違和感だ、これは。

何も変わってないように思えるのに、全て変わっているように見える。
彼が微笑むたびに、その声で、自分を呼ぶたびに、頭のどこかが痛い。
何なんだろう。彼は一体、誰なんだろう。自分は、何かを、忘れてる。

でも、一体、何を?

家族。
兄弟。
仲間。
師弟。
戦友。
友達。
親友。

これは。

たった一つの、彼のためだけの、一つの言葉が、なくなっていること。



なくなっていることすら、忘れているのが現状だけれど。




の片端
      page.3




一週間が、こんなに早いと感じたのは、実に久しぶりだった。

いつもの通りの時間に、剣の手入れを終えたロイは、立ち上がった。
腰に手をあてて、ゆっくり、たっぷりと背筋を伸ばす。
しっかりと疲れをとった後で、ロイは、自分の部屋を後にした。
廊下を進み、階段を下り、リビングの真ん中を横切って、庭に向かう。
今日はいい天気だ。木陰の下ならば、絶好の昼寝日和だった。

そして。
窓を開け、庭に足を踏み入れた途端、

「……あ、」
「……あ……、」

唯一、自分が忘れているらしい   その人と目が合ってしまった。
庭の隅の花壇に水でもやるのだろう、彼は如雨露(じょうろ)を持っている。
日に日に強くなっていく日差しに、青い髪がきらきら透けて。
綺麗だった。

「…………」
「ロイ。……ロイ? どうしたんだ?」

呼びかけても答えないロイを不思議に思ったのか、彼が首を傾げる。
如雨露の中の水が、ちゃぷん、と音をたてたのを引き金に、
ロイの意識は、戻ってきた。
目の前の、この青い髪の誰かに、うっかり見惚れていたのだとようやく気づく。
ロイは慌てて、ぶんぶんと首を横に振った。

「(……何だ今の。……この人は男だろ。たぶん)」
「ロイ?」
「っ……。あ、ああ、うん。ごめん」
「……何でもないのか?」

なら、いいけど。彼はそう言って、ふわりと笑った。
その瞬間、頭のどこかが、わずかに痛む。……思い出しそう?
でも、何を。

「…………」

この一週間で。
ロイはとりあえず、彼に丁寧語を使うのをやめることに成功した。
ロイとしては、知らない年上の誰かに、普段どおりの言葉で話すのは気が引けたが、
リンクがそうしろ、と言ったのだ。何か気持ち悪い、とか何とか言って。

ということはきっと、この人とは、今の話し方で話していたのだろう。
なら、師弟関係ではない。
そしてきっと、家族や兄弟でもない。見た目が違いすぎる。
血縁関係の中に、これほど綺麗な人がいたならば、
自分の見た目ももうちょっと違うはずだ。ちょっぴり悲しくなるがそう思う。

じゃあ、多分、仲間か戦友か友達のどれか。
親友ではない。そんな大事なもの、忘れたりはしない。
合点がいって、ロイは安心したように溜息をつく。
この場を取り繕うように、話題を切り替えた。

「それ、花にやるんだろ?」
「え? ……ああ、そうだけど」
「花、好きなのか?」
「……。……うん、そうだよ」

少し間を空けて、彼がぎこちなく答える。
ロイはそれを、特に疑問に思ったりしない。

「(花が好き、か)」

ふんわりとした微笑み、細い身体。やさしい、やわらかい声。
見た目にも、声にもよく似合っているな、と思った。

「(花が好きなら、女の子なのかな、実は。この人)」

もし、この人が女の子であるのならば。
自分がさっき、綺麗だ、と思ったことに、説明がつくようになる。
女性というには背が高く、声は低い気もしたが、
背が高い女性には、サムス、という身近な例があったし、
声が低い女性が、いないわけでもない。

