鉢かつぎ
(三)



 次の夜、倉に現れた将に、英士は琵琶を弾かせ、続いて、琴も弾かせてみた。満足以上のできばえだった。驚いたことに、将は琴の琴も箏の琴も弾きこなした。
 英士は、次の夜も、その次の夜も、将に楽を奏でさせた。自分も琵琶や琴、笛を手にして、音を合わせるときもあった。
 英士は自分の音は鋭すぎると思っていた。逆に将の音は、とらえどころがないように、嫋嫋となまめかしい。しかし、二つの音が重なると、互いが互いの音を引き立て、酔うほどに美しい楽となった。
 楽を仲立ちにして、二人は深い言葉を交わすようになり、いつしか、そこに甘美なまでの優しい思いが流れるようにもなった。
 最初は身分を思い、まさかと信じられなかった英士であるが、将の甘い響きを残した幼い声や、粗末だがこざっぱりとした着物に隠された、柔らかくもしなやかな肢体。何より、己の前で見せる羞じらいや戸惑いが好意から萌していると知るにつれ、どうにも胸が乱れ、生々しく切ないまでの思いを感じるのだった。
 ――なぜ、これほどに将に心をかけるのか。
 小屋に住む祖父の具合がはかばかしくないと聞けば、湯浴みの際に薬草を携えた。時には薬師や祈祷師を差し向けるときもあった。もったいないと涙ぐむような声で将は礼を言う。その言葉に英士の胸は弾み、自分に力及ぶ限りのことをしたいと思う。
 英士は認めざるを得ない。将といるとき、英士の心は誰と共にいるときよりもくつろぐのだ。
 告げようにも告げられない、甘やかな思いに胸を騒がせながらも、夜の逢瀬は続いた。思いは張りつめ、弾けることを、それをきっかけにして流れ出すのを待ちかねているようでもあった。
 ある夜、英士は将一人に、曲を奏でさせていた。将は、どこかもの思いがちに途切れ途切れに、琴をつま弾いている。それもまた風情と英士は、脇息にもたれ、将を眺めやっていた。灯心一つのほのかな明かりに、鉢かつぎと呼ばれる将の異相が浮かび上がる。
 見慣れたものとして、英士は何も思わなかった。いや、ほんの少し見える将の小さな唇に、このところ感じてやまない、萌え立つような思いを湧かせていた。弦の上を、行き来する小さな指にも、我が身に流れる血は滾っている。いつしか、視線にまでその激しい思いが溢れていたのだろうか。その激しさを無意識にでも将は恐れたのだろうか。
 不意に、びん、と鋭い音が走り、将の手が止まった。
「どうした?」
「弦が切れて……」
 血が滲み出した指先を躊躇せず、英士は手に取り、口に含んだ。塩辛い、しかし、熱い味が舌を刺した。
 唇を離したが、英士は手までは離さなかった。
 将の小さな可愛らしい形の唇が震えている。手首の内側までが淡い紅色に染まっていた。
「若様」
 許しを請うような、羞恥の声に、英士は荒いともいえる口調で囁いた。
「名前でいい」
 そうして、怯え竦んだ将の体を抱き寄せた。

 ――こともあろうに、郭家の御曹司が、下人の一人に夢中になっている。それも、情けで置いてもらっている、人でなしの鉢かつぎに。
 噂は、もちろん大臣の耳にも届いた。大臣は驚き呆れ、言葉もない。が、さすがに内大臣ともなれば、騒ぎ立てることもなく、興味もいずれおさまろうと静観の構えを取った。そうはいかないのが、英士の母である北の方や、乳母、そして女房たちである。ことに女房たちは、憧れの英士の君が異相の者を相手にしたことに、女らしい嫉妬と憎しみを抱く。
 上の者の感情は自然、下の者にも影響していった。鉢かつぎの性質を知り、英士との恋をひっそりと陰ながら見守る者もいたが、それはわずかだった。
 露骨な態度や言葉をもって、つらくあたるものがほとんどだ。人の心の変わりようは、身に染みて分かってはいたけれど、それを悲しく思う気持ちだけは慣れようがない。
 ことさらに、きつい仕事を与えられ、それに憤った英士が将をかばえば、なおさらに周りの憎悪や嫉妬は深くなる。
 英士もこの頃では、宮中での雑事が増えて、邸にもなかなか戻れなくなっているから、風当たりはきつくなるばかりだ。
 英士は自分が住まうところを用意するから、邸から離れるようにと何度も言ってくれているが、将は踏み出せない。
 恋い慕う若君ではあるけれど、英士と会っているときでさえ、将は落ち着かなかった。己の思いも、英士の思いも恐れさえした。この恋は幸福を孕んでいるのではなく、さらなる悲しみと不幸をもたらすとしか思えなかった。すべてにおいて優れた公達の傍らに、このような異相が寄り添っていいはずがない。
 身の置き所のない将の居場所と言えば、邸へやってきたときに与えられた粗末な小屋しかなかった。そして、そこには病を得た男が横たわり、すでに近づきつつある死の時を待っているのだった。
 男が命を手放さないのが、ひとえに自分の身を案じてなのが、将には分かっていた。この邸に来たことで、男が自分を責めているのも分かった。
 けれど、邸に来なければ男はとっくに死んでいただろうし、今、ここを出ても死が遅いか早いか、それだけでしかなかった。行く当てさえあれば、と男がいまだ小康を保っていた頃は口にしていたが、このころはもう黙りきりで、ただ深い案じるような眼差しで将を見上げるのだった。その眼差しにどんな言葉をかけるべきなのか、将には分からない。ふたたび、やってくるであろう喪失と別離の予感に恐れおののくばかりであったのだ。
 男の側に付き添えば、不安にさいなまれ、外で働いていれば、悲しみを味わう。それが将のこの頃の日々だった。
 その日も普段なら五、六人で交代してやる水くみの仕事を一人、押しつけられて、何とか大瓶数本分を満たして、夕餉をもらおうと厨へ行けば、厨を仕切る女は、ちらと将を見やった後、鼻を鳴らした。
「なに、ぐずぐずしてるんだかね。もうみな食べ終えて残りなんかないよ」
 それだけ言い終えるとくるりと背を向けて、将の方を見ようともしない。周りの女たちがくすくす笑い、何事か囁きあう。
 内の一人が、わざとのような大声で言った。
「鉢かつぎの姫さまにおかれましては、下々の食べ物なんて口に合わないでしょうに」
「そうでございますよ。若君様のご陪食をおつとめになったらよろしいのでは?」
 あてこすりに笑い声が起きる。
 あまりの情けなさに将は唇を噛んだ。きびすを返すと、さらなる笑い声が起きる。
 厨を出ると、風が冷たく身に染みた。自分の夕餉はまだしも、男の分はどうしようか。小屋にあるわずかな食料を思い出し、将はともかく、それを煮炊きしようと足を速めた。
「鉢かつぎ」
 早口の小声で呼び止められた将は振り返って、そこに下働きの女を見つけた。
「ほら。誰にも言うんじゃないよ」
 女はまだぬくもりがかすかに残る粥の入った椀を将に押しつけ、早足で去っていった。
 礼を言えば誰かに聞きとがめられるかもしれない。将は頭を下げて、椀を抱えると、小屋へと急いだ。

