半獣症(中編)
 それにしても王城というものは、どうしてこうも無駄に広いのだろうと考えて、ブラッドは人知れず溜息を吐いた。既に建っているものに文句をつけても仕方が無いのはわかっているが、やはり人を訪ねるにはうっとうしいことこの上無い。幼い頃を過ごした教会の狭さが懐かしい、と遠く思いを馳せたところで、ブラッドは目の前の扉を開けた。明らかにそこだけが他と違う、どこか厳かな空気を纏ったそれを押して。
「ローラ。……やっぱりここだったのか……」
「まあ、ブラッド。こんにちは。いいお天気ですね」
 にこにこと笑うローラの言葉に、ブラッドはその視線を窓の外へ向けてみた。
 見事な土砂降りだ。
「…………。」
「恵みの雨というのに、晴天だけを良く思うのは変だと思います」
 相変わらずどこかが吹っ飛んだ論理で挨拶を締めると、ローラは手のひらを組んで目を閉じた。少女の祈りが向く方へ、ブラッドはつられるように瞳を向ける。赤い絨毯が敷かれた礼拝室。窓の外のもっと向こう、遥か遠い、女神の塔がそびえる空へ。
「……? お祈りの時間……、延ばしたのか?」
「いいえ。大丈夫です、これで終わりですから、ブラッドのお話を聞きますよ」
「……。……鋭いな。……そんなとこばっかり」
 もうちょっと他のところでも、そんなふうに鋭くなってくれると助かるんだけど。と、言ってもどうせ伝わらないので言わず、ブラッドはローラの隣に断ってから腰掛ける。ここへ来た理由は見透かされたので、今更取り繕うでも無い。
「……お前は……、その。どう、思ってるんだ?」
「オルグさんのことですか? わたしは、もう、決心がつきましたから」
 ブラッドの話の内容には察しがついていたらしい、ローラもまた取り繕うこと無く、きっぱりと言う。習慣が未だ抜けていないのだろうか、二人にとって礼拝室は、正直なことを話すには、一番心が落ち着く良い場所だった。もっともブラッドの方は、教会から離れて久しいのだけれど。
「確かに、オルグさんは、半獣ですが……、」
 ふ、と。ローラはそこで一旦言葉を止めた。不思議そうな顔をする青年の瞳に笑いかけ、口調を一切変えずに呟く。
「半獣、では失礼ね。これからはちゃんと、ラグズと呼びましょう。仲間なんだから」
「仲間、って……」
「だってオルグさんは、ベオクのわたし達を、助けてくださいますもの」
 ローラは見た目や性格と結びつかないほどに、本当に思い切りが良い。一度こうと信じれば、後は迷いもしない。そんな彼女の性質には困ることも多いけれど、驚かされることの方がずっと多い。ちょうど今、こんなふうに。
「他人に手を貸せる人に、悪い人はいません。女神様に、そう教わったでしょう?」
「……。……それは、そうだけど」
 だけど、教わったといえば、これだってそうだ。半獣は、嫌うもの、忌むもの、蔑むもの。大人達が繰り返し言っていた。だからそれを信じてきた。
 そこはどう説明するんだと問うたところで、返ってくる答えは決まっている。だからブラッドは訊かなかった。自分が信じていたものが、間違っていたことを認めるなんて。
『わたしは神に仕える身です。だから、女神様の仰ることを信じます』    


