「おはよう」と、朝から元気すぎる笑顔で、名前を呼ぶ。
まだ眠いと言っているのに、毛布を剥いで、叩き起こす。
迷惑だと言うのに、さんざん後ろから纏わりついてくる。
ちょっと殴ったり蹴ったりしてみても、さほど動じない。
嬉しそうに名前を呼んで、楽しそうに色々話をしてくる。

当たり前になっていた毎日が、当たり前じゃなくなった。


それは、君の存在の中から、僕の存在がなくなったから。
そんな、口に出してみれば、実に単純明快な理由なのに。




の片端
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「……おはよう、」
「え? ……あ……、」

朝7時、リビングのテーブルの上には、朝食のメニューが並んでいる。
カービィがプリンの分のパンを食べてしまったとかで、空中で喧嘩をしている。
それを、マリオが怒鳴って止めようとして。
お前の方がうるさい! と、サムスにぶっ飛ばされる。

なんてありきたりな日常。

「……おはようございます、……えっと……、」
「いいよ。……無理して、名前、覚えようとしなくても」

テーブルについてボーッとしていたロイに、彼は声をかけた。
焦って返事をしようとするロイを、やわらかい微笑みで軽く制すると、
ロイは少し悲しそうな顔をした。
そんな表情を見ても、自分の微笑みは少しも崩さず、彼はロイの右隣の席に座る。
いつもの席順だから。

「覚えられないんだろ?」
「……。……すみません、名前……覚えるのは、得意なんですけど」
「だから、いいってば。……向こうのジャム、取ってもらえるか?」
「あ……。……ハイ」

ロイが、いちごのジャムの詰まった瓶を彼に手渡した。
ありがとう、と、彼はやはり微笑んだまま、優しく告げる。
瓶のフタをくるくる回して開け、
カゴの中から取ったパンに、丁寧に塗っていく。

「…………」

パンくずが落ちてしまわないように、至極丁寧にゆっくりと食べる、そんな動作。
ロイは、青い前髪の落ちる、藍色の瞳を、じっと見つめる。

「……何だ?」
「……。……い、え……。……何でも、ないです」

ふ、と視線が合ってしまったのが、何故かとても申し訳なかった。
慌てて目を逸らした先で、カービィが、さりげなくロイの目玉焼きを攫っていく。
それを見つけた瞬間、ロイは、彼の知っている『ロイ』に戻った。

「……あっっ!! おいカービィ、てめえ何ひとのモン食ってんだよ!!」
「わぁっ、見つかっちゃった〜っ…… ……痛いなぁー引っ張らないでよロイー!
 そんなの、ボーッとしてる方が悪いに決まってるだろぉ〜!?」
「んっ……だとてめえーッッ!!」
「わっ、ちょっ、放してよロイ〜!! ロイのキチクー!! いじめっこー!!」
「誰が鬼畜だ誰が!! ふざけんなよ、この桜餅!」

目玉焼きをしっかりと飲み込んだ後で、慌てて天井の方へ逃げようとするカービィを、
両腕を伸ばして捕まえた。
大人気無く(ロイはまだ子供だが)、「俺の目玉焼き返せ」、なんて言ってるロイを、
彼は微笑みながら見ている。

彼は、パンの半分を食べたところで、それを皿に置いた。
ガラスのコップを手に取った後、テーブルの上を見渡す。

直後、右耳に触れるか触れないかの距離に、冷たい空気を感じた。
一瞬だけ身を固くし、それから、恐る恐る後ろを向く。

「ほら。これだろ」
「……リンク……」

後ろに立っていたのは、紛れも無い、リンクだった。
左手に持った牛乳パックを、ずい、と突き出して。
それは紛れも無く自分が探していたものだったから、
特に断る理由も無く、彼はそれを受け取る。

本当は、滅多に見る機会の無い、微笑みなんて向けて。

「ありがとう」
「……。……あのさ、」

彼の隣のイスを引いて、それに腰掛ける。
彼がコップに牛乳を注(つ)いでいるのを見ながら、自分も牛乳を口にする。

「……初めは……何の冗談かと思ったんだけど……」
「…………」
「……本当に、お前のことだけ、知らないみたいだな……」
「……。……こういうことも、あるだろ」

ことん、とコップを置いて。
隣で起こっている子供じみた喧騒を、つまらなそうに眺める。
どこか冷たい物言いの彼に、リンクは何か言いたかった。
だけど、かけるべき言葉が、自分には見つからない。

