或る夜に(1)


 バス待合所は、出発前のバスのエンジン音やそれに負けまいと張り上げる人々の声で、騒々しい。コーヒーの入った紙コップを電話機の上に置き、三上は声を大きくした。
「あぁ? もう一回言え」
 脅しつけるような三上の声に、平然とした返事が返ってくる。
「だから、予算がない」
「てめえ、ふざけるな」
「俺は、いつでも真面目だ。ということだから、これ以上、金は出せない」
「金が無くて、どうやって戻れっていうんだ」
「バス代くらいあるだろう? なかったらヒッチハイクでもして帰ってきてくれ」
 じゃあな、と電話は切れた。これが花形の敏腕記者に対する仕打ちだろうか。金がないとは! 飛行機代もないとは!
「くそっ」
 元はといえば、振り込まれる取材費を当てにして、遊びすぎた自分が原因だから、これ以上は食い下がれない。
 見透かされた悔しさに舌打ちして、冷めたコーヒーを飲み干す。ドアを足で乱暴に押し開け、三上はトランクを持ち上げた。ため息一つついて、窓口へ向かった。
 コーエン行きの長距離バス切符を買う。紙幣を渡し、戻ってきた小銭をコートのポケットに仕舞い、歩き出す。三上の後ろにいた老婆も、コーエン行きの切符をくれ、とわめいていた。あの老婆と一緒のバスは、さぞうるさかろう。
 三上は何気なく老婆を見て、立ち止まった。
 切符を買った老婆は、足早に歩いていくと、柱の前で足を止める。柱の影から手が伸びた。老婆はその手に切符と釣りを渡す。三上のいる場所からは姿が見えない。手は、老婆に釣りをすべて渡すと、引っ込んだ。
 肩をすくめて、三上はコーエン行きのバスが停まる八番所へ歩いていった。
 バスの座席は七割方埋まっている。三上は最後部の座席に座ることにして、その前にトランクを網棚へ載せた。
 車掌が乗降口で、バスが途中、停車する市の名を告げている。合間にベルが鳴らされ、発車が近いことを示していた。
「リンドワーズ、オーフォーム、サムザット、クレイン、バーニスト、シングラー、コーエン」
 奇妙な節回しで、車掌が叫ぶ。
 三上のトランクは網棚に、なかなか収まらない。横の乗客の荷物が幅を占めているのだ。三上はそれを押しのけて、自分のトランクを網棚に収めた。手を下ろそうとすると、踵に固いものがぶつかった。
「いてっ」
 眉をひそめ、振り返ると、トランクを引きずるようにして持つ小柄な客の姿があった。
「すみません」
 三上の声に謝った客はまばたきして、三上を見上げる。身長差が、かなりあった。三上は長身だが、相手は背が低い。
「痛かったですか」
「痛いに決まってるだろ」
「ごめんなさい」
「もういい」
 何度も頭を下げて、その客は三上が座ろうとした席に、ちょこんと座った。トランクを足下に置き、被っていた帽子を脱いで、膝の上で握りしめている。帽子のせいでぺたんと頭に張り付いている髪が、愛らしい顔立ちを引き立てていた。時々、不安そうに窓の外を見やっては、また手元へ視線を戻して、それを繰り返している。
 三上はその前に立った。目の前に落ちた影に、客が顔を上げる。三上を認め、不安そうに大きな目を更に大きくした。
「まだ痛いですか?」
 三上は顎をしゃくった。
「俺の席だ」
「え?」
「俺が座る席だ」
 さあ、どけと言わんばかりに三上は腕を組んで、席を横取りした客を見下ろした。客は、小首をかしげ、鈴が鳴るような可愛らしい声で訊ねた。
「バスは指定席だったんですか? 僕、そうは聞いてないんですけど……」
 皮肉ではないらしい。本当に困った顔で、三上を見ている。
 三上の周囲で、こちらの様子をうかがっていた数人の客が吹き出した。
 その内の一人が、言う。
「とんでもない。早い者勝ちさ」
 上がった声に続いた笑い声の数から考えれば、目つきの悪い三上よりも、優しい顔立ちの客に味方しようとする者の方が多いらしい。
「あの、僕……」
 客はにこやかな乗客と不機嫌そうな三上に、戸惑いを隠せず、おろおろと辺りを見回した。
 三上は大きくため息をついたが、乗り込んできた運転手に気づき、唇に意地悪げな微笑を浮かべた。
「おい!」
 運転席に座ろうとした運転手に、声をかける。
「この席は二人用だな?」
「そうですが」
「という訳だ。座るぞ」
 三上は運転手の返事を聞くと同時に、ふたたび客の方へ向き直った。
「はい……」
 充分、隙間はあったが、客はうなずいて席を詰める。
 三上は、やや乱暴に腰を下ろし、自分も帽子を脱いだ。膝を組み、頭の後ろに手をやって、楽な姿勢になると、横を見た。
 すでに席は埋まり、客も狭い座席で何とかくつろげる姿勢になり、発車を待っている。クラッカーや酒瓶を持ち出して、ささやかな酒盛りを始めている者もいた。
 ところが、三上の隣の客はトランクの持ち手をきつく握りしめたまま、背筋を伸ばし、じっと前を見据えている。横顔から、緊張が漂っており、唇も一文字に引き結ばれている。
「おい」
 三上はしばらく観察した後、声をかけた。途端に、びくんと飛び上がるようにして、客がこちらを向いた。
「な、なんでしょう? まだ痛みます?」
 いつまで、トランクをぶつけたことにこだわっているのだろうか。三上は、トランクを指さした。
「上に上げないのか」
「え」
「トランク」
 壊れたおもちゃのように首を振り、客が立ち上がった。細腕で、重たそうなトランクを持ち上げ、網棚に載せようとしている。
「手伝ってやろうか」
「いいえ、大丈夫です」
 三上は足下から、唸るようなエンジン音が響き出すのに気づき、また皮肉げな笑みを浮かべる。
 客がどうにか荷物を載せ終えて、トランクから手を離そうとしたとき、バスが発車した。客の体が揺れ、予想通り、三上の方に倒れ込んでくる。
 受け止めて、三上は腕にすっぽり入る体の小ささと暖かさに、驚いた。すぐ近くに大きな黒い目がある。
「すみません!」
 慌てたように三上の腕の中でもがき、自分の席に戻る。耳たぶが赤い。
 三上は、くっと笑いを噛み殺した。横で、客の顔が真っ赤になった。