説明がつくなら、そっちの方がいい。
ロイはにっこりと笑い、話を続ける。

「そっか。手伝おうか?」
「いや……、……大丈夫。ロイは、今から昼食の当番だろ?」
「え? そーだっけ」
「忘れるな、そんなこと」

ピーチさんがさっき、探してたんだよ。
そう言うと、ロイは、彼の知っている、ロイに戻る。
話しているのとは、ほんの少し違う。
何が違うのか、具体的にはわからない。

「……え、ピーチが? やべぇっ……!」
「まだ門のところにいると思うけど。行ってあげた方がいいぞ」
「あ、ああ、わかった! ありがとうっ」

感謝の言葉を述べて。
軽く手を振って、ロイは、庭を後にする。自分を探している人の元へ。
それは、ごく当たり前の日常のように見えた。
少なくとも、ロイから見て。

ロイの背中をずっと、彼が見つめていること。
ロイは、気づかない。

「……ああっ!! ちょっとロイ、あんたどこ行ってたの!?」
「ごーめーんってー!! ちょっと忘れてたんだよッ」
「忘れてた、で済むもんですか! 下準備、全ッ部あたしがやったのよ!!」
「だから謝ってんだろ!? 後は俺がやるから!!」
「当然よ!! 大体ねえーっ……」

門の辺りでロイを探していたピーチと、一騒動、起こして。
騒がしくて、楽しくて、とても幸せな、なんてありきたりな日常。

初夏の日差しは、きらきらと輝いて。
何か、重要なことを忘れていること。

ロイは、気づかない。


   ******


がしゃんっっ!!

「……あ」
「え? ……あ、おい、さわらなくていいから!!」

今日の昼食の後の片づけは、リンクと彼の当番だった。
リンクがコップを器用に八つ、運んでいたところ、
後ろで、何かが盛大に割れる音がする。
驚いて振り返ってみると、彼が皿を、二枚ほど床に落としていた。
藍(あお)い瞳をいっぱいに開いて、呆然としている。

コップを流し台に置いて、慌てて戻るリンク。
ぼーっとしている彼を、割れた皿の近くから引き離した。

「大丈夫か? 怪我は?」
「ごめん……、僕は大丈夫なんだけど、床が」
「怪我が無いなら良い。床はどうでもいいんだからな、この際。
 ……雑巾とバケツ、持ってきてくれねーか?」
「あ、……うん、わかった」

リンクの言葉に押されて、彼はリビングから小走りで出て行く。

「……はあ……。」
「リンク、はい」
「え? ああ、ありがとう」

大きな破片を拾っておこうと、身をかがめたところで、
横からピカチュウが、二枚重ねのビニール袋を手渡した。
にこ、と笑って、破片の片づけを始めたところ、

「……なあ、リンク」

遠くでその一部始終を見ていた、ロイが、声をかける。

「うん? 何だよ、ロイ」
「いや……。……あの人、何か、ぼーっとしてるよな」
「え……。……ああ、まあ、そう、だな……」

おそらくは、自分が一人だけ覚えていない、彼のことをずっと見ての感想だろう。
確かに彼はここ最近、ぼんやりとしていることが多い。
ぼんやりどこかを眺めているのはいつものことだったが、
最近はそれに拍車がかかっていると思う。
……いつもは、皿を落としかけても、絶対に途中で止めるのだから。
そういう芸当ができるくらいには、彼はしっかり者だった。

ロイの声は続く。

「ちょっと可愛いけど、危ないな」
「……可愛い、って」
「可愛いじゃん。カオとか、キレイで。
 凹凸(おうとつ)はすっげー寂しいけど。
 全体的に薄いし細いんだよな、てゆーか」
「……そりゃあ、まあ」

あいまいに答えるリンク。
リンクとて彼に片思い中の身であるので、非常に答えづらい。

「……って、……え、凹凸?」

適当に返事をしていたリンクがようやく、
ロイの言葉のおかしなところに気づく。……凹凸?
何なんだそれは、どういう意味だ、とぐるぐる考えたリンクは、
もしかして、ロイは、ちょっと恐ろしい勘違いをしているのではないか、
という考えに辿り着いた。

