古泉の色素の薄い髪が朝比奈さんを押し退けるようにして出て行くのを眺めながら、 ああいろんなものが終わってく、といやに冷静に思った。 5.5 震えた声が古泉を引き止めることが出来ずに、部室の端っこでぐるぐると停滞した。 朝比奈さんは、無意味になってしまった言葉に途方に暮れながら俺を見た。俺はとっくに俯いていた。 きしきしと鳴る床に、近付く少し甘い匂いに、俺は怖くなって視線を必死に足元に縫い付けた。1ミリも動かすものかと、動かしたら駄目になる、と訳の分からないことを脳味噌が思っていた。 視界の端で白いスカートの裾がひらりと翻る。朝比奈さんは俺に声を掛けるのを止めたのだ。代わりに俺の右横を抜けていった。 少しすると気配がなにやら忙しなくなった。不完全に顔を上向けると、朝比奈さんが机の下に屈み込んで腕をしきりに動かしているのが見えた。 何してるんですか、と口を開きかけて、そこでやっと俺は朝比奈さんの手には電動ポットの隣に常備されている布巾があって、床には大量の茶で染みが出来ていることを把握した。 「あ、っす、いません!・・・俺、やりますからっ」 金縛りが解けるみたいに強張った身体がいきなり動いて俺はつんのめった。 見上げてきた朝比奈さんは俺が話し掛けてきた事に反応を少し遅らせつつも、小刻みに首を横に振って「大丈夫です」と苛められているシンデレラみたいな痛ましい声を出した。 それから「ええと、オセロとか・・・お願いします」と異常なほどあちこちに視線を泳がせながら小さな唇でこれまた小さな弧を描いた。これが笑顔だなんていえる程、俺は馬鹿じゃない。 机の上では戦況が読み取れないどころか予想さえ出来ない程に荒れ果てたオセロ盤がお茶を被っていた。指先で摘んで持ち上げるとポタポタと茶が滴った。磁石を入れる為に石の中は空洞なのだろうが、確実に水浸しだろう。 「・・・・・・」 俺は盤を小さな水溜りの上に戻した。面倒で、もう、嫌だった。 いちいち労力を使ってまで、必死になって、馬鹿じゃないのか。俺は。 何が?オセロのことだ。そうに、決まってる。 「あ、・・・オセロも拭かなきゃ、ですね」 床を拭き終わったらしい朝比奈さんが、頼まれたことをひとつもやらずに突っ立っている俺に控えめに声を掛けた。 俺は愛想の悪すぎるガキみたいに、黙って首をかくんと下ろした。頷くと言うには力が篭らなすぎて笑える。 「えと、キョンくん、座ってて。ね?」 朝比奈さんは上手く表情の作れない俺を下から伺って、そっと二の腕辺りに手を添えた。 目線で椅子を指して、もう一度、ね?と笑った。 そんなことさせるわけにはいかない。勿論、俺はそう言うべきだったんだろうが、生憎ぴたりと張り付いたままの唇は開かなかった。 今度はちゃんと頷いた。長門がそうするくらい小さく、ではあったが。 いや、長門を喩えに出すのは失礼だ。とにかく俺は最悪に情けなかった。 「・・・っ、」 パイプ椅子に腰かけようと膝を曲げた瞬間、身体が落ちた。 クッションにもならない薄いスポンジに尻をしたたかに打つ。ひっくり返らなかっただけマシか。 がたん、と馬鹿でかい音がしてびくりと朝比奈さんの肩が震えた。反射的に振り返った彼女は、椅子に一応座っている状態の俺を確認して、ほうと息を吐いた。不自然に上がった肩が緩やかに落ちていく。 気を取り直して顔を元に戻した朝比奈さんは、ご丁寧にも濡れた石一枚一枚をちまちまと布で拭い始めた。 何、やってんだろうな。俺は。 自分の膝を見詰めながら思う。 こんなに朝比奈さんに迷惑掛けてまで。 あの時の行動全てが、一週間経って過ちだったのだと知る。 あの日。 古泉に真実を聞かされ、それを理解した瞬間に、俺は『何でもない振り』をした。 しようと思ったわけではない。ただ、気が付けばバクバクと煩い心臓とは裏腹に、声に驚く程揺れが無かっただけだ。 喉の奥にボイスレコーダーが仕込んであって、俺はそれを再生しているだけ。そんな非現実的なことを思ったぐらいだ。 ようするに俺が、そうすることを無意識に選んでしまったということなんだろう。 