけは手放すわけにはいかない。ゆえに、こうなることを知らずに糖をとりまくっていた、など知られるわけにはいかない!
「修行みたいなものですよ、ふふ、懐かしいですね」
だから適当に誤魔化すことにすると、九郎は勝手に何かを察して、
「そうなのか」
すんなり納得して、目の前の食事に目を落とした。
「とはいえ、ひとりで食べるのは気が引ける。半分食わないか?」
「結構です。九郎は気にしないでください、これは僕の咎ですから」
きっぱりにっこりと弁慶は返す。それでも、九郎はそんな弁慶に躊躇いもなく横に振った。
「だったら俺も食わん」
「折角作ったのに、僕の作ったものを、食べたくないと?」
「だがお前を見捨てられるか!! 何の修行か知らないが、お前が水しか飲まぬというなら、俺もそうする。この食事は、れいとうこ、に入れておけば、どうにかなるのだろう?」
なんでも凍らせておけばあとでチンして食べられますよ。そういえば、望美がそんなことを言っていた。でも、
「九郎……本当に、いいのですか? 君がやる必要は全くないのですよ?」
「かまわん。お前と一緒なら、どんな明日でも構わない!」
真顔で言われて、胸が鳴った。反論の言葉が消え失せた。
「……君はそこまで、僕の事を」
「当然だろう。俺とお前は一蓮托生だ」
「九郎!」
「弁慶!!」
がし、と二人は固い抱擁を交わす。
その隣では、ほかほかと、おいしそうなうどんが湯気をたてていた。
一週間後、望美がなんでもなく有川家を訪れると、譲が困っていた。
「こんにちは、お邪魔しまーす! あれ、譲くんどうしたの、難しい顔して」
「ああ、先輩、いえ、今日はクッキーを焼いたので、九郎さんたちにおすそわけしようと思ったんですが、電話に出なくて」
「いないのかな、どうしたんだろう」
首をかしげながら、望美はちらりとキッチンを見る。九郎に渡す分だろうか、小さな包みがひとつ。その向こうには、まだ湯気を立てている分と、オーブンに入ってる分と、十分にある。
「よし」
「先輩?」
謎の行動に、譲は首を傾げたが、後ろから飛んできた声が正体を暴いた。
「お前、今、自分の分がちゃんとしっかり九郎たちのよりたくさん残ってるの、確認したろ」
「あ、おはよう将臣くん」
「流すな流すな」
そこにはどうみても今起きたばかりで顔洗ったところです、といった風の将臣。
「先輩が来てるんだから、もう少しちゃんとしろよ、兄さん」
「今更だろそんなの」
「確かにね」
「先輩は兄さんに甘すぎです」
ぴしゃりといわれれば、将臣は肩をすくめ苦笑いだが。勿論そんなことで反省するつもりはなく、聞こえてきていた話題に便乗した。
「で、なんだって、九郎が電話に出ないって?」
「そうなんだ。兄さんなにか知らないか?昨日もバイト先で会ったんだろ?」
「ん? そうだな、もしかしたら倒れてるかもしれないな」
「えっ!!!」
突然の言葉に望美と譲は一斉に将臣に食らいつく。
「なんで、なにかあったの九郎さん」
「いや、俺にもよく分かんねえんだけど、あいつ、なんか今絶食中みたいで」
「絶食?」
「水しか飲んでないって言ってたな」
「なんでそんなことを」
「だから、知らねえよ。修行とかどうのって言ってたから、ああ俺が口出しすることでもねえのかな、って思ったど…考えてみれば、あいつがそんな修行をリズ先生に習ってきたはずないよな。妹弟子のお前がそれに耐えられるはずねえもん」
「そうだよ! もう、将臣くん肝心な時に鈍すぎるよ」
だって九郎のことなんて結構どうでもいいし、口挟むと保護者がうるさいし。というのが将臣の立場からすれば本音だったが、望美と譲はそうではないらしい。
「行こう!譲くん!」
「先輩!! もう、仕方ない人だな、待ってください、俺も行きます」
クッキーの袋を掴むと、望美は勢いよく走っていってしまって、譲もそれを追いかけた。
後に残った将臣は、ちらり、と台所を見る。
「よしよし、望美が帰ってくる前に、こっちは俺がいただくか」
そしてまだ熱いクッキーを手にとり、一人、にやりと笑った。
望美たちが九郎の家に向かうと、案の定、そこでは腹が減りすぎて地に伏す瀕死の九郎と弁慶がいた。
「九郎さん、弁慶さん!」
「ああ、望美さん……」
「望美、なにかいいにおいがするんだが」
「クッキー焼いてきましたよ」
「いえ、それを、僕は、いただくわけには…。」
この期に及んで頑なに拒む弁慶を、望美はひょいと掴む。
「いいから、食べる!」
そして強引に、二人の口にほいほいと放りこんでいった。
そのおかげで弁慶も九郎も、一命を取り留めたが、代わりにこんこんと望美と譲の二人から説教されることとなった。
特に譲には、「薬師である弁慶さんがこんなことするなんて……」と、結構本気で軽蔑されて、九郎にも「そんなバカな理由だったのか!」なんて言われて、弁慶の矜持はいよいよずたぼろになったけれど、その甲斐あって、その後、二人はきちんとした食生活を送る事になる。
けれど、常識がない、ということは、時として恐ろしい。
「弁慶!! この前凍らせておいたうどんをチンしたら、なにやら食えぬものになったぞ」
「酷い、九郎、僕が作ったものを疑うなんて……って、これはひどい」
知らないことは未だ山積みで、どこまで何を知らないのか、なんてことも当然、分からぬ九郎と弁慶が、なんでもなくこの世界で暮らせるようになるには、まだまだ時間がかかるだろう。
とはいえ、戦乱の時代の武家の御曹司と軍師で薬師な二人が、この平穏であたたかな世界を飽きずに暮らすのだ、これくらいの障害ならば、きっとあったくらいで丁度いい。
と、思いこむことにした。
(2)にいただいた感想を元に書いてみた話でした。ありがとうございました
(23/MAR/2010)(29/JUL/2011)