或る夜に(11)


 約束した日時に、執事に案内されて、護の書斎へ入ってきたのは、長身の様子のいい男だった。目つきは鋭いが、服装はしっかりしたもので、目立つようなあらはない。
「君が三上亮君だね」
「ああ」
「かけてくれ」
 三上は書斎机の椅子の前へ腰を下ろした。そこは、父と喧嘩した将が座っていた椅子でもあったが、そのことを三上が知るよしもない。
「手紙を見て驚いた。将が、そんなに世話になっていたとは知らなかった」
「薄情な奴だったけどな」
 三上は唇を歪め、呟いた。
「将は払ってやってくれと言っている」
 三上は面白がるような、しかし、苦渋に満ちた目を護に向けた。
「父親の方は?」
「根拠がない要求には応じられない」
「それがなかったら来ねえよ」
 三上は懐から紙切れを出した。
「明細書だ」
 受け取り、護は読み上げた。
「現金出費、七ドル八十セント。――その他、ガウン、タオル、パジャマ、歯ブラシ、カミソリ、スリッパ、アフターシェーブ、ローション、櫛、帽子、ロープ、トランク――以上、ガソリン代と引き替え」
 護は顔を上げた。
「なんだね、これは」
 三上は淡々と述べた。
「書いてある通りだ。ほとんど、安物だが気に入っていた」
 護は、品物とその横に書かれた値段をふたたび目で読み、最後に書かれた総額を口にした。
「しめて、三十九ドル四十セントか」
「高くはないはずだ」
「つまり、この額を十万ドルに上乗せしろと?」
 護の言葉に、三上は眉間に皺を刻んだ。椅子から勢いよく、立ち上がり、ペンを手にしている護を睨みつける。
 不満なのかと三上を見た護は次の言葉に驚かされた。
「早く、三十九ドル四十セント、払ってくれ」
「それだけか」
「他に何がある? あんたの子どもをお守りした分の代金だ。親が払うのは当たり前だろう」
 護は改めて、三上を見た。
「懸賞金は?」
「俺の性に合わない」
「――変わった男だと言われるだろう」
「そんな話をしに来たんじゃねえよ」
 大企業を経営する男の目に映ったのは、同じ一人の男だ。整っているが、決して人相のいいとは言えない顔立ち、しかし意志の強そうな、理知的な輝きを放つ瞳がある。怖じ気づかない、堂々とした振る舞い方には、ふてぶてしさと紙一重の独特の品格さえ認められた。
 そこいらの男という訳ではなさそうだな、と認識を改めたのち、護は小切手帳に三上が望んだ三十九ドルと四十セントの金額を書き記した。
 三上が小切手を懐にしまうのを見ながら、護は訊ねた。
「将に何か言われたか」
「金持ちにありがちな、気まぐれなら、言われたね」
 三上の目に、わずかな間、傷ついた色が浮かんだ。それが、すぐに消えても、護は見逃さなかった。三上と同じ憂いと悲しみを、将の目の中に護は見つけていた。
 望んでも得られないものを願い、諦めながら、なおも望んでしまう悲しい憧れの色だ。かつて、護もこの思いに身を灼いたことがあった。
 護は机の上で両手を組んだ。親指を打ち合わせ、ゆっくり訊ねる。
「将を……愛しているか」
 三上は棘を含んだ視線で、護を睨んだ。
「あんな世間知らずの甘ったれた子どもを?」
 三上はテーブルに載せていた帽子を持ち上げ、頭に載せた。コートは着ずに、手にかけて歩き出す。護は椅子から立ち上がり、彼に歩み寄りながら、言った。
「将を愛しているのか」
「あんなガキに惚れるのは、よっぽどの馬鹿か阿呆、あいつと同じくらいの世間知らずだ」
 三上がドアノブに手をかける。すぐ側まで近寄り、護は叱咤するように叫んだ。
「愛しているのかね!」
 三上は荒々しい言葉と目つきで、護に怒鳴り返した。
「愛してるよ! 胸をかきむしられるくらいにな!」
 三上は扉を開く。廊下に功がいて、突然のように飛び出してきた三上を驚いた目で見ていた。ぶつかりかけた三上は、ぶっきらぼうに、失礼、と謝罪した。
 足早に歩いて、階段を降りていく。護は廊下に出て、功と共に手すり越しに彼を見ようとした。玄関ホールには礼装姿の将がいた。出かける支度を終えて、功と父親を待っていたらしい。
 将と三上、二人は同時に相手を見つけ、食い入るようにお互いを見つめた。将の方から近づいていったが、口を開いたのは三上が先だった。
 上から下まで隙のない、上質の素材で出来た服や装飾品を身につけた将。三上の瞳に怒りと隠しきれない賛嘆の色が現れたが、すぐに押し殺された。
「なるほど。それが、お前の世界という訳だな。ご立派なことだ」
 将は三上の軽蔑の眼差しに構うことなく、冷たく燃えるような目を向けた。
「――父さんに会ったんですか? ご希望通り、お金は受け取れましたか?」
「ああ」
「ご不満なら、僕がもっとお支払いしましょうか」
「結構だ。充分、親父さんに頂いた」
「それは良かった」
「ああ、ありがとう」
 三上は帽子を脱ぐと、慇懃無礼に将に向かって、お辞儀した。将の顔が泣き出しそうに歪むのを護と功は見た。三上はそれに気をとめる様子もなく、従僕が開いた扉の向こうへ去っていった。
 将は凍りついたようにその場に立ちつくしていたが、階段を下りてきた護が、その肩に手を置くと、小さく身震いした。
「将、彼は――」
「聞きたくない。もう……もう、いいんです!」
 うなだれた将は、父の手を払い、階段を駆け上がっていった。功が呼び止めたが、耳にも入れずに、廊下を走り去っていく。絨毯を踏みしめる足音が小さくなる。扉が乱暴に閉められる音は、悲鳴にも聞こえた。
「なんということだ」
 護が首を振る。功が父の横に立ち、三上が出て行った方向を眺め、将が悲痛な面もちで駆け上がった階段を見上げた。
「彼が……?」
 功を遮り、護はうながした。
「書斎で話そう――」


