虎徹さん孕む-03-

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平坦な説明パートはがっつり眠くなります。

眠いのでそろそろ寝ます...。

 

おやほもなさいませ!!!

あれから。
目覚めた虎徹は、バーナビーが眠っているうちにと逃げるように部屋を出た。
更なるダメージを与えられ、酷く軋み悲鳴を上げる体に鞭打って家に帰りついたのは夜も明けてから。
性欲の捌け口。
ずっと、そう理解しているつもりだった。
それでもこんな無理強いされるとは、考えてもいなかったのだ。
出掛ける直前まで、虎徹は泣いた。
声を上げて、何にも縋れず一人消えてしまいたいと。
その日から、虎徹は徹底的にバーナビーを遠ざけた。
オフィスでの接触は挨拶を交わすのみ。
何かと用があると言っては、バーナビーの視界から極力消えるように。
プロデューサー兼マネージャーであるベンに最大限コンビではなくソロの仕事にもしてもらった。
バーナビーを1部に上げる、最もらしい理由を極秘に告げれば、ベンは疑いも持たずに便宜を図ってくれた。
それでもコンビの仕事がくれば、最低限の接触からは逃れられない。
バーナビーの存在に怯えながら、虎徹はいつ、また、乱暴に凌辱されるかもしれない恐怖に曝されている。
そして、その恐怖の中で、バーナビーは決して虎徹に何もしなかった。
 
アントニオからの誘いは本当に久しぶりだった。
バーナビーとの接触を絶つことに頭が一杯で、最近は酒すらも飲んでいない。
一人で、あの最悪な夜を思い出して泣くより、虎徹は古い友と呑むことを選んだ。
馴染みのバーで呑んでいたアントニオの隣に陣取り、焼酎のロックを頼む。
「最近、調子はどうだ?」
「あぁ、そこそこ。」
近況を手短に伝え、久しぶりに落ち着いている自分に虎徹は胸を撫で下ろす。
1部が、虎徹とバーナビーが抜け穴が大きいだのというが、なんとかやってるあたり穴は大きくもないだろう。
「そういや、最近はソロが多いがどうしたんだ?」
虎徹とバーナビーの1部復帰を熱烈に歓迎しているのは、アントニオだ。
「あぁ、いや、アイツだけでも1部にさ...。」
差し出された焼酎のロックに手を伸ばし、一口。
「なるほどな。だが、奴さん、最近成績低迷してるが、大丈夫なのか?」
アントニオからの言葉は、虎徹は初めて聞く事実に先ほど一口呑んだ酒の味の違和感を忘れた。
「え、あ、そうなのか?俺、最近は自分のことが手一杯で...。」
虎徹とバーナビーが築き上げた信頼関係を知っているアントニオにはかなり無理な言い訳だった。
「おいおい、お前アイツの相棒だろう?」
確かに相棒だが、危うい関係に成り立った存在であることはこの前思い知った。
虎徹は、目の前の酒を一息に飲み干す。
今までに感じたことのない違和感と酷い味が、虎徹の口に残った。
今すぐに吐き出したい。
とにかく吐き出したいという欲求に逆らえず、アントニオに断って席を立つ。
「おい、大丈夫か?」
アントニオの問いかけに、無理に笑って大丈夫だと答えトイレに駆け込んだ。
「う、ぇッ...げほっ...」
飲み干した酒を洗面台にもどす。
それでも気持ち悪さが消えない。
「...おぇ...」
胃の底から込み上げてくる嘔吐が続く。
早く戻らないと、と思うが、空っぽのはずの胃の中を胃液すら戻そうと気分の悪さが駆け巡った。
「虎徹、大丈夫か?」
とうとう、心配したアントニオが虎徹の様子を見に来てしまった。
たった1杯の焼酎でもどすなどという惨劇は1度もない。
むしろ、虎徹のほうがアントニオより飲む。
今だに嘔吐し続ける虎徹の背をアントニオがさする。
「...げほっ...どうしたんだろ...」
虎徹は言い訳のように零す。
「...妊娠中の女性じゃあるまいし、風邪でも引いてるんだろう。」
  "妊娠中"、その言葉を聞いて虎徹は青褪める。
紛れもない、それは事実だと思った。
バーナビーに凌辱されたのは、能力が付与されて1ヶ月ほど後。
それから、もう更に1ヶ月は経とうとしている。
楓を身籠ったときの友恵が言っていた古い知識を総動員させても、これが悪阻であり酒の味が変わったことにも納得できる。
だが。
それでも、ただの風邪だと信じ込みたい。
「お前が風邪なんて、珍しいな。」
アントニオは風邪だと信じて疑わないだろう。
虎徹だってこれが風邪だと信じたい。
だが。
自分が置かれた状況がどんなものか把握するのはいつだって自分自身だ。
「帰って、ゆっくり寝るわ...。」
治まりつつある吐気ではあったが、自覚してしまった体調の悪さは拭えずアントニオに金を預けて虎徹は家路に着いた。
 
