或る夜に(7)


 朝日が照らす道を、三上はトランクとコートを持って歩いていた。遅れて、将が足を引きずりながら、歩いている。明るくなって、視界がはっきりしたので、無事、林道を抜けて、舗装された道に出た。両側は、まだ木々が茂っているが、大きな太い道は、どこかの街まで通じているだろう。
 三上は立ち止まった。将が追いつくまで待つ。呼吸をやや乱し、肌を軽く汗ばませた将が三上と並んだ。
「痛いのか」
 目線は将の靴にある。品物の良い革靴だが、それを履いた足は、長く歩いたことがないはずだ。
 将は首を振りかけ、三上の言葉を認めた。
「痛いです」
「来い」
 三上は道の脇に寄り、切り株の上に将を座らせた。靴を脱がせてみると、なるほど足の裏は見事に豆だらけである。血が滲んでいる箇所もある。
「ごめんなさい」
「しょうがねえよ」
 三上は将に靴を履かせ、自分もトランクを置いて、それに寄りかかった。
「ここで、車を拾うか」
 とは言ったものの田舎道のことだ。そうそう車は通らない。将にはいい休憩になるだろう。三上は腕を組んで、来た道を見た。
「ヒッチハイクのやり方を知ってるか」
「映画でなら、見たことがあります。男の人が隠れて、女の人が止めてました」
「あんまり、いい映画じゃないな」
 三上は言うと、帽子の形を直した。遠くに砂埃が立っている。
「来たぞ、見てろ」
 黒い点が大きくなり、近づいてくる。三上は道に立ち、親指を立てると、前方へ突き出した。ひゅっと風の音を立てて、車が通りすぎる。三上は帽子を押さえ、舌打ちした。
「男だった。ついてない」
「男の人だと駄目なんですか」
「相手が女なら、俺の場合は止まるんだよ。ちょっと笑ってやるとな」
 将のしかめっ面に三上は気づかない。
「また来たぜ」
 なんて楽しそうな声だろうと、将は腹立たしくなった。相手が女なら、どうだというのだ。その隣に乗って、どうするつもりなのだ。将は、自分に出来る限りの想像を膨らましかけ、慌てて、そのはしたない行為を止めた。誰にばれるわけでもないが、みっともないと感じたのだ。それでも、心の中に出来た棘は引っ込まない。
 将がうつむく側から、三上は残念そうな声を出す。
「また男だ。しょうがねえなあ」
「男の人が、乗せてくれるっていったら、どうするんですか」
 将の尖った声にも、三上はまだ気づかない。
「そりゃあ、乗るしかないだろう。仕方ない」
「……女の人の方がいいんですか」
「男なら当然だな」
 突然、三上は腰を柔らかいものに掴まれた。
 切り株から立ち上がった将が、三上の腰に手を回して、引っ張っているのだ。
「なんだよ」
 ぐいぐいと引き戻され、三上は将の不機嫌そうな様子を不思議に思った。せっかく、休めるのに、立ち上がっているとは、どういうことだ。
「今度は僕の番です。休んでて下さい」
「まだ二台しか……」
「もう二台です」
 将は三上をトランクに寄りかからせると、自分が車道から見える位置に立った。三上は、好きにさせておこうと、煙草を取り出した。その内、疲れて戻ってくる。その時は、思い切り、からかってやろう。拗ねて、横を向く表情を見てみたい。ふと浮かんだ微笑を三上は押さえた。
「――車が来ました」
 将が弾んだ声を出した。
「よかったな」
「ちょっと笑えばいいんですよね」
 将は練習のつもりか、三上に向かって、にっこりと笑って見せた。三上は煙草を落としかけた。なんだ、その無防備な笑顔は。それを、自分以外に向けるつもりなのか。
 三上の煩悶に気づかず、将はのろのろと走ってきた車に、親指を立てた手を大きく振った。続けて、三上の心臓を止めかけてた笑みを浮かべる。
 鋭いブレーキ音が響いた。車が停まる。将が運転席に近づいて、乗せてくれと交渉をしに行った。ほんの数秒で、話が決まってしまう。三上が待てという暇もなかった。
 将が振り返り、三上に嬉しそうに叫んだ。
「乗せてくれるそうです」