 戸板代わりのむしろをそっと上げて、小屋に入ると男は眠っていた。小さな、苦しげな寝息だったが、将は安堵した。
 男の側に粥を置いて、将はふたたび外へ出る。このところ、眠りの浅い男は、人の気配に敏感で、将が戻ってくるとすぐに起きてしまう。男にはこんな顔を見せたくはない。
 将はくみ置きしていた水で顔を洗った。涙はしたたる水に混じって消えてしまった。顔を拭き、頬を叩き、顔を動かしてから、また小屋に入ると、男が目を開けていた。
 将を見上げ、唇を何ともいえない優しく、悲しげな形に動かした。
「――つらいだろう」
 男の側に膝をつき、将は首を振った。
「つらくなんて、ありません」
「こんなおいぼれ抱えて、苦労ばっかりしやがって」
「それを言うなら、おやっさんだって、僕みたいなお化けを連れて、苦労してます」
 男が笑う。笑って、咳き込んだ。
 将が身を乗り出すと、大丈夫だと男が手をさしのべた。その手は、最初、将を川から引き上げたときとは比べものにならないほどに病み衰え、やせ細っていた。
 邸に引き取られ、英士の差し向けた医師に診せても男の具合はよくならなかった。長い放浪の旅の間に、その体はめっきりと弱り、今は日がな一日、うつらうつらするだけだった。食も細くなり、このごろでは粥をすすってくれれば良い方だ。
「僕の事なんて、気にしないで、自分の体のこと、考えてください」
 将は粥を注いだ椀に目を落とし、ため息をついた。
「もっと食べなくちゃ」
「お前が食べろ」
「僕の分は、ちゃんともらってます」
 ははと笑った男は、ふうっと長い息を漏らし、体を横たえた。その呼吸はいつものような苦しげなものではなく、どこか穏やかだった。
 そこに安堵ではなく、不安を感じ、将は首をもたげた。
「おやっさん?」
 将が握ったその手はすでに冷たくなりかけている。不安が胸に広がっていく。きつく握りしめても、握りかえしてはこない。もうすぐ、将の手を振り払って、どこか遠いところへいくような、そんな力の無さだった。
「おやっさん」
「……俺はな、お前と会ったときからずっと考えてたんだ」
 男の声はか細くはなかった。厳かですらあった。
「人ってえのは、どっかで必ず、幸せになるときがくるもんだ」
 男は優しい、愛しげな眼差しを将に向けた。
「俺は、お前に会えて、幸せだったぜ。若様だってそうだろうよ」
 声がかすれていく。瞳からは力が失われていく。
「そんな言い方いやです」
「なあ、将坊、お前の鉢は、きっと神仏の護りだろう、そうでなくちゃ……」
 男の言葉は途絶えて、将が握っていた手からも力が抜けた。
 将は手を握ったまま、動かなかった。
 足音が響き、入り口のむしろがあげられた。
「風祭」
 声にも将は振り返らなかった。穢れに触れるからと言うこともできなかった。
 涙がとまらない。逝ってしまった。父とも慕い、祖父とも思った男が。子のように厳しく、孫のように自分を可愛がってくれた男が。
 一見して、事情を悟った英士は、将の隣に膝をつき、肩を抱いた。
 将は初めて、自分からその胸にしがみついた。胸内で、泣きじゃくった。
 英士は慰めの言葉は口にせず、ただ将をしっかりと抱いていた。
 ――男は英士の指示で手厚く葬られた。男の墓の前で、将は英士を見上げた。なぜ、彼なのだろうか。思えば思うほどに悲しかった。


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