And if I die before I wake.



6.



これは夢だ。
僕は呟く。唇も舌も動かしているのに音はない。


これは夢じゃない。
僕は思う。唇も舌も動かしていないのに音になった。


カツン、と靴底が固い床を叩く。反響して、消えていって、次の音が重なって、反響して、また消えていって。
ループするそれに耳を塞ぎたくなる。夢なら早く覚めてくれればいい。
けれどこれは現実に起こったことで、ただ僕がそれを夢として再生しているだけに過ぎない。だから改変することは出来ない。そんな力は僕にはない。例えこれが現実でなく夢であっても同じ事だ。

どこまでも鮮明な色。どこかくすんで思えるのは、僕の眼球が汚れているからだ。

「古泉」

ほら。耳に落ち着いて響く、しかし足を止め振り返る事を強制される深みを帯びた声もこんなにくっきりと聞こえる。僕の心臓を少しだけ早める。
僕は、完全に立ち止まってから振り返った。

「何でしょうか?」

僕は彼らには決して見せない『笑顔のない古泉一樹』で答える。( ちなみに、ここで言う【彼ら】は笑顔の眩しい彼女や被護欲を掻き立てるふんわりとした容姿の彼女や無表情の中に時折色を見せ始めるようになった彼女、それから神にとってだけでなく大勢の人間にとっての特別である彼のことであって、決して先程まで勝手な理論で高らかに愚かさをひけらかしていた【彼ら】ではない )
我ながら光の無い目をしている。僕はもう疲れていて、うんざりしていて、笑顔で答えるのも億劫だったのだ。
上司相手に作る堅い顔付きではなく、単に特筆すべき感情がないだけの無表情。上司の中でも少しは気心の知れている人物だからこそ出来る油断のある表情のようにそれは見えた。

「見えた」という表現の通り、つまり僕は、僕を見ていた。
今、口を動かしている僕も、それを見ている僕も、どちらも僕でしかない。
矛盾している。僕は二人ではない。けれど事実はそうなっている。
全ては「夢」という理屈で許される。

「疲れているわね。きちんと寝ているの?」
「まあ、3年前よりはずっと」

実年齢より幼く見える顔立ちで彼女は同情の色を滲ませながら微笑んだ。
僕は口の端を吊り上げるようにして笑う。彼女は肩を竦めながら口にした皮肉を気にした風もなく、ふふ、と柔らかに目を細めた。

「申し訳ないけれど、あなたに上から追加命令よ」
「追加・・・?」

今更追加とはどういうことだと僕は眉を寄せる。先程、特に涼宮ハルヒの様子に変わりはなく、最近は閉鎖空間の発生も減少傾向にあると報告したばかりなのだが。大体追加ならその場で言えば良いものを。
彼女は僕の困惑や疑念を全て許容するように可笑しな程ゆっくりと瞬きをした。もう微笑んではいなかった。

「立ち話も何だわ。誰かに聞かれても困ります」

彼女は止まったままの僕に近付き数歩分の距離を埋め、擦れ違い様に肩を叩く。触れる程度の柔い仕草だ。

「・・・極秘任務です」

世界から自分だけが切り取られたのかと思うような一瞬が僕の息を止めた。
すっと伸びた美しい後姿をぎこちなく辿りながら、ふらつく足で彼女の後を追った。





「身構えるほど大掛かりな話でもありません」



気が付くと僕は白い真四角の部屋で、彼女の「安心して」という声を聞いていた。
現実でもこんな部屋だったかは僕には分からない。夢、人の記憶なんて得てしてそんなものだ。
物を書くにも少々不便そうな小さな一人用の木製のデスクがひとつ。その他には何もない酷く殺風景な部屋だ。僕はその背丈の少々高い机というよりは台のようなそれを挟んで彼女と向かい合っている。
場面の切り替えの早さに、さすが夢だなと悠長なことを考える。皮膚が焦げ付くような緊張感に呼吸すら憚られる自分もいるというのに不思議なものだ。

