男の死後、英士は人目をはばからず、将をいとしむようになった。宮中にも参上せず、邸にも戻らず、小屋に上がり、語らいの内に日々を過ごした。
もはや、放ってはおけぬと大臣がそこで、初めて動きを見せた。息子を諭すわけでもなく、将を御前に召した。
「分かっておるな」
言葉はそれだけであった。将は平伏し、うなずいた。
分かりすぎるくらいに、分かっていた。身分違いと呼ばれる以前に、自分は人ですらない。叶うはずもない恋だった。夢とも思ってはいけない。すべて断ち切って、行かなければならなかった。
その日の内に、将は荷物をまとめた。英士は宿直のため邸には帰ってこない。出て行くのならば、今夜しかなかった。
将に同情を寄せる者たちが、こそこそとその準備を手伝ってやっていたが、やがて、一人の女が鉢かつぎの小屋からそっと離れていった。女は幾分かの銭と一緒に、ある男に文を託した。将と英士の仲立ちをすることは固く禁じられていたが、女が文を渡すように頼んだ相手は、女の夫であったため、男は請け合った。
郭家の若君の後を追った男は、何事もなく、女の夫に文を渡した。文使いの男と軽口をたたき合い、夫は文を開いた。
妻は、鉢かつぎに哀れみを寄せるものだった。結ばれるはずのない二人とはいえ、せめて最後に一目、あわせてやりたい。若様も、旅の路銀くらい鉢かつぎに与えるくらいしてやればいい。文にはたどたどしい文字でそう書かれてあった。
男は迷ったが、彼もまた鉢かつぎには同情を寄せていたために、口実を設けて、雑色の人群れから離れていった。
木立や藪に隠れながら、若君が宿直のために拝領した殿へと近づき、機を待った。
参内した英士は、父大臣の命を受けた供人たちに取り囲まれ、苛立ちを押さえかねていた。もう我慢ならない。今宵の宿直を終えたら、将を連れて、邸から出よう。
大路からは外れてはいるが、都のとある一角に、英士は小さな邸を持っていた。母方の祖母が英士に遺した邸であり、今までは人に知られたくない逢引に使っていたのだが、将と出会ってからはそのような目的には使っていない。
古めかしくはあるが、なかなかに風流な造りで、ことに前栽などは、小さいながらも実に心尽くした庭木の配置で、四季の移り変わりが目を楽しませてくれるのだ。
邸自体にも手を入れさせているし、人もやっている。調度も揃っているから、今日明日に自分と将が移り住んでも不便なく暮らせよう。
将は嫌がるだろうが、あのような邸に将を置いておきたくはない。邸を出れば人目からも解放され、将ももっと心ゆるしてくれるだろう。
すがりついてきた震える体を思い出し、英士は小さくため息を漏らした。早く、将を抱きしめ、二人きりの時を過ごしたいものだ。あの小邸で御簾を上げさせ、朝寝をゆるりと楽しむことを想像すると英士の胸は弾んだ。
一刻も早く、退出したい。時の進みようの遅さに、またもため息が漏れる。どうかなされましたかと供人がこちらに目を向けてきた。手を払い、黙らせると英士は焦ってはならぬと自分を戒めた。
気分を変え、涼むために端近へと出たとき、ぬうっと男が姿を現した。
下人の無礼に眉をひそめたとき、彼はぼそりとした声で、鉢かつぎが邸を出ることを告げ、足早に姿を消してしまった。
英士はすぐには動かなかった。ゆったりと歩き、何事もないように渡り殿を行き、牛車を呼んだ。牛飼童に低い、しかし何者も従わずにはいられない響きの声で告げた。
「邸へ急げ」
声音にあるただごとならぬものを感じ取ったのか、まもなく牛車は動き出した。
牛車の内の英士の横顔は、普段の彼を見知る者ならば目を見張るほどの、焦燥と不安に満ちたものだった。
荷を作り終えた将は、そのわずかばかりの荷を携え、親しくしていた者たちに別れと礼を告げると、邸を出た。まずは、男の墓に向かう。
道で花を摘み、それを墓に供えた。
「僕も、おやっさんと知り合えて、とても幸せでした」
それだけ呟いて、将は墓の前にたたずんでいた。行く当てもない。けれど、行かねばならなかった。日が傾き、闇が訪れる。月明かりが眩しくなってきても、将は動けなかった。
墓場に一人であることに恐ろしさはなかった。いっそ、物の怪でも出てきて、この身を食わぬものか。そう考えた将は、ふと微笑した。男は怒鳴るだろう。命を粗末にするものじゃねえと、将の頬をぴしりとやったかもしれない。
思い出にわずかに頬が湿ったが、それでも足を動かす気力は呼び戻してくれた。
今日は、どこかのお堂にでも泊まろう。行く先は明日、考えよう。
のろのろと足を動かし始めたとき、背後から声がかけられた。
「一人で行くつもり?」
将が聞き覚えのある声に息を止めた。足音が近づき、隠しようのない香が匂った。
「――郭君」
咄嗟に口をついて出た親しげな呼び名に、英士は満足げにほほえんだ。一応、彼なりに厭われたのかという不安はあったのだ。
粗末な旅装束の将の側に、英士は寄り添った。
「俺も行くよ」
「駄目だよ。郭君は、帝にお仕えして、これからどんどん偉くなっていく方なのに」
「そのこれからに、風祭がいなきゃ、どうしようもない」
