And if I die before I wake.



7.



目を開くと雨の音がした。
耳を震わす静かな砂嵐に僕はもう一度視界を閉ざし、ゆっくりと冷えた酸素を吸い込む。瞼の裏が白く光っている。
訪れた朝は、驚くほど穏やかだった。

「・・・う、」

背骨、首、後頭部。とにかくあちこちが競い合うように鈍痛を訴えていた。床に座りこんだまま寝ていれば当然の結果ではあるのだが、なんだか遣る瀬無い気分になる。
腕を付いて腰を浮かすと、床と接していた臀部もズキリと痛んだ。もう二度とこんなところで寝るものか。
しかも若干生ゴミの匂いがする。ゴミ袋が4つ(その内3つには食品関係のゴミが大量に詰められている)もあればどれかが異臭を放っていたとしてもおかしくはない。むしろ放っていないほうがおかしい。
いくら憔悴していたといえど、よくもまあこの混沌とした空間で眠れたものだと自分事ながら感心する。

とりあえずシャワーを浴びて、それからゴミ捨てだ。
土曜日・・・は、燃えないゴミは出せない。

僕は地区支給のカレンダーを確認して頷く。カレンダーを買うのが面倒で使っているだけだったので、目的通りに使用するのは実は初めてだ。彼は逐一これで確認していたけれど。

「・・・なんて単純な」

彼の事を思っても心臓にじわりと愛おしさが広がるだけで、昨日までの息苦しさはない。結局のところ、人間は名前を付ける事で安心する生き物なのだ。





雨粒は一定のリズムで家々の屋根を、木々を、地面を、そして窓を余す所なく叩く。
白濁とした空気の色を心地よく思うのは、僕の心が多少健康になった証拠なのかもしれなかった。









***


肩に掛けたタオルでがしがしと乱暴に髪を掻き乱しながら、僕はスリッパも履かずに裸足で歩き回っていた。
リビングのあちこちに捨てられたネクタイやら鞄やらジャケットを順に拾い集めて行く。ネクタイは何とか大丈夫そうだが、ブレザーのジャケットは軽く皺になっていた。スーツ用のプレスアイロンはジャケットも挟めたかな、とハンガーに袖部分を通しながら考える。

「・・・ん?ああ、携帯か」

ブレザーの上着が妙に型崩れすると思ったら、内ポケットに携帯が入れっぱなしだった。
取り出した携帯のランプが点滅していて僕は慌ててボタンを押した。機関からの連絡だったらまずい。
画面には「メール1件」の文字。もう一度ボタンを押す。

「・・・涼宮さん?」

メールの差出人は珍しくも彼女だった。
珍しいと表現したのは彼女が連絡に関してはメールよりも専ら電話を好む人だからで、実際僕のフォルダに彼女の名前はほんの数件しかない。(逆に着信履歴は結構なものだが)
受信時間は昨日の夜八時前。僕が夢に魘されていた時間帯だろう。
団長からの連絡に返信をしていないとなると本来大事なのだが、僕は焦ってはいなかった。
緊急なら彼女は電話を選んでいるだろうし、返信がなければ電話を掛けてくると分かっているからだ。




  【件名】 団長命令!

  土日のSOS団の活動は、あ
  たしとみくるちゃんと有希で
  やるから、アンタたちは月曜
  までにしっかり仲直りしてお
  きなさい!!

  以上!!




「優しい人だ・・・本当に」

口元が綻んで行くのが分かる。
しかし其の下、数行の空白の後の一文に、僕は緩んでいた唇を引き締めた。


   『キョンならどんな話だってちゃんと聞いてくれるはずだから、全部話して来るのよ?』


情けない。なんてザマだ。
今まで作り上げてきた『古泉一樹』は一体何だったんだ。二年半、一時も外す事のなかった仮面の内側を彼女にあっさりと晒してしまったなんて。
笑顔も上手く作れず、余裕なく動揺し、神の心を不用意に乱す発言までした。

けれど、

「・・・おかしいな」

なぜか同時に、清々しい想いも込み上げてきていた。
これで良いんだ。これで正しい。僕はすんなりと呟いていた。

彼女は確かに驚いていた、不安そうだった。ほんの少し、怯えてもいた。
だが、彼女は僕を心配してくれた。笑顔を向け、優しい言葉を与えてくれた。
笑顔でない僕は、彼女に頷かない僕は、弱音を吐いた僕は、それでも『古泉一樹』だった。

「神は・・・愚かではない。優しくて、気高くて、僕でさえ受け入れてくれる・・・・・・・・人間だ」

僕は祈るように携帯を両の手で握り締める。
多大な感謝と懺悔を神に何度も繰り返す。これで、最後だ。
次に僕が『有り難う御座います』と『すみませんでした』を告げるのは彼女にだ。神にじゃない。

しん、と潜まる部屋に雨音が混じる。
彼女もこの音を聞いているのだろうか、それとも空の下で傘を差しているのだろうか。どんな表情をしているんだろうか。
そんなことを考えて、僕はいつの間にか涙を滲ませていた。

そして。

「・・・・・・・・・・え、」










      神が、自ら選んだ一本の糸をそっと手放したのを、感じた。










「・・・・あ・・・ああ・・・」

両手足を拘束し続けた枷から解き放たれた開放感と、大きな大きな途方もない喪失感に眩暈がした。
後から後から涙が零れて、僕は力なく崩れるように膝を付く。


初めて閉鎖空間に行ったあの恐怖と絶望を。
負った傷の痛みに呻き続けた夜を。
どうして僕を選んだのかと彼女を憎んだ瞬間を。
笑顔を作ることを自分に課せた日を。


間近で見た彼女の眩い程の笑顔と好奇心に彩られた瞳を。


今でもひとつ残らず思い出せる。


これは、慈悲だ。
お前に選ばせてやると、お前はどうしたいのかと、問うている。
これが彼女の意思ならば、彼女の悲しいほどの優しさだと言うのなら、僕は。


「・・・・・・っ覚悟を決めて、みせましょう」


ぐっと押しだされる感覚に、僕は口端を引き上げる。






屋上で軽く叩いた彼女の掌は、確かにあの時僕の背中を押していた。







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※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら



7話。覚悟と決意。最初に能力が消えるのは古泉であるべきだ。古泉だけは特別だ、きっと。
(07/07/14)