 三上はうなずきながら、吸ってもいない煙草を道路へ捨て、足で捻り潰した。ひどく、腹が立っていた。


 むっつりと車に乗り込んだ三上と違い、将は機嫌が良い。それを見て、三上はなおさら、腹を立てる。運転手は、古ぼけた帽子を被った赤ら顔の男で、将には愛想よく、三上にはそれなりに礼儀正しく振る舞っていた。
「乗せてもらえて、よかったですね」
 三上は将を見て、冷たく唇を歪めた。
 将の笑みが消える。
「怒ってるんですか」
「別に」
 言うなり、三上は将のいる右ではなく、左を見た。景色がのんびりと流れていく。車はかなりの年代物で、エンジンは不規則な音を立てていた。
「……」
 将には、なぜ三上が怒っているか分からない。
 自分が何かしただろうか。ひょっとして、三上は自分で車を停めたかったのだろうか。将が強引に交代したときは、怒っているようには見えなかったが、内心、苛立っていたのかもしれない。止めておけばよかったのか。
 けれど、それで、もし、三上が女性が運転する車を停めたとしたら。その車に乗り、楽しく女性と話す三上を見ることになったとしたら。想像しただけで、胸が焼けただれそうになる。さきほども、この炎に押されて、三上を道路から遠ざけた。
 将も三上とは正反対の方向を見た。目にゴミが入った振りをして、熱くなりそうな目元を擦った。
 後部座席二人の無言の嫉妬を知らない運転手が、将に話しかけた。
「朝から、二人でヒッチハイクかい」
「は、はい」
 三上がちらりと将を見て、乱暴な仕草で足を組んだ。将の瞳が、また曇る。
「いいねえ。若いと、どこまでも旅が出来る」
 男は座席でごそごそ音を立てたかと思うと、小瓶を出した。
「おい」
 中身を酒と直感し、三上は男の肩を叩いた。
「俺が飲むんじゃあない。若くて冒険心に溢れる、お二人に」
 男は気前よく、小瓶に入ったウィスキーをくれた。どうせ安物だろうが、三上は栓を開け、瓶に口を付けた。数日ぶりの酒は、胃と喉を灼いた。
「飲まない方が――」
「うるさい」
 一言で将の心配を払いのけると、三上は酒を一人で飲んだ。安酒が空きっ腹に染み込む。
「駄目です。何も食べてないのに、飲んだりしたら体に悪いです」
 将が三上の手から、瓶を取ろうとする。
「お前は俺の母親か。おせっかいは止めろ」
「おせっかいでも何でもいいです!」
 将は三上の膝に手を置き、体を伸び上がらせると、三上が将から遠ざけていた酒瓶を手に取った。運転手にも返さず、自分の手にきつく握っている。
 三上が何か言いかけると、睨み上げてきた。怒りか悔しさか、頬を赤くした将に何も言えず、三上は半分ほど飲んでしまった酒の酔いを感じながら、車に揺られた。それきり、運転手の男も口を挟んでこなかった。


 小さなドライブインを途中に見つけ、運転手は車を停めた。葉がまばらに生えた木に、『ハンバーガー』とかかれた看板が立てかけられている。農夫風の男が、二、三人ほど、ドライブインの横で、パイプを燻らせて、雑談にふけっていた。
「俺は飯にさせてもらうよ。あんたらは」
 三上は首を振った。将は、食べません、と断った。運転手は拍子抜けした顔で、車を降り、店の中へ入っていった。風の吹く方向が変わり、肉を焼く香ばしい匂いが、将と三上の方へ漂ってきた。
 三上は車を降りた。将は降りず、座席にそのまま座っている。三上はドライブインの横を通り過ぎて、ブランコが枝から下げられた木の下で足を止めた。足下では、黄色や赤、白の小さな花が咲いている。春の萌えるような緑に、花の色は調和していた。
 そこで、最後の煙草に火をつける。煙を吐いて、苛立ちも吐き出そうとした。乗っている間中、将ときたら自分の方が酔ったような顔をしていた。謝ろうにも、運転する男が耳をそばだてているようで、気になったし、自分が悪いと分かっているから、謝るのがいっそう癪だった。
 将といると、いつの間にか、調子が狂う。二人でいるときはいい。他人が絡んでくると、苛立つ。まさか、と思う。そんな訳がないと思う。あんな子どもに、と否定する側から、落ち着かなくなった。
