And if I die before I wake.



10.(ver.長門+古泉)



まだホームルームも始まっていないどころか、教室にさえ辿り着いていないと言うのに僕は既に疲労困憊していた。
一体ここに来るまでに何度「古泉くん(先輩)、その顔どうしたの?」と詰め寄られたことだろう。
その度に「大した怪我じゃないですから」と適当にはぐらかして逃げてきたわけだが、いい加減辛くなってきた。心配をしてくれるのは有難いが、この回数はさすがに参る。しかもそれが極力触れないで欲しい事項であれば尚更だろう。

「これで彼に殴られたなんて言ったらとんでもない事になりそうだ」

小さく口にしてからぞっとした。
朝早く涼宮さんから送られてきた「頬の傷は何とかして誤魔化しなさい。キョンがやったなんて知られたらアイツ古泉くんのファンからぼっこぼこにされるわよ」というメールが現実になる可能性の高さを再度認識してしまったからである。
勿論、上記の数行後に「まあ、そんなことになったらSOS団全員で100倍返ししに行くけどね」との勇ましいお言葉も頂いているわけだが(本当に彼の目の前以外では随分と素直である)、ぼこぼこにされてからでは遅いのではなかろうか。

光栄にも『ファンクラブ』とやらが存在しているらしいが、一体自分の何がそんなにお気に召しているのか。理由があるとすれば容姿、ということになるのだろうか。別に自分の顔を誇っているわけではないが、一応整っているほうだと言うのは自覚している(何と言っても彼のお墨付きである)。しかしそれだけだ。

「それよりも彼のファンを刺激しないだろうか・・・」

容姿のみの(おそらくだが)僕のそれと違って、彼はもはやファンというよりはれっきとした恋心を向けられているのだ。彼はあれでなかなか女生徒(特に後輩)に人気があるのだが、それに気が付いていないのは本人ばかりである。全くどこをどうしたら恋愛方面にのみあれ程鈍くなれるのやら。
ちなみに言っておくが、ファンクラブはない。理由は簡単で、『涼宮先輩が怖いから』。これに尽きる。

と、ぐだぐだ述べたわけだが、つまり変な派閥争いが起きそうな予感がしているのだ。女性の怖さはこの数年で身に沁みている。今日はなるたけ校内を歩かないようにしよう。僕は溜息を吐きながら穏便に事が運ぶように願った。

「・・・あ、」

疲れきった仕草で何と無く顔を上げた先に見慣れた姿があって、僕はつい立ち止まってしまった。
最低限度の動きで歩いているのか、器用な事に頭があまり動いていない。時折短めの前髪がさらりと揺れる。
真っ直ぐ廊下の奥を見詰めたまま小さな歩幅でこちらに向かって歩いてきている少女は、廊下の真ん中に立つ僕の姿を認識して、一度瞬きをした。目が合ったのだろうな、と思ったので笑い掛ける。勿論、彼女から微笑みが返ってくることはなかったが、会話をするのに不便が無い距離で立ち止まってくれた。

「お早う御座います、長門さん」
「・・・・・・おはよう」

何かを思案していたのかと思われるような(しかし実際はそういうわけでは無いだろう)時間を空けてから、彼女はそう小さく返した。出会って一年ほどは挨拶をしても顔をこちらに向けてくれば良い方だったな、と思って微笑ましくなる。彼の教育の賜物だ。「挨拶は大事なんだ長門」とすっかり父親気分になった彼が切々と語っていたのはいつのことだったろう。

「怪我」
「え?」

ぽつり、と唐突に現れた単語(しかし彼女にとっては文章であるらしい)の意図が掴めずに、僕は首を傾げて「分からない」の意思を示す。彼女は僕の仕草を受けて、ゆっくりと右腕を持ち上げて人差し指を僕の左頬に向けた。

ええと、つまり「怪我は大丈夫か?」と訊かれているのだろうか。

怪我の理由を彼女が知らないはずはないので、僕は「大丈夫ですよ。大した事ありませんでしたので」と微笑んだ。笑顔を作るたびにほんの少し頬が痛むが、気にする程度のものでもない。
僕が彼女から読み取ったことに間違いは無かったらしく、長門さんは「そう」とだけ言って腕を下ろした。

「・・・」
「・・・・・・」

しまった。彼女とは立ち話は向いていないんだった。
沈黙があっさりとやって来て、僕は彼女が会話自体に不向きな存在である事を今更ながらに思い出した。
とにかく何か一言二言交わして別れようと話題を探して、僕ははっとした。彼女と僕の間にある共通の話題と言えば「彼」しかいなくて、だとしたら僕は彼女に真っ先に謝罪をするべきだった。