いつの間にか僕はカメラの視点ではなく、僕自身の視界を取り戻していた。それでも現実の「僕」は、夢の「僕」とは完全に一致せず、この後の展開を知らない僕が怯えている。僕は持ち得る限りの覚悟と冷静さで言葉を待つ。

「彼の話よ。涼宮ハルヒに選ばれた、彼」

彼女は今回の命令の詳細が書かれているはずの書類をちらりとも見ずに話し出す。バインダーは胸の辺りで抱えられたままだ。

僕は自然と、向かいの席でつまらなそうに駒を置く彼を浮かばせる。
この間勝った時はずいぶんと驚いていたな。

「率直に言うわ。『彼を好きになって欲しい』の。勿論、そういう意味でね」
「・・・・・・・は?」

長閑な記憶に耽っていた僕は一気に現実に引き戻された。いや、今のここは夢か。
違うだろう、そうじゃない、ああ、だめだ、混乱している。

「出来るなら、篭絡させて欲しいとのことよ」

彼女の口元が声を上げて笑い出したいのを堪えている。僕だって笑いたい。何を言い出すのかと一笑してやりたい。
けれどそれは上手くいかずに、引き攣った声で返す。

「いえ、あの・・・お言葉ですが、彼も僕も男ですからそれは難しいかと」
「ふふ、そうね。貴方は異性愛者なのでしょうし、彼だってそうでしょう。勿論、同性愛者だったなんて新しい報告も入っていないわ」

それはそうだ。朝比奈みくるに傾倒する様や、長門有希をいちいち気に掛けてやる優しさを見れば分かる。涼宮ハルヒに対しても文句を言いつつも満更ではなさそうな態度で。
それよりも、機関のお偉い方は涼宮ハルヒと彼が恋人同士になれば世界は安定するとまで言っていなかったか。どんな考えの変化があったかは知らないが、どこかで頭を打っておかしくなったとしか思えない。

「なぜ、ですか?・・・何のメリットもないかと思いますが」
「誰も本気で恋仲になれるだなんて思っていないのよ。先程のは彼らなりのジョークのつもりなのでしょう。万が一そんな状況が涼宮ハルヒの知るところとなれば、世界崩壊の危機は免れない。だからここで重要なのは、貴方達が恋人同士になることではなく、あなたが彼に徒ならぬ好意を寄せていると、『彼』が知ること」
「・・・・・・・・」

僕は黙っていた。
言葉が見当たらない。見つける必要さえないだろう。
彼女の凛とした声が続ける。

「涼宮ハルヒを銃なのだとすれば、彼は引き金を引く指そのもの。本当に恐れるべきは彼女ではなく、彼。彼女は監察すべき対象、そして彼は監視されるべき対象。そう変更されたのよ。貴方には今更何を、と思うような話でしょうけれど」

神の全ての力 ―改変や破壊や侵食― の根源を辿ればそのいずれもが彼に繋がっている。
良かれ悪かれ彼の一挙手一投足が涼宮ハルヒを揺らす。自らの能力を自覚していない彼女を幾ら機関が監視したところで何の効果もないのだ。彼女を守る事が出来るのも、止めることが出来るのも彼だけなのだから。機関に出来る事などせいぜい過激派の牽制をするぐらいのものだろう。
そしてそんな彼が、本質を見抜いて居ないにせよ、自分が涼宮ハルヒのトリガーに指を掛けられることを知ってしまった。

「上は『鍵の行動を制限してでも引き金を引かせてはならない』と躍起になっているの。能力がどの程度まで使われ、どんな規模の改変が行われるかが全く予想できないから。最悪の可能性も充分にある。少し前の彼であれば問題はなかったのでしょうが、彼自身の考えもここにきて変化して来ています。彼の大切なものたちに重大な危機が迫れば、迷わず彼は引き金を引くでしょうね」

