夜も更けた頃、とある邸に、いわくありげな網代車が寄せられた。降りた公達は、身分を忍ばせる、高貴な香の匂いを漂わせながら、そっと手を差し伸べた。
すでに知らせを聞いていた下人や女房たちは、助けを借りながら、降り立ったもう一人のやんごとなきお方に、深々と頭を下げて、出迎えた。その方は邸の主の賓客として扱われ、主に対するとき同様どころか、それ以上の心づくしを持ってもてなさなければならなかった。
今は少ない女房や下人たちだが、明日にでも、何の不自由もないよう公達が気の利いた女房や女童も寄越すのは明らかだった。それほどまでに大事な、尊いお方なのである。
――今めかしいが、派手ではない品の良い調度が立ち並ぶ邸の一室の中に、ひそやかな声が落ちていく。女房たちは遠ざけられ、今は二人の気配しかない。
心細げな声が、震えるような息と共に漏れた。
「もう行くの……?」
「……そうしなくちゃいけないんだけどね」
さらさらと衣擦れの音が響き、切なげなため息が重なった。
「そんな顔で見ないでよ」
「だって……」
艶やかな時を孕んだ沈黙が降りた後だった。
「きちんと、待つつもりだったんだよ――主上のお許しを得るまで」
何かくぐもった声がしたようである。誰かが寄り添うような気配がし、薫物の匂いが溢れた。
「途中で、怖いなんて言っても俺は……」
言葉は柔らかく濡れたような音で途絶え、影が動く。あとは闇の中に、熱い吐息と睦言が広がっていくばかりである。
三日間、行方知れずだった郭家の若君は邸に戻るなり、父に言った。
「父上。お願いがございます」
どこへいたのか言いもしない息子にしかめ面しながらも、なんだ、と大臣はうながす。
「結婚のお許しを頂きたいのです」
む、と大臣は眉を顰めた。
「相手は誰だ。式部卿の宮の大の君か、それとも右大臣殿の中の君か」
「いいえ。鉢かつぎと呼ばれていた者でございます」
ああ、と几帳の影で、北の方と側に控えていた英士の乳人が同時にため息をついた。
郭の大臣は苦り切った顔だ。追い払ったということを知ってか、知らずか、息子はいまだあの者に執着しているらしい。どうしようもないと大臣は首を振った。
「英士。下人ならば召人の一人にでもいたせ。私に言うことでもなかろう」
数にも入らぬ愛人にせよとの言葉に、英士は断言した。
「私は鉢かつぎ以外、娶るつもりはございません」
大臣は目を丸くし、唇を開いたが、先に甲高い声が響いた。
「なりません!」
北の方、英士の母の声である。
「こともあろうに、そのような、人でなしを生涯の相手に定めるなど、郭家の名誉にかけて許すことは出来ません」
英士は母の方へ顔を向け、しっかとした口調で告げた。
「人でなしではありません。あれほどの相手、他にはいません」
「英士!」
「奥様、どうか、若様をお責めにならないで下さいまし。若さまはあの物の怪に取り憑かれておいでなのです。申し訳ありません、私がいたらないばかりに」
「いいえ、いいえ、あの鉢かつぎがすべていけないのです。こともあろうに、大事な嫡男をたぶらかすなんて」
よよと泣きだした乳母と母に、英士も苦い顔になる。大臣も渋い顔つきになる。女たちの嘆きを背に、大臣は厳しい声で言った。
「鉢かつぎのような下賤のやからに、何をそう執着する。お前はのぞめば、都一の美姫とて手に入れることが出来るというのに。右大臣殿の中の君は、東宮の元へ入内された姉君にもましてお美しいそうだぞ」
「確かに、姫君方のお美しさは私も聞いてはおります。しかし、鉢かつぎに叶う相手はこの世におりません」
断言した息子の顔を、思わず、大臣はのぞきこむ。我が息子ながら、頭は大丈夫だろうか。やはり、物の怪憑きにでもなってしまったのだろうか。あの鉢をかぶった奇妙な姿を美貌の誉れ高い姫君に勝ると口にするとは。
しかし、英士は凛とした理性の眼差しで、なおも告げる。
「父上も、鉢かつぎをご覧になってくださいませ。お望みなら、他の姫君とお比べになり、その上で、私は父上、母上のお目にかなった相手と結婚致します」
大臣は苦笑した。
「わたしの選んだ相手を素直に受け入れるお前でもあるまいに」
それを聞いて、父とは似ていない、怜悧な印象を与える薄い唇を英士はほころばせた。
何か、たくらんでいる、と大臣の勘が告げる。それは当たっていた。
実に楽しそうに英士は言った。