自覚してしまえば、なし崩しのように虎徹の体調は不安定になった。
目眩や立ち眩みは常で、悪阻が毎日のようにある。
状況はいい方向には動かず、やがては誰もが判るほどに憔悴していた。
それでも、周囲に秘密を知られたくない一心で、虎徹は何でもないように振舞った。
毎日ではないが2部のヒーロー業務に差し障りが出ることだけは何としてでも回避したい。
好きで続けている仕事に誇りがある。
この仕事を辞めたくないという一心が虎徹を支え続けていた。
その日はどうしてもコンビとしての仕事だった。
大した事件ではないが、それでも事件だ。
決して無理な行動はせず、バーナビーの補助に徹する。
それだけの仕事だった。
帰りのトランスポーターで、ヒーロースーツを脱ぎ、息苦しいインナーを脱げば酷い悪阻に襲われる。
狭いトランスポーターの中では、嘔吐する姿をバーナビーに見られるのは当たり前だった。
「虎徹さん、大丈夫ですか?」
このところ様子のおかしいであろう自分にバーナビーの声が掛かる。
「...なんでも...ねぇ...」
悪態をつくように吐き捨てると、虎徹はいつものように洗面台に雪崩込む。
一頻り吐けばなんとか治まるが、根本的な解決にはならない。
鏡を見て、酷い顔色の悪さに笑う。
更に奥に写り込んだバーナビーの姿を見つけ、虎徹はただ、黙り込んだ。
「最近、どうしたんですか?」
優等生然とした態度で、バーナビーはそれだけを告げる。
あの夜については、思い出したくもないが、それでも謝罪ぐらいはあってもと虎徹は思う。
なのに、完全になかったことにしたいのならそれでもいい。
だが、完全になかったことに出来ないのだ。
虎徹にはそれが悲しかった。
どんなに体を繋げても、虎徹はただの性欲の捌け口でしかない。
凌辱されるのが当然の存在でしかない。
信頼を盾にされた哀れな男の末路。
「...うるせぇ...お前には関係な...い...」
やっと、この男から逃げ出す決意が出来た。
子供の様な表情も、愛していたことも忘れて遠くへ行こう。
「虎徹さんッ!!!」
バーナビーが叫ぶ声が遠くに聞こえる。
ズルズルと闇に引き摺り込まれ、虎徹の体がその場に沈む。
沈み込まれる前に、体を支えられた。
その感触が酷く優しいから決意が一瞬鈍る。
もしも、もしも、妊娠などという馬鹿げた事実がなかったら。
あの夜はなかったことにして、また、体を差し出せば。
再度の凌辱という恐怖はなかっただろう。
あぁ、泣きそうな子供の顔でバーナビーが何か言っている。
狂おしいほどに抱きしめられ、バーナビーの腕の中にいることに酷く安心している。
この1ヶ月の間、バーナビーが何度も言った虎徹への謝罪は、こんなに近くであっても虎徹には届くことはなかった。


 
いつもの病院で目覚めた虎徹は、そのまま1日検査入院となった。
ただの貧血という診断を貰って翌日出社し、有給休暇の手続きを取った。
無理しすぎだ、とベンの言葉を貰って虎徹は手にした名刺の場所へ向かう。
 
