春暁
(3)



 千蘭が乱を起こしたのは、将が嫁いで、四年の後であった。
 それから三月。千蘭の兵は、次々と街道を制し、砦を打ち倒し、要所を押さえた。金の国の大部分は千蘭の手に落ちた。後は王都阪司が残るのみである。
 金王はいまだ降伏を善しとせず、抵抗の構えを見せている。幾度か、人質である公主の存在を匂わせた使者を送ってきたが、護は相手にしなかった。心中、どれだけの思いに苛まれていたかは定かでないが、護も功も、それをおくびにも出さなかった。
 そうして、後宮にいるはずの将の消息は、反乱が起きて以降、途絶えた。生死も定かではなく、落ち延びてくる者の言葉も、また推測と想像が大きく、正確な事実はうかがえなかった。
 王都攻めの日が明朝と通達された夜、黒川は功に呼ばれた。それも内密にである。天幕を訪れてみると、人払いがしてあるのか、功と護以外に誰もいない。
 ひざまずいた黒川は主君に対する礼をした。功は席を勧めると、口を開いた。
「黒川、阪司での武功は諦めてもらいたい」
「は?」
 思いも寄らない第一声に、黒川は目を見張った。都に至るまでに、数々の武者の中でも第一の武勲を上げ、このいくさ終えたのちは、位階昇進も間違いないと評されていただけに、戸惑った。
 黒川の疑問に構うことなく、功は鋭い口調で問いを発した。
「お前の部下に忠義と武勇に優れた者は幾人いる」
「十人です」
「十人のうちでとくに優れた者は」
「二人」
 功がうなずき終えると、護がゆったりした、重々しい声音で告げた。
「その二人を連れて、金公宮へ向かってもらいたい。誰を捜すかは言わぬ」
 黒川は押し黙った。自分にそれを命じるのかと思った。引き裂くような残虐さであり、ほとばしるがごとき歓喜があった。
「生きているか、死んでいるか。――生きていたらここへ」
 黒川は武者として誓った。
「命に、換えましても」
 護の声音に、何かが滲んだ。寂寥とでもいうべきか。
「それには及ばぬ。もはや、亡き者に近い。――翌朝、金公宮に火を放つ。間に合わなければ、己の命を第一に考えよ。よいな」

 準備のために与えられたわずかな時間の中、黒川は手のひらの上の指輪を眺めていた。普段は皮の小袋に入れ、胸に下げている。中身を取り出すことは滅多にしなかった。
 将が持っていたそれは、先の公主、そして王価将軍夫人であった将の母親の持ち物であったために、黒川の指にははまらない。
 ここに、心の一つがあった。取り戻せるなどとは思わない。だが、追うことは出来るはずだ。
 功に手渡された金公宮の図面を眺め、それを頭にたたき込む。特に重要なのは、後宮であろう。
 図面は金からの亡命者が携えていたものだ。
 王都から逃げ出す者は多く、中には宮廷の情報を携えて、千蘭王の慈悲を請う者もいた。だが、将の身についてだけは、誰も答えられなかったのだ。千蘭の反乱が起きた時点で、将が公の場に姿を現すことはなくなり、側仕えの侍女ですら姿を目にすることはなくなったという。
 王宮に仕えていた者の意見で共通していたのは、入輿してからの将の元に、金王は定期的に訪れてはいたが、寵が目立つわけではなく、ひっそりと暮らしていた、とのことだった。尊重はされていたが、それは将の背後にある千蘭という国をはばかってのことであろう。
 広い王宮の一部とはいえ、妃や女官、彼女たちに使える侍女や宦官も含めれば、数百人に及ぼうかという人間が起居する後宮である。今はその半分以下に減っているだろうが、この中からたった一人を捜さねばならないのだ。それも夜明けまでに。出来るか、出来ないか、ではなく、成すか成さぬか。それだけだ。
 やがて、近衛兵が黒川をうながしに、天幕を訪れた。交わす言葉は、確認のためのわずかなものだ。闇夜に紛れ、陣の外まで向かう。
 黒川を案内した近衛兵は、別れ際、低く短い声で告げた。
