護れ、愛情

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原稿の合間にごそごそ書いてたとか...。

 

原稿はちゃんとしようよ、私。

場違いとも思われるかもしれないが、その店がそこにあるのだから仕方がない。
鏑木・T・虎徹が気軽に歩くには取り澄ましすぎたゴールドステージの一角にその店はある。
少し遅くまで開いているショップモールの奥に『MARIA』と看板をひっそりと掲げたクラブだった。
「今晩は。」
鏑木・T・虎徹はそのクラブの扉を実に5年振りに開くこととなる。
その理由は。
先日切り出され、聞き分けよく受け入れた別れ話の所為だった。
「いらっしゃいませ。あら、珍しいこと。」
そろりと入ってきた虎徹を見て、カウンターの奥に佇む女主人が深紅の瞳を震わせた。
「お世話ンなります。」
その言い方もおかしなものだが、居心地がなさそうに虎徹が笑うので彼女は特等席を示してくれた。
虎徹もその言葉に甘え、とっておきのカウンター席に陣取る。
「今日は何がいいかしら?」
ボトルのキープはない。
それよりも、この店は虎徹が故郷で慣れ親しんだ酒を置いていてくれる。
ここに酒を卸しているのは実は兄の村正である。
「んと、千年の眠り、あります?」
虎徹の酒の強さは彼女はよく知っている。
ある事件により5年程前までは虎徹はこの店のほぼ常連だった。
友恵を亡くして後、なんとなくだが足が遠のいてしまったが。
「勿論。」
彼女は快くその酒を注ぎ、虎徹に渡す。
きゅっと飲むと、厨房の扉が開き懐かしい顔が出てきた。
「おや、お久し振りですな、鏑木様。」
この時代に珍しくモノクルをかけた初老のバーテンがゆったりとした笑顔を向けてくる。
「どうも。」
女主人とバーテンは虎徹の顔を5年の歳月が流れても忘れていなかったようだ。
グラスをことりと置いて一息。
暗がりを見渡せば、5年前からこの店の面々は変わっていないように思う。
変わったのは皆、5年の歳を食ったというところか。
虎徹の斜め前にいる男は、もう少し若かったはずだ。
鼻の上の大きなテーピングはトレードマーク。
あの事件の日、仕事ともなれば重装備に身を包んだ特殊部隊隊長を務め上げた男だ。
「まだ、軍に?」
虎徹が、なんとなく声を掛ける。
「えぇ。行くアテなんて、ないんで。」
陽気な顔だが、兵士特有の陽気さだと思う。
ヒーローなんてやってる虎徹の陽気さと比べると何倍も重い。
後ろには、彼と一緒に戦った者や関係者が静かにカードゲームに興じている。
1杯目を飲み干し、深い溜息をつく。
「ふふふ、鏑木さんたらこんなときにしか来てくれなくなったのねぇ。」
憔悴した顔を自然と晒していた。
この店だと気を張らなくていいと思ってしまう。
女主人の包み込むような、そんな雰囲気に甘えてしまう。
「こんなときって...ンなことないですよ。」
強がってはみせるが、彼女は全て見通している気がする。
女主人は何も言わず、虎徹のグラスに2杯目を注いだ。
からん、と氷が沈む。
聞き分け良くしたつもりでも、虎徹の心は沈み込んでいた。
じっとグラスの中の氷を見つめたまま、虎徹は時を止めるように静かにしていた。
誰かの気配がある場所で、こうして沈みこんでいたかった。
一人では泣くだけになってしまうから。
「いい人に、フられでもしたの?」
穏やかな声がそう問うた。
虎徹は曖昧に笑って誤魔化してみせた。
誰かにそう聞かれて、曖昧に笑って。
ただそれだけを望んでいた。
そうでないと虎徹は現実に戻れそうにない。
いつものようにへらへらと笑っていればいい状況でなかった。
どこかで誰かに吐き出さなければ、虎徹は自分を保てそうにない。
1度ならず2度までも。
失うという状況に追い込まれ、どう対処していいのか解からなくなった。
虎徹を現実に引き戻す役目を、この女主人は何の指示もなくやってくれた。
今にも泣き出しそうなみっともない顔をしていることだろう。
だが、彼女は決してそれに触れない。
だから居心地がいい。
「大丈夫よ。明日なんてすぐに昨日になるから。」
明日なんてこなければいいと思った。
その明日を彼女はいとも簡単に昨日にしてしまう。
「はは、ママには敵わないな。」
ほんの少しだけ、笑えた。
偽りの笑顔でなく、至って普通の。
その悲しい笑顔を、彼女は決して咎めたりしない。
「鏑木さんたら、本当に不器用なんだから。」
深紅の瞳が優しく細められる。
あの日も彼女はこうしてくれたっけ、と虎徹は思い出に浸る。
 