今思えば、泣き喚いてしまえば良かったと思う。 どうせ嫌われていたのだから、それぐらい鬱陶しい事をしてやれば良かったのだ。 だが結局出来なかったということは、必死に取り繕う方を選んだということは、そういうことだ。 俺は今だってアイツに嫌われたくないと思ってる。 嘘でもいいから、演技でも、同情でも、もうなんだって良いから、赦してやると言って欲しかった。 謝って許されることなら、どんなに楽か。 「あのぉ・・・キョンくん」 おずおずとした控えめな甘い声に俺はゆっくりと顔を上げた。 朝比奈さんは、さも大事そうに両手で布巾を握り締めてこちらを見ていた。オセロは全て救出されたらしい。 彼女は小動物のように一度右斜め下に眼球をくるりと動かして、それから染み込んだ緑茶が絞られそうな程布巾を握って、真っ赤な顔で口を開いた。 「お、お茶とっ、販売機のジュースとっ、どっちが今飲みたいですかっ?」 「はい・・・?」 唐突すぎて俺は次の行動を見失った。 発言主の朝比奈さんは真剣な顔でじっと俺を見つめ続けている。答えを覚悟を持って待ち構えている。 心理テストか何かか? それとも言葉通りの意味で、俺がジュースが良いと言ったなら、朝比奈さんが買って来てくれると言うことだろうか。 いやいや、さすがに彼女にそんなことはさせられ・・・・ ・・・ああ、そういうことか。 「・・・・じゃあ、お茶、淹れてもらえますか?」 俺の答えに彼女はほっとしたような顔で、微笑んだ。 そして「あ、じゃあ手、洗ってこないと」と軽やかに駆けていった。 出て行く間際に「すぐ、戻ってきますから」と柔らかな髪を弾ませて。 「・・・・・」 彼女のいなくなった部室で俺は口角をほんの少し引き上げた。 やさしいやさしい朝比奈さんは俺に訊いたのだ。 「ここにいた方がいいのか」 「ここにいない方がいいのか」 と。 俺が気遣わずに済む質問を必死で考えてくれたのだろう。彼女の安堵の表情を思い出す。 この年になっても、俺はまだ一人では生きていけないらしい。 力がなくて、頼ってばかりで、駄目になるとすぐに誰かに甘えてしまう。好意に縋ってしまう。 「・・・ガキだな、ほんとに」 自分の台詞に、横っ面を叩かれた気になった。 朝比奈さんが1分もしないうちに戻ってきても、静けさは同じだった。 カチャカチャと鳴る湯呑みと、急須ぐらいしか沈黙を紛らわすものはなかった。 ちらりとお茶を淹れる手慣れた後姿を見遣る。いつもの朝比奈さんだ、と俺は息を吐く。 少し開けた窓から入り込む風に白いワンピースの裾がふわりふわりと規則正しいリズムで揺れる。 いつもならこの病弱少女が小説からそのまま抜け出てきたような儚い御姿に眩暈がするだろうに、あいにく不健康な俺の心では感動も薄い。俺という奴はなんて人生を損しているんだろう。 俺は目線を戻す。 綺麗に片付けられた長机の上には何も乗っていない。 この部室はこんな寂しい場所じゃないはずなんだ。 俺は無性にハルヒのトランペットみたいな至近距離で聴くには適さない異常に喧しい声が恋しくなった。 「・・・どうぞ」 「ありがとうござい、ま・・・」 ぼんやりしていた俺ははっとして顔を上げ、礼の言葉を途中で飲み込んだ。 朝比奈さんはその零れ落ちそうな程大きな瞳に、涙を溜めていた。俺の視線に気付いたのか、彼女は手の甲と指先で透明なそれを慌てて拭う。 それでもじっと見続けた俺に、崩れる砂山のような勢いで、彼女はぼろりと涙を零して一気に表情を歪めた。 「・・・ごめんなさ・・・っ」 不明瞭なほど震えた声に机に頭を打ち付けたくなった。 いつもの朝比奈さん、だと。なんて自分勝手な野郎なんだ、俺は。 「あたしが泣いた、って意味、なく・・・って、・・・キョンく、んが困るっのに・・・けどっ、あた、し・・・キョン、くんが、そんな・・・顔してるの、見た事なくって、・・・っから」 朝比奈さんは軽くしゃくり上げながら、堪えていたのかその小さく開いた唇から止め処なく言葉を落とす。 涙も一緒に落ちていた。 