或る夜に(10)


 功と護が和解し、ふたたび兄の姿が、屋敷に見られるようになった。将の願いが叶ったというのに、将自身は以前と様子が違う。
 心配をかけて申し訳ないと、家族や使用人、その他、将の身を案じていたと思われる人々に、丁寧に詫びた後は、めっきり無口になった。
 昔ならば嫌がっていた、お付きの人数の多さにも何も言わなくなった。というよりも、誰が側にいても、気づかない。構う様子も見せない。事あるごとに、必死に、自分の感情をせき止めようとしているらしいが、元が表情豊かで、感情が顔に出やすい将だから余計に、みなに分かってしまう。目敏いメイドなどは、将が大きなため息をついては、目を潤ませていたり、深い悲しみの表情になるのを、目撃していた。
 浮かべる笑みも変化していた。以前の、つられて微笑みたくなるようなものとは、対照的に、今の将の笑みは、見ているだけで胸が締めつけられる。
 一体、どうしたというのだろう。屋敷の使用人達もだが、誰より、家族三人、これで何のわだかまりもなく、暮らせると喜んでいた護も、やっと大切な弟の元へ戻ってこれた功も、将の憂いに戸惑っていた。
 原因として考えられるのは一つ。将が屋敷を出て行ってから父と兄に連絡を取るまでの間に何かあったということである。それ以外、ここまで人間が変わるきっかけというものが思い当たらない。
 功はうっすらした、嫌な予感を感じていた。将の若さで、あれほど人が変わることといったら、選択肢は途端に狭まるのだ。まさか、と思いたいが、功の意識は、それが正しいと告げたがっている。
 自分の考えを、功は父には黙っていたが、ついに耐えきれなくなったらしい護が、将に問いただすと言い出した。
「そっとしておいた方がいいですよ」
 功のためらいがちな反論に、護は首を振った。
「いや。あんな泣きそうな顔で、おられたら、たまらん。欲しい物があるなら、正直に言えばいいのだ。いつも遠慮しおって」
 護の目は、経営や経済のこととなると、惚れ惚れするほどに鋭く物事が見通せるが、子どものことになるとたちまち、雲がかかるらしい。
 功は父を宥めようと思ったが、気を変えた。潮時なのかもしれなかった。どちみち、将の変化については、いつかは知らなくてはいけないことなのだ。
「分かりました。でも、俺が話を切り出しますから、父さんは黙っていて下さい」
「言うな。私だといけないのか」
「俺に心当たりがあるんです」
「なんだ、それは。どうして、私に先に言わない」
 問いただしてくる父親に、功はもうすぐ分かるからと、言いつくろい、何とか誤魔化した。


