東の某国で、ある女が死に瀕していた。
女はすでに自身の死を悟っていた。命も惜しくはあるまい。死も哀しくはあるまい。すでに先だった夫の後を追うだけである。しかし、彼女の魂を、いまだ浅ましいまでに肉体に縛りつけているのは、我が子の先々のことであった。
夫が死んで三年。長いとも短いともいえる月日だったが、女にとっては哀しみの内に過ぎる日々であった。唯一の慰めが、子どもであり、その子は、女が思う以上に利発で素直で、心優しく育っていった。だが、身よりのない、素性の知れぬ女とその子に対する亡き夫の家族の仕打ちは、冷たかった。それがまた女の死期を早めたのかも知れなかった。
我が子を思う限り、どれほど苦しくても、切なくても、まだ死ねはしない、死にたくないと思う。しかし、それも終わりに近づこうとしていた。
まだあどけない我が子が、母の顔をのぞく。その大きな黒々とした瞳は涙を堪え、薄紅の唇は震えながら母様と呼んでいた。
我が子に答える母の声は、すでに苦しいあえぎにしかならない。
自分が死ねば、この子は一体、先々どうなるであろう。女は子の行き先を思い、涙をこぼした。
子もまた、母の涙に泣いた。
「母様、死なないで」
やせ衰えた女の面は、かつて花すらその前では羞じらうとまで言われた、美しいかんばせであった。都の貴族という貴族の心を騒がせた面はしかし、たった一人の男の前でだけ、羞じらいと喜びに頬を染めていたのだが。
男と生きたことを女は後悔していない。男と共に旅立ち、子を囲み生きた日々は、女にとって二つとない幸福であった。だからこそ、女は去り行く世に残していく執着を思い、ただ一心に、ひたむきに祈った。
いかなるお告げがあったか、母は子にある頼み事をし、子が母の願いをかなうべく、部屋を出た間に、女は力の限りを振るって、一つの品物を探し、文をしたため、文箱へと仕舞った。
母に言われたとおりのものを用意して戻ってきた子は、床の上にしっかりと座った母に驚き、すぐさま側へと駆け寄った。
「母様、横になっていないと」
「将」
母はきかず、将が土間から持ってきた鉢を折れそうに細い手で取り上げた。
「どうぞ、この子に私と夫の分までの加護と幸福を。そのためならば、私は地獄に落ちようと魂が滅されようと、かまいません」
「母様」
母は文箱を子の頭に乗せ、その上から鉢を被せた。すぐにもずり落ちるかと思われたが、鉢も文箱も、子の頭にぴたりと張りついたようになって動かない。重くもない。
暗くなった視界に子がとまどっていると、薬湯と病人独特の饐えた甘い臭いを漂わせ、母が子を抱きしめた。
「将」
呼ばれて、将は目を閉じた。
「一人にして、ごめんね」
その夜、女は死んだ。
残された将を、人々は持てあました。母親の葬儀の間は、哀しみに心が迷っているのだろうと見過ごすことは出来たが、それも終わった今、将は目障りだった。
いかなるあやしのわざを使ったものか、将は頭と顔を覆うようにすっぽりと鉢を被っている。その表情をうかがい知ることはまったくできない。
「あれを外すように言え」
女の夫が死んだ後、その地位を受け継いだ親族の一人がいった。命ぜられた家人はためらいがちに返答した。
「それが、膠ででも貼り付けたように、くっついており、何人で引っ張ろうと取れません」
その通り、大の男が数人がかりで引っ張っても、将の頭から鉢は取れなかった。無理矢理取ろうとすれば将の首が抜けてしまうだろう。
土で出来た鉢だというのに、棒で叩いても、石を打ち付けても、火や水をつかっても、割れない。ヒビすら入らなかった。将が苦しがるだけなので、どうしようもない。
これは女の夫の財産を得ようとすべく、画策する者にはちょうど良かった。将をうとんじる立派な理由が出来たのだったから。それが当然とでもいうように、将は父の家から追い立てられた。
母の墓の前で、将は少し泣き、涙を拭い、生まれ育った地から出て行った。
行く当てなどない。父が生きていた頃は父母の教養、そして人柄にふさわしい教育を受けてきた将だったが、それは琴や琵琶を奏で、和歌を詠み、花を愛で、書を読み、絵巻物を繰るといった貴族たちのわざである。日々のたつきを得るための技は知らず、働いたこともなかった。ましてや、大きな鉢を被った姿である。どこにいっても目立ち、笑い者になった。
子どもたちは石を投げかけ、鉢の化け物、妖怪と囃したて、将をこづき回した。大人たちは蔑み、将が近づいたり、言葉を掛けようとしたりすれば、呪いが移るだの、おぞましいといって、追い払った。
わずかな善意の人々が、食物を分け、軒先を貸してくれた。苦しく、つらい日々も将の心根を歪ませはしなかった。だが、悲しみは深まった。