「ご無事を願っております」
 己に向けられた言葉は、同時に、黒川の求める相手にも向けられていただろう。春の公主の面影は、いまだ千蘭の民の心に強く残る。一体、どれほどの願いを背負って、宮殿に自分は赴くのだろうか。
 手綱を持つ手に、知らず知らず、力がこもった。

 辿り着いた城壁に兵の姿は見あたらない。そればかりか、ここに至るまでに見かけた兵の数はわずかであった。警備の薄い場所を狙ったとはいえ、王の住まう宮殿を守る者がいない、という事実は、たとえ窺見からそれを伝えられていても、武人である黒川には衝撃的だった。
 こればかりは、最後の勤め、といわんばかりに固く閉じられた城壁の門を過ぎて、しばらく馬を走らせると、もたらされた情報通り、周りよりも、少し低くなった城壁があった。
 金の動乱期、低い城壁を易しとみて、攻めた敵は、周りの塔から弓を射られ、煮えたぎった油を注がれたというが、長い繁栄と退廃の果てに、今は一兵卒も見あたらぬ。
 静まりかえった城壁の前で馬を下り、黒川は携えてきた物をもう一度、確かめ、その中から縄を取り出した。
 先に鉤をつけた縄を幾度か、放り、壁に食い込ませる。付き従ってきた二人も同じような動作を繰り返し、鉤がしっかりと食い込んで、離れないのを確認すると、黒川の指示を待つように、彼に視線を移した。
「上がるのは五助、次が俺だ」
 うなずいた五助は縄を握り、すぐにも壁を登ろうとしいたが、それを止め、黒川は二人に告げた。
 六助は城壁の下にて、馬を見張り、何かあれば、すぐさま陣に戻れるようにして、待機しておく。五助は城壁にて、黒川を待つ。日の出近くなっても戻らなければ、陣に戻り、御前にこの旨を知らせる。
 何か言いたげな、いや、言葉を発そうとした二人に黒川は微笑と笑みを向ける。
「俺とて死ぬつもりはない」
 安心しろ、と重ねて言うと、黒川は五助をうながした。上がった彼に続いて、黒川も城壁を登る。
 二人が上がるのを黙って見ていた六助は、やがて、その姿が城壁の上へ消えるのを見ると、三頭の馬を藪陰へと引き連れていった。
 
 五助を待たせ、一人降りた城壁の階段から厩舎の横を過ぎ、黒川はさらに奥へと向かう。手入れの行き届いていない庭園には、藪が生い茂り、見回る者もいない。足元では落ち葉がかさかさと音を立て、立ち枯れた草木は風が吹くたび、もの悲しげな音を立てる。
 外からもうかがい知れたように、人気のない宮殿だった。
 音もなく、人の気配もなく、何かを憚るがごとき、重苦しい沈黙と暗闇がのしかかっているようであった。武具や得物が擦れる音と足音だけが、いやに大きく響く。滅びとは、このように静かなものであるのだ。
 女たちばかりが住まう宮らしく、壁紙も装飾、回廊や壁、窓の造りまでが、華やかで雅だった。裳裾を揺らしながら、かつて、数百、数千の宮女や妃たちが行き交った廊下を、黒川は一人、走る。
 扉を開き、あるいは、開かれた窓から中をのぞき、取り残された者がいないか、生きている者がいないかを探す。
 奥へ奥へと、向かう足は、時折、迷いに、立ち止まりそうになった。
 まがりなりにも一国の王に仕える妃だ。どのような形であれ、後宮の奥にいるだろう。あるいは、本宮にその身を移されているだろうか。
 宮殿に足を踏み入れて初めて分かる広大さ、そして、生死も定かではない相手を追い求める困難さに、表情が険しくなる。焦ってはいけない。しかし、ゆっくり探す訳にもいかない。
 己の思いに迷い込むかのように、静かで暗い宮殿を、一人、さまよう。
 後宮の中央ほどと思われる位置にまで辿り着いた時であった。
 ごとごとと何やら重たい物を引きずっているような音が聞こえた。黒川は足音を忍ばせて、音の聞こえる部屋へと近づいた。窓から中を隙見する。
