「どうしたんですか」
将の言葉には構わず、三上は右手でトランクとコート、左手で将の手を握り、草藪をかき分け続けた。幸い、森に入り、林道を見つける頃には、雲が晴れて、満月までは後少し、というほどにまで満ちた月が、道を照らしてくれた。
ちりりと虫の声が幾重にも重なって聞こえる。月が葉陰を通して、道に木漏れ日に似た光を落としている。光と闇が同居した道を、将を引っ張って、走っていく。
川のほとりに出た。せせらぎの音に、ふっと息がこぼれる。三上は枯れ木の側に荷物を置いた。将はその近くに立ち、月明かりを弾く川面に目をやっている。
「――あの人に何か言ったんですか?」
将は三上がバスを離れ、男と藪の中へ入っていくのを見ていたらしい。
「少し話しただけだ」
三上は靴紐をほどきながら言葉を付け加えた。将に、あの男と通じ合っているのではという誤解を抱かせたくなかったからだ。
「大したことじゃない。ちょっと脅しただけだ」
「脅した?」
将の口調にかすかではあるが、非難の響きを感じ取り、三上は手を止め、将を見た。
「奴がお前の正体に気づいていたのに、かばうつもりか」
将は首を振ったが、三上は皮肉っぽく続けた。
「あんな奴を心配するなんて、お優しいぼっちゃんだな。案外、あの野郎と一緒な方が上手くいくんじゃねえのか。相手も喜ぶだろうし」
三上は将の表情を見て、口を閉じた。言い過ぎだった。
将は顔を逸らし、背を向けて、三上から少し離れた。今、来た暗がりをじっと見ている。
三上は謝りはしなかった。ただ、自分に腹を立てた。得るのが、懸賞金か、それともスクープかの違いだけで、結局は男と自分が、それほど違わないのに気づいたからだ。蔑んだ相手と同列だというのは否定したい。だが、どう違うかというと、まったく分からない。
そして、将が自分を非難し、男をかばったように思えたとき、今以上に怒りが湧き上がった。あんな奴を気にしてどうするのだと訊きたかった。
三上は靴を脱いだ。靴下も脱いで、靴の中へ押し込む。ズボンの裾を上へと折り返す。足首、すね、ひざ、そこまで折り返すと、最後に、脱いだ靴の紐をそれぞれ結び合わせた。
「……おい」
将は振り返らなかったが、言葉は返した。
「バスには戻らないんですね」
「ああ」
居心地の悪さに身動き取れなくなる前に、三上は行動を起こした。コートを肩にかける。
トランクを持ち上げ、残る手で靴を持つ。
奇妙な姿で将に近づいて、いきなり声をかける。
「今から、川を渡るぞ」
「えっ」
やっと将が振り向いた。泣いていなかったのに、三上はほっとした。
「あ」
将が三上の姿に気づき、自分も靴を脱ごうとする。
「これ、持ってろ。落とすなよ」
将に靴を押しつけ、いったん、トランクを降ろす。将に枯れ木の上に上がるように言った。三上の靴を持った将は言う通り、素直に枯れ木に乗った。顔は不思議そうだった。
「川を渡るんですよね?」
「そうだ」
三上は将を担ぎ上げた。コートが将と三上の間にあるので、痛くはないはずだ。
「なっ、何してるんですか」
将の抵抗は気にせず、トランクを持ち上げて、川に入る。水面が月明かりを受けて、幻想的な光を放っている。
「降ろして下さい」
三上の背中越しに、将が言う。足が振られた。しなやかな足が、三上の胸や腰に当たる。
「じたばた動くな」
「僕だって、川は渡れます」
「それで足を滑らせて、ずぶ濡れになる訳だ」
「そんなことありません、降ろして下さい」
「うるせえ。黙って、担がれてろ」
将の腰を三上が軽く叩くと、将は黙ったが、三上の背中を両拳で数度、叩いた。
「やってくれるじゃねえか」
三上は足を開いて、しっかり川底を踏みしめると、将の体を落とすように見せかけた。急に近づいてきた水面に将が、わっと声を立てて、三上の背中にしがみついた。
