中尊寺の紅葉が落ちたら、平泉の景色は突然に白で染まった。
弁慶が育った京も冬は寒かった。街も冷えたが、比叡は更に身がすくむほどの寒さで、屋敷の前で雨水をためていた手桶にはほぼ毎朝氷が張り、時として、その上に雪が積もっていることもあった。けれど、昼間になれば陽が射し過ごしやすくなる。山道がぬかるんで歩くのが大変だったが、指先が動かぬ程の寒さよりは、弁慶は好きだった。
平泉の冬はそれよりも一段、寒い。とにかく夜が冷え、比叡にいた頃よりも2枚余計に着物を着なければ動けない。日陰におちる雪はなかなか溶けず、踏めばつるりと滑りそうなほどで、軒下のつららも日々着々と長さを増してゆく。もう三度目だというのに、未だ慣れない。
けれど荘厳なる比叡の苦しいまでに澄んだ冬の寒さとは異なり、平泉の地は、そこを治める藤原秀衡の人柄のせいなのか、逞しい人々であふれていて、こんなにも寒いのにどこか暖かだ。特に、弁慶と共にこの地にやってきた九郎は彼らの気遣いに触れては心安らかに日々を送っているようだった。
それでも幾許か、秋の終わりよりは寒さに慣れた年の瀬、弁慶たちが借り受けた高館の付近で野党が横行するようになった。
幸いなのはまだ死者が出ていないという事だったけれど、九郎は話を聞くたびに顔を曇らせる。
そしてある日言った。
「夜盗を退治しにいかないか?」
それは彼にしたらごく当然の言葉だった。彼はもともとそういった類のものが許せない性格だったし、また、外を駆けまわることができずに少し冬に飽いていたようだった。
「そうですね、行きますか」
弁慶からしても、世話になっている村人が苦しむのは見たくなかったし、それに寒いばかりの冬にも、九郎程ではないがうんざりしていたから出かけることにした。
周辺の農民がこぼした恨み事から、夜盗は既に五夜連続でこのあたりを襲っているのは知っている。
夕暮れ前に、少し早めにあたりを見て回ったら、確かに北と東にふたつずつ、南にもひとつ、集落が被害にあっていて、家は壊され、または焼かれてしまっていた。畑に白く積もった雪さえも踏み荒らされていて、これでは年を越せないと言う皆のどんよりとした顔が、より深刻さを語っていた。
この調子だと今日も来るだろう。二人は早速番をすることにした。
ただ、どこに来るかを絞り込めない。一度襲ったところには今のところ二度出向いてはいないようだったが、無事な集落はたくさんある。それが全てつぶされてからでは、遅い。
泰衡や秀衡に報告してもよかったのだが、彼らは今日は不在だ。
情報がないなりに、とりあえず九郎と弁慶は、自分だったら次はここへゆく、という推測を、お互い話した。
いくつかあげた中、ひとつだけ二人の意見が一致したところがあったから、とにかくまずはそこからだ、と、目途つけ向かう。
着いた頃はすっかり暗くなってしまった。幸いなことにまだ何も起こっていないらしい。ほっとして、顔を見合わせてから、二人は村外れの林の中、闇に潜んだ。
長い時間がたった。どの程度かは分からなかったが、淡くついていた集落の灯りが次々に落ちていった。
二人は木にもたれながらひたすら待っていた。景色は月明かりで白く輝いて、星が輝いているようにも見える。綺麗だったが、晴れの夜、気温はどんどん落ちている気がする。
「寒い」
指先を息で温めながら弁慶が言うと九郎が鋭い声を出す。
「うるさいぞ、弁慶」
「夜を甘く見てました。早く来てくれないと、このままでは僕が凍ってしまう」
「来ないならそれに越したことはない」
「そうでしょうか、早めに捕えられるならその方がいいと思います」
と、弁慶が返したあたりで、視界の端、集落の向こう側で突然火が燃え上がった。
「弁慶!」
「行きましょう!」
こんなに寒いというのに、駆けよる間に火はあっという間に広がった。逃げまどう村人たち、好き勝手に人の家を、蔵へ踏み込み物を奪ってゆく男たち。
前を走る九郎がひらりと刀を抜く。
「覚悟!」
声とともに、荷を奪った野党の腕を切り裂いた。刀が赤く光る。
「なんだお前は?」
「俺は源九郎義経、貴様等の行い、見過ごすわけにはいかない」
弁慶も彼に続き、襲われそうになっている村人の前に立ちはだかる。