「……でも……、」
「記憶喪失なんて……。……ありきたりだろ、そんなに心配しなくても、
 すぐ元通りになるさ   それまで、ゆっくり読書もできるし、」

願ったり叶ったりだ、と、彼は平然と言った。
無表情に。
それは、実にいつもの彼らしい、冷たい物言い。

「……あのな、」
「何だ?」

コップの牛乳を飲み干し、彼はリンクに返事をした。
初めてここに来た時のような、
警戒心の強い眼差しと、どこまでも端的に物事を述べる口調。

日常生活が人に与えるものとは、やはり恐ろしいものだと、そう思う。

「……人に対して気を回しすぎるのも……。どうかと思うぞ。オレは」
「…………」

藍色の瞳が、リンクを一瞥する。

やがて、パンを半分残して席を立った彼を、追いかけようとはしなかった。
けっして、彼の気持ちがわからないわけではない。
居心地が悪いのだろう。……わかってる、つもりではいる。

「……恐いねぇ。『日常生活』って」
「……ピカチュウ……」

ふいにかけられた声は、聞き慣れたピカチュウの声だった。
リビングの床から、リンクの膝の上に飛び乗り、リンクを見上げる。

「あのひとが、あんなに冷たい口調だったなんて、久しぶりに思い出した」
「…………」
「どうしていつもは、あんなに優しい口調なんだろうねえ。
 どうしていつもは、あんなに優しく笑ってくれるんだろうね?」

彼の出て行った、扉の向こうを見つめる。
自ら投げかけた疑問の答えを、リンクもピカチュウも、ちゃんと知っている。

それは、当たり前のように彼の隣にいた、たった一人の少年の   


   ******


元々食べる気の無かった朝食を無理矢理押し込んだせいで、ひどく気分が悪い。
前髪を忌々しそうにかき乱し、彼は自室のベッドに腰掛ける。
毛布の上から、ぱったりと横になると、ふっと目を伏せた。

昨日の夜、ロイが自分のことを「知らない」と言って、一晩たって。
いつもと変わらない。
当たり前のように睡眠はとれるし、当たり前のように朝食を取りに向かえる。
普段と変わらなく天気は良いし、
初夏の風は、少し冷たくて気持ちがいい。

「…………」

毛布に顔を押し付けて、思う。
人が一人、いなくなるというのは、
それ自体はまったく、大したことがないこともあるのだと。
気にしなければいいだけだ。
気にならなければ、問題にもならなかった。

「…………」

朝日で温まった、毛布が心地良い。
うとうとと、目を閉じる。

いつもの誰かが起こしに来ないから、いつまでも寝ていられる。


何かに飽きるまで。



考えることが嫌にならなくなるまで。




昼を越えて夜を越える。





……。



   ******

   ******



「ロイ」

こんこん、と軽くノックして、リンクはそっと扉を開けた。
頭の上には、いつものとおり、ピカチュウがいる。

「あ、リンク。と、ピカチュウ。何?」

ベッドに腰掛けていたロイが、ぱ、と顔を上げた。
そんなロイを見つめて、「と、って、ひどいねえ」、なんて、
ピカチュウが、さらりと愚痴る。
そんなピカチュウを、まあまあ、なんて言ってなだめて。
リンクはロイに、微笑みかけた。

「今、暇か?」
「え? ……ああ。暇だけど」
「料理する気、ないか?」
「へ? 料理? ……簡単なもんでいーなら」
「そうか。それはよかった」

はあ、と、溜息をついて。

「出かけてて、昼メシ食い損ねたんだ。
 オレとピカチュウに、何か、作ってくれないか?
 オレが作れればいいんだけど、知ってるだろ」
「あはははははははは。
 ……うん、知ってる」

どこか、遠くを見ながら、乾いた笑い。
何か、嫌な思い出でもあるのだろうか。

ロイはベッドから腰を上げた。ベッドに沈んでいる、剣の場所を確認する。
リンクの肩をぱん、と叩いて、台所にいるから、と、笑って言った。

「じゃあ、少ししたら来いよ」
「ああ」

そう言って、廊下を歩き、階段を下りていくロイの背中を、
リンクとピカチュウは、じっと見つめる。
静かな、廊下。
遠くからは、風が木の葉を撫でる音が聞こえる。
いつもと同じ、ありきたりな毎日の、風景だった。

「……さて、と」

リンクはロイの部屋の扉に背中を向けると、更に奥に歩いていく。
ロイの部屋の向こうには、彼の部屋があるだけなのだから、
目的は、そう、彼   青い王子様、だ。
ここ三日くらい、彼はずっと、昼過ぎまで寝ている。
起こさなければ、起きないくらいまで。
一昨日も、昨日も、自分が起こしに行かなければ、眠り続けていただろう。
理由は、よく、知らないが。

リンクの歩くテンポに合わせて、ピカチュウのしっぽが揺れる。

こんこん、と、リンクは彼の部屋の扉をたたいた。
程無くして、

「誰? ……どうぞ、」

こんな返事が聞こえた。

「…………」

てっきり、寝ているものだと思ったから、声が返ってきたのに驚いた。
頭の上のピカチュウに、起きてるみたいだ、と呟いた後で、
入るぞ、と、短く断りを入れた。扉を開ける。

