「ねえ、ちょっと」
男は妻の声に起こされた。傍らで眠っていた妻が、激しく肩を揺さぶっていたのだ。寝ぼけ眼の夫に妻が鋭く言う。
「さっき、エンジンの音が聞こえたのよ」
「空耳じゃないのか」
「本当よ!」
夫の返事を待たず、妻はネグリジェの上にガウンを引っかけると、外へ出て行った。
草と砂利を踏みしだいて、音が聞こえた方へ向かう。すぐに異変を認め、夫の元へ引き返した。
「やっぱり、あの三号コテージの客だよ。逃げたんだ!」
「本当なのか」
夫も渋々起き上がり、ガウンを羽織る。
「車がないんだよ。あんたがお人好しだから、こんなことになって……。見るからに胡散臭かったじゃないか」
備品を盗まれたかもしれないと妻が騒ぐので、マスターキーを持って、夫も外へ出た。妻の先に立って、三号棟へ向かう。
扉を開け、戸口近くのスイッチを手で探る。明かりを点けると、多少乱れてはいるものの今は誰もいないベッドが目に入った。
妻が舌打ちして、何を盗られたか調べようと、足を踏み出す。夫はベッドの間を仕切っている奇妙な毛布の向こうへ回った。
こちら側のベッドは盛り上がっていた。丸くなって眠る人間の姿が、確かにあった。
「一人、残っているぞ」
「なんだって」
妻に知らせるのではなかったと夫は後悔した。足音も荒々しくベッドへやって来ると、妻は乱暴に毛布を剥いで、眠っている人物に罵声を浴びせたからだ。
「起きな! この詐欺師が」
夫を起こすときと同じように、乱暴に揺する。とすると、俺も、詐欺師と同じ扱いをされている訳だ、と夫は苦く思う。結婚した頃から考えれば、妻の方が、詐欺師と呼ばれるに相応しいはずだ。あの体格と性格の変貌具合といったら――。
将が瞼を開いた。まだ寝起きで頭がはっきりしていないらしく、あやふやな視線だ。
「もう一人は、どこにいったのさ」
妻は語気鋭く、問いかけた。
「え?」
「あんたの連れだよ。車で逃げていったがね」
将は全身を冷たい棘で貫かれたような衝撃を感じた。嘘だ。嘘だ。起き上がり、毛布の壁を払う。そこに三上の姿はなかった。彼は――三上は一人で行ってしまったのだ。
立ちつくし青ざめた将に、さらなる追い打ちをかけるように、妻が冷たい言葉をかけた。
「置いて行かれたのかい? いい気味だ」
ふんと妻が鼻を鳴らす。
将の横顔に、さすがに同情の目を向け、夫の方が訊ねた。
「お金は持っているかい?」
将は首を振る。泣きたいのに、泣けない。胸が重く、苦しい。
拒まれたときに、いや、もっと早く知るべきだったのだ。彼が、自分のような者を思ってくれるわけがない。何と愚かだっただろう。馬鹿な、途方もない夢を見た。
「困ったな。これじゃ、出て行ってもらうしかないんだが……」
この期に及んで何を遠慮した物言いをしているのだと、夫に苛立ちを感じ、妻は荒々しく、足を鳴らした。
「当たり前だ、早く出てお行き。とんだ疫病神だ」
それでも着替えることは、どうにか許してくれた。自分の衣服を身につけ、将は、よろよろと歩き出した。コテージを出たときに振り返り、自分を睨みつける女と、まだ戸惑いがちな男を見る。
「すみませんでした」
頭を下げて、将は夜道へ出て行った。
冷たい月の光が、道を照らしている。行く当てもなく、将は歩いていった。保安官事務所を見つけたのは一時間、迷いながら歩き続けた後だった。ただごとならぬ様子の将に、事務所に詰めていた保安官が、驚きの目を向ける。
投げかけられる質問には答えず、将は電話を借りた。父へ電話をかける。
受話器を置いたとき、初めて瞳が熱くなった。
まばたきして、将は涙を乾かした。もう、どんなことに対しても泣きたくなかった。
※
三上は顔なじみの酒場に入り、たむろしていた記者連中の一人から、タイプライターを借りた。一杯、奢ってもらい、それを飲みつつ、タイプで出来る限り、早く、記事を打った。ここまでの旅路の間に、まとめていたものだから、思う以上に早く仕上がった。