「あの、すみませんでした・・・彼を、その、傷付けてしまって」
「なぜ」

僕はまた言葉に詰まった。彼女の「なぜ」は僕の言葉のどこに掛かっているのか。
「傷付けてしまって」に掛かる「なぜ」の可能性もあるだろうが、やはり先程と同様彼女が理由を知らないはずが無い。すると「すみませんでした」に掛かると思えばいいのだろうか。
彼は普段彼女と苦もなく会話をしているようだが、本当に凄いとしか言いようがない。さらには彼女の表情の変化まで分かるのだから、もはや一種の特殊能力だ。
僕は「なぜ謝るのか?」と言われているのだと思う事にして返事を返す。こんなにゆっくりとした言葉のキャッチボールも初めてだ。

「貴方は、彼を特別な存在として見ているでしょう?だから心配だったのではと、思いまして」

そう言うと、彼女は落ち着いた色の大きな目でこちらを見上げて、今度こそ思案して二度瞬いた。
そうして彼女は小さな唇を殊更小さく開いた。

「確かに、彼は単なる有機生命体というカテゴリとは全く別の認識の内にある。これは情報統合思念体が考える『涼宮ハルヒの鍵』というイレギュラーな存在としてではなく、わたしという固体が彼の存在を統合思念体の意思とは関係なく位置づけたもの。それを『特別』と呼ぶならおそらく、そう」

音量は足らないはずなのにやけにはっきりと細部まで聞き取れる不思議な声に、僕は歌でも歌っているようだなと心地よく思う。そういえば、彼は嬉しそうに「長門の声、最近少し抑揚が出てきたよな」と言っていた。

「けれど」

これで会話が途切れるのかと思っていた僕は、彼女の口にした接続詞に彼女の硝子球のような瞳にもう一度視線を合わせ直した。彼女の唇が酸素を吸うために開かれる。

「それは彼に限った話ではない。貴方も、そう」
「・・・・え」

耳を疑って、それから自分の解釈も疑って、しかし答えは出ずに黙って彼女の言葉を待つ。
彼女はひた、と僕に視線を合わせたまま動かさない。

「貴方、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる。どれもが私の中でそれぞれの位置を持っている」
「・・・・・・・・」
「どれも、『特別』」

じわり、と染み渡るような感覚が心臓の辺りを支配してこれは何だろうなと思う。
彼女がこんな発言をすることが余りにも予想外で驚いているのだろうか。彼女に変化を齎した彼の力に恐れに近いものを抱いているのだろうか。

――違うな。

自然と笑みの衝動が込み上げる。
僕は純粋に『嬉しい』んだ。きっと。

「有り難う、御座います・・・」
「いい」

彼女が控えめに首を振る。彼から見たら照れているようにでも見えるのかもしれない。そんな事を考えてさらに口元が緩む。
だが話はまだ終わっていなかったようで、正面で顔を止めた彼女の唇は数秒経ってからもう一度動き出す。

「無数にある選択肢の中から選んだ貴方の選択は、とても望ましいものだと思う」
「・・・・っ」

いきなりの核心を抉る言葉に僕は息を飲む。彼女は普段能動的に話すことは余り無いように記憶している。彼女が自ら話しだす時はいつだって危機的状況に僕らは陥っていた。今、そのような事態にはないはずだ。
彼女は目を見開いたままの僕を眺めながら、続ける。

「平行線は」

一呼吸置く。
僕は穏やかにしていた鼓動を一気に早めていた。

「平行線は交差し得ない。それが平行線と言う概念」

淡々と述べる真実は僕を痛めつけたが、それは彼女のせいではない。僕も彼も、既に納得していることなのだ。
長門さんはそっと音を立てないように瞼を閉じ、空気を動かさないようにその目を開いた。

その時、彼女は少しだけ微笑んだような、気がした。

「けれど決して遠ざかる事も無い。それもまた、平行線という概念」

ぐ、と喉が詰まって僕は慌てて肺を空気で満たした。
彼女達は揃いも揃って優しすぎやしないだろうか。彼も、僕も、頭が上がらない。上がるわけが無い。
僕は「はい」と「有り難う御座います」を急いで伝えて(タイミングを逃したら言えなくなりそうだった)、長門さんはやはり「いい」と短い返答をした。

「あの、長門さん」
「・・・」
「帰ってきてください。・・・・必ず」

彼は磁場とこの居場所を称した。それはこの『宇宙人』である彼女にとっても同じだと、彼は言った。
それならば、きっと彼女もその磁力を感じているはずなのだ。

「・・・・・・・・・・・・」

長門さんは僕の言葉にじっくり五秒ほど静止し、ついに首が疲れたのか元の位置まで戻した。
それから、彼女は僕にも分かるほどはっきりと首を縦に動かしてみせたのだった。









11話→

月曜のキョンとハルヒ→



※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら





10話。長門と古泉。長門さんだってSOS団大好きなんですよ。
ちなみにファンが多いのが古泉、リアルに後輩に惚れられるのがキョン。たぶん後輩は「どっち派」かで盛り上がっているに違いない(ひどい妄想
シリアスの山を超えたので気が抜けましたorz

(07/08/25)