嫌な事件だった。
友恵を亡くし、楓を実家に預けた直後の事件。
犯人は5歳になる少女だった。
まだNEXT差別が強い地域というのがいくつも残っている。
その中で、彼女は蔑まれ実験体として親に売られた。
それでも5歳の少女が親に売られたと理解するには難題だった。
彼女は実験台として薬と手術の餌食となった。
その中でただ。
庇護を求め、親を求めた。
だが。
すでに彼女は人でなかった。
薬と手術が彼女の肉体を破壊し、人でない姿にさせてしまった。
異形と成り果てた彼女を誰が人だと、子供だと、少女だと思うだろうか。
研究者たちが残り滓と答えた僅かに残った自我が、その消え行く自我が。
ここにいる折角授かった子を流してしまった彼女と、その伴侶と、娘と離れて暮らさねばならなくなった虎徹だけに。
小さな少女が親を求めて起こしたことだと気付かせた。
3人の声に気付き軍の攻撃を一旦止めたのが、虎徹の斜め前に座る男。
それに対して責任を取って辞職したのがカードゲームに興じ、負けている老人。
最終判断として、軍がその少女だった異形を攻撃せよと命じたのがカードゲームの親の初老の女性。
あまりに凄惨な事件だったため、秘匿扱いの事件とし世間から隠蔽した当時の裁判官が隅で蹲るように飲んでいる男。
隠蔽した事実を隠すために、棺桶に持っていった男もかつてここにいた。
最後に、虎徹と彼女がその少女を抱き締めてやれたことだけが救いだった。
 
気分が沈む。
あの時出動したヒーローは3人。
ネイサンも、アントンもいなかった。
3人で、決してこの事件を口外しないと誓約した。
今思えば、アイツがいなかったことに盛大に安心している。
 
(ヒッデェの...安心しにきただけじゃねぇか...-)
 
ヒーローという職業をしていれば、こんな凄惨な事件はつきものだ。
彼を好きだと思った気持ちが揺らぐ。
好きなのではなく、凄惨な事件後の拠り所が欲しかっただけではないのか、と。
そう思うことにすれば、幾らか軽くなる。
好きという気持ちは只の建前。
それを見透かされたということにしておけ、と言い聞かせる。
そうでなければ。
虎徹の能力に残された時間は3分を切った。
能力のないヒーローは彼の隣に立てない。
立たせて貰えない。
それがどれだけ辛いことなのか、どれだけ淋しいことなのか。
解っているからこそ、違う理由を、最もな理由を用意したくなる。
好きだという気持ちを抱えたままでは、立ち上がれそうにない。
かつての戦友には申し訳ないが、理由を貰った。
一つだけため息を零して2杯目を煽った。
ことりとグラスを置いたところで、新たな来客があった。
「今夜は素敵なこともあるものね。」
来客の為のグラスは虎徹の隣に置かれた。
知った気配に虎徹は隣を垣間見る。
しっとりとしたプラチナの長髪に囲まれるのは相変わらず顔色の悪い。
ヒーロー専任の裁判官ユーリ・ペトロフその人。
「さいば...ユーリさん。」
いつもの呼び方になりかけて、慌てて訂正する。
「...今晩は、鏑木さん。いつもの呼び方で、構いませんよ。」
私が誰で何をしているのか、ここにいる皆が知っていますから、と小さな声が補足を伝えてきた。
「...ミストレス。Johnnie Walker Blue Labelを。」
いつもの席というように、虎徹の1つ空けた隣へ。
「あら、Mr.ペトロフも何かあったのかしら。」
彼女は相変わらず柔らかな雰囲気だ。
ふ、とユーリの相好が崩れる。
「そんなところです。」
正直に彼は笑ってみせる。
あぁ、この素直さが羨ましいと虎徹は苦笑した。
素直に、「イヤだ。」と言っていればよかったのか。
それでも。
この判断が正しかったと、虎徹は信じたい。
誰かと酒を酌み交わすでなく、ただ、ここの住人達はそれぞれの思いを抱えて彼女と向き合う。
叱りもしなければ、咎めもしない。
自分の役割を知り尽くした彼女は、無言の癒しをくれる。

