或る夜に(2)


 バスの中は静かだった。タイヤが砂を踏んでいく音もエンジン音も慣れてしまえば、耳にはそう入ってこない。いびき混じりの寝息が座席のあちこちから聞こえてくる。ほとんどの乗客が眠る中、将だけはうとうとしかけては、目を開き、また眠りに落ちかけては、目を開く、それを繰り返していた。
 幾らか眠った方がいいのは分かっているが、どうしても眠れない。不安と緊張が体中を這い回り、眠らせてくれない。
 兄がコーエンにいるのは、兄自身からの手紙で分かっていた。屋敷のあるリマジからは三千五百キロある。初めて行く場所ではないが、いつもは執事に頼み、自家用の飛行機で向かっていた場所だ。もっとゆっくりでいいのなら、船を出してもらうこともあるし、汽車に乗っていくこともあった。いずれのときも、必ず、家庭教師に看護婦、メイドが三人と従僕が四人、それに護衛が八人、将に付く。
 時にはシェフが同行することさえある。それでも父親は不安がっていた。将が一人で出かけるのを――それでも、十数人からの使用人が付くのだが――好まず、大抵の旅行は父親と一緒だった。年の離れた兄は寄宿舎で学生生活を送っていたし、父との折り合いも年々悪くなっていたから、家族三人で旅行することなど、一度もなかった。
 将は自分が、母親の命と引き替えに生まれ、それゆえに父からも兄からも不憫がられていることを知っている。早産だった為、将自身の命も危うかったことも知っている。だから、いっそう父は自分を心配するのだ。もう、十分に成長した自分を。
 父親の不安を、払いのけたいと思っていた。自分だって一人で旅が出来る、どこにだっていけるんだという、ひそかな自負は、しかし、家を出た瞬間、砕け散った。
 いざ、一人で全てをなそうとするとなると、ほとんどの事を何も知らなかった。小切手帳もなく、サインを済ませれば、品物が買えるわけでもない。電車の中では大勢の人間の間に埋もれ、空港までの行き方もあやふやで、肝心の切符の買い方も知らない。やること、なす事、何もかもが今まで、体験したことのないことだった。
 腕時計とネクタイピンを質屋で、現金に換えられたのは奇跡といってもいい。これは、メイドたちのおしゃべりを耳に挟んで、覚えていた知識だ。
 その質屋の主人に空港への行き方を教えてもらったが、運の悪いことに、空港にはすでに父親の手が回っていた。空港職員と話す黒服の男たちの中に、将の護衛を務める男の姿もあったのだ。
 団体客に紛れて、逃げたまでは何とかなったが、それから先、どうすればいいか分からなかった。飛行機が使えなければ列車だろうが、空港に護衛の男たちがいるのなら、駅にだっているはずだ。
 トランクに詰め込んできた荷物の重さが、ずっしりと手に応えた。手に入れた金で買った品物が、たくさん入っているトランクだ。これもすぐに必要なくなるのだろうか。涙ぐみかけたが、ぐずぐずしていると、見つかってしまう。人目を避け、とぼとぼ歩いていると、痩せた老人が声をかけてきた。
 コーヒースタンドでミルクを老人にご馳走してもらいながら、問われるまま、飛行機でコーエンまで行こうとしたが駄目になった、汽車も使えない、そう話した。老人は、世慣れた風に笑い、バスで行けばいいと教えてくれた。バスは料金も飛行機や汽車に比べればうんと安い。その代わり、時間はかかるらしい。
 自分もコーエンまで行くから、一緒に行こうと言われ、将はその老人と共にバス待合所へ行こうとしたが、老人は途中で、こちらにやって来る警官数人を見つけ、慌てて逃げ出した。将が呆然と彼の姿を見送っていると、警官は足音高く、将の横を通り過ぎていった。荒々しい声で老人に呼びかけている。その内の一人が、すぐに戻ってきた。そして、将はその若い警官の口から、あの老人が不慣れな旅行客を騙しては、金品と荷物を奪っていることを聞かされたのだ。
「被害に遭う前で何よりです」