 あの日以来、オルグに対するレオナルドの態度が豹変したのは、火を見るより明らかだった。一般的なデイン人の反応と言えば確かにそうなのだが、彼のそれは徹底しているように思えた。
 驚愕ではなく、恐怖でもなく、純粋な嫌悪。その中にはわかりやすい憎悪なんか、少しだって含まれてはいない。
「……。……まあ、気持ちはわからんでも無いがな……」
 王城の一部屋に、レオナルドを除くいつもの顔ぶれが揃っていた。ひとときの談笑の最中、現状を思い返したノイスは一人苦笑する。その呟きに顔を俯かせたのは他でも無いミカヤだった。オルグの正体を明かしたことを悔いているのだろうか、心を痛めている様子が見て取れる彼女に、窓辺でぼんやりと外を眺めていたエディが、笑って言った。
「べつに、ミカヤのせいじゃないだろ。気にすることないって」
「……でも……。」
「どのみち、隠したままじゃいられなかっただろうさ。エディの言うとおりだ」
 細い肩に触れながらサザが言うと、ミカヤはようやく顔を上げる。表情の方は、まったく納得はしていないように見えたけれど。それでもどこか安堵したように息を吐いたサザは、視線を軽くノイスの方へ寄越してみせた。それに気づいたノイスが、どうした、と言葉で返す。
「いや……。あんたは、あまり堪(こた)えて無いように見えたから……」
「ああ……。まあ、正直言って、あまり良い気分はしないが。
 あいつとは、随分戦場を駆け回ったからな。もう、戦友みたいなもんだ」
「……そうか」
 年齢に見合った見識を持った人物だとは知っていたが、こんなところで幸いするとは思わなかった。ノイスの答えが嬉しかったのだろう、元気が無かったミカヤも、ほんの少し微笑んでみせる。
 そしてサザの瞳は、今度は窓辺のエディを捉えた。
「……お前は、」
「え? おれ? ……ん、べつに。今は、あいつの方が気になって……」
 あいつ。この状況では言うまでも無く、彼の相棒のことだろう。考える、ということが苦手な  特に、複数のことを同時に、となると  エディらしいといえばとてもエディらしい答えだったが、ミカヤが期待したものとは違う返事だ。
 それでも、正面切って嫌いと言われるよりマシかと割り切り、サザはぽつりと言う。
「……。レオナルドは……」
「まさかあいつが、あそこまでオルグを嫌うとはな。意外だった」
 人付き合いが得意な性質には見えないが、彼は誰に対しても穏やかだった。今回のことは、皆、本当に意外だったのだ。以前にも砂漠の遺跡でラグズに遭遇したことがあったが、あの時は敵であったし、戦うことに必死だったし、なによりも、全員が今のレオナルドのような態度であったから。
 憎悪は一切無く、純粋たる嫌悪だけ。つまり彼の心に根づいているのは、差別感情以外のなにものでも無いということだ。
 大切なものを壊されたとか、傷つけられたとか、利口な理由はひとつもない。
「……なあ、ノイス。やっぱりさ……、」
 土砂降りの雨。銀色のすじを描く粒を見ながら、エディが何気なく尋ねる。
「すごいところに生まれた方が……。
 なんて言うんだろ、キョウイク? って、山ほどさせられるもんなのかな」
「言いたいことはわかるから構わんが、エディ。お前、少し本を読め」
 剣の鍛錬も良いがなと呆れたように溜息を吐くと、ノイスはそれが癖であるのか、自然な動作で顎に指を置いた。何故いきなりそんなことを訊くのか、と首を傾げるミカヤとサザには気づかない様子で、エディはまだ外の景色を眺めている。
「そりゃあそうだろう。平民より貴族、貴族より王家、か。
 そういうところには、子供の頃から、しっかり教えてくれる人間がいるんだからな」
「ふーん……。そっか、ありがとな」
 あかるい日射しのように笑い、エディは突然窓辺から離れて彼らに背中を向けた。そのまま部屋を出て行きそうになるのを、ミカヤがびっくり顔で呼び止める。
「エディ? どこに行くの?」
「散歩!」
 エディは嘘を吐くのが下手だ。
 しかしそんなことは一切気にせず、少年は走り出す。

 いつの間にか親も無く、気づいたら剣を握ることだけを覚えていた自分とは違う。
 彼はきっと、教えられたのだ。幼い頃からたくさんのことを。善悪の判断もつかない頃から、正しいことも、正しいと思い込んでいるだけの間違ったことも。字の読み書きすら覚束無いような自分だって当たり前のように思っている。半獣は、嫌うもの、忌むもの、蔑むもの。さっきは口にしなかったが、本当は今だってそう考えている。まるで何かの呪文であるかのように染みついている。嫌うもの、忌むもの、蔑むもの  

 そんなふうに覚えていたのだったら、どうして狼の本性を持つ青年を受け入れることが出来るのだろう。嫌悪して当然のものを、好きになれ、なんて?