 太った体に、地味な色合いの、足元まで届こうかという長い上着をまとい、頭には小さな冠を被ったその姿は、宦官であろう。
 逃げ遅れたかと思いきや、むっちりした指で、部屋に置かれた衣装棚の引き出しを次々と開いては中をあさり、残っているものを手にした袋に放り込んでいる。袋は見るからにずっしりと重たげで、中身が詰まっているようだ。
 わざとのように大きく音を立てて、扉を開いた。
 撃たれたように宦官がこちらを振り向き、あわてふためいた様子で、跪いた。
 抜刀し、黒川は宦官に近づいた。
「こ、こ、殺さないでくれ、私は、身分などない、ただの宦官だ」
 両腕を前へ突き出しながらも、宦官は我が身で背中に隠した袋をかばおうとしている。かしゃん、かしゃんと小さくはない音は、宦官が身動きするたびに周囲に響く。
 黒川は男に一歩ずつ近づき、剣を突き出した。逃れようとした宦官が手を滑らせ、そのはずみで後ろの袋が口を横にして倒れる。中から零れたのは、おびただしい数の宝玉や宝飾品だった。
 溢れ出たそれらをかき集めようとする宦官の喉に黒川は刃を当てた。
「ひっ」
「金王と妃について、知っていることをすべて話せ」
 うながすように剣を動かす。
 押されたように、宦官の喉がひくりと動いて、うわずった声が唇から漏れた。
「お、王は、すでに宮殿にはおられぬはずだが、逃げたのは影武者だとも……わしにはわからぬ。近しい者ではないのだ。妃も女官も、みな逃げ出したわ」
 残っているのは行く当てのないものか、足腰の効かない老いた女官や宦官くらいだと、宦官は続けた。その震える指はしきりに、袋の口から零れた宝飾品をかき集めようとしている。
 鈍い光を宿らせる金や銀、象牙の腕輪や首輪、耳飾りや帯留めを見下ろし、黒川は静かにうながした。
「千蘭に縁の者は」
 宦官の目に、はっとした光が宿る。喉元に突きつけた刃の切っ先を軽く皮膚に食い込ませると、唇を震わせながら、言葉を続ける。
「千蘭の、公主か? 自害したと聞いた」
 剣を握る手は不思議に震えなかった。
「遺体は」
「井戸に、投げ込まれたと」
 それだけ聞けば用はない。身を翻した。
「ま、待て。そなた、千蘭の者か。ならば、わしを千蘭王の陣地に連れて参れ。これをわけてやるぞ」
 伸ばされる手を避け、黒川はふたたび、走り出した。わめく声が背後から響いたが、それもすぐに遠くなった。
 しばらく駆けて、これからどうすべきかを考えた。宦官の言葉は正しいのか。疑えば切りはなく、時間もない。ともかく、他に残った者と井戸を探そう。もっと、妃たちに近しいような人間が残っているればいいのだが。
 剣を鞘に戻し、黒川は息を整えながら歩いた。
 足音を忍ばせ、人の気配を探り、庭や建物の陰にあるであろう井戸を探す。刻一刻と時は過ぎ、むなしさだけが刻まれていく。
 気が荒立っていたのだろうか。書院とおぼしい部屋の丸窓の向こうから聞こえた、かすかな物音に、まるで手負いの獣でもあるかのような、すさまじい勢いで剣を抜いていた。
「出てこい」
 低い、押し殺した声音を出すと同時に、静かに扉が開いた。衣擦れの音もさやかに、現れたのは女だった。身動きするたび、両の耳に下がる飾りが揺れ、触れ合い、楽のような音を鳴らす。この音が、黒川の耳に入ったのだ。
 黒川は剣を構えたまま、女を眺めた。
 荒廃した宮殿に在るには、あまりに美しい。たおやかで儚いそれではなく、力強く、華麗な美貌だ。すっくとした立ち姿には威厳が溢れている。
 甲冑姿ほど、明らかではないが、金の兵とは違う戦装束の男と向かい合っても、たじろぐこともなく、じっとこちらを見据えている。
「――誰をお捜しかしら。金王陛下? それとも、他の重臣たち?」
「千蘭公主の遺骸を」
「まあ」
 女が袖で口元を隠し、笑った。今の金にはふさわしくない、涼やかな笑い声だった。
