And if I die before I wake.



5.



息が上がる。心臓が煩い。頭が痛い。

「・・・っは、」

部室棟の階段を駆け下りた僕はたいした運動でもないはずなのに呼吸を乱していた。
重い身体を支える為に壁に手を付く。ひんやりとした感触に煮えた頭が幾らか落ち着いてくる気がした。

「っ・・・くそッ!」

掌の心地よい温度を握り潰して、コンクリートに拳を叩きつける。小指側の側面の骨が軋んだ。
衝動をぶつけるにも心の靄を晴らすにもこの痛みは軽すぎる。

 彼が泣いているのを見て途方も無い罪悪感を感じたのは誰だ。
 彼は傷付くべきじゃなかったんだと唇を噛んでいたのは誰だ。

 お前だろう。
 お前だろうが、古泉一樹。

「・・・馬鹿か、僕は・・・っ」

あんな得体の知れない苛立ちで最低な事をしでかした。
神経がどこまでも鈍くなって、夢の中のような濁り切った感覚で脳も心も経由せずに言葉にした。
声として存在したものを鼓膜で拾ってから自分が何を言っているのかを理解していたのだ。マトモじゃない。

逃げ遅れた彼は泣けないでいるだろう。
部室という拷問のような空間の中で、そして朝比奈みくるの前で、歯を食い縛って耐えるしかないのだ。
それとも、涙など僕の願望でしかなくて、彼は未だ収まらない怒りに拳を震わせて居るのかもしれない。

そして僕は我侭にも後者であれと願う。
彼が僕を嫌悪してくれれば。僕の事を忘れてくれれば。何もかもが上手くいく。丸く収まる。
あと数ヶ月だ、違和感など隠し通せる。


 ふいに心臓が感覚を伴って縮んで、僕は息を詰めた。


「っなんて、身勝手な・・・っ」

ここまできてもまだ僕は『特別な存在』が手の内にあることへの優越感に浸ろうというのか。
傲慢だ。神から何を奪った気でいる?

「あら?古泉くん?」
「・・・っ」

最悪なタイミングで現れた神の声に、癖で顔を上げてしまった僕を口汚く罵ってやりたい。
彼女は僕の顔を見て、不思議を発見した瞬間のように目を丸くして固まった。口も小さく開かれている。
けれどきらきら光る黒い瞳は喜色を滲ませることなくみるみる曇って、眉は寄せられていく。

「ちょ、っと、どうしたの?!古泉くん、顔っ」

パタパタと上履きを鳴らして駆けてきた彼女は、僕の腫れた右頬を少し青い顔で見上げてきた。
僕は適当な言葉が見つからずに「いえ、ちょっと・・・」と歯切れの悪い返事で笑う。
涼宮ハルヒはポケットから女性らしいパステルカラーのハンカチを慌てて取り出し、僕の頬に差し出そうとしてくる。右手を上げて遠慮を示すが、彼女は「でも血が出てるわ」と無理矢理口の端にハンカチを押し当ててきた。唇が切れていた事は勿論今知った。

「すみません、ハンカチが汚れて・・・」
「いいのよ、ハンカチぐらい。それよりどうしたのよ、その顔」

彼女はきっと眉を吊り上げ、誰かに因縁でも付けられたのかと挑むような声を出した。
僕は彼女のハンカチを傷口に触れさせたまま首を振った。

「じゃあどうしたのよ。ちなみに転んだ、とか言う嘘は通用しないわよ?」

先回りして僕の逃げ道を塞いだ彼女は団長をなめないでよね!と軽く唇を突き出した。
この言い回しからして、時折閉鎖空間で出来た怪我を誤魔化していたのはバレていたのかもしれない。彼女はやはり(女性というものは皆そうなのかもしれないが)侮れない。

「いえ、あの・・・」

上手い嘘も言い訳も案の定思い付かなくて、ただただ口篭る。
彼女は少し戸惑って居るようだった。それはそうだろう。『古泉一樹』が彼女の前でこんなに動揺していたことはない。
それでも、僕の異常事態に困惑した涼宮ハルヒの整った唇は小さく開かれた。毀れた声もまた、小さかった。