細かいことは、電話なり電信なりで修正すればいい。いや、その必要もない。
完成した記事を持って、三上は人の出入りが激しくなった編集部まで急いだ。
「あ、帰ってきてたんすか」
藤代が陽気に声をかけてきたが、曖昧にうなずいて、デスクの間を通り抜け、編集長である渋沢のオフィスのドアを開けた。
糊のきいたワイシャツ姿で、渋沢はコーヒーを飲んでいる。三上を見て、おやという顔になった。
「戻ってきたか」
「ほらよ」
その前に、記事を置く。ざっと目を通した渋沢は、三上に驚きの目を向けた。
「本当なのか?」
「ああ。風祭家の坊ちゃんは、兄の元へ行く途中、真の自由を見つけ、旅立つって訳だ」
渋沢の驚いた顔に、三上は満足した。ざまあみろ、というところだ。しかし、今は優越感に浸るよりも急がなければならない。
「これはすごい」
渋沢は手元の電話機を取り上げたが、三上がそれを止めた。
「俺はあいつのとこへ戻る。後でまた連絡するから、その前に――」
「分かっている」
渋沢はデスクの引き出しと、自分の財布から、紙幣を出し、三上に渡した。千ドルある。
「じゃあな」
三上は上機嫌で札束を懐に収め、来たとき以上の素早い歩調で、行ってしまった。
渋沢は各部署に連絡を取り、三上の記事を、一面に当初載る予定だった記事と差し替える指示を出した。また挿絵師を呼び出し、この風変わりな結末を迎えた良家の子弟の逃亡劇の一連を描くように言っていた。
そこへ、藤代と笠井が飛び込んでくる。
「すごいっすよ!」
「藤代、落ちつけって。――すごいネタが入ってきたんです」
笠井が藤代を宥め、渋沢に向かって口を開きかけたが、先に話し出したのは、藤代の方だった。
「アーチムの保安官事務所に、例の風祭家の息子が保護を求めてきたっていうんですよ。もう親父と兄貴が車で向かっているそうです」
「なんだって?」
渋沢は三上が置いていった記事を眺め、一瞬、呆然とした顔になった。やり手編集長が、そのような表情を浮かべることなど滅多にない。笠井と藤代は、二人、顔を見合わせた。
二人からどうしたのだと訊ねられる前に、渋沢は長いため息をついて、普段通り、落ち着いた声で指示した。
「裏を取れ。記者とカメラマンをアーチムへ向かわせるんだ」
持っていた受話器の向こうへ、さきほどの指示は忘れてくれと伝える。他に連絡を取った部署にも、ふたたび記事の変更があると告げて、渋沢は三上の記事に目を落とした。
彼らしい、どこか醒めた感のある冷徹な記事ではあるが、ところどころに、熱情が感じられる。今までの三上の記事とは、多少、印象が違った。
「どういうことだ?」
記事を持ち込んだときの三上に、こちらを騙すなどという雰囲気は、まったくなかった。押し殺そうとしても漏れ出る、不可思議な興奮が真剣みを帯びて、見られた。
渋沢は首を捻り、記事を引き出しの一番下に仕舞うと立ち上がった。
※
自分らしくもない。田舎道を、例の古い車で走りながら、三上は苦笑した。それでも心が弾むのは抑えられない。
将と顔を合わせたら、最初に何を告げよう。どんな風にあの頬に触れよう。今いるコテージで、もう少しのんびりして、それから旅立ってもいい。三上の頭には様々な計画が浮かんだ。彼が今まで見てきた中で、おそらく、もっとも鮮やかな色を帯びた夢だったろう。
小型の飛行機が唸りを上げて、空を飛んでいく。しばらくすると、高級車が、エンジン音も高らかに、三上の乗った車を追い抜いていった。馬力も違えば、速度も違う。
前後には、同じく黒塗りの車が一台ずつ、その間には警察官がバイクで同行している。先導しているのも、しんがりにあるのも、やはり警察官の乗ったバイクだ。
クラクションを鳴らされても、三上は怒らず、道を譲ってやった。幸福が待ち受けているのに、焦る馬鹿がどこにいる?
