或る夜に(5)


 バスはのどかな田舎道を走っている。昨夜、越えられなかった橋も無事、渡り終え、車内では、ギターを使っての演奏が始まっていた。朗らかな歌声も混じっている。
 そんな中、男はさきほどの休憩所で買った新聞を広げていた。つまらない旅だ。これは、と思って近づいた相手も、さっさと別の相手に乗り換えた。男前だが、ずいぶんと鋭い目つきの男にだ。昨夜も同じコテージに泊まっていたし、今朝も、二人揃ってバスに乗ってきた。
 男は鼻を鳴らした。あんなガキなど、暇つぶしにもならない。負け惜しみしながら、新聞に目を落とす。
 ――大富豪の令息、いまだ見つからず。
 記事自体は、数日前からタブロイド紙で大きく扱われているものなのだが、こんな田舎の地方紙も、ついに取り上げたらしい。見出しの下には、六桁の数字が記されている。数字の1の先頭には、もちろん、$マークがあった。発見者、もしくは情報提供者に与えられるのは十万ドル。
 男にしてみれば、途方もない額だ。さすが大富豪とその息子と、男は大きく載った写真に、当然のごとく目をやった。
 鮮明な写真だった。撮影の際の笑い声が聞こえてくるような錯覚を起こすほど、よく撮れていた。
 心に直接、訴えかけてくるような黒い瞳と明るい笑み。男は写真をじっと見た。穴が空くほど見つめて、何かを思い出すように、目線を上に上げた。知っている顔が、頭の中で重なった瞬間、はっと、座席から乗り出して、後ろを振り返った。
 昨日、目を付けた客が、バスに流れる歌声に、楽しそうな笑みを浮かべて聞き惚れている。隣には、例の鋭い目の男が座っていたが、今は、少し眠たそうだ。
 男は、それを輝きというなら、確かに明るい目になった。唇に、してやったりと言いたげな笑みが浮かぶ。前へ視線を戻し、隣の客が図々しくも、自分の新聞を覗き込んでいるのに気づき、新聞を畳んだ。


 ――三上が、ふと横を見ると、将は相変わらず、楽しそうな様子だった。バスに揺られて感じていた眠気を捨てて、足を組み直す。
 曲が終わり、車内に拍手が湧いた。将も手を打ち合わせた。三上も手を叩く。
「すごく上手ですね」
 将は座席の隙間から、バスの最後部でギターを弾いていた男たちの姿を、のぞいた。
 ギターは二つ、だが、歌声は四つ。共に口ずさんでいる乗客もいるし、楽しそうに聞いている数は、もっと多い。客は誰一人知るよしもないが、運転席ではハンドルを握る運転手も歌を口ずさんでいた。背後からの楽しい雰囲気は、それだけで心を浮き立たせる。
「酒場を流して稼いでる奴らだ」
 三上は将に教えてやった。
「じゃあ、ずっと旅してるんですね」
「そうだな」
「――君は、金細工師の娘……」
 今度はバイオリンが奏でられる。音に乗せて、歌声も続いた。
「俺は百姓のせがれ」
 二つ目の声が重なった。
「さあ、一番いい服を着て、踊りに行くと言ってくれ。そして二人で駆け落ちしよう」
 男四人の声が綺麗に重なり、歌を知る客の声も加わった。洗練されているとはいえない歌声、だが、それは居合わせた人々の頬に笑みを浮かばせるほど、明るく朗らかな声音だった。
「遙かな草原を越えて、森の小径を抜けて――」
 三上は将を見る。朝、見たときと同じように将の目は、活き活きと光っている。
「君は心から俺を愛し、その真心は俺に信頼の情を与えてくれる」
 三上と目が合うと、将は笑みを深くした。三上も、唇に淡い優しい笑みを浮かべた。
「だから優しい恋人よ 俺と逃げよう」
 男が一人立ち上がり、茶目っ気を瞳に浮かせて、甲高い声音で、歌の締めを口ずさんだ。
「――その前に、お母様に聞いてみます。もしそうなさいと言ってくれたなら、私も心を決めます。あなたと逃げましょう」
 言葉が終わると共に、バイオリンの音は小さくなり、客のくすくす笑う声が大きくなる。