 一時間半ほど走り、最初の休憩所にバスが到着する。肩を動かし、また無意識のため息をつきながら、客たちが降りていった。三上もバスを降りた。休憩所のドライブインでは、客引きのコックが、夜食として熱いコーヒーとホットドッグを勧めている。
 カフェには向かわず、三上は外を少し歩いて、強張っていた手足を動かし、懐から煙草を取り出した。火を点けて、自分が乗っていたバスを見るともなく、見ていると、あの小柄な客がトランクを持ったまま、降りてきた。
 辺りを見回し、そろそろと歩くと、バスの片側に体を預け、ぼんやりしている。用心深いのか、そうでないのか、ちっとも分からない。首をかしげるようにして遠くを見つめていたが、やがて三上を見つけたらしく、気まずげに顔が逸らされた。
 うつむいて、足下を見ている。その背後に大きな人影があった。同じバスに乗り合わせた別の男性客のようだ。足音を忍ばせているらしく、近づいても、もう一人の客が振り向く様子はない。
 三上が見ている内に、影が手を伸ばし、トランクをひっつかんだ。そのまま身を翻し、逃げていく。
 三上は煙草を放り投げ、走り出した。自分へ近づいてくる三上の姿に、客が怯えたようにバスに張り付く。その前を通り過ぎ、三上は置き引きを追った。地の利のある相手に、かなり迫ったが、結局、草藪で巻かれてしまった。
 舌打ちしながら戻ると、バスの側に、まだあの客がぼんやり突っ立っている。そののんびりした様子を見ている内に、追いかけていった自分に腹が立ってきた。放っておけば良かったのだ。
 服に付いた草を払い、ドライブインを見ている客の肩を掴む。
「おい!」
「なんですか」
 びっくりしたような客の言葉を遮り、三上はぶっきらぼうに言った。
「荷物――気がつかなかったのか」
「僕の荷物が、どうしてあなたと関係あるんですか」
 呆れた。三上は首を振り、袖に付いていた草を、また払う。
「自分の荷物が盗られたっていうのに、呑気だな」
 客は、一度まばたきして、足下を見た。
「あっ!」
 やっと気付いたらしい。
「僕の荷物……」
「だから、言っただろうが」
 客は数歩、歩きかけ、振り向いた。今にも泣きそうに目が震えている。
「どっちに、行きました?」
「西。草藪から森に入ったみたいだから、追いつけねえな」
 甘やかな赤色の唇を噛み、拳をきつく握りしめた。混乱を押さえようとしているらしい。
 三上はトレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。このまま放っておこうとしても、そうできないくらい、困り果てた悲しげな様子だった。
「切符は? トランクの中か」
 客は三上をうっすら濡れた目で見つめ、首を振る。
「切符はポケットの中にあります。ただ、お金……五ドルしか」
「家に電話しろ」
 途端に客の顔が強張る。頑なな色が面を覆い、瞳に頑固そうな光がきらめいた。
「いいです」
「運転手に言って、弁償させろ。泥棒を乗せてたんだから」
「いいんです」
 いい加減、苛立ちを隠せなくなり、三上はぎろりと客をねめつけた。視線に怯えたように、客は目を逸らしたが、激しく首を振った。
「いいです、大丈夫です。もう、僕のことは放っておいて下さい!」
 言うなり、駆けていく。呆気にとられて、三上は客が去った方を見ていた。
 あの言い方――まるで、自分がお節介を焼いたような言い方だ。荷物を心配してやったのに礼も言わないとは。親切心など起こすのではなかったと三上は後悔し、舌打ちすると、コーヒーを飲みに行った。
 運転手がバスに乗り込むように告げに来る。三上は足早にバスに戻り、座席に座った。隣の客は姿を見せない。ぎりぎりになって、やっと走ってきた。三上と目が合うと、きっと目つきが鋭くなる。三上も負けずに睨んでやった。
 客は三上の隣には座ろうとしなかった。太っているため、誰もが隣に座るのを遠慮した男性客の座席に体を収め、それっきりだ。振り向きもしない。
 へっと鼻で笑い、三上は帽子を被り直すと、二人分の座席に悠々と体を収め、目を閉じた。次の休憩所に到着するのは朝になる。ゆっくり出来るのなら、それは幸運なことだ。
 そう思いながらも、三上は一度だけ腕に入ってきた体のぬくもりを、我知らず思い出していた。


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