And if I die before I wake.



8.



今日も空に星はない。

僕は湿った公園のベンチでズボンを濡らすわけにもいかず、電灯に寄り掛かるようにして立っていた。
先程からずっと虫の音が背中から僕を覆うように聴こえている。風が吹き抜ける度に葉枝が擦れ合い、砂粒が舞い上がる。全くの無音世界よりは現実感を僕に齎してくれるが、寂寥感は拭えない。
左手首に乗る小さな透明ガラスの中で黒い針が狂いなく動く。長針は9を少し過ぎ、短針は7という文字に触れそうな程近付いている。



『午後七時。公園にてお待ちしています。』
そんな用件のみの余所余所しいメールに返信が返ってきたのは送信から5時間も経過した16時半、太陽が重なり合うように立ち並ぶ建物の奥へ奥へと隠れていく時刻だった。
・・・・・5時間『も』?まさか。とんでもない。
反応があっただけでも奇跡と呼んで差し支えなく、驚いて然るべき事態に相違ない。僕は送信してからずっと、メールの差出人を見ただけで携帯を壁に叩き付ける彼ばかりを思い浮かべていたのだ。「もっと違う文章を送れば良かった」とか「メールでなく直接そのまま会いに行くべきだった」とか詮無いことを考えては部屋を落ち着きなくうろうろしていた。
だから『たったの』5時間。これが正しい。

マナーモードにしたままの携帯が受信を受けてガラステーブルの上で振動したときには心臓が止まるかと思った。
ガガガガ、と耳障りな音で微振動しながら移動する携帯を信じられない思いで見詰め、動きを止めたのを視覚と聴覚で確認してから手に取った。その時になって「彼では無い別の誰かからのメール」の可能性が過ぎったが、所詮は過ぎる程度の可能性だった。

画面にはたった一言、

【お前は長門か。】

とだけあった。
彼がそう考えるに至った詳細は分からないが僕のメールはどうやら長門さんを彷彿とさせたらしい。そして悪くは無い印象を与えた。これが長門さんのお陰かどうかは定かでは無いが、罵詈雑言でも事務的な文でもない、日常交わすような他愛無いメールが僕の元へと送られてきたのだった。悶々とした5時間を思うと贅沢にも拍子抜けしたと言いたくなる。
それでも、呆れた声はおろか眉間に生まれた皺さえ想像に難くない彼の口調そのままの文面にやはり僕の目は引き付けられていた。何度も何度もその数文字を目線でなぞる。ボタンを押して二つ前の画面で彼専用の受信フォルダを眺め、また押して一番上にあるそのメールを読み返し。その内無意識に指を動かしていたのかメールに保護を掛ける画面が出ていて、僕は慌てて待ち受け画面に戻した。

「・・・参ったな」

この作業を今この時までに何回繰り返している事か。
もっと周りの現実に思考と神経を戻して行かないと妄想に沈んで廃人にでもなってしまいそうだ。

「寒い・・・」

携帯をポケットに落として意識を浮上させてくると夜の寒さが肌に凍みた。自由になった両手で腕を摩りながらぼそりと口に出すとさらに体温が下がるようだった。
何か羽織るものを持ってくるべきだったな、と用意の足らない自分に息を吐き。

「・・・うわ・・・っ!」

その瞬間、図ったのかと思わずにはいられないタイミングで突風とも言うべき強い風が吹いた。
虫の声が届かなくなるほど木々が喚いている。さすがの虫たちもあまりの風に口を噤んで耐えるしかないのかもしれないと妙にメルヘンな事を思いながら、僕も呼吸を止めて乱れる髪と上がる砂埃に本能的に目を瞑る。
バタバタとまるで旗が翻るような音が壁のように両耳を塞ぐ。遠くで甲高い音が小さく細く吹き抜けていく。

「・・・っ凄いな、今のは」

十数秒もの長く大きな鼓膜の震えが落ち着いて、改めて呼吸をし直しながら僕は四方八方に散らされた髪を適当に直す。
埃のせいか幾分ごわ付いている。眼球に引っ掛かりを覚えた僕は、下を向いて睫に絡んだ砂埃を指先で払った。
一拍遅れて、鈴虫が控えめに鳴き出す。


それと同時に、夜風と葉擦れと砂埃と虫と僕の溜息と呟きの空間に違うものが混じった。


じゃく、という水気の混じった音に僕は顔を擡げる。
ライトが作る光の範囲の外、1、5mの距離。姿は薄ぼんやりとだが、存在ははっきりと掴めていた。僕よりも少し低い背丈、気だるそうな表情をするくせにしゃんと背筋が伸ばされた立ち方、頭の形、肩幅、些細な身じろぎ、溜息の長さ。
僕は微笑む。