 灰が風に攫われて、落ちていく。煙草の先が赤く光る。運転手が戻る前に、この気まずい状況を何とかしたい。三上が謝るのが一番良いのだが、自分にそれが出来るだろうか。
 車に乗っているときの将の顔がちらついた。
 三上はこの煙草を吸い終えたら、車に戻ろうと決めた。将の顔を見てから、謝るかどうか決めればいい。
 三上は不意に、胸に痛みを覚えた。将の顔を見たら、それだけで充分になり、何も言えなくなるような、そんな気がする。細い煙を立ち上らせながら吸う煙草が、今まで感じたことがないくらい苦い。
 ――かさりと草が音を立てた。三上は振り返らなかった。足下に目を移す。小さな影がすぐ近くにあった。ひなたくさい、のどかな空気に、不意に甘い、心騒がせる気配が混じった。
 将の黒髪が風に揺れている。どうして、これほど真っ直ぐに自分を見つめられるのか。
 目が合ったのも束の間、三上はすぐに指に挟んだ煙草へ、視線を落とした。
「お酒を取ったことは、謝りません」
 三上は微かに息をついた。ああ、とうなずくような声も漏れたが、将の耳には届かなかった。
「他のことは……ごめんなさい」
「何がだよ」
「ヒッチハイク、自分でしたかったんでしょう? 僕が勝手に車を停めて、それから……」
「誰がそんなことで、怒るか」
 将の指摘は三上の疚しさを、ちくりと刺した。
「だって、怒ってます」
「怒ってねえよ」
 三上の口調は平坦で、突き放すような荒々しさが込められていた。だが、将は諦めなかった。
「怒ってます。ずっと、僕と目を合わせてくれません。どうしてですか。教えて下さい。こんなの……嫌です」
 三上は言い訳じみていると承知しながら、言った。
「気にしてる割には、お前、運転手と楽しく話してたじゃないか」
 将は間を置かずに言い返した。ゆっくりした口調だったから、余計に将のしょんぼりした心が響いていた。
「三上さんじゃないのに、僕が楽しい訳ありません」
 将は自分の発言の意味に気づいていないらしい。三上からわずかに逸らされた顔は沈んだままだ。
 三上の胸の支えが嘘のように取れた。運転手には失礼だろうが、今の答えは、三上を満足させた。かといって、将の悲しげな横顔が変わった訳でもない。それどころか、三上の沈黙に、悲しみが深まる一方のようだ。
 三上は、次の言葉が自分の心の柔らかい部分に踏み込む類の言葉と知ったが、迷わず口にした。そのときの三上には自分が感じるいたたまれなさや、恥ずかしさよりも、将の悲しみを払う方が大事だった。
「もう怒ってない。ちょっと勘違いしてた」
 将と自分との間を、白い煙が横切る。風が邪魔だと思った。
「誤解だ。あの運転手にお前が笑ったのが、気にくわなかっただけだ」
 将が何か言おうとして、そのまま三上だけを見つめている。
「本当だ。その――悪かった」
 将が無言で首を振る。三上を見上げて、笑おうとした。またすぐに視線が逸らされる。三上は煙草を持っていない方の手を将の方へ伸ばした。灰が煙草の先からさらりと落ちていく。
「なんで、泣くんだ」
「泣いてません」
 将がうつむいた。三上は腰をかがめた。足下の花に蜜蜂が羽音を立てて、止まろうとしている。ブランコが、風に揺らされて、小さくきしむ。春の気配を含んだ風と日光が、側を通り過ぎ、二人を包む。
 三上が吸っていた煙草の薫りを将は嗅いだ。三上の手が肩に触れた。二人共通の、優しい思いが流れる。そっと引き寄せられ、将の瞳が大きく開かれた。三上は腰をかがめ、将に頬寄せる。前髪が触れ合ったが、鈍いエンジン音が、その瞬間を壊した。
 三上が顔を上げ、あっと声を漏らす。将も振り返った。
 ここまで車に同乗させてくれた男が、二人に声もかけず、車に乗り込んで、走り出そうとしている。座席には三上のトランクが置いてあるのだ。
「てめえっ!」
 三上が声を荒げ、走り出した。将も後に続く。足が痛んだが、構っていられない。
