随身や供を賑々しく引き連れ、牛車に乗る貴人こそ、左右両大臣をもしのぐ富裕さで高名な郭の内大臣である。もっとも、人柄の悪い男ではなく、万事、鷹揚で、寛大であったために、下の者たちにも慕われていた。
帝の覚えもめでたく、我が世の春を謳歌する人物なのであるが、彼にも悩みが一つだけあった。
幾人もの女の元に通っても、子どもが北の方との間に設けた嫡男以外、生まれないということだ。もっとも、その嫡男が何にやらせても文句のつけようのない、素晴らしい息子であったので、郭の大殿は、十頭の凡馬よりも一頭の名馬を得る方がよいとして、この息子の成長を楽しみに、また自慢の種にもしていた。
若君の名は英士といって、ことあるごとに優れたわざを見せた。和歌も漢文もほれぼれする出来のものを事も無げに作る。声も良く、器量も優れ、参内すれば、女房たちのうっとりした視線が、この息子の後を追う。帝も利発なこの公達を心にかけているし、東宮とも親しい。
これほどの息子を持って、郭の大殿はたいそう満足だった。あとは、しかるべき家柄の娘とめあわせ、その娘との間に娘や息子を得て、それを東宮や方々の権力者たちの御子に娶せれば、郭家も安泰ということである。
とはいえ、郭の大臣の本心は、早く孫が見たい、ということにあったのだった。意外にも子ども好きの彼は、息子以外にも多くの子どもたちの笑い声や姿が、自分の広大な邸の内に見られることを望んでいたのだ。ことに、息子が早い内から大人びて、子どもらしい時期など瞬きする間ほどしかなかったとくれば。
降るように持ちかけられる縁談を考えれば、それも遠くないことだろう。大臣は、日々を心楽しく、やすらかに過ごしていた。問題といえば、英士の好みが思いの外、気難しいということくらいだが、なに、あれだけの息子、それくらい厳しい方が、良い相手も見つかることである……大臣の心は揺るがなかった。
――その日、内大臣は宮中から退出して、二条にある邸へと戻るところであった。牛車の内で、このまま女の元へと通おうか、しかし、それも北の方どのの嫉妬を思えば怖いものであるし、とつらつら考えていると、前払いの声の中に、しっしっと舌打ちするような、鋭い声が響いた。
何やら、追い払っているようでもある。さて、獣か何かかと思ったが、笑い声も響いてくる。
これ、と命じて、供を一人呼び寄せる。大臣のお召しに、随身の一人が膝をつき、問われるまま、申し上げた。
「物乞いがおり、追い払おうとしたのでございますが、その、妙な連れがおりまして」
「妙だと?」
「卑しい姿ではありますが、口を利きますので、物の怪とも思えず……」
大臣が好奇心から、御簾を持ち上げ、のぞいてみれば、なるほど、妙な連れが物乞いらしい男を支えていた。細い手足に不似合いな大きな鉢が頭をすっぽりと覆って、顔も見えない。
「なんだ、あれは」
「さあ……どうにも面妖な輩でございます。追い立てましょう」
「ふむ……」
大臣は、あまりの奇妙でみすぼらしい姿に、一抹の哀れを覚えた。
「よい。邸に連れ帰り、何ぞ与えてやれ。あの鉢をかついだ方に適当な仕事もやらせれば良かろう」
主の気まぐれに戸惑いつつ、供の男は言葉を伝えた。男は大臣の憐れみを拒もうとしたが、連れは深々と頭を下げ、男を支えながら、行列の後に続いた。
邸へ戻ると大臣は自分のかけた哀れみをふと思いやったが、それきり、忘れてしまった。しかし、供たちは大臣の言葉をしっかりと覚え、その奇妙な二人連れを仕方なくではあったが、邸へと迎え入れたのだった。
邸の者は男を、爺、と呼び、その連れのことは見た目を取り、そのまま鉢かつぎ、と呼ぶようになった。
この鉢かつぎは、万事控えめで、姿を恥じるがごとく、出しゃばる様子は見せなかったが、人一倍、まめまめしく働いた。人の厭がることを自ら行い、愚痴も漏らさず、くるくると広い邸内を動き回る。そうして、手が空いたときは与えられた小屋に住む、病身の祖父の世話に努めるのだった。異様な姿も、働く内に人々は慣れたと見えて、鉢かつぎの姿は気にしなくなった。
