次々と姫君たちの名が呼ばれていく。
これは身分順だが、一番、身分の低いはずの鉢かつぎは、最後であった。
これは北の方の策略である。美しい姫君達のあとで、鉢かつぎの異相はいっそうおぞましく見えるであろう。これで英士も目を覚ますはず、と北の方は息子かわいさに狭くなった心で思っていたのだ。
贅を凝らした派手な衣装をまとった者が多い受領たちの娘たちから、だんだんと位は上がり、殿上人の姫君達となる。
いずれも親たちが手塩にかけ、これはと思う男君たちの心をとらえるべく育てられてきた姫君なだけあって、優劣のつきがたい容貌、気品である。それでも、やはり美貌で言えば、内大臣の言うとおり、右大臣の中の君が、格段に優れていた。身分も今日、参加する姫君たちの中ではもっとも上位に位置する。
やはり、あの姫だと内大臣と北の方は二人、目を合わせ、うなずいた。
とうの姫君もうわさに聞く英士の君に婉然たる視線を送ったのだが、若君は、ようやく登場する何より愛しい鉢かつぎを早く目にしたく、気もそぞろであった。
「――鉢かつぎ、入るがよい」
呼ばれた名に、笑い声が広がる。
鉢かつぎが巨大な鉢を頭にかぶった滑稽な姿だということは、すでに都中に広まっていた。そうして、そのような異相で、不釣り合いにもほどがある恋に落ちているのだから。
東宮ですら、その異相に興味津々の眼差しを入り口へと送っている。
やがて人の気配が近づき、奥ゆかしくも華やかな香りが広がる。と、そろりと鉢かつぎが入ってきた。噂を知る者たちが、身の程知らずよ、と冷笑のまなざしを投げかけて、息を呑んだ。
一人、ほほえんだのは英士である。
若い者は賛嘆のため息を漏らし、そうして、年老いた者は、若き日の憧れをまざまざと目に浮かばせていた。郭の内大臣ですら、かいま見えた横顔に心騒がせたその昔を思い出し、身を乗り出した。誰よりも深いため息が、帝の口からもれた。
――かつて、花とも玉ともたとえられていた皇女。受領の息子にかどわかされ、行方をくらませた姫君が、姿形そのままにそこにいた。
他の姫君よりは短くとも、黒髪はつややかに光る。まとう衣装のあでやかさ、襲ねの色目の美しさは常ならば、それだけで人目を奪うにふさわしいばかりだろうが、今はその人の魅力をただ引き立てるのみである。
羞じらいに伏せられた面、ふっくらした頬は紅ささずともほのかな桃色に染まり、あどけなさの中にのぞくなまめかしさ、瑞々しい若さは、蕾とも花ともたとえられそうである。
後ろからは臈たけた女房がしずしずと続く。どの女房も盆や台に、数々の財を捧げ持っていた。目の肥えた貴族たちが、ぽかんと口を開くほどの品であり、量であった。
右大臣が娘の大君を東宮の元へと入内させた際の、調度や衣装の美しさは当代一と誉れ高かったが、それらは、今、鉢かつぎがまとう装束にも、女房が捧げ持つ品にも及びもしない。
鉢かつぎはすでに姿を見せていた姫君たちの下座に用意された、粗末な敷物へ座ろうとした。
「あ、いや、しばらく、お待ちを……」
上座にいた内大臣があわてて、自分の直衣を脱ぎ、新たな敷物として差し出した。
鉢かつぎははにかんだ笑みを浮かべて礼を言い、さやさやと衣擦れの音もうるわしく、そこへと座した。
満座の視線を集める中、鉢かつぎは扇をかざし、うつむいている。漂う香の匂いに、もはや勝負の行方も忘れ、うっとりと眺めやる者が多数いる中、北の方の声が響いた。
「装束が見事であれど、中身がともなっていなければ、意味はありますまい」
北の方の幾分、動揺はあらわれているが、厳かな言葉により、慌てて流れは引き戻された。嫁比べのしきり直しである。
姫君達は、それぞれに歌を詠み、絵を描き、琵琶を弾き、琴を奏でた。香を合わせるものもいれば、縫い物、染色の技の妙を見せる者もいる。
どれも自ら誇るだけあり、人々の目を引くわざではあったのだが、どこか、気もそぞろの空気が流れるのは、満座の視線を鉢かつぎが集めているからに他ならない。
最後に順番が巡ってきたとき、鉢かつぎは琵琶を希望した。
小さな白い手に琵琶が渡される。琵琶を手にした鉢かつぎは、何事か呟いたようにも思えたが、その意味を知るものはおそらくは英士だけであったであろう。――将は母に祈ったのだと英士は悟った。
鉢かつぎは弦の具合を確かめ、小さくはじいて音を出すと、居住まいを正した。
その場に琵琶の音が響いたとき、人びとは瞠目した。