そこで彼女は滔々と話し続けていた口を閉じて、少し表情を和らげた。
わたしも何度か会っているけれど、良い子よね。と機関の上司ではなく彼女個人の声音で囁くように言った。

「無論、そうでなくとも我々は全力で彼と、彼女達を守るつもりでいますし、その方向に変わりはありません」

当たり前だ。そう言いたいのが分かったのか、彼女はそこで一度頷いた。

「けれど、もし危害を加えた何かがどこかで機関を連想させたのなら・・・・・・恐ろしい事ね。上層部が『銃口をこちらに向けさせない為の予防線は張っておくべきだ』という結論に辿り着いたとしても何ら不自然ではないでしょう?」
「ええ。それは、理解できます。今までのお話も。ですが、どうして僕が彼に好意を寄せる事が予防線となるのか、が・・・・・・」


冷たいばかりの背筋に一気に汗が吹き出す感覚があった。




笑っていた。




彼女は、僕を見て、僕の瞳を見て、僕の言葉に、笑っていた。
ぞっとするほど優美な笑顔に僕は半歩後ずさる。


「いやだわ、古泉。あなたが言ったのよ?」


彼女は本当に可笑しそうに、くすりと笑った。


あ 、


知って、いる。


聞くな、駄目だ。


「・・・・っ」

逃げ出そうと振り返ったそこに扉はなかった。
ただひたすらに壁があるだけだ。扉を開けて入ってきたはずなのに、扉がない。
いや、元々扉なんて開けたのか?僕は気付いたらここにいて、けれどここにいるためには扉が必要で、それでも現実に扉は存在しない。
扉が消えたのか。最初から四角い箱に僕がいただけなのか。
密閉された空間に僕の荒い呼吸が響く。

そうして出口を探そうと視線を動かした僕は、気付いた。

今まで僕の目の前にあった、この台は。
机なんかじゃない。

これは、


――証言台、だ。


僕は断罪されるためにここにいるのだ。
ここは僕を逃がさないようにするための檻だ。判決に耳を塞ぐことは許されない。


「わたしに言ったじゃないの」


彼女の微笑ましいものを見るような目が真っ直ぐ僕を捕らえた。
笑っている。彼女は、笑っている。




  「 『彼は好意を向けてくれる人間を無下に出来ない優しい人だ』って」

  「 『裏切ったり出来ない甘い人』なのでしょう?」




僕は、殺された。

彼女の眼や声には砂粒ほどの感情も在りはしなかった。
凄艶な笑みで死刑宣告もなしにその場で首を刎ねられた僕の頭はごろりごろりと床を転がって、上下左右の感覚がなくなった。
視界の端に、あまりにも美しい曲線を描く唇があった。その唇が、演技は得意でしょう?と言っている。














     「貴方の、せいね」














***


「・・・・・・ッつ!!!!?」

見開いた目に映り込む物が白い天井で、僕はまだ夢から覚めないのかと絶望しかけた。
けれど、僕が見ているのはよく知る自宅の壁の白さで、肋骨を叩くような心臓の激しさも全身を濡らす汗も酷く生々しかった。

「ひ、どい・・・ゆめだ」

呟いた自分の声の方がよっぽど酷かった。

覚醒しつつある頭を横にごろりと倒せば、やはり見慣れた風景がある。背中に感じる弾力も我が家のソファのものだ。
僕は通常よりも重力を感じる身体に力を込めて起き上がる。背中に張り付くシャツが気持ち悪くて、背中に手を回して引き剥がした。
視界に不便がなかったのは就寝時用のオレンジの蛍光灯が付いていたせいで、既にカーテンの引かれていない窓から光は差し込んでいなかった。
帰宅してすぐ制服もろくに脱がずに横になったのがいけなかった。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
一体どれぐらい眠っていたのかと付けっ放しの腕時計を見下ろす。優に3時間は経っていた。外が暗いのは当たり前だ。