「見つけて、どうなさるの?」
「陣にお連れする。弔わなければ」
 女は笑いをおさめた。金の耳飾りだけが笑いの名残のように揺れている。
「このまま待っていれば、さぞ盛大な弔いが出来るわ。この宮殿はよく燃えるでしょうね」
 それには答えず、ふたたび問うた。
「この宮殿に井戸は幾つある?」
 赤い唇がほころんだ。
「妃の一人を井戸に投げ込むはずがあって? 金は死者に畏敬の念を払うわ。棺は灯籠の廊下沿いよ。匂い隠しの香炉が目印」
「かたじけない」
 急ぎ足で通り過ぎようとして、黒川は、はっと振り返った。
 女は振り返った黒川の顔を見て、また笑んだ。その佇まいは、ただの宮女というにはふさわしくない。あでやかではあるが、派手ではない装束といい、その質といい、かなりの位を思わせる。
 もしや、と思い当たる。金王には同腹の姉がいたはずだ。他国へと嫁いでいたが、夫と不仲で国に戻ってきていたと聞いたことがある。
「玲公主であらせられるか」
 女は答えなかった。目を細める仕草はなんとも艶麗だ。
 黒川は己の胸に下げた紋飾を取り外し、差し出した。
「お望みであれば、緑涼の殿にある城壁の物見塔へ。これを示せば、俺の供があなたをお迎えする」
 黒川が手渡そうとした紋飾を、やんわりと女は拒んだ。
「ありがとう。でも、これ以上、あなたのお手柄を増やしたくはないの」
「考えがお変わりになったのなら、いつでもお待ちしている」
「ええ、そうするわ」
 女は黒川の横を優雅な足取りで通り過ぎた。身に焚きしめられている香の匂いが鼻に届く前に黒川は歩き出そうとした。
「武者さま」
 黒川は振り返った。
 玲公主は、小首をかしげるようにして、こちらを見やり、ほほえんでいた。寂しげな、静かな微笑だった。
「主にお会いしたら、申し訳なかったとお伝えして」
 うなずき、黒川は走り出した。

 角を折れると玲公主が言った通り、回廊に灯籠を下げてある廊下に出た。庭には小川が流れ、その庭木の種類から見れば、夏に蛍を放って、楽しむのだろう。手入れもされていないのか、今は枯れた川に落ち葉が積もり、雑草が生い茂っているだけだった。そこかしこに、逃げ出した者が落としたのか、放り出していったのかわからぬ、衣装や小間物が落ちていた。
 横目に見ながら、走るに近い早さで歩く。手入れのされていない草木が放つ鬱蒼とした湿り気を帯びた周囲の空気の中に、乾いた臭いが混じり出した。
 回廊に面した扉にはそれぞれ、花の意匠がほどこされていたがその一つ、百合の花とおぼしい浮き彫りがほどこされた扉の前に、青磁で出来た香炉が置かれていた。煙はないが、香木を燃した跡がある。
 黒川はゆっくりと扉を押した。軋みながら開く扉の間から、強い、香の匂いが押し寄せた。
 侍女の控える部屋だろうか。宮殿の一室にしては狭い部屋だった。四季の植物を織り込んだ壁掛けが壁面にかかり、壁に寄せられた卓と椅子、それにわずかな調度品があるだけの部屋だった。四隅には、やはり香炉が置かれ、こちらはまだ匂いを放っている。
 黒川はすぐには入らなかった。
 部屋の中央には棺が安置されていた。何の装飾もない、白木造りの素っ気ない棺が。
 音が消えたかのような静かな部屋へ足を踏み入れ、棺の蓋を開く。香の匂いに混じって、一層強く死臭が鼻を刺す。
 黒ずみ、乾いた皮膚の死骸が横たわっていた。ひときわ豪華な衣装は、妃という身分にふさわしいそれだろうが、しかし――将ではない。髪の色も、わずかに残る顔立ちの面影も、黒川の知る将ではなかった。
 横たわっていたのは見知らぬ死骸である。
 張りつめてきた糸が切れた。黒川は拳を握る。棺に打ち下ろされかけた拳が、途中で止められた。
 金公主の言葉が頭をよぎる。
 手柄を増やしたくない? 申し訳なかったと伝えてくれ?