記憶喪失の原因となった、頭を打ったことに関しての副産物なのか知らないが、
いくらなんでも、あんまりな勘違いだろう、と、リンクは思う。

「……ロイ、お前なあ……、」

盛大に呆れ返ったリンクが、ロイの間違いを指摘しようとした瞬間。

「リンク!」
「え? ……あ、」

リビングのドアが開いて、声が聞こえた。
声に呼ばれて振り向くと、彼が、そこに、立っていて。
手には、雑巾とバケツを持っていた。

「あ、ああ、ありがとな」

慌てて立ち上がると、リンクは彼から、雑巾とバケツを受け取る。
今度から気をつけろよ、と笑って言うリンク。
ごめんな、と、申し訳無さそうに、彼は苦笑する。

その様子を見上げていた、ピカチュウの、後ろで。
じっと、そんな光景を、ロイは見つめていた。
ささやかに微笑みあいながら、やりとりをする、二人の姿。
まるで、ロイには、そんなふうに思えたから。


「……あんた、リンクの、恋人?」


こう、何気なく、言った。


「…………」
「……え……」

その、瞬間。
ピカチュウの瞳は、確かに、見ていた。
彼の、藍い瞳が。
真っ直ぐに、ロイだけを、見ていたこと。

彼は、うつむいてしまう。

「……ロイ、お前っ……」
「…………っ……、」

長めの前髪に隠れた顔が歪む。
苦しそうに、苦しそうに、なによりも   悲しそうに。

彼が無理をしていないなんて、思ってないわけではなかった。

でも、彼があまりにも、いつもどおりに振舞おうとするから。

リンクの手のバケツを奪って。
ぶんっ、と、振り上げる。

「……え……、」
「……っっ……!!」

次の瞬間。

がこんっっ!! という、派手な音とともに。
一直線に飛んでいったバケツは、ロイの額に直撃した。
普段ならそれくらい避けられるのだろうが、
そのときだけは、どうしてか、避けられなくて。

「っつ……っ!!」

ロイの額に直撃したバケツは、豪快に音をたてて、床の上を転がっていく。
肩で息をして、うつむいたままの彼。
額を押さえて、強く彼を睨みつける、ロイ。
リンクと、
ピカチュウ。

「……ってえなっ、何すんだよ、いきなり!!
 冗談じゃ済まされ   
「…………お前、なんか……っ」

例えば、それは。
謝るということを否定したい、意地だけの子供だけのような。


「……お前なんか、大嫌いだ……っ!!」


張り詰めていた糸がはじけたように、彼は叫んだ。
何もかもをそのままにして、そこから逃げ出すように走り出す。
……逃げ出した、のだ。
反射的に、後を追おうとしたリンクは、
一回、立ち止まった。

「……ロイ、」
「何だよ!! ……あの人が、悪いんだろ!?」

この場合、どっちが「かわいそう」なのか。
リンクには、わからない。
どちらの後を、追いかけるべきだろう。
追いかけて、追いついて、何ができるというわけでもないけれど。

すっかり機嫌を悪くしたロイは、ふい、と顔を逸らす。
それは、とても、いつものロイらしい、
感情が豊かで、わりと気分屋で、真っ直ぐなロイの姿だった。

「…………っ、」

破片の片付けを放り出して、リンクはリビングを飛び出す。
彼を、追いかけるために。
ロイは、リンクの背中を、一応視線で追いかけはしたが、何も言わなかった。
ピカチュウ、さえも。

時間が、止まったように、静かなリビング。
やがて、ロイが、ぽつりと、呟く。

「……なあ、ピカチュウ」
「なあに? ロイさん」

ピカチュウは、ロイの方を見ない。
リンクが開けっ放しにしていった、ドアを見たまま。

「……あの人、女の子? それとも、男?」
「さあ? ロイさんは、どっちだと思いたいの?」
「…………それは……、」
「別に、性別なんか、どうでもいいもん」
「…………」

冷ややかなピカチュウの声。
聞きながら、ロイは思う。
どうして、あの人は、怒ったのだろう。あんなことをした、理由は?

わからない。
頭の端が、痛む。
自分では、どうにもなっていないつもりなのに、
周りから見たら、変だ、だなんて。
ロイの頭は既に、無理の限界を、超えていた。

ピカチュウの視線は、ロイには向かず、ドアを見つめたまま。

「…………苦労人ー」

やがて、こっそりと、呟く。
氷のように冷たい瞳を向けて。

「…………ほうっておけば、いいのに」

ピカチュウの頬が、ぱりっ、と、小さな音をたてた。





←戻る 続き→



SmaBro's text INDEX