 三日後。風祭家では、高名な女性オペラ歌手を招いてのパーティが開かれていた。将は功と共にホスト役を務め、久しぶりに兄弟揃っての仲むつまじい様子を、やって来た来客たちに見せていた。
 ホールで、ピアノを伴奏に歌姫が、その当代一と褒め称えられた歌声を披露するとき、客に前方の席を譲った将と功は最後尾で隣り合って、悲痛なアリアを聞いていた。高く澄んだソプラノが、部屋の空気を震わせている。
 歌の途中、功は将の様子を盗み見た。横顔でも沈みがちな様子は分かる。ここ三日、将は人の目があるときは、努めて明るく快活によそっていたが、ふとした折りに見せる、悲しみは以前よりも深かった。痩せた分、大人びて見える頬の線が痛ましい。
 功はそっと将の耳に語りかけた。
「――彼は誠実だよ」
 将はことさらに無表情を装った。
「懸賞金目当てじゃない。支払ったのは、旅の実費、三十九ドル四十セントだけだ」
 功はゆっくりとその一言を告げた。
「それに、お前を愛してる」
「嘘だ」
 歌声が細く高く消えていく。功は口をつぐんだ。歌姫が一礼する。拍手が湧き上がり、功も将と共に手を打ち合わせた。客たちが、今の歌について、そこかしこで感想を囁き合う。功もまた、その振りをしながら、将の耳に囁いた。
「十一時だ。庭にある裏門を知っているな。車を用意させてある。俺には、そこまでしか出来ない」
 将の手に用意しておいた紙片を滑り込ませる。三日。探偵を使い、三上の居所を探らせるのにそれだけの日数かかった。長いか、短いか。その判断は将と三上が下すだろう。
「功兄……」
 将はそう言ったきり、黙った。手にした紙片を拳に握り込んだ。
 ふたたび、歌姫が唇を開く。恋の歓喜を讃える歌――功は将を見た。瞳に固い決意が浮かび、唇が引き結ばれている。自分を捜して、この家から出るときも、こんな表情をしていたのだろう。
 功は微笑し、いとおしげに弟を見やると、ふたたび歌姫へと顔を向けた。