陰ひなた無く働く、鉢かつぎを気に入る者も出てきて、そういう者は古着や、食事の余りを分けてやった。老人のための布団も与えた。中には、鉢かつぎの体が若くすらりとしたのを見て、ちょっかいをかけたり、気を引こうとする者もいた。
それを良しとしない、家の事々を司る女房は、鉢かつぎを、湯番にさせた。湯番の仕事は始終煤に汚れる。しかも、薪も運ばねばならない、苦しい仕事だった。
下人たちは鉢かつぎを憐れんだが、女房に逆らってまで、かばうことは出来なかった。睨まれて、職を失うより、影でこっそり、鉢かつぎを慰める方を選んだ。鉢かつぎは、気にしないで下さい、と言い、逆に彼らに慰めた。
来る日も来る日も、鉢かつぎは主人たちのために湯を沸かし続けた。
そうして、ついに鉢かつぎは郭の内大臣の秘蔵息子を目にすることになったのだった。
英士は、父が奇妙な風体の者を、邸で働かせていると耳に挟んだことはあったが、姿まで目にしたことはない。若君の目に届くような範囲の仕事など、鉢かつぎはしていなかったし、触れていいような輩でもない。
が、湯番となると、話は違った。何となれば、湯加減を聞かなければならない。といっても身分が違うので、それは会話にもならず、若君や湯番の独り言という形で、交わされるのだ。そうして、湯番はときに主に命ぜられるまま、湯殿へと上がり、湯浴みの手伝いをすることもあった。
英士は外から聞こえる湯番の声の若さに興を覚え、何心なく湯浴みの手伝いを命じた。やってきたのが鉢かつぎと知っても、驚きはわずかに瞳を見張った程度であった。
湯番はやはり、若かった。蒸気で衣がぴったりと身に張りついていているため、細身でしなやかな体つきが見て取れた。継ぎのあたった粗末な衣ではあったが、こざっぱりしている。肌は煤で黒くなっていたが、濡れて汚れが流れた部分を見れば、白くなめらかな肌が覗いていた。
失礼します、という声の涼やかさや、湯を掛け、背中を流す仕草にも、ただの下働きの者とは違う、いうなれば品が感じられた。顔は見えぬものの持ち上げられた腕の形良さや仕草のなんともいえない様子に、英士は少し、感心した。
思いもかけない者が、意外な良さを持っているものだ。鉢を頭に被る奇妙な姿だが、仕事ぶりには何の落ち度もない。
気難しい英士ではあったが、湯番の控えめだが聡明な様を気に入り、自分が湯を使うときは、必ず、この湯番を湯殿に侍らせるようになった。だからといって、英士にも湯番を勤める将にも変化が訪れたようには見えなかったが、すでに、その萌芽は生じていたのかもしれない。
英士は気まぐれに鉢かつぎに、話しかけてみることがあった。鉢かつぎは、思いの外、可愛らしい声で、英士に応えた。そこには、こざかしさやおもねりはなく、会話の出来る喜びに満たされていた。言葉一つとっても、並のものでない受け答えをする。
英士はいつの間にか、鉢かつぎとの会話を心待ちにするようになった。だからといって、湯殿以外で会うなどとは考えもしていなかった。鉢かつぎは、下人の一人だ。しかし、湯を使うのは英士の楽しみの一つとなっていた。
ある日のこと、英士は鉢かつぎに体を流させながら、ふと訊ねてみた。
「お前は、一体、いつからそんな姿をしているんだ?」
「さあ。もう何年にもなりますが……よく覚えていません」
ほんの少し、鉢かつぎの声が湿ったようだった。英士は鉢かつぎを見やった。何か泣き言を口にするのだろうかと思った。しかし、鉢かつぎはそのまま英士の体に丁寧に湯をかけた。
そのとき、英士は鉢かつぎの悲しげな声を初めて聞いたのだと思い至った。その声は長く、英士の胸に残った。
余韻を残しながら、しかし、英士は鉢かつぎには今までどおりに対した。下人との付き合い方などそのようなものでしかないだろう。ある夜の気まぐれがなければ、英士が鉢かつぎを、将、という存在で眺めることなど一生、なかったかもしれない。
ある夜、夜歩きにも心が向かず、つらつらと英士は時を過ごしていた。そのうちに、広廂から月を眺めつつ、周りに侍った者たちにものを語らせてもみたが、どうにも興がのらない。
夜空には満月にしては、まだ幾たりかの欠けが目立つ月がかかっている。今宵の靄がかったそれが、満月よりも人の心をなんとはなし、ざわめかせているのか、英士を落ち着かせなかった。