「……けど、人に言われて好きになった、じゃあ、意味が無いから」
「……」
 勘を頼りに探し当てた部屋で、彼は窓の外の景色を見つめていた。懐かしい土のにおいがここまで届いて、なぜか寂しい気持ちになった。
「おまえさ。……ほんとうは、わかってるんじゃないのか?」
「……違う。……僕は……エディみたいにはなれないから」
 件の名前を出した瞬間、彼の端整な横顔に浮かんだのは、やはり純粋な嫌悪感だった。姿を見ることはおろか、名を聞くのも嫌だ、と言わんばかりに。
「半獣を、好きになれ、なんて、無理だよ」
「おれだって、好きになったんじゃねえよ」
 狼女王ニケと、鷺王子ラフィエルについては、王族だからという理由をつけて、存在することだけは割り切っていたのだろう。そしてラグズ奴隷解放軍の二人の同行は、ベオクであるトパックに遠慮していた。多くのデイン兵と同じく。
 どれだけ安堵したことだろう。デインが解放されたと同時に、  軍にいた、全てのラグズがいなくなって。
「正直ほっとしたよ。狼女王も、鷺王子も、みんないなくなってさ。
 どんなにすごかろうが、優しかろうが、半獣は半獣だし。
 ……オルグもそうなんだけど、それでも、あのひとは、おれたちと、」
「それで十分じゃないか。あのひとは、半獣だろ?」
 雨降りを眺めていた瞳が険しく揺らめいてエディを見る。容貌に似合わないきつい声の調子に、思わず肩を強張らせた。
「半獣なんかと……一緒にいたくない」
「……そりゃ、おれだって、そうだけど」
 何を言っても最終的には同じ結論に至る返事を寄越すレオナルドに、エディは気づかれないような溜息を吐く。言い分は、わかるのだ。言葉通り、痛いほどに。
 静寂が帰った部屋に、土砂降りの雨音が響く。
 その時。
「……エディ? レオナルド? いる?」
「……ミカヤ?」
 廊下から聞こえてきた呼び声に、二人は同時にそちらを向いた。キィ、と小さく音をたてて開かれる扉。おずおずと顔を覗かせたミカヤと、その後ろにサザ。そして、
「……っ!」
 暁の巫女に寄り添うように。守るように、隣には  闇の色を纏う狼の姿が、ある。
「ミカヤ? どうしたんだ?」
「あの……。わたし達、ペレアス様に呼ばれたの。
 きっと報せることが出来ると思うから、みんなを呼んでおいて欲しくて……」
「ノイスにも言っておいた。一応、お前達にも頼んでいいか?」
 オルグは常の如く何も喋らず、黙ってミカヤを待っている。その様子を真っ直ぐに睨む瞳がある。自分の腕を硬く握り締めて、奥歯を強く噛み締めて、何かにずっと耐えているように。その顔に滲むのは、やはり、言い様も無い、……嫌悪。
「おう、わかった。いつもの場所に呼んどけばいいよな?」
「ええ、それでお願い。そんなに急がなくても、大丈夫だから」
「……うん、わかった。いってらっしゃい」
 ぎこちないしぐさで、レオナルドは微笑む。そんな彼に対して、ミカヤもまた、どこか不安げに微笑み返す。雨降りの足音、湿った土の懐かしいにおい。
 オルグがここに留まっているのは、狼女王が彼をミカヤの護衛にと残したからだ。誰もが頭ではわかっている。それでも彼はとても身近に存在して、そしてラグズという別の種族だ。本来の名で呼ぶ者など、僅かに過ぎないのだけれど。
 解放軍として戦っていた日々の間は、確かに仲間だったかもしれない。
 だけど、今は    ラグズだ。
「……。レオナルド、あのな……」
 背を向け部屋を出ようとしたミカヤの隣をすり抜け、サザはレオナルドを見下ろす。俯いたままのレオナルドは、遠のくオルグの後ろ姿に一瞬だけ視線を寄越して。
「……どうして、」
 届いてしまった呟きに、オルグがふいに立ち止まる。
「……ミカヤも、サザも、平気なの?
 ……きもちわるい、そんな……半獣なんかが、傍にいて……!!」
    ッ、レオナルド!!」
 部屋いっぱいに響き渡る、サザの怒声。伸ばした手が力任せに華奢な腕を引っ掴む。思わず振り返るミカヤ、目を大きく見開くエディ、一切動じないオルグ。
「お前、いくら何でも……!」
「痛っ……!」
「うわっ、ちょっと待て、待ってくれよ、サザ!」
 痛みに顔を顰めたレオナルドを庇うように、エディが慌ててサザの肩に縋る。手は離れず、怒りのままに掴んだ腕を締め上げる。突然のことに混乱したミカヤが見つめる光景の中で、珍しく表に出たサザの感情は、やがて本人の意に反して、思っていたよりもずっと早くに収束した。
 声に驚いたのか、怯えたように肩を竦める黄金色(きんいろ)の髪の少年。それでも閉ざされなかった瞳が見つめるもの。
「……。……お前……。」
 オルグに向けられた視線が、どこか、    苦しそうに見えた、気がして。
「サザ! おれがあやまっても意味無いんだけど、ごめん!」
「え……。あ、ああ……」
 エディのよくわからない謝罪に気圧されたのか、サザはようやくレオナルドから手を離す。再び俯き口を噤んだ彼を右腕で抱き寄せて、エディは困ったようにサザを見上げた。
「その……。おれ、レオと、もっと話してみるから、だから……」
「……**、****」
「!」
 ふいに届いた聞き慣れない低音。雨音を沈め空気を斬るように響く、それは紛れも無くオルグの声だった。今まで傍観するだけだった黒い眼差しがレオナルドを捕え、目を逸らすことを許さなかった。
「***********。**、*****」
 言葉はわからない。彼が話すのは、失われた太古の言葉だから。
 見えるものは表情だけになるけれど、変わらないからわからない。
「******、***********」
「……オルグさん……」
 一番近く、傍らでそれを聞いていたミカヤが、悲しそうに瞳を揺らす。未来を透き通す金細工の色で、目の前の現実を捉えながら。