「だけど……」
「だけど、も、でも、もないよ。もう決めたんだから」
英士は将の手を取った。
「――まず、風祭の両親のお墓に行こうか。結婚しますって知らせなくちゃね」
「郭君……」
「何があったって、離さないよ。俺には君しかいないんだから」
英士は将の手を握ったまま、静かに力強く、言った。
そのとき、りんと涼やかな音が響いた。同時に将の顔と頭を覆い隠していた鉢が割れ、地に落ちた。急に明らかになった視界に将は、思わず目を見張る。月夜なればこそ、久方ぶりの光に目を射られることもなかった。
将の目の前には、月明かりに照らされた、優美な気品溢れる直衣姿の男が立っている。
わずかな隙間からいつも憧れと慕情を秘めて見つめていた郭家の若君の姿が、何に遮られもせずにあった。怜悧に整った面立ちをひときわ目立たせる、切れ長の目を驚きと賛嘆にまたたかせ、彼は将を見ている。
「風祭……」
将は視線と声に訳もない恥ずかしさを覚え、うつむいた。さらりと髪が動き、耳にかかる。
英士が見出したのは、黒々と濡れたように光る髪と瞳を持った佳人だった。月光の下、恥ずかしげに今、顔を伏せてしまったが、英士は鉢の影にあった優しい形の唇を覚えていた。朧気だったものは、今や隠されもせず、英士だけの前にあった。
甘く締めつけるような喜びに突き動かされ、英士は囁いた。
「顔を、もっとよく見せてよ」
「だけど」
「俺の顔だって、見たんだから、おあいこだ」
英士は将の顎に手を掛けた。
親しい時間を長く共にしていながら、初めて顔を合わせた恋人同士は互いの顔と瞳を息を止めて、見つめ合った。
英士は指を伸ばし、鉢に守られていた愛らしい顔の輪郭を辿った。触れる指には、柔らかい肌の感触が与えられた。静かな愛撫に、将の頬が熱くなる。震える体に、愛しさを堪えきれなくなり、英士は将を抱き寄せた。隔てるものは何もなかった。息と息とが重なり合い、寄り添った。
唇を離しては重ね、味わえる限りの柔らかさを楽しんだ。将はやがて、ぐったりとしたように英士の腕によりかかってしまった。満足と新しい欲望を抱きながら、英士は将の体を受け止めた。染み入るようないとしさを感じ、将の肩を抱きしめる。
と、将の足下が光った。二つに割れた鉢の他に、地面には何かが落ちているようだった。英士は渋々、将の体を離し、そっとその場にしゃがみこんだ。将も何事かと足下を見つめる。
二人同時に、はっと息を呑んだ。
富裕な内大臣の息子である英士ですら、見たことがないほどの完璧な美しさを持つ真珠が数えきれぬほどにあった。それだけでない。珊瑚玉、白玉、琥珀、瑪瑙、翡翠、金銀が小山を作り、見事な金や銀の細工もの、様々な螺鈿、蒔絵細工もある。ずっしりと重たい玉の櫛もあった。帝その人でさえ、尊ぶのではないかというほどの品物ばかりだ。
「これが、ずっと鉢の中に?」
訝しげな英士の声に、将が首を振った。
「そんな。だって、重くも何ともなかったんだよ」
「確かに……」
奇怪な事態に英士は眉をひそめる。
足下で輝く財宝を見下ろしていると、漆塗りの文箱を見つけた。それだけが、燦然と輝く宝物の中で古びていたから目を引いたのだ。取り上げて、蓋を開くと文が入っていた。奥ゆかしい香が鼻をくすぐる。
英士は将の了解を得て、文を広げた。紙燭を灯し、その光の下、文を読む。何とも優美で匂い立つような手蹟だった。その手蹟が伝える事実に、さすがの英士の手も一度ならず、震えた。
読み終えて、英士は、横で小首をかしげながら財宝を見ている将を見た。
これを隠したとしても、将は自分を疑うまい。だが、そうはしたくなかった。事実なら、将は血の繋がりのある人びとに会えるのだ。
「風祭」
英士は将に文を渡した。受け取って、将も読んだ。文を持った手が震え、夜目にも顔が白くなった。
次に将は、文をくしゃくしゃにまるめた。引き裂いて、捨てようとした。予想していた英士はそれを止めた。小さな拳を自分の手に握り込んで、混乱している将を宥めた。
将は涙をこぼした。その震えている体を英士は抱き寄せた。
「ここに書いてあるのが本当なら、大変なことだよ」
将は英士の腕の中で首を振った。
「郭君と離れたくない」
「今更、離す訳ないでしょ」
しがみついてきた恋人の背中と頭を撫で、英士は将の顔を上げさせた。こんな瞳を持った将を手放せるほど、自分は人間が出来ていない。
「風祭は本当なら、逃げることも、追われることもない身分なんだよ。それどころか、無礼を働いた罪で郭家が罰せられても、おかしくない」
将はまたも強く首を振った。
「だから? 僕は郭君と一緒にいられるだけでいいのに!」
英士は笑んだ。こんなにやけ面、誰にも見せられないなとすぐに表情を引き締めたが。
「望めば東宮妃にだってなれるよ。他に幾らでも相手――」
英士の言葉を遮り、将は一言、言った。
「郭君がいい」
英士は、それ以上、言うのを止めて、囁いた。
「――俺も風祭だけだ」
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