三上は愉快そうに笑って言った。
「その調子でしがみついてろ」
将はもう一度、今度は、さきほどよりもずっと強く、三上の背中を打った。三上が大きく咳き込んでみると、不安になったのか、もう叩いてはこなかった。
騙されやすい将を肩に載せ、三上は流れに押されないよう川を行く。深くはない。三上の脛の中程くらいだろう。途中、膝までに達したが、それ以上、深くならなかった。
川のせせらぎは、まるで光が音を立てているように思える。三上が川を進む音も、その一部になっていくようだった。
将は時折、血の巡りを戻す為に頭を上げる以外、動かなかった。手の平が、三上の服をつまんでいるのが、分かる。三上は肩にある将の重みを心地よく感じながら、向こう岸に辿り着いた。
将をゆっくり降ろしてやる。将はトランクからタオルを出してくれた。三上は冷たくなった足から水気をふき取り、血の気を取り戻そうと擦る。将が心配そうに見ているので、三上は自分の足を見ながら、何でもないように言った。
「――普段、なに、食ってるんだ。軽すぎるぞ」
「そんなことありません。普通です」
言葉が、お互いに続かなくなった。三上がちらりと横目で将を見ると、将も三上を見ていた。同時に目を逸らし合った。
水音にも似た涼しい、しかし甘い空気が流れかけた。三上はタオルを放り、ズボンの裾を戻し、靴下と靴を履いた。
「行くぞ」
「はい」
また、歩き出した。湿った土の匂いが、夜風に揺れる葉の囁きが、道を照らす月明かりが、森の何もかもが、将と三上を包んでいる。
三上のすぐ後ろを歩いていた将が、徐々に遅れるようになった。開いた距離を縮めようと、すぐに小走りに駆けてくるのだが、追いついて少しすると、また遅れてしまう。聞こえる呼吸が、短い間隔で、荒くなっていた。
三上は歩調を緩め、林道の脇道に轍の跡を見つけた。そちらの方へ入る。しばらく歩くと、細い板で作られた低い柵の脇に出た。大きな樹が、柵の内側にそびえ立ち、回りには干し草が幾つもの山となって積まれている。軸の壊れた車輪が、一つ、忘れられたように置いてあるが、人の手によるものは、その三つくらいだった。
三上はトランクを柵の向こうへ放り投げ、柵を乗り越えた。将は柵の隙間から内側へ入ってきた。
「便利だな」
からかったが、将はすぐ側にある干し草の山を見上げており、三上の言葉は聞こえないようだった。
三上は辺りを見て回り、戻ってくると、将が、まだ飽かずに見ている干し草の山に手をかけた。ばさっ、ばさっ、と乾いた音を立てながら、干し草を取り出す。
「何してるんですか?」
「ベッドを作ってるんだ」
「ここで、寝るんですか?」
「嫌か」
将は首を振った。三上の隣に立って、自分も干し草を掻き出し始める。しばらくすると三上から離れた場所で干し草を引っ張り出した。彼の隣では、干し草が頭上から降りかかってくるのだ。
取り出してきた干し草を両手に抱え、三上が集めたものとまとめる。次に、地面に新しくできた干し草の小山を平らにならす。
「こんなベッド、初めてです」
にこにこ笑っているから、喜んでいるらしい。その頭だけでなく、体中が干し草だらけだ。将が下を向いている間に、三上は髪に付いた藁を数本、取ってやった。自分でも思わぬ行動に、気恥ずかしくなった。
「もういい。お前は寝ろ」
干し草は地面に厚く敷き詰められている。これなら、地面からの冷気も伝わっては来ないし、それほど堅くもないだろう。
「これ、僕の分ですか」
「ああ」
「じゃあ、次はあなたのですね」
将は、またも干し草を掻き出し始める。足の痛さも忘れるくらい、楽しいらしい。遊びに夢中になる子どもの顔になっていた。
