或る夜に(3)


 コーエン行きの新たなバスが到着した頃、天気は崩れ、激しい雨になっていた。
 夜の雨は冷たい。運転手は乗降口で乗客に傘を差しかけている。三上も大粒の雫に打たれながらバスに乗り、窓際の席へ座っていた。
 さて、将は来るだろうか。賭けのつもりで待ってみた。乗り込んでくる客に、それとなく視線を送っていると、あの小柄な体がステップを昇り、通路に現れた。
 しっとりした黒色の髪と目、それを引き立てる白い頬に寒さの為、赤みが差している。その様子は、新聞の影からこっそりのぞき見していた三上でも、感心したくらい、魅力的だった。媚びなどまったくないのに、人の心をざわめかせるものがある。
 将は自分に向けられる賛嘆の視線には気づいていないようだったが、三上の姿を見つけた途端、心細げな面に、一筋の朱と意地が現れた。
 三上が片眉を上げると、将は顔を背ける。空いた座席を探しているが、なんとも皮肉なことに、三上の隣か、通路を挟んだ二つの席しか空いていない。将は通路を挟んだ窓際の席を選び、そこに腰掛けた。
 二人の間には、空席二つ分の距離しかない。将は三上を見たが、三上はまったく無視して、新聞をめくる。
 将が最後の乗客かと思われたが、ぎりぎりになって、くたびれた背広から雫を飛ばしながら、男が乗ってきた。席を探し、三上の隣と将の隣を見比べ、唇ににやけた笑みを浮かべると、将の隣に腰を下ろした。
 将は窓の外を眺めていたが、隣に人が来た気配に、そちらを向いた。隣席となった男に、軽く会釈して、また窓の外へ目をやる。窓ガラスに雨の滴が打ちつけているし、車内灯が付いているので、外の様子など、車内からはよく見えない。要するに三上を視界に入れたくないだけなのだ。
 バスが動き出した。こちらを向こうとしない将に男が話しかける。
「一人旅かな」
「はい」
 うなずいたものの将は、まだ窓の外を見ようとしている。
「ひどい降りだ」
 言うなり、男が体を寄せて、窓の外を覗こうとした。窓と男の間に挟まれ、将はとまどった。
「道に影響しなきゃいいがね」
「そ、そうですね」
 男が体を密着させてくる。湿気を帯びた男の体臭や肌に、辟易しながらも、逃げ場がないため、将はせいぜい座席に体を押しつけて、男との間にわずかな隙間を作ることしかできない。
「これは、失礼」
 男は言って、座席に座り直したが、最初よりも、ずっと将に近づいている。時々、動かす男の膝が将の体に当たる。わざとなのか、本当に偶然なのかを計りかねて、将は何も言えないでいた。目線を、なるべく男には向けないようにする。
 将の冷たいというより、静かな横顔に、男はまたも話しかけた。
「長旅は退屈だし、どうだね、隣席になった記念に、一つ、自己紹介と行こうじゃないか。俺はロイズ。なかなか、話し上手だと皆に言われる。もっとも、誰とでも話すという訳ではなくて、相手を選ぶがね。あんたは、なかなか、いい話し相手になってくれそうだ」
 男の長い前口上に、三上は唇の片端をつり上げて、二人の方を見た。
 将は出来る限り、素っ気ない口調になるようにして、男に言った。
「僕は話し相手には向いてないと思います」
「こりゃ、参った。俺と話したくないっていうことかな。次の停留所まで長いし、話したい気分に、いつかなってくれるかな?」
 男は笑いながら言うと、いきなり将の肩に触れた。体もいよいよ、くっつけられる。
 三上は眉間に皺を刻み、立ち上がった。
「こんなバスに乗る予定じゃなかったが、それでも、あんたに会えた。幸運だね」
「離して下さい」
「言葉よりも、分かりやすいと思ったんだが」
 やに下がった顔で、男が将にほほえみかける。将が肩に置かれた手を払おうと手を上げた。頬が赤らんでいるのは、男の手が、肩以上に怒りと羞恥を感じるような場所に触れたからだった。
「――おい」
 頭上から降ってきた不機嫌そうな声に、男と将が顔を上げる。
 三上が男を見据えて、顎をしゃくった。
「俺の連れだ」
「一人旅だと……」
「喧嘩したんだよ。ほら、いつまで、拗ねてんだ。さっさとこっちに来い」
 三上が手を伸ばして、将の手を掴む。将が引っ張られるように立ち上がる。その意図を悟り、将は素早く男の前を通り過ぎて、席を移った。座らされたのは三上の座っていた窓際の方だ。
 男の視線を遮るように、三上が通路側にどかりと腰を下ろし、足を組む。たった今、将を助けたとは思わせない、素っ気ない素振りで新聞をがさがさいわせている。
「ありがとうございました」
 将は小声で礼を言った。
「お前のためじゃない。あいつの声がうるさかった。それだけだ」
「はい」
 将はうなずいて、言葉の接ぎ穂を探すように、うつむいた。睫毛が柔らかく震えている。
 将を盗み見ていた三上は軽く咳払いして、訊ねた。
「バスが来るまで、何をしてたんだ」