あの日、彼女は全ての人の母となった。

誰が言ったか。
寄り添うためだけに存在するといってもいい彼女は、確かに聖母だった。
思う存分に酒と癒しを堪能した虎徹は無言で金を置く。
と、ユーリもそれに倣った。
目配せで「途中まで。」と言ってくる。
虎徹も拒否の理由がなく、こくりと頷いた。
そろりと2人して暗闇を抜ける。
春先の風は、冷たい。
「よく、ここへ?」
その質問に、虎徹は律儀に答える。
「5年前までは。」
5年前という言葉は、ユーリにもその意味が知れたようだ。
「まさか、貴方が常連だったとは。」
「...あの酷い事件の所為ですよ...。」
虎徹は暗く笑う。
恐らくだが、彼も知っているはずだ。
前世代のヒーローが3人関わり、残っているのは虎徹だけ。
「...彼が、当時居なくてほっとしていますか?」
あからさまな質問に、虎徹はまじまじとユーリの顔を見る。
「......そりゃ...そうでしょう...。」
言葉に詰まる。
ヒーローなんてキレイ事だけでやっていられない。
虎徹のようにキャリアの年数を重ねれば重ねる程に。
事件の裏の凄惨さに気付いていく。
「現世代のヒーローは、若い方が多い。」
ぽつりとユーリは零した。
「本当は貴方がまだヒーローでいてくれて、安心しているんですよ。」
恐らくそれはユーリの本音だろう。
アントニオやネイサンと比べても重ねてきたものが違う。
目の当たりにした凄惨な事件は、この1つだけではない。
「牽引してくれ、そう言われました。」
世代交代の際に、ヒーローを引退した先輩はそう言った。
「ドラゴンキッドがヒーローになったときなんて、ホントうるさいぐらいに念を押されましたよ。」
苦笑しつつも、虎徹は自らの役割を語る。
「まだ、しがみつくつもりではいますよ。」
順位を全てとしない男の顔は精悍な歴戦の戦士の顔だった。
誰かが必要としてくれる。
それは彼の誇りだった。
無意識のうちに彼は、若い世代に必要とされている。
ユーリはそれを遠まわしに伝えたかったのかもしれない。
「じゃぁ、俺はエレベーターなんで。」
虎徹の向かう先がユーリと逸れる。
「では、私は駅ですので。」
会釈だけを残して、二人はそれぞれの家路へと進路を向けた。

 

 

