ごめんなさい。
そう言うたびに、必ず返ってきた言葉がある。
あなたのせいではない。
あなたは、何も悪くはない。
何度も何度も、繰り返された。繰り返し繰り返し、諭された。
あなたのせいではない。
あなたは、何も悪くはない、と。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
だけど、そんな言葉を受け入れたことは、一度も無かった。
でまかせだとも、気休めだとも、言うつもりもない。
皆、心からそう考え、思っているのだと、知っていたから。
だけど。
ごめんなさい。
雨夜のたび、別離のたび、幾度もふれる思考の針がある。
たくさんのことを思い出して、針はかろうじて元の場所へ収まる。
この命は、あの時から、既に自分のものではなく、
もっと大きな、何かのものなのだ。
自分という小さな何かなど、比べようもないほどに。
もっと大きな、何か。
この命が失われれば、もっとたくさんの命が失われる。
この命が在るかぎり、もっとたくさんの命に希望が満ちる。
何度も何度も、繰り返された。繰り返し繰り返し、諭された。
そのものたちのために、生きなさい、と。
手を汚して、血を流して、何を信じられなくなっても。
だけど。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
本当に、それで良かったのか。本当に、そうだったのか。
信じてみても、それはごく一般的な結果論だ。
この命が生き延びたゆえに助けられた命は、どれほどなのか。
もっと早くに無くなっていれば、一体、どうなっていたのか。
過ぎた時間に、もしも、を唱えたところで意味が無い。
わかってはいるけれど、あの時、あの忘れられない日。
この命を生かすために、目の前で失われた命があった。
時は流れる。
人を殺して、思い知る。
刃で突き刺した心臓から、あたたかな赤い命が流れること。
やがて鼓動が止まり、冷たくなること。
味方であろうが、敵であろうが、異種族であろうが、自分であろうが。
何だろうが、同じものには変わらないのだと。
たくさんの、同じものを殺して、失わせて。
たくさんの人に、同じものを殺させて、失わせて。
そして、この命は生きている。
「……ルス、おい、マルス?」
「……っ!?」
肩にふれた手の感触と、自分を呼ぶ声の近さに、マルスは弾かれたように飛び起きた。
鼓動が速い。大きく見開いた瞳が、無防備に辺りを探る。
まず最初に映ったのは、じっとこちらを覗き込んでいるアイクの、
わかりにくいが多少びっくりした様子が見て取れる表情だった。
「……アイ、ク」
襟元を強く握り締めながら、マルスはのろのろと上半身を起こす。
汗ばんだ手は震えており、肩で息をしていることも自覚しないわけにはいかなかったが、
すぐに理由を思い出せなくて、何故かひどく困惑した。
マルスは何度か深呼吸を繰り返した後、微笑みを浮かべアイクに向き直る。
「ごめん……、……見張りの交代か?」
「いや。まだ時間じゃない。
……どうしたのかと思ってな。随分、うなされてたぞ」
「……え……?」
アイクの言葉に、マルスは不安げな視線を返した。ぎゅっと、自分の腕を掴む。
「夢でも、見たのか」
「…………」
夢。……夢だったのだろうか。それとも、何かを思い出していただけなのだろうか。
改めて見渡せば、辺りは夜の暗闇で、空には星どころか月も無い。
ホムラとリュカの枕になりながら眠っているリザードンの尻尾の炎だけが、
今宵の冷たい空気をあたため、暗がりを照らす灯りとなっていた。
マルスは毛布代わりにしていたマントですっぽりと身を包むと、
こちらを見つめたままのアイクの隣に座りなおした。
揃えた膝の上で組んだ腕に顎を乗せ、揺らめく火のかたちに目を向ける。
青い髪と藍色の瞳と、白い肌が赤く染められる様は、戦場の光景に良く似ていた。
「おい、マルス?」
「アイク。……訊いても、良い?」
「……? 何をだ?」
「アイクは……アイクの“世界”では、傭兵なんだろ?」
先刻の質問に答えず、逆に尋ねてきたマルスに、アイクは頷くことで返した。
「……傭兵、というのは……戦うことが、嫌だとは思わないのか?」
「……。