 黒川は顔を上げ、周囲を見回した。なぜ、気がつかなかったのだろう。
 ずいぶんと狭い部屋だ。――そう、狭すぎる。黒川は一度、部屋を出た。廊下を歩き、部屋の長さを歩幅を使って、確かめた。ふたたび、棺のある部屋に入り、歩幅を同じにして、長さを測った。
 廊下の歩幅の方が多い。
 拳でこつこつと壁を叩いていく。ある部分に来ると、音が軽くなった。内側に響いていくような音だ。
 周囲を見回すと、重たげな青銅の竜の像が卓にある。近づいて眺めると、右目と左目の色が違った。右目だけが明るいといおうか。薄く光っているような艶がある。
 指先で擦ると、右目が沈み、がたがたと壁の内側から音が聞こえた。壁掛けに巧妙に隠されていた壁の継ぎ目が徐々に開き、上へとせり上がっていくのを、黒川は見守っていた。
 やがて音が止み、目の前にはぽっかりと扉一枚分ほどの空間が広がる。
 内側は暗い。黒川は部屋にある調度の卓の足を折り、同じく壁布を引き裂いて、それに巻き付ける。持ってきていた油を染み込ませ、火を灯せば、即席の松明が出来上がる。
 かかげて、内へと足を踏み入れた。
 炎に照らされるのは、細い廊下だった。壁際には、小さな灯籠が取り付けられている。
 足音を響かせぬよう、忍び足で歩く。それでも、鎧の触れ合う音はいかんともしがたい。
いつでも剣を抜けるようにしながら、黒川は歩を進めていった。
 暗い壁面に、己の影が怪しく揺れ動いて写る。
 たどり着いた扉は重厚で、細かな浮き彫りが施されている。鍵はかかっていなかった。
 押し開ける。扉内は、柔らかな光があった。
 燭台の炎と共に、黒川のかざす松明の炎が部屋を照らす。調度が置かれた小さな部屋は、鉄格子さえなければ、王宮の一室にふさわしかろう。
 ――絹と鉄で出来た牢の内には将がいた。
 結い上げた髪に、簪も櫛もなく、衣装も飾り気のない、囚人めいた白の簡素なものだった。不意に黒川は桃の木の下で出会ったときを思い出した。時も場所も立場も、何もかもがまったく異なっていたが、ふたたび、出会ったのだった。
 将は鉄格子に近づいた。いまだ残る幼い頃の面影に四年の成長を加え、かすかに窶れた様が、臈たげでなまめかしい。白い首に、はらりと黒髪がかかるのが、心の震えを見せるようで、黒川の胸を締めつけた。
「どうして?」
 呟いた将の瞳がかすかに濡れた。
「ご無事で……」
 それきり、黒川も言葉が出ない。歩み寄らねば、そうして牢の内から将を救わねばと思う側から、まるで夢でも見ているような遠い思いにとらわれそうになる。
 将が格子に指を絡めた。
「本当に?」
「はい、お迎えにあがりました」
 将はまばたきして、なおも黒川を見つめ続けている。ひたむきだった。
 時を埋めるかのような眼差しを見せた後、将は目を伏せた。首を振る。
「死んだと……お伝え下さい」
 将の指が下がる。
 代わりに黒川が格子を握りしめた。
「莫迦なことを」
 感情の乱れを完璧に押さえ込むのは難しかった。
「死を偽ってまで、閉じこめている夫に貞節を誓われるか」
 将のまぶたがびくっと震えた。よこぎった表情を黒川は読めない。
 二人の間を隔てている鉄格子を見る。これだけが立ちふさがっているというなら、まだ良かった。
 扉に近づいた黒川は、牢にかけられた錠が鍵によって開くものではないことに気づいた。
 変わった錠だった。複雑な仕掛けで、何らかの手順によってでないと開かないようになっているらしい。歯車と入れ子細工の組み合わせによるものだ。
 試しに、鉄の薄い板を一、二枚、ずらしてみるが、何の変化もない。牢の格子は太く、曲げようも、折りようもなかった。
 加えて、正面以外の三方は石壁だ。どこか打ち破れる箇所がないか、黒川は見回した。
 将が黒川の視線を追い、小さく呟いた。
「入り口は、その扉だけ。……誰も、入ってこられないんだ」
 黒川は動きを止め、将を見やった。今の言葉の意味をもう一度、考える。
 後宮の隠し部屋、牢というにはあまりに広すぎる一室、豪華な調度、石壁の無骨さを隠す手の込んだ壁布や掛け軸。
 これでは、まるで――。
 将の瞳と黒川の目が出会った。何より、雄弁なその眼差しに黒川は苦い微笑を浮かべた。
「だから……逃げないんだな」
 将の瞳が大きく、見開かれ、唇が開かれた。黒川の言葉に対する反応ではなかった。
 背後に殺気が膨れあがった。振り返ることなく、身をかがめた。首があった場所を刃がかすめ、動きについてこれなかった髪が幾筋か、切り落とされ、宙を舞った。