いいから付き合え、と虎徹に誘われてヒヨコのようについてきたのは。
一度、別れを切り出してすぐに虎徹と管理官を見かけた場所だった。
「...ここは...。」
どうしてこんなところに連れてくるのか不思議でたまらないが、言われるままについていく。
自宅の程近くであり、虎徹が軽々と飲める場所ではないはずだが。
路地の奥まった位置にその店はあった。
「今晩は。」
重厚な扉を押し開け、暗闇が入れと招く。
二人してその暗闇に紛れれば、異様な雰囲気の店だとしれた。
「いらっしゃいませ。あら、お連れ様なんて初めて。」
女主人は見たことのないほどに喜びを震わせた。
「いらっしゃいませ、鏑木様。お席は、テーブルで?」
モノクルのバーテンが慣れたように空いたテーブルを示すが。
「いえ、カウンターでお願いします。」
勝手知ったるのように、穏やかな顔で依頼する。
「どうぞ、鏑木さん。それから、隣のヒーローも。」
虎徹が示された椅子に座り、隣を陣取る。
と、奥から軽薄な口笛が上がった。
「本物!!!」
どこか冗談めかした声だった所為で、バーナビーは奥の人物を睨みあげた。
「バニー。ここじゃ俺が誰だか全員知ってるんだよ。」
柔らかい声で、虎徹は諭す。
「でも...。」
「全員、元関係者だ。だから、いいの。」
虎徹の声があまりに穏やかすぎて、バーナビーの不安は煽られるばかりだ。
「ママ、俺に魔王ちょうだい。それから、コイツに、PAUL GIRAUD Tres Rareを。」
そのオーダーを聞いて、ことりとグラス2つを用意する。
「そういえば、久保田萬寿が入ったのだけれど。」
ふるり、と彼女が笑う。
その美しさにバーナビーは呆気に取られてしまった。
「久保田かぁ...。あとで頂くよ。」
虎徹は、静かに笑って注がれた魔王を煽る。
「...PAUL GIRAUD Tres Rare、美味しいわよ。」
初めて聞く酒名にバーナビーの動きは止まっていた。
ワイン以外を飲まない訳ではない。
ただ、好きなロゼ以外を酒名で飲むということをしたことがなかった。
「ふふ、鏑木さんにお酒の飲み方を教えてもらいなさいな。」
バーナビーに向けて女主人は極上の笑みを零した。
「は、はい。」
ちびり、と口を付ける。
まずはその度数の高さに驚くが、ふわりとした甘さにも魅かれた。
彼がバーナビーの腕の中で泣き、眠った夜から何の進展もない。
それでもいいのだが、最低限のことにしか彼からの言葉がないのは少しだけ辛い。
視線を隣にすれば、ゆっくりと酒を飲む虎徹の横顔になる。
舐めるように飲むとは言ったものだが、確かにそんな飲み方だった。
「今夜は、どんなときなのかしらね。」
冗談めかしたように彼女は笑う。
「ん、癪だったんで。」
そう言えば、虎徹の顔が自然と笑顔になった。
あぁ、不自然な笑顔じゃないと確認すれば、虎徹の瞳が濡れたように揺れている。
「こんなとき、じゃなくて。嬉しいときに、来ようって。」
虎徹が喜んでいるのだと理解するのに時間はかからなかった。
バーナビーが隣にいること、それが心底嬉しいらしい。
虎徹は確かにバーナビーを拒絶した。
その拒絶を、今解いてくれたのだ。
触れたいという衝動に駆られるが、抑える。
目の前の酒を再び口にすれば、酩酊が衝動を抑えてくれた。
穏やかな酒の味に、バーナビーは学ぶことが多い。
食事の一環ではなく、酒そのものと付き合うように。
誰かと語るでなく、酒と語るように。
虎徹の酒との付き合いは賑やかなだけではないのだと知る。
ゆっくり、ゆっくり、かみ締めるような飲み方は時折冷静さを欠く己にはいい飲み方だと気付いた。
ふにゃりという形容詞がぴったりな笑顔は女主人のほうに向いてはいるが、確かにバーナビーに対して向けられたもの。
触れたくても触れられないことが心底もどかしい。
頬杖をついて少し突き出した唇。
キスすらしなくなって何日かも数えていない。
それでも。
それでもいいと思った。
触れることができなくても、ただ、傍らにいるだけでいいと思った。
「飲むか?」
差し出されたのは、魔王でなくて久保田萬寿。
口を付ける前にとその香りを吸い込めば、爽やかさに驚く。
「フルーティな香りがしますね。」
虎徹の目が優しく細められる。
「だろ。辛口だから飲みやすいはずだ。」
俺は甘口のほうが好きなんだけどなぁ、と零す虎徹の笑顔は、機嫌のいい虎が笑った顔だった。
一口飲めば洋酒とはまた違った味が広がる。
しっとりとした風味はどことなく虎徹を連想させた。
上機嫌なのが分かる顔で、虎徹はバーナビーを見ていた。
酒の所為ではあるが目元がじんわりと朱い。
なんて表情だ、と思いつつもバーナビーは視線を逸らさなかった。
バーナビーも笑ってみせると、虎徹のほうが照れたように視線を逸らす。
二人で穏やかな時間を過ごすことが、どれだけ気持ちの落ち着くことか。
自分からこんな時間を手放したなんて、本当にあの時の自分は愚かだったのだと思い知る。
今度こそは確り関係を築き上げよう。