三上は新しいベッドが出来上がらない内に将を止めた。親指で、少し離れた別の干し草の山を指す。
「俺のはあっちだ」
将が理由に思い当たったのか、恥ずかしそうに、こっくりうなずいた。すみません、という声に、三上は聞こえない振りをする。
二人して、何とも言えない焦れったい空気を抱えながら、今度は三上の分の干し草のベッドを作った。将の手が、さきほど三上がやったように干し草を集め、綺麗にならす。
足で干し草を寄せていた三上は、将の手に切り傷が出来ているのを見つけた。
「適当でいい」
「ちくちくしませんか」
「しねえよ」
干し草が立てる音が消えると、急に静かになった。カエルの鳴き声が、夜の冷たい空気を震わせている。将は、まだ干し草を撫でていたが、その手で膝を抱えた。今までの明るさが急に消えてしまった。
「あの親子、大丈夫でしょうか」
ぽつんと言い出す。
「さあな」
「ご飯を、ちゃんと食べてくれると、いいんですけど」
「食べるだろ」
三上が言い終えた瞬間、くう、と将の腹が鳴った。将が慌てた素振りで腹部を押さえた。将が元気をなくした理由を、三上は悟った。――こいつ、腹減ってるだけなのか。ベッド作りが終わって、空腹に気づいたらしい。
三上の目線に将は顔を伏せる。きっと、真っ赤になっているはずだ。
「腹、減ってるのか」
三上の笑い混じりの問いを将は突っぱねた。
「平気です」
「減ってるんだろう」
「大丈夫です」
「腹、減ってるのかって聞いてるんだよ!」
「違いま……」
くうう、とさきほどよりも、大きな音を立てて、将の腹が、また鳴った。三上は笑い出した。
「正直な返事だな、おい」
三上が遠慮無しに腹を抱えて、笑っていると、彼の腹もくうと鳴り、続けて、ぐう、と鳴った。
三上は笑いを収めた。今度は将が笑う番だった。声を立てていないのは唇を噛んで、我慢しているからだろう。
三上はむっつりした口調で言った。
「……腹、減ったな」
「お腹、空きましたね」
将は笑いを含んだ声で、三上に同意した。三上は、やれやれとため息をついて、ズボンの草を払う。
「近くに農家があると思うから、食い物を買ってくる」
僕も、と言った将に、三上は心ならずも無心した。
「金、貸してくれるか」
将は、ありません、と首を振った。
「五ドルは持ってるだろ」
「あげました」
「誰に」
「あの親子に」
三上は自分の空腹も一時、忘れた。
「お前もやったのか」
「はい」
「俺もやったんだぞ」
「ええ。見てました」
「それで、まだやったのか」
「コーエンに着くまで、足りないかと思って」
きょとんとする将。三上は手を額にやって、ため息をついた。結局、互いが互いの金を当てにして、親子連れにそれぞれ渡してしまったらしい。滑稽な話だが、笑いは今のところ、空腹を埋めるには役に立っていない。
「俺たちは、どうするんだ」
「――あなたも全部、あげたんですか」
「当たり前だ」
将が感心したように三上を見た。三上は腕を組んで、将を睨む。
「なんだ、俺がケチると思ったのか」
「そんなつもりじゃありません」
「そうだろうが。ったく、どういう金銭感覚だ。ほいほい、人に金をやるんじゃねえよ。金持ちの施しか?」
「どういう意味ですか」
将の面と声が気色ばんだ。
「だいたい、ことあるごとに、金持ち、金持ちって、それは逆に差別だと思います」
「どういう差別だ。お前が金持ちなのは事実だろうが」
空腹ゆえにか、馬鹿馬鹿しい言い合いになりかけたが、三上はさきほどの気まずさを思い出し、堪えた。
「……親父に連絡しろ」
苦々しく、呟く。
「どうして」
将の声が固くなった。
「俺もお前も文無しだ。食い物もない。コーエンまで、どうする」
「記事はどうするんですか」
「命の方が大事だ」