 まだ若い警官は、将を見て、親切そうに言ってくれた。将はお礼を言って、足早に立ち去った。今度は、自分が捕まる番なのかもしれないのだから。
 二重の危険から逃れ、萎えそうな足を動かし、男が教えてくれたバス待合所まで向かった。
 窓口には行列が出来て、誰もが荒々しい口調で、求める切符を買おうとしている。一度、列に並ぼうとして、体格のいい男から荷物ごと跳ね飛ばされた。ちび助、悪いなと謝罪の声が聞こえたが、将は、トランクを引きずって、押し潰されそうな危険から、逃れた。
 そのまま、窓口の近くで立ち止まっていたら、さきほど、将が行列の間から出てきたのを見ていたらしい、スカーフを頭に巻いた老女が話しかけてきた。
「あんた、大変だったね。あいつら、いつもああさ。あんたみたいなちっこいの、潰されちまうよ」
「でも、切符を買わなくちゃいけないんです」
「そうしたら、あたしが買ってきてやるよ。気持ちだけ、お礼をもらえればいい」
 将は言われるまま、老女に金を渡した。待っていた柱からは、老女の姿が見えるのだから、持ち逃げされる不安は薄らいだ。だが、自分よりも背が高いとはいえ、あの老女が、どうやってあの男たちの間に混じって切符を買うのだろうか。
 将が見ていると、老女は男たちをその枯れ木のような腕で押した。
「ほら、あんたら、年寄りが通るんだよ、通しておくれ!」
 あの体のどこからと思うほど、大きな声を出して、老女は列に割り込み、あっという間に切符を買ってきてくれた。
 釣りを礼金として渡し、老女が教えてくれたバス乗り場まで行った。バスに乗るのは生まれて初めてだ。乗った瞬間、全員に不審そうに見られた気がして、怖かった。
 そんな思いで一歩一歩、通路を歩き、ようやく見つけた空席、しかし、そこは一度座れば目的地まで無事、到着出来るような席ではなかった。
 隣に乗り合わせた男は、ひどく意地悪で、すぐに馬鹿にしたような目線を向けてきた。そのたびに将は自分が何も知らないのだということを思い知らされ、悲しくなる。
 荷物を盗られたのを教えてくれたのは、ありがたかった。だが、家族に連絡を取るようにと言われたときは、どきりとした。それはまずい。強引に無視したが、あの男に疑念を抱かせてしまったかもしれない。それでも、再び顔を合わせたときには、何も言ってこようとしなかった。
 とにかく、これ以上、誰にも頼るまい、自分一人で兄の元へ行くのだ。改めて、誓い直し、将は目を閉じた。眠れそうかと思いきや、肩と腿がずっしりと重たくなる。
 鼻にポマードの油臭さと香料の入り交じった臭いが届いた。目を開けば、隣の男性が将に寄りかかってきているのだ。
 しばらく待ってみたが、姿勢が変わる気配はない。待っている間に、潰されそうだ。将は手すりを掴んで、男から逃れようとした。ぐっと顔を通路へ向けて、体も引っ張るようにする。なかなか抜けない。
 頑張る。手を突っぱねて、男の体を向こうへ押しやりながら、自分は通路側へ。顔を真っ赤にして、将が男の横でもがいていると、笑い声が聞こえた気がした。将は周りを見たが、誰もが寝息を立てている。後ろの席の男も目を閉じていた。
 将は少しずつ、体をずらし、やっと太った男の横から逃れられた。支えの将がいなくなると、男の体は沈む。将がどれだけ必死に動いていても、起きようともせず、いびきまでかいていた。
 将は空いた座席を探したが、最後部以外には見あたらなかった。あの休憩所で他の客が乗ってきて席が埋まってしまったのだろう。将は渋々、最後部、あの意地悪な男の隣へ腰を下ろそうとしたが、そこには男の手が、置かれている。
 男の寝顔を見つめ、将は手を持ち上げて、そろそろと膝へ置いた。男は起きない。
 ため息をついて、やっと空いた席へ座る。太った男の横にいるときに比べたら、ずいぶん広く思えた。ほっとしたところに、くくっとまた笑い声が聞こえる。将は男を見たが、安らかそうな寝顔があるばかりだ。
