或る夜に(4)


 シラー州の広大な小麦畑の上空を、小型飛行機が飛んでいた。機体には風祭家所有であることを示す紋が入っている。
 機内で秘書と向かい合い、護は小さなテーブルの上で、顔をしかめながら、葉巻を吸っていた。テーブルには灰皿と地上との連絡用の無線電話が置かれている。苛立ち混じりに、すぱすぱと煙を吐いていると、前方のドアが開いて、操縦士の助手が出てきた。
「連絡です」
 手に紙を持っている。秘書が受け取る間に、護は、なんだ、どうした、何を言ってきたのだと、早口で訊ねた。
「鉄道とハイウェイ二十カ所の監視を続行中、しかし、ご子息は発見できず――探偵会社からです」
 葉巻を上下に振り、護は腹立たしげに言った。
「また同じ返事か」
 護は内部用の連絡回線で、操縦士を呼び出した。
「なんでしょうか」
「コーエンへ早くつきたい。急いでくれ」
「これで、精一杯です」
「いいから、急げ」
「了解」
 操縦士との会話の後、護は何百回めかのため息をついた。
「ご無事だとよろしいのですが」
 秘書が窓の外を見つめながら、気遣わしげに言う。
 護は怒りを噛み殺すように答えた。
「将は無事に決まっている。何が起きるというのだ」
「い、いえ。別に……」
「では、口を閉じておけ」
「はい、申し訳ありません」
 秘書がうなだれた。護は葉巻を吸い、ため息と共に煙を吐き出した。



 ――他人の体臭に包まれて眠るのは将にとっては初めての体験だった。父の葉巻とも記憶にある兄の香水の匂いとも違う。煙草と汗と酒の匂いが、うっすらと漂う三上の寝間着は、目を閉じても彼に見られているようで落ち着かなかった。
 その一方で、安心してしまう心があるのも否定しない。記事を書くことを条件に助けると告げた男なのに。なぜだろう、どうしてだろうと、つらつら考える内に将は、寝息を立てていたのだ。
 目を覚ましたのは、上空を飛ぶ飛行機の音が聞こえたからだった。父が急ぎの用事で使用する飛行機のエンジン音に似ていた。
 将は目を開ける。今、眠ったと思うと、すでに朝だった。そう感じさせるくらい、深く眠り込んでいたらしい。部屋全体が光に満たされて、明るかった。陽も昇りきっている。
 見慣れたベッドの天蓋が見えなかった。壁紙の色も、記憶にあるものとは違うので、将は眠気が残った意識で、不思議に思った。
 将の部屋の壁紙は淡いエメラルドグリーンに金の文様が入っており、天井にも細かな細工が施されているのだ。剥げた部分もなかったはず。メイドを呼ぼうとして、将は昨日からの出来事を全て思い出した。
 将は起き上がると、靴も履かずに床に降りたって、毛布の陰から飛び出した。
 部屋には誰もいない。驚いている間に、ドアが開き、三上が入ってきた。手に紙包みを持っている。
「やっと起きたか。もう八時だぜ」
 三上の方は髪に櫛を通し、髭も剃っている。背広だけを椅子にかけただけで、すでに身支度を整えていた。ネクタイもきっちり首元で結ばれている。
 紙包みの中から、三上は何かを将に向かって放り投げた。将は両手で受け止めた。歯ブラシだ。
「――ありがとうございます」
「朝飯にするぞ。早く着替えろ」
 将は自分の濡れていた衣服にきっちりとアイロンがかけられているのに気づいた。
「あの、僕の服に……」
 三上は顎をしゃくった。
「シャワーは二軒目の表だ」
 将は部屋を見回し、驚いた。
「外にあるんですか?」
「いい家のシャワーは、みんな外にあるんだ」
 将は、ちょっと困ったように自分の姿を見下ろした。三上は自分のベッドから、ガウンを取り、将に渡す。
「ありがとうございます」
「礼はいいから、行け」
 将はまだ歩き出さない。何だ、と聞けば、スリッパがないんです、という。三上は自分のスリッパを引っ張り出してやった。やれやれと思うのに、将の小さな足を見たら、おかしくなった。あの小さい足が一人前に、スリッパを履きたがっているとは。
「すみませんでした」
 大きなスリッパを引っかけて、将はぱたぱたと外へ飛び出していった。寝間着もスリッパも大きすぎるなら、ガウンも同じだ。裾を両手で持って、朝の光の中、歩いていく将を見送り、三上はドアを閉めた。
 