「もしかして・・・・・・・・・キョン?」
「・・・・っ」

至近距離で見上げていた彼女が僕の眼球があからさまに泳いだのを見逃すはずがなかった。
彼女は険しい顔付きをやめる代わりに痛ましいものでも見る表情で「そうなの?」と追い討ちをかけた。
僕は頷けるはずも無かったが、否定するほどの度胸もなかった。

「・・・・」

彼女の顔が正面から見られなくて見慣れた廊下の床に視線を縫い付ける。
しかし残酷にもその視線は彼女が僕の手を思い切り引いた事であっけなく引き千切られた。下手糞なカメラワークのように大きく揺れるピントの合わない視界に冷静な思考など望めない。前のめりになった身体のバランスを取るのに必死で思考が追いつかない。
視線がやっと正面を捕らえると、そこには彼女の背中があった。女性特有の細い指が驚く程強い力で僕の手首を掴んでいる。彼女は無言で僕が今しがた降りてきたばかりの階段を上り始めていた。

「あの、っ涼宮さん・・・っ?」

何段もある階段をぐいぐい引っ張りながら上っていく彼女の後姿に声を掛ける。返事は無い。
黙ったままの揺れる黒髪をじっと見る。いくらか乱暴な所作に思えた。
・・・怒って、いる?
これが能力の落ち着く前のことであったのなら、閉鎖空間は背筋が寒くなる程の速度で広がり、報告書どころでは済まされない状況に陥っていただろう。月日が何よりの救いだった。

「涼宮さん、ですから、どこへ・・・っ?」

部室に戻って彼に謝れとでも言うのだろうか。
それだけは現在どの選択においても正しくないとはっきりと言える。僕も、彼も、そんな精神状態ではない。
部室の扉をくぐらせようとするのなら、僕は彼が皮肉を込めて呼んだ「イエスマン」の仮面を捨てて彼女に抵抗しなければならない。
己の行動選択への覚悟を決める僕を見透かしたか、彼女は踊り場でぴたりと立ち止まると振り返らずに「屋上よ」と言った。
その声は僕や他の人間に出すようなものではなく「彼」に向かって使うような苛立ちを隠さないぞんざいなものだった。
行き先が部室でなかったのは喜ばしかったが、僕は細く息を吐いた。



左頬も腫れ上がってしまうかもしれない。













***


立ち入り禁止になっているはずの屋上の扉はなんの抵抗も無く開き、僕は真正面から赤い光を浴びた。
凶悪的なまでの強さの光に目を細める。彼女はまだ僕の手首を掴んでいた。
元々上がる目的で作られていない為か囲うフェンスはひとつもない。部室棟の屋上は影を作らずにべったりと赤く染まっている。

ここで映画を撮ったのはいつだったろう。
高くて怖いと半泣きだったのは朝比奈さんで。長門さんは肩から落ちそうになるシャミセンを無表情で支えてやりながらステッキを振り、涼宮さんはメガホン片手に吼えていた。彼は、不本意そうな顔で文句を言ったり、かと思えば時折可笑しそうに吹き出したりしながらずっとカメラを回していた。
いまあの映画を見返したら僕たちはきっと胸を痛ませる。懐かしすぎて、離れがたくて。

中心辺りまで来てやっと彼女は僕を開放してくれた。手首をぐるりとおおっていた体温がなくなって、いやに空気が冷たく思えた。

「怒って、・・・らっしゃいますか?」

風にばらつく艶やかな黒髪を眺めながら僕はまどろっこしい遠回りをせずに問い掛けた。
彼女は後姿でも分かるほど大きく胸を上下させて息を吐いた。振り返った表情はまさに「呆れ」そのものだった。

「怒ってないわけじゃないけど、そこは重要じゃないわ。別に殴り合いの喧嘩ぐらい男子ならするでしょ?」
「いえ、殴り合ってきたわけでは・・・」

僕が殴られただけだ。言葉の暴力、という点においては僕が先に殴りかかったのだが。
なぜかその言葉に彼女は不安げな目をした。

「・・・もしかして古泉くん一方的に殴られてきたの?」
「・・・・ええ、まあ・・・」

今更隠す事でも無いと苦笑と共に頷けば、彼女は口元をきゅっと引き結んだ。僕はなにか返答を間違えたのだろうか。 それとも彼を責めたりしているのだろうか。

「アンタたち最近雰囲気悪いなとは思ってたのよ?」

僕は言葉を無くした。
僕達はそれぞれに隠し通せていると思い込んでいたようだが、結局演技を見る側の人間にとっては三文芝居でしかなかったのだ。僕も、彼も、違和感を纏って生活していた。

