「今日は、ミューラーモーターズのハインツ社長とのお約束があります」
秘書が告げた言葉に、護はため息をついた。
「延ばせんのかと言っておいたはずだぞ」
「どうしても今日がいいと、先方から頼まれましたので」
将の家出の件を、護は何よりも優先していた。だが、予定の変更や先延ばし、部下を代理に立てる事も、限界が来ているようだった。
「……分かった」
ミューラーモーターズは、ここ二、三年で急激に業績を伸ばしてきた航空会社だった。とくに大陸間の横断は、この会社が一番早く、かつ安全だとの評価が高い。
経営者であるハインツは護と同年齢だが、危うかった会社を立て直し、ここまで運営してきたのは彼の下で働く若者だと、業界では囁かれている。その通り、ハインツが表舞台に姿を見せることは滅多になく、噂では南洋の島で優雅に隠居生活を送っているらしい。
そのハインツが、わざわざ出てきてるのだから、護も会わざるを得ない。先が有望な会社の経営者と通じていた方が、この先、何かと有利だ。
護は重苦しい心を切り替えるように努力しながら、応接室の扉を開けた。音を聞きつけ、ソファから立ち上がった男に目を見張る。
彼の端正で、男らしさと女性が騒ぎそうな甘さが見事に調和した顔立ちは、護がよく見知ったものだった。
驚く護の前で、いとも優雅に男はお辞儀した。
「お久しぶりです、風祭社長」
そう言ってのけた男は、護の長男であり、将の兄であるところの、功であった。
護は差し出された手は握らず、将の家出の原因でもある功を、遠慮無しに睨みつけた。たじろがず、功は父の目を受け止めた。
護は部屋の中央へ歩み寄り、ソファを通り過ぎると、机の前に立った。功をなおも睥睨し、やがて表情も崩さず、淡々と言った。
「……一人前の顔には、なったな」
「おかげさまで。二年後に帰るつもりでした」
「二年? どういう区切りだ」
「会社の業績が安定するからです」
断言した功に、護はふんと鼻を鳴らす。目の前の息子は、後継者という立場を嫌がり、家を出たはずだった。
「結局は経営者になったということか」
込められた皮肉に、功は笑ってうなずいた。
「ほぼゼロから始めるのと、すべてを引き継ぐという違いはありますが」
護は唇を笑ませた。満足そうな、残念そうな、しかし、誇らしげでもある複雑な笑みだった。
父を見て、功は笑みを収め、深く一礼した。
「長い留守、申し訳ありませんでした」
護はうなずいて、長いため息を吐いた。
「――ハインツのところにいたとは、やられたな」
彼の下で、ミューラーモータズを立て直したのは、功だったのだ。ハインツとは電話で何度か話したことはあるが、そのような素振りはちらとも見せていなかった。食えないじじいだ、と自分もその一人である護は思いつつ、功に椅子を勧めた。
向かい合ってソファに座る。
「いつ戻ってきた」
「昨日です。向こうでも、風祭家の話で持ちきりですよ」
「お前を捜している」
「ええ。新聞で読みました」
「まだ見つかってない」
矢継ぎ早に、状況を話す護。功は、そこに父の不安を見た。眉間の皺が、確かに増えていた。元からあった皺は、深くなっている。
「集まるのは、信用するにたらん情報ばかりだ」
「十万ドルの効果でしょう」
功は苦笑し、膝の上で手を組んだ。
「榊社長はどう言ってますか」
「見つからない。それだけだ」
護は唇を震わせた。功も唇を噛む。何より苦い沈黙の後、護が呟いた。
「言わせてくれ。――気が変になりそうだ」
護は机に寄りかかり、手で額をおさえた。
「どこで、どんな目にあっているか、考えただけで、死にそうになる」
「……俺だって」
数年ぶりに顔を合わせた二人は、苦渋の表情で互いを見合う。よく似た色と形の瞳に、同じ考えを見出した。
「手遅れにならない内に、やらなければいかん」
「はい。今すぐに、やるべきです」
護は、秘書を部屋に呼び入れた。
――数時間後、風祭家のスキャンダルは、また新たな展開を見せた。
※
将は男がゴミ箱に放ろうとして、失敗した新聞を、目を見張りながら、取り上げた。くしゃくしゃだが、そこにある記事は誰にだって読める。昼も過ぎ、夕刻に近づいていたが、あたりは、まだ明るい。
『――風祭家、お家騒動終結か? 長男、功氏、勘当を解かれる』。
父と兄が手を握り合う写真が、そこにあった。
目眩を感じ、将は新聞を手の中で、握りしめた。全身が熱くなり、ついで冷えた。その思いを抱くのに、何の迷いも抱かなかった。
父は兄を許した、つまり、二人は仲直りした。これで家族元通りだ。将も帰らなければならない。父と兄のいる家に――三上のいない場所に。そうなのだ。自分は、三上と別れなければならない。