 顔をしかめて、将は男へ小さく舌を出し、反対側の壁に身を寄せ、目を閉じた。唇から、すやすやと寝息が漏れ出す頃、三上は薄く目を開き、唇に微笑を浮かべた。今度は、意地悪でも皮肉そうでもない、心底、おかしげな笑みだった。
 あどけない寝顔を見つめ、三上は笑みを深くすると、自分も目を閉じ、眠りに落ちた。


 銅鑼声で目を覚ました。視界に、客が次々とバスを降りていくのが映る。
「朝食時間、三十分……」
 運転手が客を起こすためにか、大きな声を出している。三上は体を動かしかけ、眉を顰めた。ふわふわしたものにまとわりつかれている気がしたのだ。左肩も、何やらあたたかい。三上は横を向き、少し、目を見張った。
 あの客が、自分の左腕にしがみつき、眠っている。ぐっすりと眠っている様子は明らかで、心地よい眠りに身を浸しているときの幸福な明るささえ、見て取れた。小柄なので、三上の肩に頭は届かない。腕に半身を預けきり、両手を添えている。見ている内に、ん、と息を吐き、なおも頬を擦りつけてくる。さわやかな甘みを持った匂いが、鼻をくすぐった。三上は残る片手で帽子を被り直し、自分の腕を離そうとしない客を見ていた。
 ミルク色の肌、バラ色に輝く頬、ふっくらした唇の柔らかさと赤み。まだ幼さは残っているが、それでもなかなかの器量だ。へえ、と見直すような見惚れるような思いで、見つめていると、無粋にも、運転手がいっそうの大声で、バスの外から怒鳴った。
「三十分! 朝食時間!」
 瞼が動いて、瞳がのぞく。その黒い瞳を上目遣いにして、将は三上に気づく。自分があの意地悪そうな男の腕にしがみついていたのを知り、真っ赤になった。
「あ、あの……」
 三上は何も言わない。唇を少しつり上げた。
「すみません、ごめんなさい……」
「いや」
「起こしてくれれば、こんな……」
「ぐっすり寝てたからな。――で、そろそろ離してくれないか、さすがに痺れてきた」
 将は両手を引き、目覚めてもなお、男に身を寄せていた自分が恥ずかしくなった。寒気を感じたからとはいえ、無意識に他人の体にすり寄っていくとは!
 そんな将に、三上は昨日よりは、多少、親しげに話しかけた。
「さて、朝飯だ。お前は?」
「僕は、いいんです」
 金か、と三上は聞きかけたが、将は急いだ様子で身繕いすると、立ち上がった。
「サンテレストホテルまで行こうと思ってるので」
「サンテレスト? バスは三十分しか……」
 将は急ぎ足で、狭い通路を駆け抜けていった。三上は立ち上がると、誰もいなくなったバスを降りた。
 カフェテリアでトーストとコーヒー、ハムエッグを注文し、スタンドで買った新聞を広げる。その一面に大きく載った記事に、三上は目を丸くした。


 将は、サンテレストホテルの支配人に会うつもりだった。父親と共によく泊まるホテルなのだが、その支配人は父とも旧知で兄や将を可愛がってくれている。兄と父が仲違いしたことも知っており、心配してくれていたから、将は事情を説明し、幾らか、お金を借りるつもりだった。
 だが、ホテルの近くまで来て、将は見知った黒塗りの車を見つけた。降りてきたのは、父親ではないが、パーティで顔を見たことのある男だ。父親の懇意にしている探偵会社の社長だった。
 ここにも父親は手を伸ばしていた。将は街路樹の影に隠れて様子を見ていたが、やがて歩き出した。今、出て行っても、捕まってしまうだけだ。兄に会うまでは絶対に、戻りたくなかった。そこには父親への反発心と遅い自立の心が含まれている。
 決意を再度、新たにして将はバス待合所まで戻った。ガソリンと紫煙の入り交じったきな臭い空気を抜けて、バスの停留所まで行く。広いロータリーには一台のバスもない。
 後ずさり、将は制服姿のバス会社の社員を見つけた。
「コーエン行きのバスは、どうしたんですか」
「定刻通り、発車しました。十五分前です」