俺以外の奴がどうかは知らんが、俺は生活がかかっているからな。
嫌とか嫌じゃないとか、そんな次元の話じゃない」
聞けばアイクの傭兵団は、血の繋がるものから赤の他人まで、
様々な者が家族同然であるらしい。
そこの長だということは、どんなに若くとも、家長ということになるのだろう。
彼は、本来持つべき妻と子を守る代わりに、団員を守っているのだから。
国と国との争いに参加し、王国軍の将軍を務めたこともあるという。
マルスは視線を炎に向けたまま、ひっそりとした声で再び尋ねた。
疲れて眠っている子ども達を、けっして起こしてしまわないように。
「それじゃあ、アイクは?」
「……うん?」
「傭兵は、じゃなくて、アイクは? 戦うことが、嫌だと思ったことは?」
「無いな。……というか、好きだと思ったことも無い。
戦うことは単なる手段で、目的ではないからな。量れるものではないさ」
「…………」
では、その目的とは何だとは、マルスは訊かなかった。
そんなものは、聞かなくたって、わかるからだ。
「俺は、強くなりたいんだ。
これ以上、俺の目の前で、何も失わせないために」
続くアイクの言葉は、予想していたものと一言一句違わなかった。
一点の曇りも見られない、双眸に映る蒼い世界。
あまりにも眩く見えて、マルスはそっと瞳を伏せた。
ごめんなさい。
青が失われたあの空の下、白い手に銀の刃を握り、それらが、赤く黒く汚れても。
それは自分が望んだことだ。だってあの時、自分は、死にたくなかったのだから。
自分を捕まえるために戦ったもの、そんなものから自分を守るために戦ったもの。
自分を守るために死んだもの、自分を捕まえようとして、失敗して殺されたもの。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
助けるために、救うために、守るために。
どんな言葉を並べても、ただ、生きたかっただけだ。
口の中で血混じりの泥を噛んでも、あさましくても。
あの時の自分には、それしかなかった。
正しく見えるのは、後から言葉を付け足したからだ。
あなたのせいではない。
あなたは、何も悪くはない。
あなたは、この世界を暗黒の闇から救うための、光なのだから。
だけど。
だけど。
「……マルス?」
「え……。……あ、ごめん……。
……答えてくれて、ありがとう」
「ああ。
……俺からも、訊いていいか?」
「? うん。何を?」
沈んでいた意識をアイクに戻して、マルスは微笑む。
僕に答えられることならと言うと、アイクは真顔のまま、ぽつりと口にした。
それは、
「赤毛の子供がいただろう。
ロイ、だったか……あれは、あんたの、何なんだ?」
「……え?」
とても唐突な問いだった。とても遠いことのように思えた。
その名前も、その内容も、それがアイクの声で形となったことも。
マルスはぽっかりと目を見開いて、間の抜けた表情で見つめ返す。
それは、日常が戦場へと変貌する以前。
何の前触れも無く、突然に。
この“世界”からいなくなってしまった、少年のことだ。
「……ロイ?」
「ああ」
「……何で?」
「……。何でもだ」
マルス視点から見ても、ロイとアイクは、仲が良いとは言えなかった。
二人が同じ屋敷で過ごした期間はけっして長くは無かったが、
おそらく誰に聞いたって、同じ言葉が返ってくるだろう。
二人は、出会う度に衝突を繰り返していたのだ。
……ロイとピットの規模に比べれば、そう大したことでは無い、とはいえ。
「何、って、言われても……」
なのにどうしてロイのことを訊くんだろう。実は、意外と仲が良かったのだろうか。
本人達が聞いたら目眩を起こしそうなことをマルスは思っているが、残念ながら見当違いだ。
彼らの不仲の原因は、マルスの恋心にあったのだから。
マルスは、考える。アイクに投げかけられた質問の、答えを。
あんなに一緒にいたのに。
こんなに悩むのは、すぐに言葉が出てこないのは、どうして。
その時、マルスは。
「…………」
さっきまで自分が見ていた、遠い昔のことを思い出した。
どうしてそんなことを、夢に見ていたのかも。
そして、どうして今、そのことを思い出したのか、ということも。
「……ロイ、は……」
マルスの眼差しは、暗闇を照らす炎に向けられた。