 夕食後、功は将を連れて、護の個人的な書斎へ入った。功が屋敷にいるときは、家族三人で夕食後の時間を過ごす。以前にはなかった習慣だ。
 功と護の談笑を、将は椅子に座り、聞くともなしに聞いている。テーブルの上の紅茶が、手も付けられないまま冷えていた。話しかけられれば返事は返すが、そうでないと、口も開かない。
 その様子をうかがいながらも、功と護は何気ない振りを装って言葉を交わしていた。夏の休暇に話が及び、功は将に訊ねてみた。
「将はどうする?」
 将は書棚を黙ってみていた。痛みを堪えるように、眉が小さく寄せられている。
「将」
 父親の声に、将は緩慢な仕草で、そちらを向いた。
「はい」
「どうする?」
「何がですか」
 護と功はちらっと視線を交わし合ったが、何事もなかったように、さきほどまで交わしていた会話を続けた。
「今年の夏のことだよ。ドルセー海岸の別荘に行こうか、それとも、ネハスの別邸に行くか、話してたんだ」
 将は重たげに口を開いた。
「僕は行きません。父さんと功兄二人で行ってきて下さい」
 二人とも、将が行くから行くのであって、そうでなければ、それぞれに仕事をするところだ。
「じゃあ、今年の夏は、どこにも行かないのか」
「コーエン……」
 将は言いかけて、慌てて口を閉ざした。
「何でもありません」
「将」
 功は優しく言った。
「コーエンに行きたいのか?」
「行きたくありません!」
 思いがけない激しさを見せて、将は首を振った。
「そんなところ……」
 父と兄の視線に、将は黙った。ごめんなさい、と謝り、また貝のように口を閉ざそうとする。
 将の心がふたたび、殻に覆われる前に、功はここ数日の疑念を静かに口にした。
「将。家を出ていた間、何かあったんだろう?」
 その言葉に将は全身を強張らせた。父を見た目に、怯えがある。
 やはりな、と功は将に顔を近づけた。安心させるようにほほえむ。
「俺たちに教えてくれないか」
 将は、まだ迷うのか、功を見ていたが、やがて口を開いた。
「男の人と一緒だったんです」
「だ――」
 誰だ、と護はすぐさま問い返そうとし、黙り込んだ。頬がわずかに引きつっている。
 功が父の質問を引き継いだ。
「どんな人だった?」
「よく知らない人です。意地悪だったのに、優しかった」
 将の目が涙に似た翳りで曇っていく。頬が染まり、唇が淡く開かれた。震えるような吐息が漏れる。
 護と功は、二人同時に、決して知りたくはなかった真実を知った。口中に苦い味が一杯に広がる。訊ねずにすまされるなら、そうしていただろう。しかし、訊かねばならないのだ。そうしたくなくても、しなければならないのだ。
 護と功は一瞬、視線を交わし合い、どちらが訊ねるかを、決めた。訊ねる方の苦痛を長男が引き受けた。予感していた分、功の方が受けた衝撃が少なかったからだろう。
「将はその人のことを好きなのか?」
 功の言葉に、護が、ぐっと呻いた。功もそうしたかった。
 将は肘置きを両手で掴み、顔を伏せた。二つの小さな拳が、震えている。その態度と薄赤く染まった耳たぶが、言葉よりも雄弁に将の心を語っていた。
「……好きなんだな」
 功は自分が、家を出たことを後悔はしない。だが、それをきっかけにして、どこの誰とも知れぬ男に将の心を奪われてしまったのを、少し悲しく、悔しく思った。
「そいつは――」
 護が荒々しい語調で言いかけ、功と目を合わせた。功が首を振る。
 護は咳払いして、不安を押さえた声で、訊ねた。
「彼と、何か……」
 言いかけて、護は黙った。自分でした想像に打ちのめされてしまったらしい。功は吹き出しかけたが、何とか堪えた。将の様子は笑い事ではないからだ。まさか、父の想像は当たってしまったのだろうか。
「将、その人と何かあったのか」
 将は功を見て、兄と父が何を知りたいのか、将にしてはめずらしい勘の良さで気づいた。三上と過ごした数日の経験は、さしもの将も、幾らか、大人にしていたらしい。
 羞じらいに目を伏せた将の仕草が、護の胸を不安で突き破らせた。
「将」
 護もせかせかと、将の側に近づいた。医者を呼んだ方がいいのか、いや、こういう場合は、心の傷にもなっている可能性もある。精神科医だ。それから、将が昔からかかりつけている山本医師を呼んで――ああ、隠居しているばあやの方がいいのだろうか。
 父の慌てぶりを見て、将は押さえた声で、自分と三上の身の潔白を述べた。自分はともかく、三上が濡れ衣をきせかけられては大変だ――そう考えて、将は涙ぐみそうになった。三上に会いたい。その思いを堪える。何度、押さえても、それはすぐに膨れあがり、弾けそうになるのだが。
「モーテルに泊まってる間は、毛布で仕切をしてました。……僕が、一度、変な目にあったのを気遣ってくれて、毛布をジェリコの壁だと言って」
「変な目! その男がか」
 将がとんでもないと激しく首を振る。
「別の人です!」
「父さん、将の相手は紳士ですよ」
 子どもたち二人からたしなめられ、護は口を閉じた。将の様子からしてみれば、何もないというのは事実だろう。相手と、何かあり、それを隠せるほど将は器用ではない。
 そういえば、将は帰宅してすぐ、山本医師に診てもらっていたのだ。将は足にひどい豆をこしらえたのと、疲労しているだけで何の異常もないと診断されている。ついでに言えば、山本医師は、遠慮無しに、将の無鉄砲さを怒り、過保護で頑固な護も怒り、さらに音沙汰無しだった功にまで怒って、帰っていった。風祭家の三人、誰一人言い返せなかった。
 あのときのやりこめられた何とも言えない心を思い出しかけ、護は首を振った。今は将の方が大事だ。
 功は、将をそっとうながしている。
「その人に自分の気持ちを言ったか?」
 将の頬がいっそう鮮やかに染まった。
「言いました」
「それで……?」
 功の声が、多少上擦っている。
「何も。目が覚めたら、あの人は、一人で行ってしまっていました」
 将の遠くを見て震えた目に、護は安心していいのか、分からなくなった。いつまでも、自分の手元にいてほしいと願う我が子は、どちらも遠くへ行ってしまう。いや、片方はすでに旅立った。せめてと思う、もう一人も、そうなるのかもしれない。
「名前は?」
 功が将の肩を抱いた。将は込み上げてくるものを堪えながら、名を口にした。
「三上……三上亮」
 護が、その名を聞いた瞬間、はっと胸へと手を当てた。功よりも先に、将がそれを見つけ、父の元へ近づいた。
「知ってるの?」
「いや……」
 幾分、ためらいを見せた後、護は内側の胸ポケットから、一枚の手紙を出した。差出人の名を見た将は、喜びと驚き、そして少しの怯えの表情で、手紙を読んだ。
 便箋に書かれていたのは、短い、簡略な文だった。
『ご子息に関係した金銭上の話をしたい。日時を指定されたし……』
 それだけだった。他には三上の署名があるだけだ。
 将はゆっくりまばたきして、父を見つめた。涙もなかった。怒りも失望も、どんな表情でさえも浮かべていない。だが、泣かれるよりも、怒るよりも、その面は護と功の胸をついた。
「……ただの悪戯だと思っていたのだが」
 護の低い声に、将は静かに首を振った。
「払ってあげてください」
 音もなく立ち上がる。手紙を父へ返し、将は部屋を出て行った。

  ※

 護は三上と連絡を取った。電話越しに、自宅まで来るようにと護が言うと、三上は不満そうな返事を返した。
「なぜ、家に行かなきゃならない?」
「じき、ラープツへ出かけて、数週間、留守にする。その前に手紙の件を片づけておきたい」
 電話の向こうからがグラスが触れあう音が聞こえた。酒を飲んでいるのだろうか。三上は乱暴なアクセントで話す。
「親子三人、水入らずだろう。邪魔するのは気が進まねえな」
「まっすぐ私の書斎へ来たまえ。案内させる」
「断る」
「将と功は、出かける予定だ」
「お断りする。――いや、行くよ」
 三上は続けた。
「お坊ちゃんが、どんな贅沢してるか、見てみたいからな」
 声には、欠片ほどのやりきれなさが滲んでいた。



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