二人の猛者の登場に、夜盗たちの手は止まった。けれど、村を焼く忌々しい炎に照らされた弁慶と九郎の姿が、年若いと気付くなり、醜い顔を更に歪めて、彼らはあっという間に二人それぞれを囲んだ。下衆な期待を抱いているものも混じっているように見える。
が、お陰で村人に注目するものはなくなったし、屋敷に火をつけていた手も止まった、全てが九郎と弁慶に向かっている。ならばそれは好都合。
「成敗してさしあげます」
わざと嘲笑うように言えば、彼らは怒り、そのまま斧やら鉈やらを手に弁慶に襲いかかってきた。
あとは、刹那だ。
九郎と弁慶の腕がたつということは……少なくとも京では、それなりに有名な話だったのだから。
半刻もかからなかった。ある程度血をみたところで、撤収だと声がかかり彼らは逃げて行った。
「待て!」
逃げ脚はあまりにも鮮やかで、捕え彼らの巣を吐かせねばならなかったのに、九郎が追いかけても見事、まるでこちらを嘲るようにあっという間に彼らは散ってしまう。
なるものか、と、とっさに弁慶は手に持っていた薙刀を投げつけた。
それは九郎の隣をかすめ、運よく彼の手を逃れた夜盗の一人の脇腹を裂いた。夜盗は足を滑らせて大地に倒れた。
幸いなことに、薙刀による傷は浅かった。
「殺したかと思った」
彼を担ぎ、館へ向かう途中、九郎は真剣に弁慶に語る。
「確かに、もう少し手元が狂っていたら死んでたかも」
「あんな鍛練いつのまにしていたんだ?」
「僕だってはじめてですよ。そもそもどうやって鍛錬を積むというのですか?」
「それは……弓のように的に向かって投げて」
「取りにいくのなんて面倒です、ごめんだ」
そうこうしているうちに、高館についた。着くなり、薬箱を取り出して手当てをする。九郎は隣に陣取り、変な顔でそれを見守っていた。
「なんだか……お前が傷つけた相手をお前が治療するなんて、変な話だな」
「僕もそう思います。ああ…鎮痛剤が切れてるんでした、まあいいか」
苦しむかもしれないが、夜盗にそんな心配も不要だろう。死なれては困るから薬草だけどたっぷり塗りこんで包帯を巻いたところで、気がついたらしい夜盗が声をあげた。
「うっ…いてぇ! いてえ!!」
「やっぱり、痛いですか。覚えておきます」
九郎はなおも何か言いたそうに弁慶を見ていたが、ないものはないのだ、仕方がない。彼の視線を遮るように、弁慶は夜盗に向き直った。
「ところで、あなたは何をしたか……覚えてますよね?」
低く言うと、九郎もそちらを睨んだ。夜盗は九郎を見るなり、まるでつららのように凍りつき、本音を漏らし始めた。
「…………本当は、こんなこと、したくなかった」
言葉は震えていた。それは自分の過ちを恐れたのか、九郎を恐れたのか、ただ傷が痛んだのかは弁慶には分からない。
「ただ、蓄えが尽きてしまって、このままでは年が越せない。家には小さな子供もいて、養わなきゃなんねえってのに」
「冬に食料がなくなるのは分かってることだ、どうしてもっと蓄えておかなかったのですか? それとも毎年こんなことをしてきたというんですか」
「まさか、誓って今年だけだ! 今年は夏が寒くて、ただでさえ米が不作だった、その上うちも夜盗にやられて」
「それで、関係ない人を襲ったというのか!」
「仕方なかったんだ!」
「そんなわけあるか!」
九郎が拳を握りしめた、声に男が身をすくめた。九郎はなおも何か言おうとしたが、どうしてか言葉を飲み込み、うつむく。
「あんたに何が分かる! 自分だけならまだしも、子供にひもじい思いをさせたくなんかなかったんだ……」
男もうつむいて、ぼとぼとと涙をこぼした。
「俺は帰らなきゃならねえ……見逃してくれ」
九郎は黙ったままだった。迷っている。
「九郎、この人捕えましょう。御館に引き渡しましょう」
「頼む!」
野党の声は悲痛だった、けれど耳を傾ける必要もない。
「あなたは不幸だったかもしれない、でも罪は罪です。そこから逃れるなど許されない」
「もうしない、けしてしない、頼む、俺は帰らなきゃならねえんだ」
「今更そんな事を」
御館の帰ってくるのは明後日だった筈だが、夜が明けたら彼の抱える武士にでも預けてしまおう。そして全ての罪状を洗ってもらおう。この男の村を襲った夜盗も捕まえることができるかもしれない。村も守られて、一件落着だ。