「そ、れに・・・古泉、くんもあんな、につらそうで・・・っ」 こ い ず み も 、 俺は勢い良く膝の上に視線を逃がした。 古泉。古泉の、表情は、どう、だったんだ。 おれは、ちゃんと見たのか。見てない、殴ったあと、見ていない。 でも、知ってたろう。分かってたろう。 だって、 『震えていますが・・・?』 そう言って首を締める真似事をしたアイツは。アイツも。 震えていたじゃあないか。 「・・・っ」 ぐっと咽喉が締まる。 肺が変な痙攣を起こしている。 そこまで嫌っていたのか。怒りを感じていたのか。 それとも辛かったのか?俺が、まだ自分のことを好きなことに、追い詰められていた? だとしたら、俺は、救いようが無い。 俺は、どこまでも不十分で、足りないことしか出来ない。 言葉も、態度も、与えられるものの半分以下しか返せない。 言えば、良かった。 こんな惨めに未練を残すぐらいなら、アイツが嫌悪するとしても態度で示せば良かった。 ちゃんと、お前の事好きだと、言っておけば良かったんだ。 そうしたらきっと、今よりは後悔が無くて済んだ。 最後のアイツの同情みたいな『普段』を自分から壊さなくても済んだ。 苦しい。痛い。呼吸がうまくできない。 誰か助けてくれ。 くそ、俺はまた誰かに助けを求めるのか。 「・・・・っ?」 俯いた俺の狭い視界に、俺のものでは無い華奢な手の甲が入り込んだ。朝比奈さんの手だ。 その白く細い指は俺の膝の上の右手に触れ、まるで壊れ物を扱うみたいに柔らかく包む。 それは心臓が飛び出したって良いくらい衝撃的なものだったが、いろいろな物を堪えていた俺はただ顔を上げて朝比奈さんを見た。 まだ泣いているものだと思い込んでいた俺は、その驚くほど強い視線にたじろいだ。 「朝、比奈…さん?」 彼女は赤くなった、それでも真っ直ぐな瞳で俺の瞳を覗き込む。黙って、きゅっと眉に気持ち力を込めて。 俺はだんだんと喉の奥が引きつるのが分かった。ああ、ダメだ、ヤバい。 顔を反らそうとすると咎めるように俺の手を包む朝比奈さんの力が強くなる。逆らう事が出来ない俺は、なんとか逃せていた視線までも恐る恐る朝比奈さんへ戻していく。 先程までの真剣な表情が、まるでぐずる子供をなだめるような慈愛に満ちたものに変わっていて、俺は息を飲む。 その麗しい容姿と相まって聖母とは彼女のような人なのだろうとすんなりと思えた。 「・・・っう、」 一気に加速する俺の心臓と血流は最終的に首より上に集まり、視界は曇る。 バカヤロウ、こんな、情けないことあるか。 だが唇を噛んで、呼吸を止めてもボタボタと目からしょうもないものが落ちてくる。 眼球そのものが熱くて熱くて、溢れてくる水も馬鹿みたいに熱かった。 「す、…っませ…っ」 左手でぐいぐいと目元を拭いながらぐずぐずの声で言うと、彼女の髪がさらさらと音を立てた。首を振ってくれたのだろう。 彼女の手首に水滴が落ちては慌てる俺にもやはり優しく首を振った。 そうして、俺は彼女の白い腕を見つめながら、 カッコ悪くも、少し泣いた。 *** 重い瞼を冷やすものが欲しいと朝比奈さんが俺の為だけに淹れてくれた特別なお茶を啜りながら思った。 瞬きを擦るたびに眼球に引っ掛かる感触がして気持ちが悪い。 最近よく泣いてるな。涙腺が赤ん坊に逆戻りでもしたんじゃなかろうか。洒落にならん。 朝比奈さんも俺もひとしきりぐちゃぐちゃになったせいか、若干晴れやかになっている。夕暮れ時の空を綺麗だとか何とかいう会話が出来るぐらいには回復している。つくづく人間ってのは単純だ。 「はい、どうぞ。キョンくんの番」 「あ、はい」 いつの間にか俺達は向かい合って五目並べなんてものを始めてしまっていた。 今はとりあえず違うことを考えていましょう、という天使のお誘いを断れる訳が無い。 やっと朝比奈さんはルールを覚えてくれたらしく、今回は何手か続いている。俺の置いた石を見詰めながら人差し指を唇に当て、うーんとかえーっととかとにかく可愛らしいお声を出しながら考えている。全くもって眼福である。 「うひゃあ!!」 