 バイオリンの弦が、ぽんと弾かれ曲が終わろうとした直後、耳障りな音を立てて、バスが急停車した。あちこちで、乗客の悲鳴や叫び声が上がる。
 三上は咄嗟に手を突っぱね、席から転げ落ちるのを免れたが、将は座席と座席の間に落ちて、はまりこんだようになっている。
 三上が手を貸したが、将は顔を上げず、肩を震わせている。怖がっているのかと思いきや、くすくす笑っているのだった。
「なに、笑ってるんだ」
「だって、あんまり、ぴったりのタイミングだったから」
 三上もふっと笑って、将を立ち上がらせた。
 バイオリンの弦が弾かれた瞬間、バスが急停止。バイオリンは宙を舞い、別の男の手に受け止められた。持っていた男は、綺麗な尻餅をついている。あの様は確かに見事だった。
 乗客たちは窓の外を見て、何事が起きたかを確かめようとしている。将も座席から外を見ようとしたが、子どもの恐怖に満ちた叫びが、落ち着きかけたバスの中に響き渡った。
「母さん! 母さん!」
 バスの真ん中辺りの席に座っていた子どもが発した声だった。
「母さん、どうしたの」
 将と三上は立ち上がって、そちらへ向かった。
「誰か、母さんを助けて!」
 子どもが揺さぶっても母親はぴくりともしない。子どもの膝の上に崩れたきり、動かないのだ。
 三上が側に来ると、子どもが泣き出しそうな目を向ける。三上は母親の体を、子どもの膝から座席に寄りかからせてやる。母親の顔色は真っ青だった。首に絞めているスカーフをほどき、襟元を楽にした。後ろの乗客が、自分の帽子で彼女を扇いでやっている。
 将が乗客サービスの水をコップに満たして、やって来た。三上は場所を変わり、子どもの手を引っ張った。将は女性の唇にコップを近づけ、水を飲ませようとしている。
 その光景を見つめる子どもの目からは、ぼろぼろと涙が落ちた。
「ほら。お前がしっかりしなきゃ、駄目だろうが」
 三上は子どもの肩を、叩く。痩せて、尖った骨が手のひらに感じられた。
「だって、母さんが」
 しゃっくり上げている。
「大丈夫だ、すぐ治る」
「な、なにも食べてないんだ」
 子どもが顔を擦る。不安と恐怖が、将よりももっと小さい体中に満ちていた。
 三上は親子が乗ってきた乗り場を思い出し、眉を顰めた。
「金はないのか」
「切符代、だけで、全部、なくなって」
 体の脇で子どもが拳を作った。震えながら、握りしめられている。
「こんなバス、乗らなきゃよかった」
 目から溢れる涙が粗末な服に染みを付けていく。三上は困ったように左右に目をやった。みなは、倒れた母親の方にかかりきりのようだ。ポケットを探る。小銭は使い果たし、あとは紙幣が数枚ほど。
「……コーエンでだったら、働けるからって、母さんが……」
 涙声が途切れる。またごわごわしたの袖で目を擦る。目の回りが真っ赤だ。
 将が戻ってきた。座席に手をかけ、三上の言葉通り、泣くのを必死で堪えている子どもの顔をのぞき込む。
「お母さん、気がついたよ。何か食べたら、大丈夫だろうって」
 三上はポケットを探り、紙幣を子どもの手に握らせた。
「次の街で、何か食え。お前もだぞ」
「駄目だよ。母さんに叱られる」
 男の子は首を振り、三上が手渡した紙幣を返そうとする。将がその手をそっと握った。
「お母さんが、また倒れたら、どうする?」
 子どもが涙をいっぱいにためた目で、二人を見た。
「おじさんたちは?」
「たくさんある」
 なおも返そうとする男の子の手を、三上は押し返した。
「だから、心配するな。お袋の側にいてやれ」
 子どもが紙幣を握りしめた。
「ありがとう……おじさん、ありがとう」
 将が肩を抱いて、子どもを母親の側へ連れて行く。何だ、ああしてみると、年相応に見えるじゃないかと三上は考えた。子どもが振り返ったので、ちょっと笑ってやる。