やわらかな声が優しく、子守唄のように、心のかたちを紡ぐ。
「……僕の……大切な人だよ」
「大切な人?」
「ああ。……と言っても、最初は、大嫌いだったけど」
目の前の、この、赤い色のように。
自分だけに聞こえる声で呟く。
アイクに続きを要求され、マルスは素直にそれに応えた。
「……何て言えばいいのかな。あいつは……バカみたいに、真っ直ぐだから。
あいつの傍にいると、僕は、自分の嫌なところに気づいて、嫌だったんだ」
「……あんたが、自分の、何を嫌うんだ?」
「色々だよ。……これでも僕は、戦争の、中心人物だったから。
人から見れば、何てことは無いかもしれないことが、たくさんあったんだ。
……今でも、夢に見るようなことも、いくつも……」
それは例えば、城から落ち延びる、あの夜のこと。
はじめて人を殺したことや、自分のために人を犠牲にしたこと。
それは陽の当たる場所のことしか知らなかった幼い心を蝕んで、
幾度も幾度もその思考を、深く冷たい奈落の底へと向けさせた。
あんなことを夢に見たのは、今、戦場にいるからだ。
変貌の原因は謎のまま、何の為の戦いであるかも未だわからないが。
「……本当に、僕は、僕のことが、大嫌いだったんだ。
……アイクはさっき、強くなるために戦ってる、って言ったけど。
僕は、違ったから。……そんなふうには、言えないから」
マルスの言うことの全ては、アイクにはわからない。
アイクはマルスの“世界”のものではないし、マルスそのものでも無いからだ。
彼がどんな戦争を経験し、体験し、その結果、どんな思いが生まれたのか。
きっとマルス以外の、誰にもわからない。
炎はぱちぱちと爆ぜ、辺りに火の粉を散らす。
マルスは、あいつの話だったな、と笑い、深く長い息を吐いた。
その微笑みは、どこか、花に似ている。
アイクは美しい横顔に、ふと、そんなことを思った。
「だけどあいつは、僕のことを好きだって言った。
僕の嫌いな僕も、全部。
それどころか……。僕を嫌いな僕だから、こんなに好きなんだ、って……」
世界中の誰がマルスを嫌っても、憎んでも。
世界中の誰もがマルスを見放しても、突き放しても。
例えマルスを一番嫌うのが、マルス自身であっても。
自分が傍にいるから、もうひとりにはなれないと、彼は笑って言っていた。
「僕がしてきたこと、僕が思ったこと、全部揃って、僕だから……。
それがあって今の僕があるなら、その僕のことが、好きだ、って。
あいつに、そう言われて……だから、僕は……」
背が低いことを、いつも気にしていた。
そのくせ抱きしめる腕は強く、手のひらはとてもあたたかかった。
少年の炎はあまりにも明るく、闇を曝け出されてつらかったけど。
子供みたいな体温は、いつのまにか当たり前のように傍にいた。
「……僕は、僕のことを、好きになれるかもしれないって思ったんだ。
……あいつが、僕を、好きだって言ってくれたから。
僕は、自分の昔のことを、引き摺るんじゃなくて、受け入れられるかも、って。
あいつが……、……ずっと、傍にいたから……」
俯かせた顔を腕に埋めて、マルスはそこで言葉を切った。
話せば話すほど、今ではもう叶わない日々が鮮明に蘇り、思い出は色や音を取り戻す。
自分の声で語り、改めてマルスは、自分を占めていたものの存在の、重さに気づいた。
あんなことを夢に見たのは、今、この“世界”が戦場であるからだ。
では、どうして。
アイクがロイのことを尋ねたその時、そのことを理解したのだろう。
「…………」
簡単だ。
戦場に、それに纏わるものに、心のいちばん深いところが在ったからだ。
そして、
いちばん深いところにある自分を、抱きしめてくれたのが。
ロイだったからだ。
「……あいつは、」
「……うん?」
「あんたの、恋人か?」
黙ってマルスの話を聞いていたアイクが、リザードンの尻尾の炎を見ながら尋ねた。
直視が当たり前の彼にしては珍しい。
その理由にはどうしても気づけないマルスは、ふんわりと微笑む。
ここが戦場であることなど、まるで感じさせないくらいに。
「……ああ。そうだよ」
胸が詰まりそうなくらいに優しい声で、答えは返された。
アイクは、どう反応すれば良いのかわからなかった。