 乗り遅れた客に向ける目は同情が入り交じっている。
「次のバスは?」
「夜の八時です」
 十二時間以上も先だ。将はうつむいた。自分が悪い。発車の時間をよく聞かなかったし、そこに確かに、自分一人、少し遅れても待ってくれるだろうという甘えがあった。幼い頃から待たせはしても待つことなど、滅多にない。
 また一つ、自分の甘えを思い知らされ、将は哀しさと苛立ちを感じていた。どうして、こうなのだろう――。
「――よお」
 将が顔を上げると、あの隣客がにやにや笑っている。ほっとしたような、同時に、どこか心苦しい気持ちに襲われ、将は沈みがちな表情で訊ねた。
「あなたも乗り遅れたんですか」
「まあ、そんなところだな」
 妙に含んだような言い方をする。将をさっと眺め回し、一人、うなずいている。
「そう言われると、そうだな」
「何がですか」
 三上は将の腕を掴むと、壁際まで引っ張っていった。
「さっさと家に帰れ。風祭のお坊ちゃん。金持ちがうろつくとこじゃないぜ」
 将は一瞬、顔を強張らせたが、何気ない振りを必死で装った。
「何がですか。人違いだと思います」
「コーエンに行く前に、連れ戻されるのが落ちだな」
「人違いです」
 言い張る頑固な将に、三上はポケットにねじ込んでいた新聞を渡した。
「これでもか?」
 将は新聞を手に取り、あっと目を見張った。
 ――風祭将、父親のもとより逃亡。その見出しが将自身の写真と共に、一面に大きく載っていた。
「怖いパパよりも、優しいお兄ちゃんの方がいいらしいな」
 将は三上を睨みつけた。
「侮辱しないで下さい。事情を知りもしないくせに」
 言った途端に、しまったと将は唇を噛んだ。これで、自分が風祭将だと認めてしまったことになる。
「ああ。金持ちのお家騒動なんざ、興味ないね」
「じゃあ――」
「次のバスでリマジに戻れ」
「嫌です。僕はコーエンまで行くんです」
 ふうんと三上は、将を見回し、また鼻で笑う。それきり口を開かない。
 将は新聞を三上に返した。三上は受け取ったが、何も言わない。沈黙に耐えきれず、将は細い声で言った。
「父さんに知らせるんですか」
 たっぷりの間を取った後、三上は思わせぶりに言う。
「どうして?」
「懸賞金が……」
「それは、それは。知らなかったぜ。教えてくれてありがとう」
 なんて男だろう。新聞にも書いてあるというのに。将は拳を体の前で固め、三上に詰め寄った。
「コーエンに着いたら、僕が同じ額を払います。それなら、いいでしょう。父さんに引き渡す手間も省けて……」
 三上は少し乱暴に将の肩を押した。将がよろけ、壁に体をぶつける。三上は目に軽蔑の色がちらつかせ、低い声を押し出した。
「さすが。甘やかされて育っただけあるな。金でなんでも解決って訳か」
「僕は……」
 将は口を閉ざす。ひどく打ちのめされたような青ざめた表情で三上を見ていたが、それは三上の心に対して、何の影響も及ぼさなかった。もっとも三上は将の表情に気を払うよりも、目の前にぶら下がったスクープに、多少、興奮気味だったから、気がつかなかったともいえる。
「俺は懸賞金にも金持ち坊ちゃんのトラブルにも興味はないね。少しは思い知ればいい」
 三上は言うと、身を翻し、去った。残された将は、一人立ちつくしていた。



「よお、渋沢」
「三上。どうやら、金は残っていたようだな」
「この電話はコレクトコールだ。待て、切るな、よく聞けよ。――スクープだ。面白い記事が書ける」
「どんな?」
「風祭家、といえば分かるか」
「なるほど。いい取材を期待している」
 電話はあっさりと切られたが、三上は大して怒りもせず、受話器を戻した。記事を見せたとき、あの冷静な顔が、どう変わるか、さぞ見ものだろう。楽しみは後に取っておくべきだ。


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