 嵐の後のこと、空気は洗い流され、涼しく、さわやかだった。まだ葉に水滴をつけた木々や水たまりが、太陽の光に輝いている。
 どう見てもサイズの合わないパジャマとガウンを着た将の姿に、他の客が面白そうな目を向けているが、将自身はまったく気づかない。鷹揚と泥だまりや水たまりを避け、昨夜は暗くて見えづらかったキャンプ場を見回していた。
 シャワー小屋まで行くと、行列が出来ていた。将は最後尾にいた男性に声をかけた。
「シャワーはここですか」
「他にあるのかい」
 その通りだ。将は赤くなりながら、行列に並んで順番を待った。並ぶのも、順番を待つのも、将には初めての経験だ。いらつくどころか、物珍しくて仕方ない。
 みなガウン姿で、女性などカーラーをつけたまま、並ぶ者もいる。眠そうに大口を開けてあくびする者、朝からかしましく喋る者などもいて、賑やかな行列だった。小鳥があちこちで囀り、早起きなこども達の歓声も聞こえてくる。
 将は自分の番が来るのを待つ間、行列に並ぶ男性客や女性客から、次々に話しかけられた。だぶだぶのガウンとパジャマを着た将は、いっそう幼く見えて、ついついみな、声をかけてしまうらしい。シャワーを浴び終えた者も、話の輪に誘われて、足を止める。
 遠慮のない質問に、面食らいつつも、将は出来る限り、返事を返し、自分からも質問を投げかけた。その、どこかずれた言動と生真面目な口調に、居合わせた人々はついつい吹き出してしまう。シャワーの行列は笑いと共に短くなっていった。
 シャワーを浴び終わる頃には、将はすっかり、他のバス乗客や、キャンプ場の客たちと仲良くなってしまい、きらきらと目を輝かせながら、三上の待つコテージに戻ってきた。
「遅かったな」
 シャツの袖を肘まで上げて、三上はフライパンを火にかけていた。
「すごく楽しかったんです。いっぱい、いろんな人と話して、面白い事を、たくさん教えてもらったんです。」
 昨日の確執のことなど忘れたように、将は三上に、シャワーを待つ間に起こった出来事を勢い込んで、話し始めた。初めての体験に、やや興奮気味で、どの話の時にも、嬉しそうににこにこ笑っているのだから、三上には眩しい。将は臆面もなく、顔中で笑い、それが、また可愛いのだ。頬をつつききたくなるくらい愛らしい。
 三上が将を見て、話に相づちを打っている間に、熱くなったフライパンから煙が立ち上り出した。三上は気づいた後、服を着替えろと言って、将を追い払った。
 落ち着こうと煙草に火をつける。二口ほど急いで吸うと、煙草を口にくわえて、フライパンに卵を割り入れた。
 将が服のボタンをかけ終えてテーブルへ戻ってくると、三上は皿に卵を移していた。卵は一個しか買わなかったので、量の少ないスクランブルエッグ、後はコーヒーとドーナツ。それだけだ。ミルクもない。売店にはあったが、三上は買わなかった。彼自身の懐も、風通しがよくなってきているのだ。
 将が卵から上がる湯気に、ほほえんだ。
「おいしそうですね」
「早く、食べろ」
 小さなポットを持ち上げ、三上は二つのカップにコーヒーを注いだ。将が椅子に座る。三上は灰皿に煙草を置いて、自分も腰掛けた。将は塩をスクランブルエッグにかけるとフォークで掬い、口に運んだ。
 三上も、卵に塩をふり、食べた。
「……僕が家を出たのを、馬鹿らしいと思うでしょう」
 将が三口目のスクランブルエッグを飲み込んで言った。
「特ダネ向きではあるな」
 三上はカップを持ち上げて、熱いコーヒーを啜る。苦みが強く感じられたので、砂糖を少し入れた。
「甘やかされて育って、変な反発心と意地から父親に反抗してるとも?」
 三上は将を見ないで、ドーナツが二つ盛られた皿を手元に引き寄せた。将に勧める。
 将はドーナツを取って、スクランブルエッグの横に置いた。
「きっと、僕はその通りなんです」
 三上はドーナツを半分に割った。
 将は、三上に構わず、話し続けている。ちょっとしたきっかけで、心の枷が外れ、誰かに何かを話したくなってしまうこともある。記事に出来るかも知れないし、将も話したがっているようなので、三上は止めなかった。
「でも、兄さんは違うんです。僕よりもずっと頭が良くって、いろんなことが見えていて……だから、家を出て、一人で生きていこうとして」
「それで、父親に勘当された訳だ」
 将の眉が曇った。
「兄さんは……」
「ま、お前よりは、立派だな。一人で、やっていってるんだろうから」
 三上の言葉に、将はそっとほほえんだ。その笑みは、自分が深く愛している者が、他人に認められたときに感じる喜びだけを見せていた。
 三上はスクランブルエッグを、フォークで集めた。乱暴に動かしたので、皿がかちゃかちゃと音を立てる。どうして、俺は苛立っているのだろうと自分でも不思議だった。
 将の方はドーナツを半分に割り、コーヒーの入ったカップに浸している。
「――どこで、そんな食べ方を習った?」
 三上の言葉に、将はドーナツを浸したまま、いたずらが見つかったような子どもの顔になった。
「さっき、教えてもらったんです」
「下手くそ」
 三上は自分のドーナツを手に取り、コーヒーに、素早くつけた。
「さっとつけて、さっと食べろ。それがコツだ」
 食べろ、のところで、ドーナツを口に放り込む。
「つけすぎると、崩れるだろうが」
 将がうなずいて、コーヒーを吸ったドーナツを食べた。
「こういうのは、みんなタイミングなんだよ。覚えとけ」
「はい」
 将が真剣な顔でうなずき、またドーナツをコーヒーにつけた。すぐに引き上げ、口に運ぶ。
「まあまあだな」
 三上はうなずいてやった。将が嬉しそうに笑った。三上もつられて微笑した。