「ッ!!」 穏やかな空間で俺と朝比奈さんは同時に肩を跳ねさせた。俺は朝比奈さんの悲鳴に驚いたと言うほうが正しいので、厳密には同時ではない。 部室には朝比奈さんに相応しいオルゴール調の音が響き渡っている。どうやら携帯の着信音らしい。 あわあわと鞄を探った彼女は、携帯のディスプレイを見てさらに飛び上がった。 「ひゃいっ」と裏返った声で携帯を耳に当てる。ああ、電話か。 ちなみに相手が誰だかはすぐに知れた。 あのいつでも全開フル稼働な我らが団長の「あ、みくるちゃん?いまどこ?部室?」という声が完全に駄々漏れだったからだ。 朝比奈さんは慌てて耳から携帯を放し、なにやらボタンを押していた。音量を下げているのは間違いないだろう。 ちなみに朝比奈さんには通話が終わったら音量を元に戻しておくことを忘れないように言ってやらねばならない。下げたままだと相手の声が聞こえないだろうからな。 朝比奈さんは、はい、はい、と逐一返事を返している。本当にどこまでもお優しく、律儀すぎる。 途中、一度ちらと俺を見て彼女は電話に頷いたが、おそらくハルヒが俺がいるか確認を取ったのだろう。 不躾だとは思いつつも、俺は朝比奈さんの表情を逐一観察していた。 女性同士の会話を聞くのは何やら申し訳なかったが、気になってしまうのは致し方ない。 「・・・?」 俺は聞こえる筈もないが、耳を澄ませた。 じっとハルヒの言葉に耳を傾けていた朝比奈さんが、不思議そうに眉を下げたからだ。 「え?どうしてですか?」 電話の向こうに姿は見えないというのに、彼女は首を傾けている。 ハルヒがそれに答えているのかいないのか、彼女はどんどん表情を困惑で満たしていく。なんとか元の道に戻ろうと歩いた事でさらに迷ってしまった迷子のような風情だった。 「・・・はい。分かりました」 分かっていないけれど、了承はしたといった雰囲気だ。 頷いては見たものの、そのまま首を捻ってしまっている。 しかし、なんとなく眺めていただけだった俺は、次の朝比奈さんの反応に軽く姿勢を正した。 「・・・・・・え、」 朝比奈さんは思わず溢れた声のまま固まってしまったのだ。 動くことを放棄した眼球が、誰もいないはずの場所を凝視している。 ハルヒが何か言ったんだろうが、朝比奈さんの驚き方はいつものトンデモ理論な言動に脅えたものではなくて、もっと純粋なもののように思えた。禁則事項がうっかり話せてしまったときのような、信じられないという顔。 そんな数秒を置いたあと、彼女は表情を乱した。泣く一本手前のくしゃりと歪んだ顔。 またその丸い瞳から真珠みたいな涙が落ちやしないかと俺は焦った。 声を掛ける、べきなんだろうか。 けれど、俺が動くより先に彼女は一人決意を固めた様子で唇を噛み、それからどんな絶望の淵にいる人間もたちまち希望を取り戻すに違いない天使の微笑みで、 「はいっ」 と返した。 いつまでも耳の奥に心地よく響く鈴のような声だった。 ハルヒは一体何と言ったんだろう。 電話を切った彼女はふふ、と笑った。 こみ上げてくる何かが幸せでたまらないと言った笑顔。 俺はその幸せが移ってくる様な気がしていた。やっぱり朝比奈さんにはこういう顔をしていて欲しい。 「なんか・・・嬉しそうですね」 「はい」 彼女は大きく頷いた。 けれど、朝比奈さんは握り締めたピンク色の携帯に視線を落として、 「でも、少しだけ・・・寂しいな」 と、影を落とすほど長い睫を伏せ気味にして、微笑んだりもしてみせた。 ふいに俺はなぜか朝比奈さん(大)がそこにいるような気がして、瞬きを繰り返す。しかし当たり前だがそこにいるのはやはり今の朝比奈さんである。 錯覚、か? 俺は言いようのない奇妙な感覚に襲われつつも、最終的には彼女の笑顔にどうでもいいかと首を振ったのだった。 6話へ→ ※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら 5.5話でした。朝比奈さんだって成長しています。ホント男子陣は・・・困ったものです。 (07/07/05) |