 柄に手をかけた黒川は抜く間もなく、身をかわし、床を二転、三転した。石の床に刃が当たり、鋭い音と火花を残した。
「翼さん!」
 将の叫びが響き、その恐れに満ちた声に、殺気と追撃の手がゆるんだ。
 黒川は身を起こし、剣に手を掛けながら、相手に目をやった。驚きはわずかにひそめた眉間の皺にのみ、しるされた。
 金の長い血が凝り固まったかのような、華麗な激しい美貌がそこにあった。その顔立ちを損ねる、というよりも、いっそう引き立てているのが、瞳によぎる烈火だ。どのような感情を抱けば、このように炎を噴き上げるような眼差しになるのか。
 竜の縫い取りのある服は王の日常着ではあるが、それにしては簡素に見えた。
「千蘭のものだな」
 手に握った太刀が青白く光った。
「我が妃を奪いに来たか?」
 唇が嘲りの形に笑んだ。
「将が、いまは、金国正妃であることを知らぬとみえる」
「立后の儀が行われたとは聞いていない」
 語気鋭く発せられた黒川の言葉に、金王は瞳に宿る怒りの炎を揺らめかせた。
「そなたのごとき、下郎になぜ、知らせねばならぬ?」
 翼は黒川を一瞥した。
「従者が出しゃばったものだな。千蘭王へ手柄顔して、差し出すか」
 柄に置いた手が震える。瞬間、黒川は胸底に静めていた怒りをほとばしらせた。
「その従者の国の宝を誰が奪った! 風祭を盾にして命乞いをする輩に何が分かる!」
「黒川君、言葉を控えて!」
 張りつめた声音で将の叱責が飛ぶ。黒川は口を閉じた。将の言葉があったからではない。瞬間、翼の瞳によぎった感情のためだった。
 怒りでもなく、憎しみでもない。それは、黒川も抱いてきた思いだった。定めへの諦念、もはや、己の力だけではどうしようもない、大いなる流れへの絶望にも似た諦めだ。
 翼は唇の端をゆがめていた。
 将が格子越しに翼を呼んだ。
 振り返った翼の瞳は、さきほどまでの怒りが嘘のように優しげなものだった。
「翼さん、その方を見逃してください」
 黒川は黙って二人を見ていた。剣の柄からは手を離さなかった。翼には横を向いていても隙がない。生半可な使い手ではなかった。
「昔から千蘭に篤い忠誠を寄せていた方です。この身を案じてくれたのでしょう。どうか、それに免じて、このまま帰してあげてください」
 ゆっくりした声に混じる、かすかな震えが何に対してのものか、黒川には分からない。
 将の目はまっすぐに翼に向けられている。それが黒川と将、二人が分かたれた歳月分の距離であった。
「お願いします。僕は誓いを忘れたわけではありません」
 翼の目がまたたいた。
「これからの生も死も共にあると――?」
「はい」
 何の迷いもなく、澄んだ真剣な眼差しで将はうなずいた。
 その眼差しを受け止めた翼は微笑した。
 黒川はひどい孤独をそこに見た。得て、なお、求め、そうして得られぬことを知った男の孤独を。
「――この男が大事なんだな、将」
 名を呟く声は、何より愛しげで、悲しげでもあった。
 翼は黒川の横を通り抜け、扉に近づいた。指が細かな動きを見せる。かすかな金属音が響いた。
「金が、まだ繁栄を誇っていた頃だから、百年以上も前の話になるな。その頃から伝えられた細工ものだ。代々の金王しかからくりを知らない。……いや、将には教えたな」
 檻が開いた。将は立ちすくんでいる。信じられないと言いたげな眼差しで翼を見つめていた。
「誓いは何より神聖だ。だが、それよりも尊いものがあるとしたら?」
 黒川の視線を遮るかのように、いや、将の瞳を避けるように、翼は檻の入り口の前に立つと、太刀をかざし、黒川に向き直った。
「公主を得たいのなら、剣で奪うがいい」
 黒川も剣を構えた。
 その瞬間、視界から将を消した。翼は将の表情を確かめながら闘う余裕を与えるような、生やさしい技量の持ち主ではない。
 この王であればこその滅びか。もはや、己の力では金の衰退を止められぬと悟った男のむなしさは黒川には理解できない。
 だが、そのうつろな乾いた日々に、将がいるのだとしたら。その存在は乾いた地に水が染み込むような、かけがえのないものになるはずだ。
 同情はせぬ、と黒川は揺れた己の心を戒めた。わずかな心の乱れが命を奪う。
 翼は動かなかった。黒川も動かない。やがて、檻の扉がかすかにきしみ、その音が耳に入ると同時に、黒川と翼は地を蹴った。


<<<<
>>>>


<<<