 何事かを将へ耳打ちする功を、壁に掛けられた絵画の前で護は見ていた。一度、目を閉じ嘆息する。迷いではなく、それは我が子への限りない思いを胸へ湧かせたためだ。
 次に目を開いたとき、護の目にはいつもの厳かな光があった。手を上げて、執事を呼ぶ。
「――将の部屋のリネン類は換え時だろう。新しいものに交換しておけ。……そうだな、たとえ、将がぶら下がっても千切れないような丈夫なものにな」
 執事は深々と一礼した。
「かしこまりました」
 不可思議な言葉にも、決して動じない。言葉の裏にある主人の心を知ることが、執事の仕事だ。また、先へ先へと心遣いを回していくことも。
 そのまま彼は部屋の外に歩み出て行った。従僕の一人に命じる。
「庭師の元へ行って、縄ばしごを持ってくるように言ってくれ。丈夫な、新しいものを、と言って」
 従僕はうなずいて、裏口から駆け出していった。さあて、面白くなってきたぞ、と目を輝かせながら。
 ――庭師が用意した真新しい縄ばしごは、白い清潔な布に包まれ、将のベッドに置かれた。将様が縄ばしごに気がつかれないという、万が一の場合に供え、リネン類もすべて新しい、しっかりしたものに取り替えられた。



 旅立ちの準備は、すぐに終わった。将は手紙を書こうか迷ったが、止めておいた。ここには戻らない覚悟だ。兄が帰って、今度は自分が勘当される訳だ。
 最小限の荷物を用意した後、将は前にもやった通り、シーツ類を繋ぎ合わせて、下まで降りられるだけの長さにしようと、寝室へ入った。
 一枚目を取ろうとして、寝台にうやうやしく置かれた包みに気づく。
 開いて、目を丸くした。どう見ても縄ばしごだ。将は辺りを見回し、もう一度、縄ばしごを見た。
 考えている時間はない。これも兄の好意と思っておこう。
 将は縄ばしごを持ってバルコニーへ出た。縄ばしごの先を固く幾重にも手すりに結び、下へ投げ下ろす。何度か引っ張って、感触を確かめた。大丈夫だろう。落ちたって、下は軟らかい土と植え込みがある。足をくじこうが、骨を折ろうが、行ってみせる。
 初めてのときは父親への反抗心が恐怖を紛らわせてくれた。今は――三上の顔を思い出し、将は手すりを越えた。
 縄ばしごがきしむ。一段一段、足をかけ、ゆっくり降りていく。下は植え込みになっていて、その高さと葉の茂りは、身を隠すのに役に立つ。タイルの貼られた外壁や煉瓦の壁と向き合いながら、将は確実に体を下ろしていった。
 風はあったが、縄ばしごは揺れなかった。初めて、縄ばしごというものを使う将は気にとめなかったが、地上まで後少し、というところで、その理由を知った。
「――あ」
「お気をつけて。あと、二段下りて頂ければ、手を貸せますから」
 縄ばしごを、風に揺れないよう押さえていたのは、執事だった。足下を照らすように明かりを手にした従僕やメイドもいる。
 将は従僕のたくましい手に支えられて、無事、地面に降り立てた。
「みんな……」
「明かりも持たれず、庭を歩かれるのは危険です。これを、どうぞ」
 女中頭が、将に懐中電灯を手渡す。お元気で、と囁いた目には、うっすら光るものがあった。
「みんな、でも父さんの……」
 執事が首を振る。
「お叱りは覚悟の上です」
 同意とばかりに、その場にいた使用人全員がうなずいた。
「ごめんなさい。ありがとう」
「将様が出発されるのにお見送りしない使用人がおりますか――さあ」
 うながされ、将は茂みを抜け出した。
「お気をつけて」
「お元気で」
「無事をお祈りしています」
 口々にかけられる声に、将は一度、振り返り、みなに手を振った。
 後は真っ直ぐに駆けていく。月が照らす庭園に影が踊る。甘い花の香りをくぐり抜け、将は自分だけの本当の一歩を踏み出した。