それが、どんなことより、恐ろしかった。罪悪感も、願いが叶った喜びも、突き抜けて、その思いだけがある。
将は道を尋ねに行った三上が戻ってくる前に、新聞を丸めて、ゴミ箱の奥に押し込んだ。
車に寄りかかり、顔を伏せる。恐怖のあまり、息が乱れた。どれくらいそうしていたのか、早鐘を打つ胸を押さえていると、肩に手が置かれた。
「どうした」
三上が戻ってきていた。彼が今の店で、新聞を目にしていないことを願った。三上の顔は平静で、どこにも変わったところは見られない。
「顔色、悪いぞ」
「大丈夫です……」
「大丈夫ってツラか」
三上は将をこづきかけたが止めて、頭に手をそっと置いた。
「無理するな」
手つきに、眼差しに、言葉に、思いがけぬほどの優しさが含まれていたと感じたのは、自分の思いこみだろうか。将は三上の手は払わぬまま、目を伏せた。嘘をつく疚しさが、そうさせた。
「気分が、悪いんです」
「我慢できそうか? コーエンまで、三時間もあれば着くぞ」
将は首を振った。瞼が引きつった。予想以上にコーエンまで近づいている。
「無理です」
「しょうがねえな」
三上は言って、車のドアを開けると、将を乗せた。
「寝てろ。休める場所を探すから」
運転席の方に三上は乗り込んだ。
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。黙って、休んでろ」
将が罪悪感にかられ、その疚しさに怯えれば怯えるほど、三上は、気分が悪いとの言葉を信じる。そうして、嘘は塗り固められていくのだ。
ごめんなさい、と将は再度呟き、ずっとうつむいていた。三上が不安そうに自分を時折、見てくるのにも気づかなかった。
町なかにあったホテルからはすげなく断られた。宿泊できるような場所はここ一軒きりだったので、仕方なく、三上は町を出て、車を走らせた。
五キロ行った先に、古いモーテルがあった。三上は車を木陰に停めると、将には休んでいるように言って、事務所の方へ行ってしまった。
将は待っていた。いつまでも、待っていたいと思った。帰ってくると分かる人を待つのは、どれだけ素晴らしいことなのだろう。
事務所のドアが開く。まず三上が、ついで、中年過ぎの夫婦二人が出てきた。三上は主人の方と軽く握手して、将の方へやって来た。
「三号室だ。先に行ってろ」
将は主人夫婦の視線を背中に感じながら、コテージに入る。三上はガレージに車を収めて、ドアを開いた。将がベッドを整えている。
ため息をついて、相変わらず、冴えない顔色の将の肩に手を置く。びくんと、将の肩が大きく震えた。手を離して、三上は帽子を脱いだ。
「寝てろ」
将はベッドに座る。ベッドのきしむ音は、予想以上に大きかった。
「お金がないのに、どうして部屋が取れたんですか」
三上は自分の頭をつついて見せた。
「ここを使った」
将は笑わない。三上は表情を変えた。
「一週間、泊まるって話したんだ。それで何とかなった」
「一週間……」
将はため息を飲み込んだ。それだけ時間があれば、どんなにいいか。
三上は将に寝間着を貸し、自分は上半身にガウンを着ると、ベッドに横になった。二つのベッドの間には、三上の意地で毛布が仕切りとして掛けられている。無防備な将の寝顔を見るのは、きついものがあった。とくに、別れが近づいている今となっては。
毛布越しに横たわる将を思い、三上は小声で話しかけた。
「最後の夜だな」
将は意外にしっかりした声で返事した。
「コーエンに着いたら、記事を書くんでしょう」
「ああ。――これで、お互い、めでたし、めでたし、ってとこだな」
これからは、将がどんな表情を浮かべても見られなくなる。社交界の動向を伝える記事に、もしかしたら名前を見かけるかも知れない。それでも、間近で、怒ったり、涙ぐんだり、睨んだりといった表情の変化を、何より、あの笑顔を見ることは出来なくなるのだ。
三上の感傷を知ったように、将が、ためらいがちに訊ねてきた。
「また、会えますか」
「いや」
三上は、そっと付け加えた。
「世界が違う」
「でも……害がある訳じゃないです」
「興味がないんだ」
将は黙った。毛布を見つめる。正確にはその向こうにいる三上を。
「……記事を書いた後は、どうするんですか」
「また別の記事を書く。どこかに行って、誰かと会って」
三上は言葉を切った。毛布を見つめる――あの向こうに横たわる将を透かし見るように、目を細めた。この思いを抱えて、今まで通り、やっていけるのだろうか。
「会って?」
将が続きを促した。
「――いや、休暇を取る。行きたい場所がある」
言い出してみたら、どうだろうか。兄貴を捜す手伝いをしてやる――それをまた記事にするのか? そうして、ゴシップ狙いの記者だと蔑まれるのか?