唐渡りの名笛を口に当て、一節、二節、吹いてみたが、しっくりこない。いっそ、一人になればよいかもしれないと、英士は、庭をそぞろ歩くことにした。
手に持った笛をもてあそび、埒もないことを考えながら、気の向くままに、歩く。見慣れた庭ながら月明かりに浮かび上がる風景は、趣があった。
どの辺りまであるいた頃か、忍びやかではあったが、優美な琵琶の音が響いた。英士は庭を行く足を止め、耳を澄ませた。細く、震えるような、しかし、確かな技量を思わせる琵琶の音である。庭の奥、倉のある方角から、どうも聞こえてくるようだ。
英士はいかなる、あやかしがこのような美しい音をつま弾くのであろうかと、いぶかしく思いながらも足を進めていった。音は途切れない。それが、英士の足音を消した。雲が風に吹き払われ、月明かりが行き先を照らし出す。
倉の入り口は開いていた。賊かと一瞬、思ったが、切なくも美しい琵琶の音を奏でる賊ならば、その腕に免じて許しても良いかもしれない。
戸にさしかかり、そろそろと倉の中をのぞく。静かな動きではあったが、眩いばかりの満月の光は、英士の長身によって遮られた。
しかし、琵琶の音は続いている。曲は、おそらくは月の美しさとそこにかかる雲を愛でるものらしかった。今風ではない、古めかしい、それゆえに奥ゆかしい曲調である。
英士は曲と、またこれを奏でる者への好奇心があったので、いつもの優雅な動きを忘れ、足早に倉内に入った。さすがに足音を聞きつけ、琵琶の音は、きん、と哀しい音を立てると、やんでしまった。
「誰だ?」
鋭い英士の誰何に、ことりと小さな物音が聞こえた。英士はそちらに近づき、物陰に隠されていた明かりに気づき、それを取り上げ、かざした。
現れた頭でっかちな異様な影に目を見張った。
「申し訳ございません……」
湯番の鉢かつぎが跪いて、震えていた。
「お蔵に道具を仕舞いに来ていました」
「お前が、弾いていた?」
驚きに充ち満ちた英士の問いだが、おびえ震える鉢担ぎの声はただ謝るばかりだ。
「申し訳ありません」
「いいから、答えて。お前が、あの琵琶を弾いたのか?」
「はい……」
英士は黙りこくった。この、人とも思えぬ奇妙な姿の鉢かつぎが、どのような弾き手もあれほどには弾けまいというほどの音を奏でていたとは。
その驚きの沈黙を怒りと受け取ったのか、鉢かつぎの声は震え始めた。
「本当に申し訳ありません。二度と倉には近づきません、どうか、お許し下さい」
「立って」
鉢かつぎは、そろそろと立ち上がった。埃と煤に汚れた着物姿が、まだ震えている。小さな膝が赤くなっていた。
英士は声音を和らげ、鉢かつぎに言った。
「怒らないから、もう一度、琵琶を弾いてみてよ」
「え……」
「ほら、早く」
鉢かつぎの手が、英士の言葉に押されて、琵琶を取り上げる。指先がしなやかに動いて、身が震えるような音を奏で出す。月の光が葉に宿り、露玉となり、地に落ちる。その輝きの様が目に浮かぶ。嫋々とした余韻が消え去るまで、英士は呼吸すら忘れたかのようにその場に立ちつくしていた。
「あの、若様……」
おずおずした鉢かつぎの声に、英士は我に返った。
「名前」
「は?」
「お前の名前」
「風祭将、です」
「そう、風祭」
英士はうなずいた。
「じゃあ、風祭、明日の夜もここに来るように」
「え」
「分かった? 二度も言わせないでよ」
「は、はい」
「いっていいよ」
「はい」
将は戸口へと向かって、歩き出した。英士の横をそっと通り過ぎる。その腕を英士は咄嗟に掴んだ。その細さと柔らかさに掴んだ自分でも驚いた。
少し喉にからむような声で訊ねた。
「誰に琵琶を教わった」
「母様に」
「そう」
うなずいた英士は、しかし、将の腕を離さない。
「お手を……」
鉢かつぎの声に混じった羞恥に、英士は胸苦しいくらいの思いを覚えた。
指を離しながら、念押しした。
「明日、必ず、ここへ」
「はい」
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