すでに身罷った法師が、唯一、いまはなき姫宮に伝えた、今や幻となった曲だった。曲を知る者は、その懐かしくも、美しい音に、昔日を思い涙をこぼし、そうでない者は、古曲でありながら、決して古くさくはない、なまめかしい音に、ため息をこぼした。
もはや疑う余地はなかった。
後押しするように、御簾内からは重々しい声が響いた。
「勝ち負けを、言うまでもあるまい」
人々は頭を垂れる。この尊い方を他の姫君と比べようとした己らの心を恥じた。
沈黙の中、落ち着いた声が響いた。
「主上」
英士が文を差し上げる。受け取り、目を通した帝は嘆息した。長い長い、十数年にもなる時を思わせるそれだった。
「将、というのか」
将は面を伏せたまま、うなずいた。
「面を上げなさい」
わずかな震えを見せつつ、将は顔を上げた。耳にかかる黒髪と艶やかな瞳。幼いまでの面立ちには、誰よりも強い意志の光が煌めいている。かつて、同じ瞳を持った妹は、自らの恋を貫き、守り通した。
「薫の子か……」
帝の呟きが、その場にいた全ての臣下の耳に届いた。
嫁比べの結果はうやむやのうちに流された。それどころではなかったのだ。
郭の大臣は、自分のしでかしたことに、ふたたびひっくり返った。北の方も、乳母も、自分たちの言動を思い出し、やはりひっくり返った。内大臣家の邸中の者が、てんやわんやの大騒ぎになったが、英士一人、涼しい顔で祈祷を命じて、両親と乳母に見舞いの品と言葉を届けさせている。だから言ったでしょ、と言ったとか、言わなかったとか――。
もっとも、郭家の騒動も、突然、物語のように現れた先の姫宮の遺児の前には、ささやかなものだった。
姫宮の不幸な最期は夫のそれと共に人々の哀れを呼び、残された忘れ形見に同情を寄せた。
帝はすぐさま、将を手元に引き取り、養子とすると、中宮礼子に、万事不便のないよう計らわせた。中宮もまた、突然に現れたこの肉親を可愛がること、帝の比ではなかった。 帝と中宮、そして東宮は、手元に戻ってきた妹の子を、いつくしんだ。仲睦まじいその様子に、薫に昔仕えていた女官や女房たちは、溢れてくる涙をこらえきれなかった。
将の一挙手一動に、亡き姫宮と男君の二人が、どれだけ心をそそいで、将を育てたのかが忍ばれ、将を取り囲む人々は涙と喜びのうちに、日々を過ごした。
主人の妻子であるにもかかわらず、姫宮と将を虐げ、冷たく振る舞った一族はそれぞれにふさわしい罰を与えられたが、将の懇願により、その罪は予想以上に軽くなった。その地はそのまま将の所領になり、謹慎を終えた一族達は心を入れ替え、かの地の発展に尽くすようになったという。
都で故郷の様子を伝え聞く将の元へは、数え切れないほどの恋文が届けられたが、誰も、この物語のように現れた姫宮の心は捉えられなかった。もとより、すでのその身も心も定めた相手のものであったが、それを当人たち以外、知るよしもない。将に仕える女房たちが、主が郭家の嫡男の話にうっすら頬染めるのを、もしや、と思ったくらいである。
帝のもとに引き取られてから半年、将は自ら、法華八講を亡き父と母、そして慈しんでくれた男のためにいとなみ、帝、中宮、そして東宮の三人と過ごす日々を楽しみに、世間を騒がせることもなく、心静かに暮らした。
そうして二年ののち、帝は将を二品内親王とする破格の扱いをし、ついに降嫁を許した。相手は順調に出世を重ね、左大将となっていた英士である。婚礼当日の壮麗さは長く語り継がれ、将と英士の仲睦まじさは都中の評判になった。堅物とからかわれながらも、外に通いどころを英士は持たず、日々を将と過ごした。
二人の住まう邸で開かれる管弦の宴には、大勢の客が訪れ、当代一の名手、英士と将の合奏に聞き惚れた。春の甘い靄と満月の光の中で、流れる曲は、人々を酒よりも酔わせた。
それを目を細めながら聞く、郭の大臣の腕の中には、可愛いさかりの御子がおり、御子はおじいさまの腕の中で、両親の奏でる楽の音をうつらうつらしながら聞いている。
郭の内大臣は、のちに太政大臣となり、息子共々、帝に仕えることになるが、彼にとって満足だったのは、将が健やかな子を一人でなく二人、三人と夫婦仲の良さを示すように生んでいってくれたことである。御子たちの無邪気な声は、この好々爺の耳を楽しませると同時に郭家の繁栄をも約束していた。
(終)
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