 二人が駆け寄ってくる姿に驚いたのか、車が急発進した。速度を上げ、黒煙を吹き出して、遠ざかろうとしている。
「トランクが!」
 将が三上を見上げると、三上は将の肩を軽く押した。
「ここで待ってろ。動くな」
 言うなり、三上は帽子を押さえて、走り出した。
「僕も――」
 将も追いかけたが、三上の方が圧倒的に早い。背中が木漏れ日の中で、ちらついたかと思うと見えなくなってしまった。将はなおも追いすがったが、足裏からひどい痛みが走り、仕方なく、立ち止まった。じんじんと熱を発したような痛みがある。少し歩いてみたものの、走れそうにない。
 道の先を見れば、三上の姿はもうなかった。将は足を引きずって戻り、三上に言われた場所で、彼を待った。三上が走っていった方向から、片時も目を離さなかった。
 しばらく待ったが、トラックと乗用車が一台ずつ、通り過ぎただけで、広々とした穏やかな田舎道には、何の変化もない。
 三上に何かあったのかもしれない。思う側から早くなる心臓をなだめる。いや、大丈夫だ。でも、ひょっとしたら。大丈夫、待ってろと言った。戻ってくるはずだ。けれど――。
 交互に揺れる思いに、引き裂かれそうになる。手が自然に木の幹を剥がし、生木の湿った匂いが漂った。青葉の中、のどかに小鳥が鳴いている。それなのに、三上の姿は、まだ見えない。
 足裏の熱は、徐々に引いていった。将は地面を蹴ってみた。じんとしびれるような痛みが走る。それでも将は前方を見据えた。もし、今度やって来た車が、自分の前を通りすぎたら三上を探しに行こう。将は、その瞬間を待っていた。
 白くほこりっぽい道の先を車が近づいてきた。調子の悪いエンジン音だ。聞き覚えがある。恐怖と喜びが混じり合った激しい思いに、将は木から離れ、道路へ飛び出していった。道の先へと目を凝らす。
 古い車を運転しているのは、三上だった。
 将の前で、車は止まる。
「乗れ」
「この車って」
「泥棒野郎から、もらってきた」
 三上は目と唇の脇、額とこめかみに擦り傷をこしらえていた。血と泥が混じりあって、顔を汚しているし、服も乱れている。
 将は三上の傷に気づき、車に乗った。三上は将がドアを閉めると同時に車を発進させた。土埃を立てて、車は道を走っていく。
 三上は前方だけを見ていた。一言も発しなかった将は、川沿いの道にさしかかると、三上に車を停めてくれるように頼んだ。
「トイレか」
「違います」
 口調が怒ったときのものに似ている。三上は、謝るべきかどうか考えながら、将に引っ張られて川岸に行った。
 将は川の水にハンカチをひたし、三上の傷についた泥と血を拭き取った。固まって色も変わっていたそれらが、ハンカチを汚す。
 いい、と三上は首を振ったが、将は許さなかった。顔つきが厳しい。身を引こうとすると、思いの外、強い力で引き戻された。
 将は真剣に傷口の汚れをぬぐっている。表情とは裏腹に、手つきは非常に優しい。三上は瞼を閉じた。冷たいハンカチが瞼の熱を吸い取り、汚れを落とす。
「大した傷じゃない。お前は大げさすぎる」
「血がいっぱい出てたんですよ。泥だって、ついてます」
「相手は、俺の三倍は血も出たし、汚れてる」
 将が泣き笑いのような顔を見せて、三上の傷を濡れたハンカチで、また拭った。傷口から伝わる痛みに、三上も笑った。
 傷口を清めると、将の手が三上の乱れた髪を、おずおずと直す。三上は将の手に心地よさそうに目を細めた。突然、将の震える手を取って、自分の唇に押し当てたい衝動にかられたので、三上は将の手を遠ざけた。静かに拒まれたので、将はすぐに手を引いた。
 川の水で喉を潤し、車に戻る。
「痛みません?」
「痛くない。泥棒野郎のつけた傷なんて、痛みもしねえよ」
「よかった」
 三上の減らず口に、誘われたように将が笑んだ。何よりの薬だと、三上は笑みのあたたかさに思った。



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