エスペランサ研究所
 
世界最大のアライアンスラボラトリーで、NEXT能力の研究を主軸に置いた施設である。
シュテルンビルトと比べると規模の小さな街エスペランサは、エスペランサ研究所のために周囲を取り囲むようにして出来た街である。
穏やかな街ではあるが、医療施設が揃うため特に医師志望の学生が研究や実地といったカリキュラムで利用するほど人気が高い。
また、エスペランサ研究所はかなりの古い歴史を持ちそのためか、NEXT能力の研究施設に有りがちな暗い部分が一切排除されていた。
特に医療転用可能なNEXT能力しか扱わないことに由来するらしい。
また、初代所長が清廉潔白な人で、転用するといってもNEXT能力での医療行為そのものは禁止し、難病治療のためのゲノム解析、よりよい新薬開発のための実験、あらゆる病気のステージを追うための再現など専ら本当の意味での研究にしか使わないことを定めたという。
例えば、傷を癒せる能力があったとしても、個人で強弱や範囲の違いもあるし、そのNEXTにも寿命がある。
永続する医療行為が出来ないなら、その行為は全て一時凌ぎでしかない。
エスペランサ、つまり希望は今だけでなく後世にも残すものという考え方は、虎徹には好ましく感じられた。
電車から降りた虎徹は、研究所付属病院へのモノレールに乗る。
確かに噂通り学生が多い。
学生と一緒に終着点の付属病院前で降り、病院の受付に名刺を見せる。
受付の女の子は、暫く時間をと虎徹に名刺を返して電話を持ち上げた。
「研究所のラクウェル・アノー医師をお願いします。えぇ、はい、外科の...。」
アノー医師は付属病院にはいないらしい。
待合室で、ぼんやりと虎徹は時間を過ごす。
今日は不思議と悪阻が出ない。
「鏑木さん、鏑木虎徹さん!!!」
受付に呼ばれ、虎徹は立ち上がる。
「鏑木さん、立たないで、そのまま。車イス持って来ますので、ちょっと待ってて下さいね。」
受付が何処も悪くないのに車イスと言い出して、虎徹も慌てて否定するがアノー医師からの指示と言われて寄せられた車イスに乗る。
と、何処かで見たことのあるような看護師がやってきた。
「鏑木虎徹さん?研究所の外科部看護師長のレイノルドよ。コレ付けて貰ってもいいかしら。」
差し出されたのは首から下げるタイプのゲスト証だった。
「あ、はい。」
虎徹は素直にゲスト証を下げ、やがて看護師長の押す車イスの人となる。
病院だからか、車イスであっても誰も注目する人はいない。
通い慣れた道というように、看護師長は複雑な院内を通り過ぎ、裏口から研究所直通のモノレールに虎徹を乗せた。
「病院の区画が広いでしょう。慣れた人が迎えに行かないと迷ってしまう人が多くて。」
人好きのする穏やかな笑顔で、虎徹の警戒心を解いてくれる。
「もうすぐ着きますからね。」
今度は打って変わって静かな区画となった。
病院というより大学の構内に近い。
淡いクリーム色で統一された単調な廊下で、どこか恐怖心を煽る。
同じ景色を何度も通り過ぎ、やっと1つのドアの前に辿り着いた。
「アノー先生、お連れしましたよ。」
ノックと同時に、看護師長が中の人物を呼ぶ。
「どうぞ。」
聞き覚えのある声は虎徹の恐怖心を緩めた。
中に連れられると、病院の施設と大学の研究室を組み合わせたような室内に驚く。
そして、見渡す限りの本の山に虎徹は絶句した。
本の山の奥から、ひょっこりといつぞやに見たラフな格好に白衣を着た短髪の眼鏡が顔を出す。
「顔色、良くないですね。」
虎徹の顔を見るなりだった。
「お久しぶりです。ワイルドタイガーさん。」
虎徹はこの病院では本名を名乗った。
なのに、どうしてあの時のワイルドタイガーと解ったのか身構える。
「あぁ、驚かせてすみません。閉鎖的な研究施設だから、名刺をお渡しする方も一握りなんです。」
つまり、彼女が久しぶりに手渡した名刺は虎徹だけということだった。
彼女は、虎徹の手を取り、手のひらを確かめると今度は脈をみる。
「怖かったでしょう。もう、大丈夫ですよ。」
恐怖を知られ、虎徹は言葉を失くす。
「ちょっと脈が早いかな。熱は微熱が続いてますね?」
穏やかな顔が、虎徹を見ている。
「少し、深呼吸しましょう。」
言われて、アノー医師がするように深呼吸する。
「微熱は...気付いてなかったです。」
やっと虎徹は応える。
「うん、やっと声が出た。」
そう言われて、虎徹は今までの息苦しさを知った。
「あの、先生...。」
色々決意してここまで来たのだ。
その決意がどんなものであれ、虎徹は納得してここまで来た。
「はい。」
はっきりとゆっくりと。
真摯に聴く体制を整えて、アノー医師は虎徹を穏やかに見守ってくれている。