「早かったですね」
「7時3分前だけどな」

僕は二度ほど瞼の開閉を行ってから、左腕を持ち上げる。時計の指す時刻は51分。
そうだ、この時計は6分遅れているんだった。そして彼の時計は3分早い。

「ぴったりのタイミングでいらして下さったんですか」
「何の話だ」

あっさり否定した口調でも視線が少し僕から外れたのが分かった。
つまるところ彼は自分の時計が3分早いことを理解しているのだ。ならば僕の時計が6分遅れているのも彼のせいか。
そんなことを思った。

「それよりな、お前もうちょっとマシな文章は作れなかったのか。幸い俺が分かったから良いものの、あれじゃあどこの公園だかが全く伝わらないだろうが」
「あ、はい・・・そうですね。完全に失念していました」

彼の呆れた声にさえ安堵して動揺して、すみませんでしたと言い損ねた。
僕の要望を受け入れて彼がここに来たという事実がじわじわと低速で体内に広がっていく。
肌が粟立つ。高揚か緊張か不快感か苦痛か単なる寒さのせいなのか、判別出来ない。

「ハルヒからメール来たか?」
「ええ」
「同じ内容か」
「おそらくは」

頷くと、やっぱそうかと相槌というよりは独り言のように言う。
会話は現在平穏。しかし結局それだけだ。彼は拒絶するように1.5mの距離を崩さない。
この長さが意味するもの、それが今の僕らの現実なのだ。

「・・・急にお呼び出しして、申し訳ありませんでした」

なるべく皮肉に聞こえないように声を和らげ、笑い方が演技に見えないように唇を緩める。
それ自体が演じている事に他ならないのだが、素で穏やかな声も笑顔も出来る状態にないのだからこうするしかない。

「どうしても直接お会いして話したいことがありまして」
「・・・気にすんな。どうせ俺も話すことあったしな」

彼は両の手をポケットに突っ込みながら、下方に向けて言葉を放った。
僕の脳はコンマ数秒の間に「話すこと」に関する思索と解析が行われたが、どれもが最悪と呼べるもので僕は聴き返す事を止めた。そうですか、とそれだけを答える。

じっと彼のシルエットを見つめる。ぶるり、と震えて首を竦める仕草が見て取れた。
上着を着ているようだったが、それでもこの夜気は堪えるのか。

「外で話すのは少々辛いですね。どこか入りましょうか?・・・そうですね、」
「お前の家で良いんじゃないのか?近いだろ」
「え?」

視覚が曖昧だと、脳は微々たる揺れにも混乱する。脳が混乱すれば全てが散らかってしまって、どこに何があるのか整理も把握も出来なくなる。恐ろしいほど彼の真意が量れない。こんな時に冗談など言うはずもないのに、これは彼のジョークか何かだろうかと真剣に考える。先日暴言を吐いて傷を抉ったばかりの人間と二人きりという状況に対して、彼は気まずいとか不快だとかそういった感情を持たないのか。
僕は声で不安定な感情を覆ってしまおうと「問題でもあんのか?」と訊く彼に、「何も用意してませんが良いですか?」と遠回しに承諾する。妙に早口になってしまったのが彼には分かってしまっただろうか。





今日も空に星はない。

彼は僕の左斜め後ろを歩く。視界の範囲に映らないから本当にいるのかは確かめられない。振り向くだけで良いと分かりながらもそうすることが出来ない。
コンクリートを蹴る乾いた音に、時折ぱしゃん、と異質な音が混じる。水溜りを踏んでいるのかもしれない。僕は全神経を聴覚に集めるようにして彼の存在を確かめる。気を抜けば彼は消えてしまうと、妄想の焦燥感に心臓がざわめく。


湿った空気に凍えそうだ。
指が冷たくてかなわない。
















***


「あ、適当に座っていてください」
「そうする」

入ってすぐにキッチンに直行しながら振り返ると、既に彼はソファの前に腰を下ろそうとしていた。
ソファの上のクッションを掴み上げて、フローリングに直にぺたりと座る。当たり前のようにクッションを抱えているのが何だか可笑しかった。習慣、というやつなのだろう。

顔を戻した僕は冷蔵庫を開こうとして、何もなかったことを思い出す。
マーガリンを出してどうしろと言うのか。火に文字通り『油』を注ぐ、とまではさすがにならないだろうが頭の作りを疑われそうだ。かと言って何も出さないのも如何なものか。