将の面に、恐怖が走ったのを三上は気づかなかった。月明かりも、そこまでは露わにしない。コーエン行きを諦めるような言い方の三上が、将には悔しい。これで別れるのかと思うと、たまらなくなった。
父親にもよく似た、断固たる口調で宣言する。確かに、風祭家は頑固者の血筋だった。
「餓死したって、僕はコーエンまで、絶対にあなたと行きます!」
三上はうろたえた。きっぱりと言われたことに、なぜかひどく動揺した。仕草には出なくても、言葉に出た。
「俺とか?」
意味もなく聞き返す。そうかとも、勝手にしろとも受け流せなかった。
将の方は三上に聞き返されたことで、うろたえた。とんでもないことを言ったのだろうか。本心を言っただけだというのに、それは口にすべき事ではなかったのだろうか。
しかし、口にした以上、否定しようがない。うなずいた。
「……はい」
「お前の家の醜聞を記事にするんだぞ」
「分かってます」
将は言うと、それ以上、三上を見つめていられなくなった。お休みなさいと小声で言って、彼に背を向けた。自分の干し草の方へ行く。
三上は黙って、将を見ていた。将はこちらに背を向けたまま、横になった。ごそごそと身動きして、身を丸めている。
くしゅん、と小さなくしゃみの音が聞こえた。三上は立ち上がった。将の方へ歩く。将が、足音に気づいて、身を強張らせた。
三上は将の脇を通り過ぎ、放り投げたままのトランクと共に置いてあったコートを手に取った。
「朝は冷えるから、使え」
放ったが、将は体を起こさず、戸惑ったように三上を見上げていた。やがて、その手が伸びたが、同時に三上も将に近づいた。
三上の手がコートを先に取る。将の側に膝をつき、その体にコートを掛けてやった。将の体も呼吸も瞳も、恐れではなく、何かを無意識に待つようにして、震えていた。
三上は、薄く開かれた将の唇に、吸い寄せられるようにして、自分の唇を近づけた。
将の目が大きく見張られる。三上の目が細められる。どちらの瞳も、このきっかけに驚いていた。唇の気配が、熱く柔らかいはずのそれが、すぐそこに感じられた。
あと少し――そう思った瞬間、三上は身を引いた。
素早く体を起こし、将から離れ、背を向けた。柵の側で、ポケットを探り、煙草を手にした。くわえて、マッチの火を近づける。深く吸い込み、間を置かず、煙を吐き出した。
目の前に広がった煙が、さきほどまで自分の中にあった感情のように思えた。滾るほど熱い感情が、体中に満ちている。全て、吐き出すつもりで、煙草を吸い続けた。
将は三上の背中を見ていた。白い靄が、彼の回りに漂っている。心臓が、これ以上ないくらい、早く打っていた。三上は離れていったが、彼の気配が去ってくれない。なぜだ、と思い、三上のコートをかけているからだと気づいた。昨夜と同じで、彼の匂いに包まれて眠るのだ。
頬が熱くなる。コートを剥がそうとした手は、力無く体の横に置かれたままで、ただ下の干し草を強く、掴むだけだ。三上だけを見つめ続け、苦しくなり、将は目を逸らした。そうしても、側で見つめた彼の顔は消えるはずもなく、いっそう強く胸に刻み込まれた。ほろ苦さい思いも伴っている。
三上は煙草の火を消すと、自分の干し草の方へ戻っていった。将は三上が立てる物音に耳を澄ましていた。
短いため息の後、三上が言った。
「明日は、早いぞ」
「早起きします」
「そうしてくれ」
三上は寝返りを打った。
将はコートの中で、さらに身を丸くした。
――二人が相手の気配に耳を澄ましている内に、眠りが訪れた。どちらがどちらの寝息を聞いたのか、定かでなく、日が昇るまでに見た夢に、相手の面影があったのかも定かではない。
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