「俺、は...」
約束の3ヶ月は実は過ぎていない。
どういう状況かをアノー医師は知ってくれている。
「...子供たちを...産みたくて...」
突拍子もないことだとは解っている。
それでも。
宿したはずの命を終わらせることは出来なかった。
虎徹はなんとか語れた決意に涙する。
「えぇ、解りました。産めますから、安心して下さい。」
アノー医師は決して否定しなかった。
むしろ肯定すらしている。
「...産んでも、いいんですか?」
本来その言葉は、別の人物に捧げる言葉ではあるだろう。
「勿論です。いいに決まってますよ。」
ラクウェル・アノーが言っても説得力のない言葉だ。
だが、誰かが言わねば虎徹は救われなかっただろう。
-今、子供たちと言ったか。
ラクウェル・アノーはもう一度虎徹の手に触れる。
いきなりエコーで確認するには酷だと思って、少しだけ能力を使わせて貰った。
といっても、今から200年以上は前のエコー検査機よりも劣るポンコツ透視能力だが、子宮らしい臓器の姿は確認出来たがそれ以上は無理だった。
『母親の勘って当たるんだよなぁ。』
自分の能力に頼るのは諦めて、素直に機械の力を借りようとラクウェルは看護師長にエコーを持ってくるよう依頼する。
「今、どうなってるかエコーで確認してみましょう。」
ほろほろと涙を零す虎徹を見て、もう一つの危惧をする。
一人で来たと聞いていたとおりで、どうしても作らねばならない書類で書き込めない事項がある。
2つの候補をあげて、即座に1つの候補を脳内で消した。
ゆっくりと背中をさすって落ち着かせてみるものの、心理部の医師が言っていた通り、ラクウェルではなんの役にも立たないらしい。
必要以上のことを言わせないですむように配慮はしているが、本来なら一番頼りにしたいところがないから厳重な管理に頼るしかないだろう。
ガラガラと最近では滅多に使われていませんと埃をかぶったエコーが運び込まれる。
「鏑木さん、そこのベッドに寝ましょう。」
唯一本に侵食されていないベッドが虎徹が寝ることによって本来の使われ方をされる。
虎徹の衣服を緩めるよう指示し、腹部を露出させる。
「ごめんなさい、冷たいですよ。」
冷たくないジェルを誰か開発しろよ、とぼそりと言えば虎徹の表情が明るくなった。
ヒヤリとした感触を受け、虎徹が笑いながら冷たいと文句をいう。
「うん、いい笑顔ですよ。」
ラクウェルはほっとした顔で笑顔になった。
やっと緊張も解れ、アノー医師が腹の周辺をモゾモゾと動かすエコーの画面も見れた。
アノー医師が丁寧に説明してくれるが、まだ小さいから完全には見えない。
でも確かに虎徹の中に存在している。
視覚として認識すれば、母親というのもおかしいが宿った子供を守ろうという気さえしてくる。
そして、虎徹はアノー医師に入院を言い渡された。
「うん、鏑木さん、今から入院で絶対安静ね。」
だが、それでは業務に支障が出る。
「先生、それは...」
虎徹の言いたいことは解っているというようにアノー医師は言葉を遮った。
「うん、だめ。鏑木さん、赤ちゃん抱えてるって物凄い負担なのは知ってるでしょう?」
幼稚園の先生が、まるで駄々をこねる園児に諭すような優しい口調だった。
「ちょっと脈診たけど...うん、早いんだよね。心臓に負担かけてるってこと。」
とっ、とアノー医師の指先が虎徹の心臓を指す。
「で、でも、急には...」
そう、突然入院で休むワケにはいかないのだ。
「あのね、鏑木さん。私の使命は貴方の命と赤ちゃんの命を護りぬくこと。」
揺れる虎徹の不安に、諭すようにアノー医師は続ける。
「でもね、貴方は大変申し訳ないけど男性だ。本来、ないものを無理に存在させてる状態。」
それはよくわかっている。
虎徹にはいやというほどわかっている。
「でも、先生...俺は...ヒーローだ...。」
アノー医師の言いたいことはよくわかる。
だが、虎徹の誇りであり、尊厳でもあるヒーローという業務は虎徹を虎徹たらしめる一因でもある。
「うん、でもね。貴方いつかの雑誌で言ってたでしょ、『護る』こともヒーローの務めだっ、て。」
それを言われると虎徹は弱い。
「だったら、今の業務は『貴方の子供を護る』こと。うん、それでいかがです?」
言いくるめられた感がしないわけではない。
ただ、アノー医師のその言葉が必死なものであることに、虎徹は折れる。
「わかり...ました...。」
だが、納得すれば肩の荷が下りたようなほっとした感覚があった。
軽微な犯罪を扱うといっても、いつ己の体を危険に晒すとも限らない。
子供を護ることに専念する。
虎徹は、今はそれを目標にしようと思う。