だが、マルスがアイクの沈黙を不思議に思うより前に、
マルス自身が、少し恥ずかしそうに言う。
「それは、あいつがまだ、僕のことをそう思ってくれていれば、の話だけどな」
「……そんなに薄情な奴なのか?」
「いや、そんなことないよ。……むしろ逆かな。
良いんだ。今のは、そうだったら、っていう、僕の願望だから」
「? ……どういう意味だ?」
それではまるで、そうじゃなくても良い、と言っているようだ。
首を捻るアイクに対して、マルスはあくまでも穏やかだった。
「良いんだよ。
あいつが、あいつの“世界”で、僕以外の誰かを思っていても」
「…………」
もういない。
この世界の、どこにもいない。
誰も、答えない。
だからこそ。
「それでも……あいつは確かに、この“世界”にいたんだから。
あいつの言葉を、僕は忘れない。僕は、それで、良いと思う」
マルスはよく笑う。そして、いつだって幸せそうだ。
何がそんなに楽しいのか、アイクにはいつもわからなかった。
時折見せる、張り詰めた糸のようなさみしさのわけも。
はにかんで頬を染めるマルスを、アイクは遠いどこかのように見ている。
喉の奥に引っ掛かった棘の痛みの名前には気づかないまま、
アイクはただ、そうだな、とだけ返事をした。
その後マルスは、火番と見張りを代わると申し出たが、
アイクによって却下されたため、再び横になることになった。
体をマントで包んだまま、剣を抱きしめ目を閉じる。
乾ききった硬い地面の感触は、記憶の中のそれと大して変わらなかった。
昼間の暑さとは打って変わって、この暗闇はひどく冷たい。
もぞもぞと身じろぎしながら、マルスは小さな声で話しかける。
「……アイク? 本当に、代わらなくても……」
「気にしなくていい。寝てろ」
即答。アイクの性格を考えれば、これ以上は何を言っても無駄だろう。
どうやら自分は、このまま休むしかないらしい。
諦めがついたマルスは、小さく溜息を吐き、寝るための努力を始める。
一度醒めた意識が、大人しく従ってくれるかはわからないが。
出来るだけ何も考えないように。
明日もまた、歩くことになるのだろうから。
いつになれば、追い着けるのだろうか。
奪われた、と、たった一言メタナイトがそう告げた、あの戦艦に。
「マルス、」
「……ん……?」
気づけばまた考え事をしていたマルスの耳に、呼び声が届く。
アイクは、体を起こそうとするマルスに、そのままで良い、と押してから、
「会いたくないのか?」
こう、尋ねた。
誰に。
なんて、言う間でも無く。
マルスは。
「……会えないんだよ。もう」
こう、返した。
アイクから、反応は無い。
もう会えない。こんなに唐突に、会えなくなるなんて。
もしこの場に少年がいれば、少年は、何と言っただろうか。
理由もよくわからない、こんな戦場でも。
あの、炎のようなあたたかさで、隣にいてくれただろうか。
こんなに早く、別れが訪れるとわかっていたら。
もっともっと、たくさんのことを伝えたかった。
ゆるやかに閉ざされた瞼の裏には、夜の深淵ばかりが映る。
命の炎が燃える音を聞きながら、マルスはやがて眠りについた。
何のために、強くなれば良いのだろう。
あの時の自分は、ただ、生きたかった。
何のために、剣を取れば良いのだろう。
自分の命のためだけに失われたものが、
既に数え切れないほどあるというのに。
悲しいことは、たくさんある。悲しいと思わないと決めただけ。
それでも、きっと。
こんなに汚れた手をしていても。
彼は笑って、抱きしめてくれるのだろう。
悲しいことは、たくさんある。
なくなることは、きっと無い。
それでも、きっと。
どんなに悲しいことばかりでも。
彼は、誰かを呪ったりはしないのだろう。
それはひどく、悲しいことだ。
闇夜を照らす月にだって、
誰にも見えない裏側がある。
だからこそ。
夢の中、誰かが叫んでいる。
誰かが、誰かを呼んで、泣いている。
何も出来ない絶望なんか。
もう二度と、知りたくはなかった。
誰かのために、強くなりたい。
どんな自己満足でも、ただの自己愛でも。
それでも。
誰かのために、強くなりたい。
これ以上、自分のせいで、失われる命が無いように。
これ以上、自分のせいで、誰かが誰かを傷つけたりしないように。