「なんもねーなら良いから」
「・・・え、あー・・・はい」

届いた声にびくりとしてキッチンから顔を覗かせると「水だけくれ」と彼は言った。
すみません、と笑顔を作る。

「お前の「何もない」が本気で何も無いことだってのは身に沁みて分かってる」
「返す言葉もありません」

水道水の入った(ミネラルウォーターすらもう無い)グラスを両手に眉を下げる。
彼の窘めるような低音に、僕は叱られた子供のような居心地の悪さを覚えながら小さな長方形のガラステーブルにグラスを丁寧に置く。それでもカン、とグラスの底とテーブルが鋭い音を立てた。
小さくサンキュ、と聞こえたが、僕は意識的に右から左へと流した。それがどんな意味合いのものであれ、彼からの感謝の言葉というのは今の僕にはどんな罵声より殺傷力を持っているのだ。

「初めて来た時もこんな感じだったな・・・」

彼の斜め前辺りに座ろうとしていた僕は、膝を軽く曲げた状態で静止した。
僕が彼の顔を凝視しているのを見て、彼は自分の真横に置かれたグラスを手にする。カラン、と申し訳程度に入れた氷が音を立てた。

「悪い、なんでもない」
「・・・・。そうですね。あの時も水しかなくて」

貴方に叱られた記憶があります、と僕はフローリングの上で膝を畳みながら彼に笑い掛けた。
彼はどうしていいか分からないと一度表情をなくし、それから選択を間違えたのか少し弱く微笑み返した。

グラスの水量は減る事はなくそのまま元の位置へと戻され、指がグラスから離れると大きな沈黙が生まれた。
酸素が一気に減った心地がする。
この息苦しさから逃れるには何か会話を作り出せば良い。けれど、沈黙が余計に精神を囲うので僕は黙って膝の上で拳を作っている。足の甲の骨が痛い。硬い床に正座は向いていないが、古いと言われようがこれが一番誠意が伝わるような気がして僕は体勢を変えられない。

「・・・あ、の」
「悪かった」
「はい?」

怖気づいた僕が逡巡していると、はっきりしない声で彼が切り出した。それも予想外の言葉で。
顔を上げると、彼は数十センチ先の床材の木目を真剣な表情で見ていた。

「お前にそこまで負担掛けてるとは思ってなかったんだ。あんならしくねぇ状態になるほど・・・」

そこで漸く目が合った。目を瞠る僕を見て、彼は痛みに耐えるような眉の寄せ方をした。

「お前も被害者だって、分かってたつもりだったんだけどな」
「・・・っそれは、」
「もっと、後悔の無い付き合い方をすりゃよかった。そうでなきゃもっと早くに別れてれば」

未練なんて残してうだうだやることもなくて、お前も幾らか負担が軽かったろうよ。
皮肉った口調で彼は口の端を引き上げてみせる。
胸が詰まるほど否定の言葉が駆け巡って、僕は際限無く出てきそうなそれらをぐっと押し止め、

「やめてください。貴方は悪く無い」

とだけ振り絞るように喉から出した。
低く掠れてしまった声に彼はぴたりと話すのを止めた。

「悪くないんですよ」

表情を和らげて同じ言葉を重ねる。

「僕が貴方に対して行った救いようの無い言動の数々は、確かに精神的な苦痛の積み重ねからのものだったのだと思います。ですが、その苦痛は僕の内面での煩悶から生まれたもので、つまり僕自身に原因があります」

だから、貴方のせいではないんです。
僕は力を込めて彼を見る。戸惑っているのか瞳が落ち着き無く揺れている。

「貴方と別れてからの僕には予想していたような解放感は訪れなかった。それどころか重苦しい感情が日に日に増すばかりでした。理由も名前も分からないことに戸惑いを超えて苛々としていて・・・だからあの日も、」

僕の反応に怯えた姿。いつだって残酷なほど真っ直ぐに言葉を使う彼の、逸らされた瞳。

「貴方が貴方らしからぬ行動を取るのが、必死に貴方が自分を殺しているのが、辛かったのだと・・・思います」

彼を見る回数と同じだけ自分の付けた傷の深さをまざまざと見せ付けられる。自分のした行為の結果は目を逸らしたくなるものだった。本当はこんなことはしたくなかった、傷付けたくなかったと我が身可愛さに嘆くには一年半という時間は長く、自分に言い訳することも出来やしなかった。