三上は手を枕と頭の間に入れた。言葉が途切れないようにして、話を続ける。
「タウ島ってところに、昔、取材で行ったんだ。飯も酒も旨い、綺麗な島だった」
三上は思い出す。故郷ではないのに懐かしさを覚えるほど、あの島は居心地良かった。
「まとまった金が出来たら、そこで暮らそうと思っているんだ――俺と……気が合う誰かと二人で」
言葉がもたらした、甘いとも苦しいともいえる余韻に、三上は唇を歪めた。
今、誰を思い浮かべた? なぜ、こんなことを口にする? 自分が抱くのは答えが掴めそうな疑問ばかりだ。見えている答えから、あえて目を逸らそうとした三上は、息を飲んだ。
――ぎしりと床が軋み、毛布の壁を回って、将が姿を見せた。大きな瞳には、今にも砕けそうな薄氷のような光が湛えられている。
「僕も……僕も、連れて行って下さい」
言うなり、将は寝間着の裾をひらつかせながら、三上の枕元に膝をついた。
「離れたくないんです。一緒にいたい……好きです」
自分の言葉に何かが振り切れたのか、将は三上に告げた。
「あなたが好きなんです」
「馬鹿、言ってるんじゃ……」
片肘をついて、半身を起こしている三上の胸元に、将は顔を埋めた。肩が震え、切ないすすり泣きが三上の胸にも耳にも響いてくる。
「お願いです――」
三上は手を上げた。将の震える肩を抱きかけた。そのまま引き寄せてしまえば、どうなっただろう。
三上が行ったのは、将の肩を押さえ、自分の胸元から引き離すことだった。涙で汚れた将の頬が、鈍く光っている。
「……ベッドに戻ってくれ」
将がひっくとしゃっくりを呑み込んだ。なおも訴えかけてくる濡れた目に、三上は首を振り、寝返りを打った。
「ごめんなさい」
将が足を引きずるようにして、ベッドに戻っていく。
衣擦れの音の後も、毛布越しには、噛み殺せないらしい将の嗚咽が聞こえてくる。吐息一つが、身動きするときに聞こえる音の一つが、三上の胸を無茶苦茶に叩きのめした。
何度か頭の向きを変え、寝返りを打ち、将の表情を振り払おうとしたが、無理だった。そうしようとすれば、するほどに、将の涙が、瞳が三上の心の中で、いっそう重くなっていく。
ついに耐えきれず、三上は毛布を払い、隣のベッドを見た。
将はうつぶせになり、腕の上に顔を載せていた。泣き寝入りしてしまったらしい。赤くなったままの目尻が痛々しかった。
「――本気なのか」
答える声はない。三上は将の頬に触れかけ、手を引っ込めた。
決めたのなら、すぐに行動すべきだ。将の体に毛布を掛け、三上は着替えを素早く済ませた。トランクから出していた荷物も元通り、放り込んだ。車の鍵を取り上げ、そっとモーテルの部屋を出る。
壁時計で時間は確かめていた。今から、コーエンへ行き、用を済ませて戻ってきても、将は疲れているから、まだ眠っているだろう。将が次に目覚めたときは、そのときは――。
思いを決めた男の決意を秘めて、三上は車に乗り込んだ。明るい月夜は、まるで夜の出発を祝福しているように思えた。
夜道を行く途中で、三上はドライブインの灯りを見つけ、車を停めた。店員が寄ってくる。純朴そうな若い男だった。
「ガソリンが欲しい。でも、金がない」
三上の告げた言葉に、男は、途端に胡散臭そうな表情になった。追い払われる前に、三上はトランクを座席から持ち上げ、男に見せた。
「これで払う」
「カバンなら持ってます」
「明日になったら戻ってきて、これを買い戻す」
男の目がトランクを値踏みし、迷うようにまた三上に戻る。後一押しと見て、三上は言った。
「十ドル上乗せするよ」
男が手を伸ばして、トランクを受け取った。ついで、三上の頭上を見る。
「その帽子も」
「なんだって」
「帽子も欲しい」
三上の行動は早かった。
「持っていけ」
男の頭に自分の帽子を載せ、三上は座席で腕を組んだ。
「――満タンだぞ」
「分かってます」
やっと、店員は笑みを見せ、空になったガソリンタンクを満杯にするために、動き出した。
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