 落ち着いた母親と子どもの姿に、乗客から声がかけられる。その輪の外で、三上は渋い顔になった。少し、困ったことになるかもしれない。
 運転手も親子を心配してなのか、いっこうにバスは動こうとしなかった。三上が前を見ると、運転手が外に出て、うろうろしている。口々に、よかった、よかったと、言い合っている乗客の間を抜けて、三上も外に出た。
 すっかり暗くなった外の道がぬかるんでいる。運転手は水たまりの中に、片足を突っ込んで、タイヤを見ていた。三上の後に続いて降りてきた男が、おや、と声を上げる。
 泥の中に、バス全体がすっぽりとはまり込んでいた。しかも、パンクまでしているようだ。
「電話で、連絡したらどうだ」
 三上が言うと、運転手は情けない顔になった。
「電話があるところまで、十六キロあるんです」
 三上がねっとりした泥を見下ろしていると、続いて降りてきた男につつかれた。
「よお」
 三上は男を見て、不快な表情をあらわにした。将にちょっかいをかけていた男だ。気安く呼ばれる筋合いは、まったくない。
 男はにやにや笑いながら、脇に抱えていた新聞を手にした。
「これを見ろよ」
 顔に勝ち誇ったものが浮かんでいた。
「旅行をしていると、世間に付いていけなくなるときもあるしな」
 謎めいた言い方が、無視するのをためらわせた。三上は新聞を受け取り、広げる。
 すっかり見慣れた、しかし見飽きない顔立ち――わずかなたじろぎが三上に見られたが、それは、すぐに消えた。逆に唇に、醒めた笑みが浮かぶ。
「十万ドルだぜ」
 男の目に、ずるがしこい光がまたたいた。
「話に乗らないか。山分けしよう」
「どうしてだ?」
 三上は笑いを収める。
「二人がかりの方が心強いだろう。横取りなんてしないさ」
 三上は男と数秒、見つめ合った。
 男は笑っている。三上は真剣さと冷たさが同居する面で、静かに訊いた。
「何が望みだ?」
 男の答えは、明確かつ素早かった。
「五万ドルよこせ。半分ずつだ。俺が教えたんだから」
 当然だと男は胸を張り、笑みを消さず、三上を見上げている。三上は唇の両端を蔑むようにつり上げた。
 タラップから、他の乗客が外の様子をうかがっていた。小さな物音に三上は振り返り、左右を確かめた。
 顎をしゃくり、男をうながす。
「他の場所で話そうぜ。邪魔がこないところでな」
 男が満悦そうに、にっこり笑う。
「あんたが、あの子の連れじゃないってのは、とっくに分かってたんだ」
 三上は腕を引いて、男を道から離れた藪の中に連れて行った。バスの強烈なライト以外、光源のない雑木林の中で、改めて男と向かい合う。
 口火を切ったのは三上だった。
「お前みたいな奴を捜してたんだ」
「そうだろうな、俺なら信用できる」
「使えそうだ」
「言い方が気に食わないな」
 男は偉そうに言ったが、三上は構わず、続けた。
「銃は?」
 男が目を見張った。
「銃だよ、銃。持ってるのか」
 三上は男のスーツの胸元やポケットを上から叩いた。
「い、いや……」
 男が首を振って、三上から一歩、後ずさった。
 舌打ちして、三上はバスの方を親指で指す。
「仕方ねえな。俺のトランクに入ってる機関銃を使え」
 男が更に一歩、後ろへ下がったが、三上はその距離を詰めた。
「いいか。この先の検問で、お巡りを殺せ」
 殺せ、という言葉をはっきりと、口にする。
 何のためらいもない三上の口調と様子に、男が顔を引きつらせた。
「巧く始末したら、五万ドルだ」
 三上の口はなめらかに言葉を紡ぐ。いつもやり慣れていることを話しているのだと思わせるように。
「殺し屋にも引き合わせる」
「殺し屋?」
 掠れ気味の男の声に、三上は、まだ分からないのかと睨んだ。