「そこまでして、なぜ、見つからない?」
 そう言った護の拳の下には、地図がある。さきほどまでは、この地図を睨みながら、将の捜索を引き受けている榊と言い合っていたのだ。
「将がいるのはリマジとコーエンの間だぞ」
「捜索中です」
「たかだか、三千五百キロだ。将が小さいとはいえ、一メートルは超えている。見つかるはずだ」
「しかし……」
 さすがに榊も二の句が継げない。これが、ひとたび、首を振るなり、顔をしかめるなりすれば、この国の経済状況にひとかたならぬ影響を与えられる人物なのだ。
 幾分、呆れた榊だが、彼もまた護の心痛と苛立ちが、よく分かる一人だった。それは、榊自身も将に会ったことがあるからだ。
 将は、護の血を受けているとは信じられないくらい、おっとりした優しげな少年だった。顔立ちや振る舞い方が、護の亡き妻によく似ており、それが、また護や兄の功の愛情を一心に受ける理由の一つでもあるだろう。
 数度ほど、パーティの席で出会っただけだが、独身の榊ですら、将が実の息子でもあるかのような錯覚を起こすくらい、人の心を惹きつけるものがあった。とくに、将の笑顔には、逆らいきれない魅力がある。政財界の食えない老人連中に、将を可愛がっている者が多いのは、功が父と不仲であったのと同じくらい有名な話である。
 その功も三年前、父との確執の末に家を出て、行方が知れない。どのような激しい言い争いがあったものか、護は内外に向けて、あれは勘当した、もう自分の息子と思ってくれるなと言い渡し、それきり、一言たりとして、功のことには触れなかった。内密の捜索でもするかと榊は待っていたが、護は功を探すことはしなかった。
 だが、長男の勘当後、護の鬢には白髪が増え、よりいっそう、将を可愛がるようになったのは周知の事実だ。とにかく、将を自分の目の届く範囲にいさせたがり、手元から離したがらない。それは、周囲からも、危ぶまれるほどの過保護ぶりだった。
 将自身は、いい意味でも悪い意味でも、そのような父に逆らうような人物だとは思えなかったが、しかし、やはり彼も風祭家の人間だったのだ。こうと決めたら、てこでも動かない頑固さと、何一つ知らない世界へ、後先は考えずに飛び込んでいく苛烈さと勇気が、あったということだ。それは、同時に愚かさでもある。
 将のような容姿と性格の持ち主が、無事にコーエンまで行けるだろうか。まして、万が一、辿り着けたとしても、あの大都市でどのようにして、功を探すつもりなのだろうか。
 榊も嘆息した。酒を手にしたい気分だ。
 やがて苦みを味わうかのように、護が歯の間から声を出した。
「功は見つかったのか」
 榊は困ったように首を振る。
「手紙は確かにコーエンから出されていますが、半月前に国外へ出ています」
 榊は、功が将に出した手紙の写しを読んでいた。
 あまり長い手紙ではないが、コーエンに、しばらくいること、今は会えないが、いつか必ず、家に帰ってくること、そして何より、遠くからでも将を深く思い、護を気遣う文面が、印象深かった。
 少なくとも、三年の歳月は、功を落ちぶれさせてはいない。彼には、彼の思惑があって、家を出たのだ。そう確信できる手紙の内容だった。
 それを護も感じていたのだろうか。功に対する口調に侮蔑はない。苛立ちだけがあった。
「コーエンでの住所も分からないのか」
「ホテルに滞在していたところまでは掴めています。ずっとホテル住まいを続けていたようですね」
「そうか」
 護は、ふと遠い目になった。
「……あれは、当てもないのに、功を探すつもりなのか」
「家にいるよりは、近づけると思われたのでは」
 護は榊を見たが、何も言わなかった。重たい視線だった。葉巻を手にしかけ、護は秘書を部屋に呼んだ。
「ラジオの手配を頼む。全国ネットだ」
 榊は口を挟みかけたが、護は手を上げて、それを止めた。
「懸賞金の額も引き上げる。将を見つけた者に十万ドルだ」
 榊は口を閉じていた。そうさせないだけの迫力を孕み、護は言葉を続ける。
「それから、新聞の手配だ。地方紙にも手を回せ。記者連中にも、せいぜい愛想良くしてやれ」
 護はシガーボックスに近い手を戻し、デスクに飾ってある写真立てを手に取った。中の写真を取り出す。
「将の写真だ。新聞社に電送しろ。情報を入手するんだ」
 秘書がうなずいて、部屋を出て行く。護はやっと葉巻を手に取った。指でもてあそびながら、断固たる口調で言った。
「やるなら、徹底的にやらねばならん」
 ――確かに徹底的ではあった。



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