なのに九郎が言った。
「待ってくれ」
「九郎?」
ずっと俯いたままだった九郎が、顔を上げ、弁慶に言った。
「もうしないと言っている。許すことはできないか?」
うかがうように言う九郎を、弁慶はしばらく見つめた。少し迷ったが、結局弁慶はふぅと息を吐く。
「……それでいいんですか?」
「それでいい」
九郎は頷いた。
それを見るなり夜盗の男は畳の上を這うようにして逃げて行く。履物も履かず庭へ転がり落ちて、あっという間に闇に消えた。
「そんなにしなくても、もう追いかけたりしないのに」
薄く凍った雪をざくざく踏む音がどんどん遠くへ離れてゆく。
それすらも消えた頃、九郎が弁慶に向き直り言った。
「すまない、弁慶」
九郎は面目ないという顔をしているが、弁慶とすれば、微笑むことしかできない。
「昔から君はそうだった」
「なにが?」
「京でも、命乞いをすれば見逃した」
命乞いをしなくても見逃した。
そして弁慶も恩情をかけられた一人だった。徒党同士のぶつかりあいの果て、九郎に負けて彼はここにいる。
……その時のことでも思いだしたのだろうか、弁慶の言葉に九郎は顔を曇らせた。
「九郎?」
「いや……なんでもない」
けれど何でも口にしてしまう彼にしては珍しく何も答えなかった。
三日後、予定より二日遅れで、秀衛と泰衡が京から帰還した。
京の様子を聞きたい二人は、秀衛が戻ってきたら知らせをくれるよう頼んでいたので、早速使者がやってきたのだが、彼は知らせとは別に書状をもってきていた。
九郎が開く。彼がたいそう驚いた顔をしたから覗きこめば、そこには秀衛の豪快だが読みやすい字で、
『付近に夜盗が出回っていたとのこと、気付かずにすまなかった。昨晩首領以下一味を捕えたから安心してくれ』
というようなことが書いてあった。
「他に夜盗がいたんですかね?」
弁慶がわざと首をかしげてみても、九郎は青ざめた顔でそれを見つめるだけだった。そして、手紙を丁寧に折りたたんで床に置くと、
「行くぞ、弁慶」
とだけ言い、あとは彼を振り返ることなく、少し雪の溶けた泥まみれの道を走って行った。
がむしゃらに走ったせいで、九郎が好んで着る白の衣がどんどんと汚れてゆくのを見ながら追いかけるが、彼の足は速く、弁慶は置いて行かれてしまう。
結局追いつけたのは村はずれで……そこでは九郎が掲げられた討ち首を見、崩れ落ちていた。
それはまごうことなく、一昨日弁慶と九郎が捕えて逃がした男だった。
「九郎殿、弁慶殿」
そんな二人に声をかけてきた男がいる。秀衛も信頼している武士団の重鎮だった。
「お久しぶりです。お勤めご苦労様です。……これが、ここ十数日にわたってあたりで悪行をしていた夜盗ですか?」
「はい。昨日、たまたま師団を率い、御所の方から帰る途中で、火の手があがっているのを見つけましてな」
「昨日、ですか」
「こうして頭領と側近とみられたものだけ晒して、他は今頃牢の中ですよ」
「そうですか……」
「全く、御曹司殿が無事でよかった」
「ありがとうございます」
弁慶が彼と言葉をかわしている間、九郎はずっと首を見上げていた。
「……どうしました? もしや、」
「はい、実は先日、この男に貴重な薬草をひったくられたんですよ。でももう……済んだ事ですね」
武士が何を思ったのかは知れずとも、これ以上ここにいると厄介なことになりかねない。弁慶は沈んだままの九郎を引っ張り上げ、
「ほら、いつまでも悔しがってても仕方ないでしょう、行きますよ九郎」
と、そのままずるずるとまさに引きずるようにその場を離れた。
仲間ではないのか? と追及されなかったのは、ひとえに九郎の人柄のせいだろう、そうとしか思えなかった。結果として夜盗に通じるような形となってしまった九郎と弁慶は、雪がちらつきはじめた中、無言で家路をたどる。
彼らが見えなくなったあたりで、ようやく九郎は乱暴に弁慶の腕を振るい落とし、少し前をぽつぽつと歩きだした。
弁慶も黙ってそのあとについた。ふさぎこんだ様子の九郎の背中で呑気に揺れる長い髪と、すっかり汚れてしまった白い衣をぼんやりと眺めていた。