一方的ではなくて、お互いの確かな心の道を作って。
静かな絆でいい。
激しいものなんて別に必須ではないのだから。
虎徹に勧められる酒を穏やかに二人で共有しながら、バーナビーは初めて大切な人と過ごす時間を楽しんだ。
帰れるうちにというのが虎徹の飲み方の基本である。
そこそこに酒が入り酩酊が体を支配しているが、まだ歩けるという判断で虎徹はこの時間をお開きとする。
ごそごそとサイフを取り出し、金を静かに置く。
「僕が出しますよ。」
バーナビーが慌てて金を出そうとするが。
「いいんだ、俺の奢り。」
ふっと笑って、虎徹はバーナビーの腕を掴んで遮った。
「甘えておきなさいな、ヒーロー。」
女主人も虎徹の味方をする。
彼女は気付いているのだろうか。
虎徹と己の関係を。
虎徹に酷い仕打ちをしてきたと自覚があるからこそ、彼の負担になるようなことはしたくない。
「ほれ、帰ろうぜバニー。」
穏やかな笑顔に抵抗を挫かれて、店内の出口に引き摺られる。
「また来るよ、ママ。」
暗闇から、明るい夜の街へ。
去り際に、女主人の涼やかな声が、再びの訪問を待っているとだけ告げた。
「あの、虎徹さん...。」
バーナビーの腕を引っ張ったままの虎徹はずんずんとエレベーターへと進む。
「俺も帰るんだ。送ってくぐらいしてくれたっていいだろう?」
方向で言うなら虎徹のテラスハウスへの道程だ。
ここでいいか、とエレベーターに程近い公園で虎徹が立ち止まる。
「また、明日な、バニー。」
ハンチングを目深にして視線は合わせなかった。
また明日。
明日になれば彼に会える。
なのに、明日だ。
嫌です、とバーナビーは言うか迷った。
折角、拒絶を解いてくれたのに。
なのに、触れさせてもらえない。
「お前も、帰って寝ろよ。」
じゃあな、と虎徹が片手を上げる。
「嫌です。」
思わずその腕を掴み、明日まで待つことを拒否した。
拍子に、ハンチングが落ちる。
ハンチングで隠していた顔は、居心地悪そうに赤く染まっていた。
「貴方を...帰したくありません。」
どんなに冷静になったって、そう思うしかない。
視線を泳がせる虎徹の顔は、どう見たって文句なしに可愛い。
恋人が、拒絶を解いて、恥ずかしいから、帰る、と言っている状況なのだ。
それをみすみす帰せる余裕なんてバーナビーにはなかった。
「...でも、明日、仕事。」
ばつが悪そうに、虎徹は落としたハンチングを拾う。
鏑木・T・虎徹が理性の人だということは、バーナビーは否というほど理解している。
だからこそ、強引に出なければ彼は引き摺られてくれない。
「すみません、虎徹さん。僕は本当に子供だ。」
子供のような我侭なのだと自覚している。
「でも、もう、形振り構っていられないんです。」
一度でも彼を手放した。
そして、彼が誰かのものになるのに耐えられなかった。
今、彼は確かにバーナビーの元にいる。
だが、それは確証にはならない。
「お願いです。どうか今夜は、僕の傍にいて下さい。」
真摯な願いだった。
その願いを聞いて虎徹は沈黙してしまう。
視線を合わせることを恥ずかしがった虎徹は、ようやっとバーナビーの顔を目線で見上げた。
ありえないぐらいに緊張して、今にも泣き出しそうな顔をしたバーナビーを見た。
その顔に、虎徹の中で優しい思いが再び浮き上がる。
「しかた、ねぇなぁ...。」
小さな声で、その願いを聞き入れたとバーナビーに告げた。
途端にバーナビーが嬉しそうな笑顔になった。
「あの、虎徹さん...。触っても...いいですか?」
律儀に聞いてみたら、虎徹の表情が赤くなったままで鳩が豆鉄砲を食らったみたいになった。
「だぁっ...。」
お決まりの口癖を零してきたので、腕を腰に回せば。
拒絶も何もなく、自然と体を寄せてきてくれたことに安堵する。
「帰りましょう。」
スタイリッシュも何もあったものじゃない。
でもそれでいいのだと、否、誰かを愛することにスタイリッシュも何もないのだと。
バーナビーはやっと実感した。

根っこの部分で繋がったものが確かにある。
別れを切り出したとき、怯えている自分がいた。
それは、彼の何の打算のない想いを受け取ることが怖かったからだ。
だが、バーナビーはその想いの名前をもう知っている。
忘れるはずのない名前だ。
両親が子にするように、伴侶を得た者がその伴侶にするように、注ぐものの名は「無償の愛」。
今度は、バーナビーが虎徹に注ぐ番だ。

5年という間、虎徹は蓋をしていた。
いくつかの好意があって、それを分け隔てなく周囲に注いではいた。
娘の楓は別格だけども。
だけど、たった一人に注ぐということに蓋をしていた。
かつて妻を愛したように、誰かを愛するということ。
別に愛し返して欲しいわけじゃない。
注ぎたいから注ぐのだ。
もう一度、バーナビーに注いでもいいようだ。

これからは。

護れ、愛情-

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