「隠れてました」
「屋根があるところでか――ずぶ濡れだぜ」
 三上は言葉半ばで新聞を畳み、またも立ち上がった。網棚に置いたトランクから、タオルを一枚出す。将に放り投げた。
「ありがとうございます」
「手のかかるガキだ」
 将はおとなしく体を拭いた。礼を言って、タオルを三上に返す。三上はポケットにタオルを突っ込み、新聞を読み続けた。
 バスも雨の打ち付ける道路を走り続けている。両側は暗闇ばかりだが、途中、道に明かりが浮かび上がった。
 明かりは上下左右に振られている。バスが近づいていくと、道が柵で遮られていた。その側で明かりを持った警官二人が、レインコートから滴をしたたらせつつ、バスを待っていた。
 バスがクラクションを鳴らしながら、停車する。運転手が席を立ち、扉を開いた。警官が顔を覗かせる。三上も新聞を置いて、乗降口の方へ歩いていった。
「どうしたんだ」
 運転手が訊ねる。警官の一人が、前方を指さした。
「橋が水に浸かったんだ。朝までは通行は許可できない」
 三上はガラス越しに前を見たが、ライトが届く範囲では水に浸かった川は見えなかった。
「乗客はここで泊まりだ。近くにモーテルがある」
 警官の言葉に、運転手は大げさなため息をついた。
 三上はステップを降り、雨に濡れないように気をつけながら、外を見た。
「どこだ?」
「すぐそこに灯りが見える」
 警官が指し示した方角へ、三上は目を細めた。確かに、暗闇と雨の幕を通して、灯りが見えた。
「キャンプ場なんだ」
 うなずいて、三上は座席の方へ振り返る。将がどうしたのだろうと座席から乗り出して、三上や運転手を見ていた。
「おい、ちび」
 将はすぐに反応した。三上に向かって、自分を指さして見せたのだ。分かってはいるらしい。
「そうだ。今夜はここで泊まりだ」
 三上は言うと、帽子を被り、バスを降りた。


 キャンプ場で他の乗客と共に降ろされた将は、三上に言われた通り、案内のための看板近くで、彼を待っていた。
 三上の荷物は将が預かっている。トランクの持ち手から手を離さないようにしているので、指がかじかんでいた。それでも体が冷えないのは、三上がトレンチコートを貸していってくれたからだ。
 コートを肩から羽織り、将は他の乗客たちが不満や心配を交えながら交わすお喋りを、聞いていた。視線は三上から離さない。
 三上は雨宿りしている場所から、少し離れたコテージで、誰かと話している。将からは時折動く影しか見えない。しばらくすると、三上が男と共に、こちらに戻ってきた。
 三上は紙幣を男に渡し、将にうなずきかけた。
「話がついた」
 言うと、三上は将が羽織っていたコートを頭まで被せてやる。トランクは三上が自分で持った。
「転ぶなよ」
 三上の後に続いて、将は雨の中へ飛び出た。コートに出来るだけ、泥を跳ねないようにしながら、コテージまで行った。
 足の速い三上は先にコテージに入り、ベッドを整えていた。
 開いたドアから中へ入り、将は部屋を見回した。コテージにあるのは二つのベッドと間のサイドボード。小さなキッチンが戸口近くに据えられ、その前に粗末なテーブルセットが一つ置かれている。
「なに、ぼうっと突っ立ってるんだ」
 三上が、早く部屋に入れと将を呼ぶ。
「すごいですね」
 コテージには泊まれず、バスの中で夜明かしする客も多いのだ。よく、部屋が取れたと将が素直に驚きと賛嘆を三上に伝えると、三上は微笑した。
「これも才能だ」
 将が同意するように柔らかく笑う。三上は目を逸らし、顎を掻いて、唇をちょっと歪めた。なんてことはない。少し、照れただけだった。
 将は濡れたコートを、三上のタオルで拭っている。ずぶ濡れとまではいかないが、それなりに水気を含んだ服の布地が、将の体に張りついている。瑞々しい、伸びやかな体つきが見て取れる。
 腹立たしいが、将の隣だった男の図々しい気持ちが十二分に分かった。三上は殊更に動き回り、ベッドの頭側にある窓の日除けを二つとも降ろした。
 将はコートは戸口に掛けたものの、中には入らずに、マットの上に立っている。靴の泥を落とすわけでもない。
 迷うように何度か口を開きかけ、やっと言った。
「あの……今更ですけど、僕は、やっぱり、バスで」
「あの野郎もバスで寝るらしいぞ」
 将の頬がぱっと赤くなる。
 やはり、そのことかと三上は思う。感じた一瞬の不快さは、将に必ずしも信頼されていない自分に向けられたものだろうか。信頼など、別にしてもらわずとも結構なのだが。
 将は三上を疑っている自分を恥じながらも、バスでの出来事を思い出し、鳥肌立てた。
 あの男の手は、肩や腕だけではなく、もっと別の部分まで触れていたのだ。感触を思い出して、将は身震いする。
 しかし、恐怖に従って、ここを出て行こうにも、今夜一晩、どこで過ごせばいいか、そんなことも思いつかない。