「渋沢だよ。この仕事のボスだ」
「あ、あんた、なに、なにを……」
「たかだか、十万ドルの懸賞金で満足しろっていうのか」
 三上は新聞を広げ、将の写真を爪で、軽くはじいた。
「こいつなら、百万ドルは軽く稼げるぜ。親は幾らでも身代金を払うだろうからな」
 男がうなずいた。大きく、大きく、うなずいた。
「そうとは知らなかった、いや、本当に知らなかった、まったくだ、本当だ……」
 男はぼんやりした目で呟きながら、バスへ戻ろうとする。三上は両肩を掴んで、引き戻した。
「怖じげづいたか」
「いや、いや、お、俺には女房も子どもいて、だから、その……」
 三上は襟元をつかみ、低い声を出した。
「がたがた抜かしてんじゃねえよ」
 男を揺さぶった。男の目玉が、揺さぶりに合わせたかのようにくるくる動く。
「それとも、お前、他の奴にバラそうってか? ああ?」
 襟元を締め上げる。男が、ぐえっと呻いた。
「おれ、は、俺は、別に……」
「今更、何言ってんだ。ただじゃ、すまさねえぞ。もう、知りすぎてるんだ」
 三上のぎらつく瞳に、男は、なんて奴と知り合ってしまったのだろうと、数分前の自分を呪った。三上の手は、男がどれだけ、もがいても構わずに襟を締めつけてくる。その気になれば、首もあっさり絞められるだろう。
「しゃ、喋らない」
 三上はせせら笑う。
「信用できない。口を塞ぐしかねえよ」
 そろそろと指が伸びて、男の首にかかった。
「ここで始末する」
 飛び上がれるなら、男はそうしていたに違いない。残念だが、三上の力に押されて、無理だった。後は、口でこの状況を変えるしかない。
「し、信じてくれ、誰にも話さない。秘密は守るよ……」
 三上は男をねめつけ、男が一度体を震わせると、手の力をゆっくり抜いた。
 男が安堵する前に、訊ねる。
「名前は?」
「ロイズ、ロイズ・シェプリー……」
「住所は」
「キームアイ」
「子どもは」
「まだ、赤ん坊で、お、女の子なんだ」
「可愛いんだろう?」
 男が何度も首を上下に振る。
 三上は黙って、ただ唇を冷たく笑ませた。男の顔が夜目にも白くなる。
「まさか、まさか、あんた子どもを……」
 そう言う男の襟元を、三上はふたたび締め上げる。
「喋るなよ」
「もちろんだ」
 男が激しく首を振る。
「もし……」
 言いかけた三上に、悲鳴のような声が上がる。
「本当だ。絶対に喋らない」
 三上は男を見据え、言った。
「藤代を知ってるか」
「藤代……し、知らない」
「使える奴だったが、大きなヘマをしてな」
 三上が、ふっと息を吐く。
「喋ったのが運の尽きだ」
 哀れむように首を振る三上を、男が目を剥いて、見つめている。
「やつのガキと愛人が、脳天を割られて殺された。もちろん、奴もな――」
 男がうなずいた。首が折れるようなほどの勢いだ。
「ひどい話だ。俺は言わない。絶対に言わないよ。こ、言葉ってのは不幸を招くからな、はは、はは――」
 乾いた声で笑う男の目が歪んだ。今にも泣き出しそうだ。
「一言も、言わない。子どもも女房も可愛いんだ」
「それを忘れるな」
 三上は男を、突き飛ばすようにして離した。
「とっとと失せろ」
 男の足が、どちらに進めばいいのかと、ふらふら揺れた。
「行け。バスには近づくな」
 男は林の方へと腰を低くして、後ずさりしながら、手を合わせた。
「お願いだ。後ろからは撃たないでくれ」
 三上が顔を背け、手をおざなりに振った。男は草藪に足を取られ、何度も前へつんのめりながら、林の奥へと走り去ってしまった。
 その姿が見えなくなり、足音も聞こえなくなると、三上は鼻で笑い、急いでバスに戻った。



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