虎徹に充てられた部屋は、研究所で暮らすNEXTのための部屋だった。
部屋自体が病室ではなく、小さなアパートの1室という具合だった。
ただ、絶対安静という指示通り最低限のこと以外はベッドの上となる。
オマケに、心臓の負担が気になるからと心電図まで採られる始末。
まるで重病人扱いに、虎徹は大人しくその日はゆっくりしていた。
とんとん、とノックがあってアノー医師が再び虎徹の顔を見に来たのは夜も8時が過ぎたころ。
「鏑木さん、必要な書類もってきましたよ。サインお願いします。」
アノー医師と一緒に看護師長のレイノルドも入ってくる。
実は彼女は以前の患者脱走事件の際、関係各所に頭を下げて回っていた人だった。
どうりで見た覚えがあると虎徹が漏らすと、覚えていてくれて光栄だと朗らかに笑ってくれた。
「夜遅くなのに、すみませんね、鏑木さん。血圧、測りますからね。」
血圧計を取り出し、レイノルドは慣れた手つきで血圧を測っていく。
「看護師長さん、明日、採血お願いします。」
虎徹の血圧をメモしながら、彼女はすぐさま別のメモに指示を書き込む。
一通りの型となった質問に答え、ようやっと本題に話が入る。
「鏑木さんの入院費。国に申請することにしました。」
さらりと言ってのけたが、それはかなりの大事ではないかと虎徹は不安になった。
「え...と...俺が、その...妊娠してるの...」
世間にバレればいいスキャンダルだ。
男が妊娠というだけでもネタになるのに、それがヒーローである自分なら尚更。
「うん、大丈夫。一切公表されません。」
話せば長くなるがと前置きを置いて、アノー医師が虎徹に説明する。
エスペランサ研究所が街として成立した理由。
その理由の1つに医療従事した者の個人情報管理を司法が厳重かつ極秘に管理するという法律が必要であった。
それは、兵器転用できる毒やウィルスといった化学の分野のNEXTを護ることからはじまっている。
その法律は時と場合により様々に適用されている。
故に公表を憚られる場合、正規の手続きを経てエスペランサ司法局が確認をし速やかに抹消される。
ただし、研究という分野においてという条件がつくが。
「はぁ...研究、ですか...。」
人体実験のような気分がしないでもないが、実際問題、虎徹にはそんなに金がない。
「研究といっても、経過を観察する、それだけですよ。」
アノー医師が何とも言えない顔で笑っている。
「実は、過去に例がなかったわけじゃないんです。男性の妊娠。」
その言葉を聴いて虎徹は目を丸くした。
てっきり自分が初めての症例だと思っていた。
「...今までに能力を付与され、妊娠を確認した例は鏑木さんが思っている以上にあります。」
それを聞いて自分ではなかったのかと奇妙な安心感が生まれる。
「ただ、ですね。継続できたのはそのうちのほんの数例。」
現実というものは、そんなものだ。
男が妊娠するなど土台無理な話である。
「そして、無事出産できた例は1例もありません。」
それを聞いても虎徹は「やっぱりなぁ」としか零せない。
「うん、でも、ですね。母親となった男性の命と引き換えにした出産例は1例だけ存在します。」
アノー医師の口癖を覚えてしまった虎徹は、彼女がその"うん"と相槌を言う度に励まされているような気がした。
そして、命と引き換えだが子供を誕生させた例がある。
「私の使命は鏑木さんの命と赤ちゃんの命を護ること。なので、国だろうがなんだろうが使えるものは使おうと思っています。」
冴えない風貌という印象を虎徹は彼女から消す。
「ということで、必要書類にサイン下さいね。」
1枚1枚何の書類を彼女はとても丁寧に説明してくれる。
わからないことがあれば、虎徹に分りやすいよう更に丁寧に説明してくれた。
「先生、入院の書類2枚ありますけど...」
同じ書類が2枚揃ってある。
入院事由は空欄のままなのでただの予備かと思ったが。
「あぁ、それは2枚でいいんです。1枚目は本当の事由のもの2枚目はダミーですよ。」
虎徹のサインの後に、彼女はさらさらと独特な字で1枚目に【偶発的な外部接触による妊娠のための経過観察】と記し、2枚目に【能力減退における身体的負担の経過観察】と記す。
「ごもっともな理由で。すみません、気を回してもらって...。」
できれば元同僚達にも知られたくない事実であった。
「今回、ダミー会社を入れました。なので、鏑木さんがここにいるというのはかなり調べにくいと思います。」
どうやらこの手のことには慣れているようで、虎徹は改めてアノー医師を見直す。
「うん、メディア対策なんですけどね。万一知られても面会謝絶という最終手段とりますが。」
虎徹にとってラクウェル・アノー医師との出会いは本当に幸運だったのかもしれない。
否、幸運そのものだろう。
彼女は虎徹を否定せず、医師としての務めを果たすと約束してくれた。
そして、最後の1枚を手渡される。
「すみません、この書類が一番重要なんです。」
前置きの断わりは、彼女が本気で虎徹の為に親身になってくれている証拠だった。
たった1枚の書類がこんなにも気分を重くさせるとは虎徹も思っていなかった。
「あの...空欄じゃ...マズイですよね...。」
特別妊娠証明申請書、と題された書類のサイン欄は2つ。
1つは虎徹のサインで事足りるが、もう1つは決して書かれることはない。
そう、虎徹が宿した子供の父親の欄に。
「...空欄でいいですよ。」
返ってきた答えは、虎徹の困惑を少なからず軽減した。
「そこは空欄でかまいません。」
虎徹は恐る恐るサインを書き終え、アノー医師に手渡す。
そして、彼女は何の躊躇いもなく、父親の欄に名前を書き込んだ。
虎徹はその書き込まれた名前を見ないことにした。
書かれる名前は、便宜上書かれるとされる一般的なもの。