机に向かって、書類の整理をしているらしい、彼がいた。
顔を上げて、こっちに視線を向ける。

「リンク、ピカチュウ。おはよう」
「あ、……ああ。おはよう」
「もう、こんにちはだけどねぇ」

でも、おはよう。
そう言ってピカチュウは、へらりと笑った。彼が、微笑みを返した。
ペンを休ませ、彼は立ち上がる。
イスをふたつ、さりげない動作で移動させると、自分はベッドに腰掛けた。
彼のそんな、ささやかな気遣いに感謝の意を述べて、リンクはイスに座る。
ピカチュウはリンクの頭の上に乗ったままだったので、
もう片方のイスは、無駄になってしまった。それでも、彼は気にしない。

「それで、何か用事か?」
「あ……。……いや、その、」

心配だから起こしにきた、と、正直に言ってもいいものだろうか。
……彼が何を言われれば不機嫌になるのか、リンクはよく心得ている。
やがて、ゆっくりと息を吐くと、

「……今日は、寝坊してないかなと思って」

やや遠まわしに言うことにした。
彼が、少しだけ申し訳無さそうに、言い訳をする。

「昨日まで、寝すぎてたからな。仕事が溜まってきてたんだ。
 いい加減に片づけないといけない、と思って。……ごめんな」
「いや、……うん、まあ、別にいいんだけど。元気なら」
「僕なら、大丈夫だよ、リンク」

大丈夫。

やたら、強調されたような気がする、こんな単語。
リンクが真っ直ぐに見つめた。
彼は微笑んでいる。

「大丈夫。昨日までは、本当に、寝すぎてただけだから」
「…………」
「だから、ありがとう。もう、大丈夫だから」
「…………。
 ……それなら、オレは、いいんだけどな……。」

いつものように、苦笑を浮かべて。リンクは、立ち上がる。
頭のピカチュウをうっかり落としかけたが、慌てて拾い上げた。
そんな一人と一匹の様子を、彼は驚いたように見ていたが、
リンクが体勢を整えなおすと、くすくす、と笑った。

「それじゃあ、オレは行くな。仕事の邪魔して、悪かったな」
「ううん。ちょうど、休もうと思ってたところだったから」
「そっか。じゃあ、残りも、頑張れよ」
「ああ」
「じゃあね。またくるね」
「ああ、……またな、ピカチュウ」

軽く、手を振って。
リンクとピカチュウは、部屋を出て行く。

「…………」

静かに閉めた扉に寄りかかって、リンクは溜息をついた。
静かだ。足音さえも、廊下に、天井に響いて消えていく。

「……口先だけでも、大丈夫って言っておかないと、」

ぽつり、と、リンクが呟く。
大丈夫、と、自分に言い聞かせるように言っていた。

「……何もできないんだろうな。起きるのも嫌になるくらいに」
「……そうかもね。でも、」

やがて、歩き出したリンクの頭にしがみついて、ピカチュウは、考える。
静かな廊下を歩いていると、ずっと下の方から、
「おーーーいっ、飯だぞーーー!!」と、やたらと元気な声がした。

「でも、何だ?」
「……ううん、なんでもない」
「……? ……そっか。ならいいけど……、
 ……ああ、今行くからーーー!!!」

ロイの呼びかけに叫んで答えると、リンクはとんとんとん、と階段を下りていった。
リンクの歩調に合わせて、ピカチュウのしっぽが、小刻みに揺れる。
ただよう、香ばしいにおい。何だろう、炒飯か何かだろうか。
何にせよ、ロイの性格から考えて、お菓子を作り出さなかっただけマシかもしれない。
基本的にロイは、当番の時以外はほとんどお菓子しか作らないから、
今日の昼飯はお菓子かな、などと、こっそりびくびくしていたのだ。

「ピカチュウ、落ちるなよ」
「え。……ああ、うん」

わかってる、と答えたピカチュウは、リンクの頭にしっかりとはりつく。
真っ黒い瞳が向かう先は、四階の一番奥の、彼の部屋。

「…………自分から閉じこもってしまうのは、卑怯かな」
「? ピカチュウ? 何か、言ったか?」

ぼそ、と、うめくように呟いたピカチュウの言葉の内容は、リンクには届かなかったらしい。
もともと聞かせる気の無い言葉だったから、ピカチュウは、へらっと笑う。
なんでもないから、と、また、言って。

「できたぞ。簡単でごめんなー」
「いや、ありがとな」

キッチンから顔を覗かせていたロイは、リンクとピカチュウに笑いかける。
夏のような、元気そのものの笑顔。

ベーコン入りのできたての炒飯を冷ましながら、ピカチュウは、
フライパンの片付けをするロイを、ただ、じっと見つめていた。





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