「電報でございます」
 秘書が持ってきた紙に、護は眉を寄せた。
 可愛い我が子が、手元から旅立って一月である。
 あの新聞記者はすぐに手紙を送ってきた。卑屈でもなく、かといって居丈高でもない、充分に礼儀をわきまえた文面で、将との仲をお許し願いたい、という内容が書かれ、また、護が二人の仲を許さない限り、国外には出ず国内に留まり続けること、その間、滞在しているコテージの住所まで知らせてきた。追伸としては、ジェリコの壁、崩れず、とも記してあった。
 それからというもの、毎日、三上は律儀にも電報を送ってくる。将が元気だという程度の内容だが、最後には必ず、ジェリコの壁いまだ崩れず、あるいは、揺らがず、落ちず、などと記されている。
 護は、どの電報にも返事を送らず、まったく知らぬ顔を装っていたが、その裏で、三上の辛抱強さに感心し、またざまあみろという気を抱かなかった訳でもない。将を攫っていくのだから、一月どころか一年我慢しても、まだ足りない。
 だが、今日の内容を読み、思わず、護は声を立てて笑っていた。
 ――ジェリコの壁、危うし。どうか、返事を願いたい。
 滅多に見られない、社長の破顔した姿に、秘書が驚いている。護は、ふっとため息をつくと、秘書に言った。
「この住所に、角笛と手紙を送るように」
「文面はどうしましょうか」
 護は微笑し、一言、言った。
「壁を崩しても良し!」



「よお、おやっさん」
「ソウさんか。こんな時間にどうした」
「ちょっとね」
 松下は、このモーテルを経営する親父の横に立った。カウチに座り、パイプを燻らせている親父は、煙を吐き出した。
 松下も煙草を取り出す。マッチを擦って、手で覆いながら煙草に火を点け、言った。
「あの八号コテージの客なんだが。ちょっとたれ目で悪そうな感じの男と……」
「ちっこいのの二人連れだろう?」
 松下の言葉を継いだおやっさんが目を細めた。孫を思い出すときの視線にも似ている。
 松下は好奇心を煽られた。この偏屈な老人に、そのような温かい目を浮かべさせるとは、ただ者ではないはずだ。
「――ああ。その二人だ。一体、どういう組み合わせかと思ってね」
「あれは、恋人同士だな」
 おやっさんは、多少気にくわなげに呟いた。
 松下はふむと顎を撫でる。彼も、そう睨んでいたが、すると一つ、大きな疑問が残るのだ。
「しかし、恋人同士が、ベッドの間を毛布で仕切るかな」
「そういう二人もいるだろうよ。まあ、あの小さいのはいい子だ」
 分かるような、分からないような、曖昧な返事をすると、おやっさんはカウチの横の氷入りのバケツからビール瓶を取り、松下に勧めた。
 受け取って栓を開いた松下に、今度はおやっさんが訊ねた。
「毛布のことを知っているってことは、会いに行ったのか?」
「八号コテージに、早急に送ってくれって、手紙と包みが届いてね」
「へえ」
 ビールを飲んだ松下は、包みを受け取ったときの、小柄な客の表情を思い出して、ふと笑んだ。
「おやっさん」
「なんだ」
「おやっさんくらい生きてたら、分かるだろうがね、一体、角笛を贈るってのは、どんな意味があるんだ?」
 おやっさんはううんと唸り、腕を組んだ。
「どうにも、思いつかねえなあ……」

 ――配達人とモーテルの主が、謎解きをつまみにビールを飲み出したとき、八号コテージでは角笛が鳴らされた。
 ベッドサイドの明かりが消える。二本の手、細い手と力強い手が、同時に伸びて、毛布を床に落とした。ジェリコの壁は崩れ、やっと出会うことが出来た二人の時間がようやく、動き出した。



(終)


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●話中で使用した歌はドイツ民謡『金細工師の娘』です。
 訳詞は同曲が収録されたCDから使用させて頂きました。


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