John Doe

故郷の単語に直せば名無しの権兵衛となるその名前が、そこに明記されているだけだろう。
そこに、バーナビーの名前が記載されることは、虎徹には苦痛だ。
何もかも捨てて、ここに来た。
だから、二度と。
バーナビーの名前に触れることはしたくなかった。

ラクウェルは視界の端で、虎徹の反応を見ていた。
『よっぽどの負担だな...。こりゃ入院長引くぞ...。』
父親の欄というだけで、不安の色を濃くした表情は、どこからどう見ても憔悴している。
一番の問題がこの書類。
父親のサインを書き込まねばならない書類であり、実際問題至ってノーマルな場合であってもあまり歓迎されない場合が多い。
いい加減見直しをしてくれ、とラクウェルも何度も祈った。
精神が不安定な状態の患者は嫌というほど診てきた。
特に、ラクウェルの2つ目の専門分野が外科的治療における心理学のアプローチ。
しかも、妊娠中の人間の心理というものは更に複雑である。

Alan Smithee

ラクウェルは逃げ場所という意味で父親の欄をこの名前にした。
かつて、命と引き換えに子供を産み落とした男性も父親の名だけは語らなかったという。
そのときは確かに"John Doe"の名が使われた。
ただ、ワイルドタイガーと名乗るヒーローである事実と、父親のサイン欄への酷い動揺。
そして、産みたいという決意。
詮索するな、と言われてもそれらが指し示す方向は1つに向かっている。
鏑木・T・虎徹という人物の最も近しい者。
ワイルドタイガーとしての最も近しい者。
恐らく、子供の父親はバーナビー・ブルックスjr.だろう。
だが、彼がその名を口の端に上らせることを極端に拒んでいる。
精神の不安定の誘発因子として、ラクウェル・アノーは鏑木・T・虎徹の精神状況の監視を厳しくしようと妊娠継続計画書に変更をかけざるを得なかった。

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