父もなく、母もなく、生まれ育った家から追い出され、ただ、人々に忌み嫌われるだけが己が人生というのが、むなしく思えた。一度ならず、この鉢をかぶせた母を恨めしくも思った。それも亡き父母への恋しさに打ち消された。
さびしさを抱え、将は旅を続けた。向かうともなく、足は都へと向かっていたが、将は自分がどこを目指しているかも知らなかった。
大雨の降ったある日、将は、堰を見回っていた男たちから犬をけしかけられた。ずぶ濡れになりながら逃げ、犬からどうにか逃れたところで、つまづいて、全身が泥にまみれた。
ぼろぼろの着物が、いっそう汚れ、その冷たさと汚泥の臭いとが、将の心を砕いた。地べたにうずくまったまま泣いても、もはや、何の救いも、希望も見いだせなかった。
雨が上がり、日が差そうとも将の体は心と共に冷えていた。将は土手に立ちつくし、水量の増した河に見入っていた。
茶色く濁った水が渦を巻き、泡を弾かせながら、どうどうと流れていく。なぜだろうか。水があたたかそうに思えた。母の胸、父の腕を思い出し、吸い込まれるように、将は河へと身を躍らせた。あっと叫び声が上がったが、声の追いつく間もなく、将は水の中へと落ちていった。
深く沈んだと思ったのも束の間、一度は沈んだ体がぶかりと浮かぶ。激しい流れに押されはするが、沈みはしない。将はどうしてだろうと不思議に思い、気が付いた。鉢だ。頭に被った鉢が浮きの役目を果たしているのだ。
なんて滑稽なのだろうか。将は鉢の内で泣き、笑い、ただ水に漂った。
ぷかりぷかりと河に浮かぶ鉢を、岸と岸を行き来する渡しの船に乗り合わせた人々が怪しみ、引き上げた。
なんと、鉢には小柄な人間がくっついている。船上の人びとは呆気にとられ、物の怪かお化けかと騒いだ。
将は船の端に寄り、うずくまって、死に損ねたことを悔やんだ。命長らえたことを恨んだ。人びとは好奇や哀れみ、同情の目で見やるばかりであったが、一人だけ怒った男がいた。言葉荒く、しかめ面を見せて、将に言った。
「いいか、そんな風になったからって、世をはかなんじゃいけねえ。そういうことは偉い奴や坊主に任せとくんだ。俺たちみたいなのは、毎日毎日をちょっぴり生きていけばいいんだ」
男の叱咤には、思いやる心が秘められていた。
「僕は、でも、こんな、みっともない姿で」
「なんでい、鉢を被っただけだろうが。そんなもん、見慣れたら、みっともなくねえ。雨の日にだって傘はいらねえ、雪だってしのげる。立派じゃねえか」
将は、鉢の中で目をこすった。母が死んで以来、初めて触れた人のあたたかさに涙がにじんでいた。
それから、将はこの名もない男と共に旅を続けた。男は将に名を教えてはくれなかったが、将は男に言われたとおり、彼をおやっさんと呼び、祖父とも父とも慕った。
男は薬草売りだった。あちこちを歩き、途中途中で摘んだ薬草を人々に売り、そのわずかな代金で日々の糧をあがなっていた。将は男を手伝い、野で、森で、薬草を探し、干し、乾かし、男が薬を調合するのも側で助けた。将の姿を不気味がって、薬草を買おうとしない者もいたが、男は将を追い払おうとせず、共に旅をした。
飢えもあった。寒さもあった。渇きもあった。容赦ない日に照らされ、歩き続けるだけの日々もあった。そんな中で、将と男は寄り添い合うようにして、旅を続けていった。
それは貧しくとも、何とあたたかい日々であっただろうか。しかし、都へたどり着く頃に男は病を得てしまい、体を弱めてしまった。頑健だった体がやみ衰え、市へ店を広げるのも大儀な有様だったが、男は一日として休もうとしなかった。
将は男に養生して欲しいと頼んだが、男は聞かない。仕方なく、二人で市へ向かったが、その日はことさらに陽気のいい日で暑いほどであった。
店を開いている間は気力が勝っていたらしいが、市も終わり、二人で廃寺へと帰ろうとすると、一日、客の相手をしていた男は、突然、すまねえと将に謝って、道の途中で座り込んだ。
病を得て以来、今まで以上に弱みを見せるのを厭がりだした男のこの様子に、将は感じていた不安がいっそう募り、男を支え、手にしていたむしろを地面に敷いて、男をそこへ座らせた。自分に寄りかからせて、少し休ませる。遅くてもいい。男が充分、体を休めてから、ねぐらにしている廃寺へ帰ろう。
明日からは一人で市に出なければ。忍び寄る不安とおそれを、明日からのことを考えることで押し殺し、将は男の手足を少しでも温めようとさすった。
道の彼方からは、なにやら賑やかな声が響いてくるが、将の耳には届かない。
帰路を急ぐ人びとはつと足を止め、その行列を眺めやっている。それは確かに一見の価値のある豪華で華々しい行列であった。
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