三上は、のどかな風景の中を、古い車が出せる精一杯の速度で走っていった。
保安官事務所の前は、すでに野次馬と報をかけつけてきた記者連中で、ごった返していた。カメラをかざし、もうすぐ出てくるはずの、三人の親子をカメラに収めようと、待ち受けている。
金具が軋み、ドアが開いた。
将は父の上着を肩からかけ、兄の手に支えられて、顔を伏せていた。何も語るまいというように、唇が固く一文字に結ばれている。
投げかけられる怒声のような質問に、護と功は首を振り、何度も同じ言葉を繰り返した。
「家に戻ってからだ。将は疲れている」
警官が記者たちを遮り、風祭家の三人を車へ乗せた。すぐに車は発進し、後に幾台かの車と警官のバイクが続いた。来たとき同様、風のような去り方だった。記者連中も、一刻も早く記事するべく、それぞれに散っていった。
ちらほらと残っていた野次馬たちも、やがて我に返ったように、一人、また一人と去っていく。保安官事務所は五分も経たない内に、いつもの静けさを取り戻した。最後まで様子を見ていた保安官の一人は、肩をすくめ、事務所に入った。
警報機が鳴り響く。その軽い音を切り裂くように、長い長い貨車が通り過ぎていく。出稼ぎにでも行くのか、浅黒い肌の男達が、数台の貨車に乗っていた。陽気な声を三上に浴びせて、手を振っては遠ざかっていく。
三上は微苦笑しながら、それを見送っていた。重たげな音を立てて、車輪が回る。かなり待ったが、苦にならなかった。この線路を越えて、来た通りに走ればいい。
やっと列車の最後尾が通り過ぎる。視界が開けた。線路の向こうには、しばらく前に三上を追い越していった数台の車が、同じように列車が通過するのを待っていた。
三上はふと思った。あの車は、どこに行っていたのだろう――。
行列は、ずいぶんと急いでいるらしく、合図も送らずに、線路を渡り出した。三上は仕方なく、道を譲った。
バイクが二台、それと一台目の車がエンジンを唸らせて、三上の車の横を抜ける。乗っているのは運転手と助手席に乗った男。運転手は制帽を被り、白手袋をはめた手でハンドルを握っている。助手席の男は眼鏡を掛けており、背広姿で、やれやれというように煙草をくわえていた。
二台目が通り過ぎていく。その窓の内側に見えた顔に、三上は目を見開いた。
厳めしい顔つきの男と端正に整った面立ちの男。どちらも写真や映像で見たことがある。その間の人間もだ。ここ数日は、すぐ間近で見てきた。様々な表情の変化を見てきた。
――将は、ぐったりと父に寄りかかっていた。父の腕はしっかりと将の肩を抱き、功も、三上には見えなかったが膝の上で将の手を握っている。
父と兄は将を案じるように見ていたが、将は苦しげに目を閉じて、何一つ、見ようとしていなかった。
車が通りすぎていく間に、それだけ見て取り、三上は呆然と呟いた。
「風祭?」
信じられないと言うように首を振った。手がギアを動かし、足がアクセルを踏み込む。土煙を上げて遠ざかっていく車の列を、一度は追いかけた。
車の性能差が作る距離に負けてしまう前に、三上は車を停めた。
体中に広がったのは、怒りだろうか。悲しみだろうか。それとも憎しみだろうか。三上は顔を歪め、力無く笑った。
とんでもない。裏切られても、こんな惨めな思いを味合わされても、自分は将を恨むことすら出来ないのだ。
一度見た夢は、限りなく、甘かった。だからこそ、苦く熱い毒に変わった。
三上は座席に寄りかかり、よく晴れた空を見上げた。ヒバリが囀り、三上の上を通り過ぎていく。白い雲が、風に押され、少しずつ、少しずつ、太陽を隠す。
休んでいこう。そう思った。それだけの時間が必要だった。三上はエンジンを止め、帽子を顔に被せると、目を閉じた。
コーエンへ戻ってきたのは、夕刻過ぎだった。三上は早朝、自分でも恥ずかしくなるくらいの上機嫌で辿った道を、静かに戻った。
編集部に入る。同僚は、ほとんど出払っており、笠井と間宮が、デスクで書き物をしているくらいだ。
三上はデスクの間を通り抜け、途中、刷り上がった新聞を手にした。
『――風祭家第二子、無事、父と兄の元へ戻る』。
藤代の机に新聞を乱暴に戻し、三上は編集長室の前に立った。
「今は、いませんよ」
笠井が顔を上げて、三上に告げる。
「そうか。返しておいてくれ」
千ドル分の札束を、三上は笠井のデスクに放った。後は一言も発せず、部屋を出て行く。笠井は呼び止めたが、三上は止まらなかった。
「どうしたんだ?」
二人の静かなやり取りを聞きつけた間宮が顔を上げた。
「さあ……」
三上が一度手にした報酬を手放すとは、何があったのだろう。とても信じられないとの思いで、笠井は机の上の紙幣束を眺めた。
三上がエレベータを待ちきれず、階段を下りていると渋沢と出くわした。三上は先に口を開いた。
「笠井に金を返しておいた。……冗談を言って、悪かったな」
渋沢は三上の顔を見て、苦笑した。
「やられたよ」
「なかなかだっただろう」
「どこがだ」
言うと、渋沢はポケットを探り、コインをはじく。
「一杯、やってきたらどうだ。ひどい顔をしている」
「馬鹿馬鹿しい」
三上は呟いて、首を振ると、コインを握り、階段を下りていった。
確かに、後始末をつける前に、一杯、必要だろう。そういえば、将には酒の味を教えなかった。埒もない思いに胸を焼いて、三上は酒場を目指した。
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