 三上はドアの方へ近づき、鍵をかけた。錠の閉じる音に、将が怯えた表情を浮かべる。すぐに消えたが、三上は見逃さなかった。
「さっきの男のことがあるからな。不安なんだろ?」
「いえ、そんな」
 将の顔に、如実に表れた動揺に三上は苦笑した。
「まあ、お前の顔は、その手の奴にはそそられるものがあるしな」
 三上はベッドの上に用意されていた毛布を取り上げた。トランクからロープを出し、二つのベッドの間に張る。そこへ毛布を引っかけた。
「これで、いいだろう。ジェリコの壁だ。崩れない」
 将は、三上が聖書から引用した言葉に、思わず、笑みを浮かべた。やっと見せた気負いのない笑顔だ。
「あれは、ヨシュアの角笛で崩れました」
「そうだな。でも、俺もお前もヨシュアじゃないし、第一、角笛もない。この壁は絶対に崩れないって訳だ」
 軽口を叩いたのなら、緊張もほぐれただろう。三上はトランクから、また一つ、荷物を出した。
「ほら」
 三上は将に寝間着を渡す。自分にはガウンがある。それを羽織れば寝間着代わりになる。
 将はすぐには受け取らず、すまなそうに三上に首を振った。強引に受け取らせても、動こうとしない。
「早く向こうに行けよ」
「でも」
「お前、俺の着替えを見たいのか?」
 三上は言うなり、背広を脱いだ。これは椅子の背にかけて、次にその下に着ていたベストを脱ぐなり、ベッドへ放り投げる。ネクタイを外し、これもまたベッドの上へ。シャツを脱ぐと、記者生活で鍛えられた引き締まった上半身が現れる。付くべき場所にはしっかり付いた筋肉で覆われた体だった。
 自分とは全く違う体格に、一瞬目を奪われた後、将はもごもごと口で礼を言って、毛布の向こうへ行ってしまった。三上はガウンを着て、靴をベッドの下に入れると横になった。
 将も着替えているのか、衣擦れの音が響く。音だけなのが、かえって悩ましい。その手の趣味は自分にはないと言い聞かせた。
 やがて、将が毛布の陰から出てきた。袖と裾を二重三重に折り返し、ぶかぶかの寝間着を体に合わせてはいるが、どうにも出来ない部分がある。襟ぐりから鎖骨や胸元がのぞいているし、折り返した裾と袖が、かえって、細い手首や足首を強調していた。
 三上はからかうことで、何でもない振りを装った。
「思った以上に、ちびだな」
 将は気にしなかった。悔しいが、自分でも十分に知っていることだったからだ。
「――これ」
 将は少ない手持ち金から、三上へ宿泊代金を渡そうとした。三上は受け取らない。
「いらねえよ」
「でも」
 三上は横たわったまま、将を見上げた。
「なあ。お前、コーエンまで行きたいんだろう? 俺が手伝ってやる」
 なぜ、あなたが。そう言いたげな将の目だ。その疑いを肯定するように三上はうなずいた。
「その代わり、お前の記事を独占で書かせてもらう」
 将が初めて気づいたのか、三上の姿を眺め直した。
「新聞記者なんですか?」
「ああ」
 将が三上へ向ける視線に、別の警戒心が浮かんだ。
「息子たちの反乱。父親の圧政に、自由が勝利――そんな記事にしたい」
 いつだって、金持ちのスキャンダルに読者は飛びつくのだ。その言葉は、さすがに三上も飲み込んだ。
「絶対に特ダネになる」
 将は寂しげに笑った。
「本当にすごい人だ。――だから相部屋ですか。僕を見張る為に」
 三上は人の悪い笑みを浮かべた。
「簡単な計算だ。ひと部屋二ドル。二部屋取るよりも、ずっと安い。コーエンまでは節約が大事だ」
 将は黙っていた。不意に、三上に背を向け、寝間着を脱ぎ出そうとする。三上は起き上がって、将の両手首を掴んだ。
「大変、お世話になりました。僕は行かせてもらいます」
 手を封じられても臆せず、将はきっぱりした口調で告げた。
 三上は笑う。
「ああ、ご自由に。ただし、俺も付いていくぜ」
 将が出会ったとき以上の激しい目で、三上を睨んだ。
 たじろぎもせず、受け止めて、三上は最後の手段を使った。
「強情を張るなら、お前の親父に連絡する。喜んで、飛んでくるだろうな」
 将が息を呑む。三上は間髪入れず、たたみかけた。
「簡単な話だ。親父の元へ戻るか、兄貴の元へ行くか――束縛か、自由か」
 将は三上を睨み続けた。三上は唇に微笑を浮かべ、将を見下ろしている。
 将の目の光が弱くなり、うなだれた。全身に込められていた力が抜けたので、三上は将の手を離した。指の跡が付いて赤くなった手首に、三上の胸がちくりと痛んだ。
 それを、将の肩を押すことで、誤魔化す。
「早く自分のベッドへ行け」
 将は三上の手に押されて、ベッドへ戻った。小さな背中が、いっそう細く、儚く見えた。


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