「だから訳でも聞いて、謝らせるか何かしようと思ってたの。でも今は駄目ね」

しょうがない、と彼女はもう一度溜息を吐いてポケットから携帯電話を取り出した。
白い指先は慣れたように動き、少し頭を傾けて耳元にぴたりと付けた。メールではなく電話をかけるらしい。
しばらくして相手が出たのか、彼女の目はぱっと大きくなった。

「あ、みくるちゃん?いまどこ?部室?」

相手は朝比奈みくるだった。
微かに音が漏れているが聴き取れるほどではない。けれど涼宮さんの様子からすると彼女は今でも部室にいるようだった。

「そこにさ、キョンいる?」

そして、彼も。

「・・・そ。悪いけどみくるちゃん、今古泉くんと屋上にいるんだけど、あたしと古泉くんと有希の鞄持ってきてくれるかしら」

僕は耳を疑った。思わず彼女の顔を凝視して、彼女と目が合った。彼女は叱り付ける様に僕に眉を寄せ、同じ疑問を持った朝比奈みくるにだけ言葉を返した。

「どうしてって、帰るからよ。職員室も行ってきて用事済ませてきたし、有希はあたしが迎えに行くわ」

彼女が頷く仕草や声のトーンや目線の動きにまで注意を払う。どこにも不自然さが見当たらなくて、それが逆に僕を焦らせた。

「・・・うん、だから部室には寄らないで帰るってこと。・・・そうそう。じゃ、降りてくから部屋の外・・・そうね、階段とこまで出してくれれば良いわ。重かったら引き摺っても良いし」

彼女の意図が読めない。いくらSOS団のメンバーであっても彼女の優先事項は彼で。彼女はとても優しい人であるし、彼への好意を表立って表すような人ではないが、それでもやはり最も気に掛かるのは彼だろう。
傍に行って話を聞いてやりたいと、せめて様子を見に行ってやらねばと思わないはずがない。

「ありがと。じゃああたしは責任持って古泉君を送ってくから、みくるちゃんはキョンのことお願いね」

・・・・・・・・・え?

おそらく自分と朝比奈みくるは同じ顔をしているだろう。
開いた口も、見開いた目も、閉じられない。
あの、彼女が?よりにもよって朝比奈みくるに「彼を頼む」と?
僕にも電話の向こうの朝比奈みくるにもイレギュラーな彼女の言葉。
けれど混乱を呼んだ本人は、いつも通りの世話焼きな表情に悪戯っぽさを含めて笑っている。

「キョンが弱ってるからって油断しちゃ駄目よ?何か変な事されそうになったら叫んで逃げるのよ?」

何が、起こっているのだろう。何が変わったのだろう。
僕が足踏みをしている間に、僕達が残りの月日に追い縋る間に、彼女には何が起こっていたと言うのか。
呆然と立ち竦む僕を知らずに、彼女は携帯の通話ボタンを押して僕に向き直る。

「さ、てと。じゃ、古泉くん帰りましょ」
「あの、彼は・・・良いんですか?」

本音の毀れた僕に、彼女は片眉を上げた。窘められている気になって僕は少し視線をずらした。

「だって古泉くん、喧嘩したのに黙って何もしなかったんでしょ?」
「はい・・・」
「だから、いいのよ」
「あの、意味が・・・」

分かりかねます、と僕は正直に言った。
古泉くんはなんでも知ってるようにみえて実はそうでもないのね。眉を顰められて僕はたじろいだ。

「古泉くんって、本気の喧嘩とか、ましてや殴り合いの喧嘩なんてしたことないでしょ?」
「・・・そう、かもしれません」

中学に入る頃にはもう機関に所属していたし、それ以前もそこまでの派手な諍いに遭遇する機会はなかったように思う。
殴り合いの喧嘩が正しいことだとは思わないが、殴られた痛みも殴る痛みも知る人間の方がきっと優しい。
少なくとも、僕のような人間よりはずっと。