フローリングに足を下ろすと、足の裏がぺたりと床に張りつく感触がした。靴下は脱いでいたようだ。その辺に落ちて居るだろうから後で拾っておこう。
それよりも水だ。咽喉が渇いて仕方ない。唾液は粘度を増して、舌も口内に張り付いてくる。
誰に取り繕うこともないので、眠たげな瞼も無理に開かず気怠くキッチンまで歩いていく。足の裏に伝わるひんやりとした温度が気持ち良い。


キッチンは相変わらず綺麗なままだ。


一人用の小さな冷蔵庫を開けて半分くらい残っていたミネラルウォーターを手に取る。電気代が勿体無いと感じるほどに何もない冷蔵庫には、このペットボトルとマーガリンとジャムしか残って居なかった。
キャップを捻る僕は、ジャム瓶の中が妙に白いのが気になった。カビかな。
冷蔵庫の扉を開けてもきちんと閉める気のない僕は、冷やす食品がなくて暇そうにしている冷気を肌に当てながらペットボトルに直接口を付ける。逆さにしたことで一気に流れてくる水がべた付く口内を洗浄する。単に食道を通って胃に到達しているだけの水は、それでも全身を潤すように染み渡って寝起きの火照った体温を冷ましてくれた。

「・・・・・・」

ボトルを冷蔵庫に放りながら、先程のジャム瓶が気になって手を伸ばす。すでに底の方にこびり付いている程度の苺ジャムは白い水玉模様になっていた。ああだめだ。これはさすがに食べられない。
食べ物がマーガリンだけというのはどうなんだろうと考えながら、ゴミ箱に放る。
中身は洗った方が良いだろうが、もう捨ててしまったから仕方が無い。

「買い物・・・、いいか。面倒臭い」

空腹を訴えてこない胃にふらふらとリビングに戻り、もう一度ソファに腰を落とした。
窓から見える星のない暗い空が美しくて、部屋の明かりが漏れるとは分かりながらもカーテンを閉める気にならなかった。



最近、あの夢をよく見る。



彼を好きな振りをしろというとんでもなくフザケた命令を受けたときの夢だ。
とは言っても忠実な再現が出来るほど僕の記憶は確かではなく(今回は比較的忠実な方だ)、けれど見る夢全てがどこかであの日に繋がってしまう。
僕は長閑な夢やなんてことのない平坦な夢に浸っている。しかしいつでも前後のストーリーや条件を無視した矛盾だらけの誰かが僕に向かって言うのだ。
「あなたが言ったんじゃないの」「あなたのせいでしょう」と。
今日のように彼女本人であることもあれば、SOS団の誰かであったり、TVニュースのアナウンサーであったり、道行く少女であったり、もしくは本来人語を話すはずのない猫や犬であった。酷い時には声だけがいつまでも響いていたこともある。

その度に僕はみっともなく引き攣った呼吸で目を覚ます。長距離を全力疾走したかのような疲労に満ちた身体。音のない部屋に対する小さな恐怖。それから、自ら心臓を抉り出してしまいたくなるような衝動。

安らかな眠りから遠ざかって、もうどれぐらいになるのか。

「今日は、3時間か・・・」

言葉にしてみて、なんだか僕は満足してしまった。
30分ごとに目が覚める夜もあるのだから、それに比べたら寝過ぎたぐらいだ。
それに涼宮ハルヒの精神が安定して居なかった数年前はもっと酷かった。僕自身の精神状態もあるだろうが、3日間寝ていないなんてことも別段珍しくなかった。彼女が彼に出会ってからは僕の睡眠時間も適当に確保されたが、それでも閉鎖空間から帰ってきてすぐはどんなに深夜であっても寝付けなかった。

それでも僕が睡眠時間の多少に今一喜一憂しているのは、この一年半睡眠不足に程遠かったからに他ならない。

閉鎖空間に行った日でも可笑しな程に寝付きが良かった。そう言う日は必ず彼が僕の家で待っていた。
彼の、近所に買い物に出ていた相手に対するような無神経なほど軽い「おかえり」が困惑するほどの眠気をもたらしていた。
あなた超能力者ですか、といつか冗談ぽく本音で訊いたことがあったが、彼は「そうかもな」と適当でありながら的確な返事を寄越した。