「……間違いを正すことは、そう難しくは無いんです。
 ただ、それを認めることが、とても苦しいだけなのだそうです」
 胸の前で手を組みながら、ローラは目を閉じて穏やかに話し続ける。ブラッドは窓の外を眺めている。それにしても今日は、本当にひどい土砂降りだ。
「今まで信じていたことが崩れてしまうと、どうしていいかわからない。
 そうですね、例えば……わたし達が、東と言っている方角があるでしょう?」
「……ああ」
 耳によく馴染んだ声。早まる雨音。昔、教会にいた頃は、夕立が来ると孤児も司祭も全員総出で洗濯物を取り込んだものだ。雨の中に干せば洗濯の代わりにならないでしょうかと言った幼いローラを全力で説得するのは大変だったなと、いらないことまで思い出してしまった。
「もしそれが、実は西だった、といきなり正されても、困りますよね」
「……。……そうだな。地図の書き換えとか……色々あるだろうし」
「ええ。だから、間違いだとわかっていても、信じていた方を信じようとするんです」
 そういえば半獣は化身していれば言葉通り獣の姿だが、人の形を取っている間は服を着ているよなと考えた。とすると彼らも雨の日は、慌てて洗濯物を取り込んだりするのだろうか。というか、洗濯、という習慣があるのかどうかが、まずわからないわけなのだが。
「……ローラは、認めることができたのか?」
「そのために七日間、特別にお祈りをしました。女神様は、聞いて下さったようです」
 既に、彼女には迷いが無い。全てを吹っ切れたわけでは、もちろん無いのだろうけど。土のにおいを懐かしく思いながら、ブラッドは一つ溜息を吐く。


 数日後デイン王国軍は、ガリアへ撤退するラグズ連合軍の討伐を命じられた。帝国に従うことについては多くの不審と疑問があったが、公に半獣狩りが出来る、という事実に、すっかり払拭されてしまった。
「オルグ。……相手は、ラグズだぞ。大丈夫なのか?」
 相変わらず半化身の状態を保ったままのオルグに、不穏を隠した声色でノイスが尋ねたが、返ってきたのは小さな頷きだけだった。もっとも言葉で返されたところで理解することが出来ないのだから、そっちの方が助かるのだけれど。

 ひたすらラグズを斬って捨てるだけの戦闘。
 こちら側にもそのラグズがいることに、一部のものは大いなる不安とやりきれない思いを抱いて。

 レオナルドは闇の中、光る獣の目を狙い、言葉も無く矢を放っていた。

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(07,03,31)
過去にまつわる話はもちろん全て捏造です。

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