「喧嘩したっていうのに殴られっぱなしなんて卑怯よ。殴ったほうも、殴られたほうも、辛いでしょ?」

ゆるゆると記憶を手繰る。
殴った側の彼は・・・・確かに、泣きそうな声をしていた。

「たぶん、アイツなっさけない顔してるでしょうね。だから良いのよ、今日は」

世話を焼かせるんだから、と肩を竦める。怒っているようにも愛おしく思っているようにも思える。
彼女はまるで本当に赦しを与える神のようで、少なくとも今の僕にはそう思えて、僕は情けない声を彼女に聞かせてしまった。

「でも、僕が悪いんです。彼は何も悪くなくて・・・」
「けど、言いたいことはあったはずよ。違う?」
「・・・・」

遮った彼女の言葉に僕は下げ気味の頭を持ち上げた。彼女の真っ直ぐな力の篭った瞳がすぐそこにあった。

言いたいこと。
そんなものはひとつもないような気も、抱え切れないほどあるような気もする。
けれど「言わなければいけないこと」は確かにあった。それは「言いたくない」ことであったけれど。
彼に伝えるその瞬間を想像して、胸の辺りに不快感が纏わり付いて掻き毟りたくなった。風が、冷たい。

「ちゃんと仲直りしなさいね。団長命令!」
「・・・は、い」

ぴしりと突きつけられた指先を見ながら、僕は辛うじて首を動かす事が出来た。
一点の曇りの無い彼女は満足気に頷いてから、濁り切った僕に屈託無く笑い掛けた。

「大丈夫よ。だってアンタたちあんなに仲良いじゃない」
「・・・・・・・え?」
「キョンもなんだかんだで古泉くんのこと頼ってる感じだしね」

笑顔の仮面を忘れたままの僕に、羨ましいぐらいだわと目を伏せた。

頼られていたのだろうか。信用されて、いたのだろうか。
愛も恋も存在しなくても、それでも彼と僕を繋ぐ何かはあったのだろうか。それは彼女には見えていたのだろうか。
任務さえなかったのなら「友人」にだってなれると。その可能性は、それだけの何かが僕らには。

涼宮ハルヒは僕の顔をじっと見つめた。真摯な顔付きで、瞳を正面から見据えてくる。

「古泉くんだって、キョンのこと好きでしょ?」
「・・・そ、う・・・見えますか?」

ドキリとするような訊き方に、少し声が震えた。
彼女は僕の強張った頬を解すように柔らかく笑った。

「古泉くんってあたしたちにもいつも笑顔だけど、キョンといるときのが楽しそうだわ。それに遠慮がないっていうか。心を許してるように見えるもの」

いいわよね、男の子同士って。
そう言って彼女は僕の背中をぽんと叩いてから歩き出す。僕は背筋の綺麗に伸びた後姿に目を細め。
それから「今度二人で何か奢りなさいね」と言う殊更優しく響く声に、僕は今まで聞けなかったことを舌に乗せた。分かり切っていたけれど口に出すことを許されなかった事実。そして今、初めて確信が揺らぎそうな、その。

「・・・彼が、好きですか?」

僕の不躾な問いに、彼女は一度足を止める。
動かない背中に僕が後悔の念を抱きかけた頃、涼宮ハルヒはやっと振り返った。ステップでも踏むように軽やかに、彼女の溌溂さそのままの勢いで。 見慣れた制服のスカートとトレードマークの黄色いリボン、それからポニーテールが出来るギリギリの長さまで伸びた黒髪が綺麗な軌道を描く。
彼女は僕を見て一度ふわり、と微笑んだ。戸惑いのない笑顔をいつだって見せる彼女から想像できない儚さに僕は目を見張る。
そして肩幅ほどに足を開き腰に両手を添えた涼宮ハルヒは、よく通る声で僕にこう叫んだ。

「そりゃあ、あたしは団長だもの。団員みんなを愛してるに決まってるわ!!」

太陽よりも輝く世界の中心は、眩しいほどにきらめきながらどこか寂しげに見えた。
完璧なまでの笑顔が、完璧だからこそ、切なかった。



僕は、そのとき知った。

能力は衰えたわけではないのだと。

ただ、少女が大人になった。
それだけのことなのだ、と。





僕は、僕達は、まだ足を囚われたままで。
いつの間にか変わっていた世界に、どうしようもなく焦りを募らせた。






6話→

5.5話→   ※5話のキョン視点




※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら



5話。ハルヒが大好きなんです。この子は本当に良い子。
時間が経って成長したハルヒと、とどまり続けるヘタレ男子陣。

(07/07/02)