そんなわけがないのを知りながら、その時僕はひやりとしたのだ。
全て見抜かれているんじゃないのかと。
僕は一年半、安らかな眠りの度に、そうやって怯えていた。


いや。

彼に嘘の告白をした日から、僕はずっと怯え続けていたんじゃないか。


伝えたかっただけですのでお気になさらないでください、と言った時の彼の表情といったらなかった。
気にしないでいられるヤツがいたらそいつはオカシイ、お前は馬鹿かと罵られた。確かにそうだと笑ったら今度は「お前は時々物凄く頭が悪いな」と溜息を吐かれた。
あからさまに拒絶されなかったのは有難かった。恋心など一片も存在しては居ないが、彼への純粋な好意は確実に存在していたから。
安堵の表情を僕は浮かべていたんだろう。彼は目を逸らしたままぽつりと「こんな事であっさり切り捨てられるほど短い付き合いでもないだろ」と言った。じわりと眼球を膜が覆って慌てて瞬きで散らした。

謝罪や罪の意識ではなく、嬉しくて涙腺が緩んだ。

大丈夫だ。演技をし続ければ、僕はここにいられる。

もう、引き返せないところまで来ていた。
恐ろしくて、振り返れないところまで。


  そして彼は、よりにもよって自分を選んでしまった。


報告を聞く奴らの目が驚愕と嫌悪感に満ちていて殺意が芽生えた。
お前達の命じた通りにやったじゃないかと、お前達のせいじゃないかと、切れそうな理性の糸を拳を握って耐えた。
その時ばかりは、どうして僕の事を好きになったんだと、彼さえも口汚く罵った。

僕の一体どこが良かったんだろうか。一年半前の疑問は未だに継続したままだ。
彼が人に好かれる理由は五万とある。それだけのものを彼は持っている。けれど自分はどうだ?
一年間も共に過ごしてきて、何が彼の目に止まったのだろう。本音は出さない、皮肉は言うし、話は長いと彼を苛立たせてばかりだった。いつ裏切るか分からないと再三言い続けていたというのに。
流されたのかもしれないと思う。同情されたのかもしれないと思う。今までの関係を壊すのが嫌で、付き合うのを決めたのかもしれない。

「・・・、・・・気に、しすぎだな・・・」

自分の思考回路に自嘲する。
今更もう関係のないことだ。思索は好きだが、どれもが今考えるに相応しくない。無駄ばかりだ。

「買い物、やっぱり行こう」

さすがに夜9時を過ぎれば胃も空になる。
水だけで過ごすには辛くなってきた。超能力者とは言え、それ以外は普通のどこにでもいる高校生と変わらない。食べずに過ごせるほど不健康なわけでもない。

着替えようかと思ったが止めた。とりあえず着乱れた制服を整えて、ソファから1m程の距離で丸まっていた靴下を拾い上げる。裏返しになっているものを適当に振りながら戻して履き直した。妙な冷たさと柔らかさが不快だったが仕方ない。
玄関からソファまでの一直線上に放られた高校指定の鞄から財布を取り出し、もう一度乱暴に同じ場所に落とす。
ドン、と重みのある音がして下の階に響いたかもしれないと少し思った。

何を買えばいいんだろうか。
こんなことを真面目に考える自分には本当に生活能力が欠けている。
まあ行ってから決めればいいかと思考を放る。買うものを決めてから行けと彼は主婦みたいなことを言っていたが、僕には到底無理そうだ。向いていない。