「・・・」
「それを僕は苛立ちとして認識してしまった・・・子供の癇癪のような我侭な怒りですよ」

語尾は弱弱しく小さくなって消えた。
視界の端の方ではグラスを中心に水溜りが出来ていた。グラスの表面には空気中の水分が雫となって纏わり付いている。
隣り合った雫同士は引き寄せられるようにひとつになり、ついに重みに耐え切れずにグラスの側面を滑り落ちて行った。

「・・・けどな、」

彼はその手でクッションを握り締める。

「例え昨日のアレが単なる八つ当たりだったとしても、お前が今まで無理して俺といたってのは事実だろ」
「・・・・・・それがね、不思議なんです」

彼は苦々しい顔を忘れて僕を見返す。僕は微笑んで小さく首を振った。

「貴方と関係を続けた一年半。僕は貴方を嫌悪したことが一度たりともないんです」

彼の頬がひくりと引き攣って、唇は笑みの形になってはいるがその両眼も含めてどちらも真逆の色をしていた。

「別、に良いぞ古泉。無理しなくても俺は・・・」
「本当に・・・」
「・・・」
「本当に・・・なかったんです」

空気を吸い上げて唇を閉じる。けれど僕は口を噤む事は出来ない。
僕には話す権利があって、彼には事実を知る権利がある。同時に知らないでいる権利もまた持ち合わせているが、彼はその権利は放棄していた。彼がここにいると言う事自体が権利放棄と同義なのだから。

「憎まれるとすれば僕の方です。ここに何らかの罪が存在するなら全ての罪は僕にあるでしょう。なぜなら、」

軽く寄せられた眉と僕に向けられない瞳に心臓が冷える心地がした。静かに息を吸い上げる。
僕の側か彼の側か、ひとつ、どちらかの氷が割れた。

「僕が発端だからです」

ひく、と喉の奥が疼いた。

「貴方を騙して裏切る事になったのは、僕自身のせいなんです」
「どういう、ことだ」

いつの間にか彼の抱えていたクッションは真横にそっと置かれていた。
挑むような目付きは返答如何によってはどんな負の色にも変わるのだろう。一言も聞き漏らすまいとする姿に僕は目を伏せる。暗闇はうっすら白く照らされて、彼の身じろぐ音が微かに聞こえた。

「貴方は人を惹き付けるというには些か非道な力をお持ちだ」

持ち上げた瞼の下の眼球で彼を見据える。直線の視線とかち合って鳥肌が立った。

「それは神である涼宮さんは勿論、長門さん、朝比奈さん、そして僕にも有効だった」

神が望んだとされた者たちが彼女ではなく彼の周りに集まっていると気が付いたのは会って一年も経たない頃だったように思う。彼は紛れもない一般人であったけれどその磁場のようなものには恐怖すら抱いた。
ヒューマノイドインターフェイスであった彼女は彼の指示だけを仰ぎ、今ではまるでベタな映画のように感情(に似た別のものなのかもしれないが)さえ滲ませるようになった。未来人の彼女は言わずもがなで、想いを知らなかったのは図ったように恋愛関係にだけ鈍い彼だけだろう。
僕らだけでなく、彼はおそらく幼い頃からそうだったのだ。恋情であれ、親愛であれ、彼は彼自身が知らぬだけでそういったものに囲まれて生きてきた。

そして、ややもすればそれだけでは済まなくなるのだ。

「貴方をこちら側に味方するよう仕向けようと思っていました。同情、信頼、友情、そういったものを使って引き込めたら、と」

だからこそ会ってすぐにこちらの手の内を明かし、閉鎖空間へと連れて行った。何度もこちらの持論を彼に話し、信じさせ、協力を仰いだ。

「こんな簡単に優先順位が覆るなどと誰が思ったでしょうか」

機関の命令が全てだった。そうしなければ生きていけないのだから仕方が無い。本能で知る神の力に悲しみと恐れを感じながら、自分を殺して世界を守っていくのだと疑ってもいなかったのに。
それがいつ、全てに「彼」という理由が付加されるようになったのだろう。

機関を裏切ったとしても彼を助けたい、素の自分を曝け出せたら。
彼の「同情」「信頼」「友情」そういったもののどれかが僕に向けられたのなら。
身を滅ぼすような考えが深い場所で根を張った。

「あの日・・・僕にとって貴方の『信じてる』という言葉がどれほど甘美なものだったか」

信用という意味においてでは無く、信頼、という意味で使われたそれ。
衝撃の後に訪れた湧き出すようなえも言われぬ感情に引き摺られて、全てを捨ててしまいたくなった。
彼の言葉に答える為ならば命だって惜しくないと。

