大きな目に涙を湛えて、将は父親を睨みつけた。父である護も、また将を厳しい目で見る。趣味の良い、年代物の調度が並ぶ書斎で、父と子は睨み合いを続けたが、負けたのは護の方だった。
「将――」
椅子から腰を上げる。両手を差し伸べながら、最愛の子に近づこうとしたが、将はかたくなにそれを拒み、唇を噛んだ。
さすがにその態度に、腹を立て、護は目つき同様の厳しい口調で言った。
「いい加減にしなさい。どうして分からないのだ。お前には関係のない話だと、再三、言っているだろう」
「分からず屋は父さんだ!」
「将!」
「父さんなんか――父さんなんか、大嫌いだ!」
将はそう叫ぶと、足音高く部屋を出て行った。開いた扉向こうで、驚いた顔のメイドや執事の顔が見える。
取り乱した姿を繕うことなく、護は愕然と呟いた。
「しょ、将……」
十数年、手塩にかけ、掌中の玉と大事に大切に愛おしんで育ててきた子である。自分にはもったいないくらい、素直な心優しい子に育ってくれた。まかり間違っても、父親のことを大嫌いなどと言いはしなかった。それが、それが――。
「将!」
こうなれば、何があっても、許すまい。まかり間違っても、もう一人のあの、バカ息子の勘当など解くまい。頭に血が上った勢いで、護は固く、固く我が心に誓った。
その日の夜だった。書斎で、最後の書類仕事を片づけていた護は、一休みしようと、葉巻を箱から取り出していた。ナイフで先端を軽く落とし、火を付け、さて一服、というところで、ノックもせずに、執事が扉を乱暴に開いて、駆け込んできた。
「旦那様!」
「無礼だぞ、何事だ」
護が、葉巻片手に叱責の鋭い視線と言葉を執事へ向ける。使用人としては考えようもない無礼だ。主人の震え上がるような眼差しにも構わず、執事は唇を震わせながら、声を出した。
「し、し、し……」
執事の顔が蒼白である。ただ事ならぬものを護は感じた。
「落ち着け」
「し、し、し――」
護は顔をしかめ、立ち上がる。キャビネットからブランデーの瓶を取り出し、グラスに満たして、執事に渡す。
ぶるぶる震える手で受け取った執事は、一気に飲み干した。顔に血の気が戻る。それと同時に彼が叫んだ。
「しょ、将様が、屋敷からお逃げになられました!」
「なんだと!」
瞬時に真っ青になった護は、ガウンの裾をひらめかせながら、将の部屋に向かった。荒々しい足音を聞きつけ、使用人たちが次々に顔を見せる。彼らを引き連れ、護は将の部屋の扉を開く。
応接室になった部屋を抜け、寝室への扉を開いた。ひゅっと冷たい風が吹き付ける。
バルコニーへと続く窓が、大きく開かれていた。大理石で出来た柵に、白いシーツがくくりつけられ、下に伸びている。シーツは風に吹かれて、心細げにひらひら揺れていた。
崩れかけそうになった護の体を執事と従僕が慌てて、支えた。
「あ、あれで、下に、降りたというのか」
傍らで、落ち着きを取り戻したものの、以前、顔色の冴えない執事がうなずく。
「さようでございます。下の植え込みまで、続いているようでした」
貧血を起こしかけた護に、執事がおずおずと一枚の手紙を差し出した。
「これが、枕元に……」
護は震える手で、受け取った。封のされていない白い封筒から、一枚の便箋を取り出す。風祭家の家紋が透かしで入った便箋には、将の丁寧な筆跡で、短い言葉が残されていた。
『父さんへ。
功兄に会いに行きます。僕のことも勘当して下さい。――将』
――数分間、護は意識を失っていたようだった。幼い頃の将が、よくまわらない口調で、とうたん、とうたんと甘えてくる姿を見たから、たぶん、夢でも見ていたのだろう。
目を開くと、ソファに寝かされて、執事が気付けの酒を片手に顔をのぞき込んでいた。空気が騒然としている。屋敷中の者が起き出してきたようだった。
「将は」
護の声に、執事がほっとした顔を見せながら言った。
「屋敷内を探させておりますが、どこにもおられないようです。庭も今一度、探させております」
護はうなりながら、起き上がった。
「今、先生をお呼びしました、まだお休みになって……」
執事が手で護を押さえたが、護は無理矢理にでも起き上がった。
「いや、いい。電話を用意してくれ」
執事が従僕に指で指示する。心得た従僕が、すぐさま電話を準備しに部屋を出て行く。
「どちらへお繋ぎしますか」
「西園寺警察長官とM&S探偵社の榊へ」
「かしこまりました」
護はソファに腰掛け、片手で顔を覆うと、深い深いため息をついた。
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