ああ、また彼のことか。
いくらなんでもオカシイだろ、これは。
誰にともなく、僕は首を振った。

「・・・・・・、あ。ゴミ・・・」

右足を靴に入れる途中ではたと気付く。
そういえばゴミ袋がいくつか溜まって居た。専らコンビニ弁当やらカップ麺やらが最近の主食になっていたから可燃ゴミが大量に生産されているのだ。
僕は仕方なく半透明のゴミ袋の山を一望できるキッチンまで引き返す。
1つ、2つ・・・3つ。かなりの量だ。

うんざりする光景だが、このまま放置すれば一週間後には目を背けたくなるような状態になっているだろう。
僕は右手でふたつの袋を掴み、左手で最後のひとつを持ち上げようとしたところで奥にもうひとつ袋があるのを見止めて、手を伸ばす。

「・・・・・・・あ・・・」

小さな口の閉じられた白い袋から、赤と、青が見えた。


     マグ カップ  だ


どさ、と音がして僕は両の手の力が抜けてしまったことを知った。
見下ろしたまま、身動きが取れない。

「・・・・・っ、」

目の前が白く濁った。

ぐるぐると感情が空の胃で渦巻く。
まるで走馬灯のように数日内の記憶が駆け抜ける。

僕は込み上げる衝動に息を飲む。


――あの瞬間に戻りたい。


「――っ」


そうして、彼の泣いた後姿を、悲痛な声を、


『今までありがとうな』とそう言った笑顔を、





――引き寄せて、抱き締めてやりたい。






「っそ、んな・・・・」

彼に「好きだ」と告げた時、僕はどう思った。
彼への罪悪感で占められていた心臓が緩やかになったのはなぜ。
男同士で身体を重ねない事も大して珍しくはないと言うのに、それでも繋がる事を選んだのはどうしてだ。
閉鎖空間に行く度に彼の「おかえり」という声を思い出していたのは、
触れる体温に安堵して眠っていた自分は、
彼の記憶が残るこの部屋が苦痛だったのは、
怯えていたと言いながら、それでも一緒にいられたのは・・・


異様な程の思考の飛躍は全てどこに着地していた?

あの日から思考を占めるのは・・・・誰だった?


「嘘、・・・だろ」

勝手に唇から零れた声を止める様に口元を手で覆う。
指先が震えている。

ずっと目を伏せていた。
彼が手酷い裏切りを受けるのは自分のせいだという罪悪感で何も見て居なかった。
泥のような罪の意識を体に塗りつけて、被り続けて、必死に、必死に。

一体、何のために必死だったかなんて、考えても居なかった。

お前が悪いのだと、お前のせいだと誰も詰ってくれないのが辛くてたまらなかった。
身の内で溜まるばかりの苦痛を吐き出す場所がなくて狂いそうだった。
彼に、言えば良かったのだ。本当なら。苦しかったのなら、告白したあの日に洗い浚い吐いてしまえば良かったのだ。
やさしい彼はきっと協力してくれただろう。
それでも結局、僕は言わなかった。最後の最後まで、言えなかった。

「・・・嫌われたく、なかった・・・っ」

彼の瞳がもしも嫌悪で塗りつぶされたら、侮蔑が滲んだら、僕はきっと死んでしまいたいと思うだろう。
義務で入り込んだはずの空間は離れ難い程心地よくて、そこにいた彼は呼吸のままならない僕に酸素を与えるような人で。
彼が自分を信用してくれるようになったことが馬鹿みたいに嬉しかった。
演技ではない笑顔が出来る自分がそこにはいて、奇跡のようだと思った。

「いまさら・・・ッ」

バラバラになって混ざり合った破片。
壊したのは自分だ。捨てようとしたのは僕だ。
今更事実を捻じ曲げる事は出来ない。
接着剤を付けても、必死に破片を掻き集めても、戻らない。




想いを自覚する前に自ら終わらせてしまった恋が、ゴミ袋の中で沈黙している。








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※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら





6話。自覚。機関は監視ってそれ意味あんのかな・・・といつも思う。
全部の思考回路を繋げるのに必死でした。そしてやっと題名が・・・。

(07/07/12)