「浮かれていたのでしょう。森さんにね、ついつい零してしまったんです」

冷静さを気取りながら、喜びを感じている自覚も無く、皮肉を交えて、僕は笑っていた。

「貴方が、好意を向けている人間を無下に出来ない、裏切れない、優しくて、甘い人だと」

僕の言葉を聴いた彼女は「そう」と相槌を打ったまま黙り込んだ。
今思い返せば車内のルームミラーに映った彼女の瞳は、僕の心とは正反対のものだった。

「それを機関は利用した。取り込むのに此れほど穏便で被害の出ない方法はないですからね。機関としてはお遊びのような計画ですよ。『失敗したなら別の方法を。成功したなら儲けもの』と言ったところでしょうか」

少しでも他の機関より優位な位置を獲得するために彼らは自らの残酷な行為を正当化し、それ以上に盲目になる。
彼らにとっては機関を維持する事は神のためであり、世界の為なのだ。それに殉ずることの出来る僕は彼らにとっては幸福な存在なのだ。愚かと言い切る事は僕には出来ず、しかし哀れではあった。

「ですが、本当に愚かなのは僕です。発言は全て上に通るようになっていると知っていたはずなのに。自覚の足らない僕の余計な一言が、貴方を傷つけることになったんです」
「・・・・・」
「すみませんでした・・・」

ぐっと頭を下げる。謝っても謝っても許されないようなことばかりで、けど謝る以外に何が出来ると言うのか。
言葉にすれば軽すぎる。軽すぎるが言葉以外で謝罪をする方法がどこにあるというのか。
グラスの氷は溶けて小さく水面で揺れ、無意味に稼動する冷蔵庫の一定音だけがこの部屋で変わらずに響いている。

馬鹿じゃないのか。
うわ言のように彼が言う。勝手に開いた唇から、吐く酸素が十分でないのか震えた声が届く。

「そ、んなん・・・お前、そんなこと気にしてたのか、ずっと。一年半も」

一年半。実は短かったと言ったなら、貴方は何を思うだろう。
恐怖と苦痛に塗れた時を過ごしていたにも関わらず、思い出すものは幸福と名を付けても構わないような記憶なのだと彼は信じるだろうか。

「お前のせいじゃねぇだろ」
「いいえ。少なくとも僕の発言がなければ貴方が泣くことはなかったでしょう」

僕は緩く首を振る。
例え同じように彼を取り込む命令を受けたとしても、こんな、こんな『結果』にはならなかった。
木の根のごとく広がる細々な分かれ道の小さく、しかし重大な選択肢を僕はあの日間違えてしまったのだ。

「・・・なんで、言わなかったんだよ」

彼は苛立ったように吐き捨てる。お前はいつもそうだ、と言う。

「勝手に捻くれて自虐的な解釈ばっかしやがって。一人で納得してんだか何だか知らないが俺はまる無視か。あの頃だってな、頼まれりゃ充分お前の力になってやろうって思ったはずだ。機関絡みでどうしてもっつうなら恋人の演技くらいしてやったさ。ハルヒのことでただでさえストレス溜まってたんだろうに余計な事で精神使って馬鹿か。あの時俺に全部言ってればこんなことにはな・・・」
「・・・言えるはずが、ありません」
「っだから!なんでだ・・・っ」
「嫌われたくなかったからに決まってるじゃないか・・・!」

ついに身を乗り出した彼に煽られて、僕も叫んでしまった。
あれだけ葛藤したはずの感情から生まれたにしては驚くほど自然に零れた言葉だった。

「・・・な、」
「僅かな可能性でさえ怖かった。一瞬でも貴方の目に嫌悪が見えたらと・・・ッ」

感情の渦に理性が飲み込まれていく。勝手に喉から吹き出す言葉が止まらない。
これでもう、戻れない。

「貴方が、・・・好きだったんですよ」

彼は今までとは比べ物にならない程の驚愕の表情で僕を見た。彼の見開かれた黒い瞳は微動だにしない。
僕は目を伏せて、すみません、と囁き程度の音量で続けた。唇が癖で歪んでいく。

「今、さら気付いても・・・どうしようもないのですが」

一時停止していた彼の大きく息を吸う音が聴こえた。
引き攣って思わず酸素を吸い上げたものではなく、声を発する為のそれ。
じっと、待つ。

「古、泉」

声を荒げそうになるのを喉を締めることで堪えているのか、細く掠れている。

「すみ、ません・・・」

もう、何に対して謝っているのか、分からなくなりそうだ。






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※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら



8話。
(07/08/09)