「では、公正な審判を――すでに、東宮さまにお願い致しております」
「何だと!」
大臣はひっくり返りそうになった。
「いつの間に」
「ついさっき」
なんたること、なんたること、ああ、なんたること。大臣にはそれしか言葉がない。
腰を抜かしている間に、こういった騒ぎを面白く思う東宮からは、是非とも判定人を勤めたいという了承の返事が届いた。大臣は呼吸も一時、危うくなったが、さらに、その後、それを聞きつけた公達たちが、自分たちも参加させろと言いだし、この騒ぎはあろうことか、主上にまで及び、ついに、今上帝自ら、東宮と供に行幸し、この席においでになるということになった。
これを聞かされた郭の大臣はひっくり返り、しばらく卒倒していた。
氷室から持ち出された氷を額に当てられると、貴族らしくもなく、大声で叫んだ。
「なんたることだ! 郭家の恥ではないか!」
大臣よりも、ことを把握した北の方は、厳かに言った。
「いいえ。あの鉢かつぎめに、自分がどれだけ大それたことをしでかしたかを思い知らせるには、良い機会です。それに、これで英士の結婚も決まるのなら、良いではありませんか。主上の御前では否やとも言えますまい」
「まあ……それはそうだが」
冷静な妻の判断に、さすが英士の母親よと、たじろぎつつ、郭の大臣はうなずいた。
都でも評判の公達、英士が帝の御前で嫁比べ。人々にとって、これ以上ないほどの話題だった。上は上達部から、下は下人たちまで、二人以上の人間が揃うと、必ず、この話題になった。
嫁比べの日を前にして、我こそは、英士の君の妻たらん、という者が、ぞくぞくとあらわれた。父母が推す者、女房が推す者、自ら名乗り出る者、と様々だが、見物の男たちにとっては、これほど楽しい見物もない。常日頃、見ることも出来ぬ方々のお顔がかいま見えるのだから。
すべての中心にいる英士は、何一つ変わりないという顔で出仕し、淡々と過ごしているが、親しい友人達は遠慮無くからかいかける。
「英士、ついに身を固めるんだな」
「最高の相手とね」
事も無げに、英士は友人の一人に言い放つ。
「鉢をかぶったお化けだろ。お前は呪われてるんだって、都中噂してるぜ」
英士は黙って、微笑した。それは、それは優越感に満ちた、明るい微笑だった。その笑みの意味を知るものは、まだ都には彼以外いないだろう。
嫁選びの当日、郭の内大臣の邸にはぞくぞくと人々が集まってきていた。嫁比べに参加する貴族もそうでない者も、とにかく周辺に集まっては、興奮も著しく、口早に言葉を交わす。誰が勝つか、そうして鉢かつぎはどうするのか。話の種は尽きず、あちこちで、熱を帯びた会話が交わされるのだった。
やがて、帝と東宮が姿を見せ、ここに郭家の御曹司、英士の君の嫁に誰がふさわしいかを比べる催しが始まったのだった。
室のあちこちに貴族たちが勢揃いし、それぞれの位に合わせた位置に、腰を下ろしている。もちろん、外にもぎっしりと人々が詰めかけ、この嫁選びをしかと見届けようとしていた。
主役ともいっていい、とうの英士は涼しい顔で、一生の大事とも思われるこのときを迎えている。かえって、他の者が、不思議がり、囁き合う始末である。
ざわめきの中、東宮の張りのある声が響いた。
「では、これより、姫君たちにおいで戴く」
途端に囁きは止んで、期待と好奇心に充ち満ちた沈黙が降りる。
「姫君たちにはいかなる無礼も働いてはならぬ。最上の礼儀をもって迎えるように」
くくっと何人かが忍び笑った。鉢かつぎの名を思い出したからでもあろう。英士はちらと冷たい目を向けたが、そこには嘲るような、しかし興がるような色も混じっていた。まるで、楽しい秘密を抱えた子どものようなそれである。
東宮はその視線には気づかなかった。
「――なお、英士の君は、この結果にいかなる不満も抱かないように」
「承知しております。私は勝利者を妻として迎え、そのものと一生どころか来世までも添い遂げるつもりでおります」
堂々と宣言した英士を、東宮は哀れみと疑問を交えた眼差しで見やったが、気を取り直したように、口を開いた。
「では、始めよう!」
東宮が手を挙げ、合図した。
この日のために選ばれた声音のよい男が、最初の姫君を呼んだ。
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