刃を合わせるたび、火花が散る。かしん、と甲高い音を響かせつつも、刀を振るい、相手の容赦ない一撃を互いに交わす。
十数合、刃を交えたのち、一度、鋭い音を響かせながら、二人は真っ向から刃を合わせた。
刃が双方の力に押され、かちかちと悲鳴のような音を立てた。
蒼白い刃の向こうで翼が微笑した。
「俺の麾下に欲しかったな」
黒川も笑った。
「あんたと肩を並べて、闘ってみたかったよ」
相手の刃を弾いて、二人は間合いをふたたび、取った。
黒川の剣法は、尚武の丁のそれらしく、重厚で揺らぎがなく、一撃一撃が重い。対する翼の剣はとらえどころがなく、どのような小さな隙も見逃さない。
拮抗したままの打ち合いが十合ほども続いただろうか。
翼の切っ先が奇妙な動きを見せた。胸を狙うと黒川は読んだ。この攻めを逆手にとって、己も仕掛けようとした。
黒川の刃を交わし、翼は太刀筋を変えた。あまりに見事な変化だったので、己の読み違いに気づいたときには、すでに翼の刃は黒川の脇腹をえぐっていた。
熱に似た痛みを感じながら、大きく後ろに飛び、黒川は剣を構え直す。
翼は剣を振り、刃に付いた血滴をはらった。優雅な仕草だったが、瞳は冷酷に黒川を見据えている。仕留めそこねたからだろう。
大きく息を吐く。血が流れていくのが分かる。傷は思う以上に深いようだ。長引けば不利だった。
だが、動けなかった。背負うものの恐ろしさに気づいたからだ。
自分がここで死ねば、翼は将を道連れに、死を選ぶだろう。
己が死を怖ろしいとは思わない。しかし、今、生きている将をふたたび、死なせるのは、どんな戦場にいても感じたことのない恐ろしさだった。
したたり落ちる血の音が聞こえる。痛みのためか意識が冴えてきた。死ぬときもこのような明瞭な意識を保ったままなのだろうか。
剣を握り直す。
将は戦で流される血を見たことがあるのだろうか。愛しい者に血を見せねばならぬ今の世が情けなかった。守りたい、そう思った相手を犠牲にし、盾にし、道連れにする。
「こんな道しかなかったのか」
小声でありながら、血を吐くような黒川の言葉だった。
「あんたくらいの男なら、他のやり方があったんじゃないのか」
翼は一瞬、目を見開き、かすかに首を振った。口元にちらついたのは微笑か。
「その言葉、そのまま返してやるよ。お前も他の道を探したはずだ」
逃げ出し、連れ去って、共に生きる。それはなんと儚い夢だっただろう。その夢をこの男も見たのだ。
黒川と翼は見つめ合った。出来ないからこそ、夢を見るのか。夢見たからこそ、諦めたのか。今は、捨て去れない荷を背負い、生きるしかなかった。
翼が間合いを詰めた。応じようと、黒川は足を動かし、己の血が作った小さな池に気づいた。
――来い。黒川も足を踏み出した。
かすかな水音は翼の耳には届かなかったのだろう。
血だまりを踏みつけた黒川は、力をわずかに抜いて、足を滑らせるようにした。
刃の行き先を変えた。血の滑りをそのまま使い、足から滑り込むようにして、翼の胸元へと入り込む。
思いも掛けない動きに、翼の反応が遅れた。
心臓を狙った黒川の刃は、ずれた。それでも胸を貫いたのは間違いない。
すぐ近くで見つめた翼の瞳は、信じられないとでも言いたげな、それでいて、すべてを理解したような深いものだった。
貫かれた衝撃に歪んでいた唇が、すぐに笑みの形に変わった。握られていた剣が手から離れ、甲高い音を立てて、床に落ちる。
黒川に覆い被さるようにしてきた翼の体に、すでに力はなく、殺気もなかった。
翼を支えた黒川は、王の体を石壁に寄りかからせた。
「陛下――」
「なにを……いまさら」
笑った翼の口元から血泡が湧いた。
将が無言で駆け寄り、膝をつく。張りつめた瞳が見る間に、潤みだした。
「将。恨むなよ」
苦しげに肩で息をつきながら、翼がささやいた。
「こうならなければならなかったんだ……そうしなければ、お前を……」
言葉は途切れ、翼は激しく、咳き込んだ。血泡は滴りとなり、唇の端を伝い落ちる。
将は袖でそれをぬぐう。
「話さないでください」
「いやだね」
翼は優しげに笑った。指が動き、胸元から小さな小刀を取り出した。
「これだけ、許して、もらうよ」
翼は将の髪を一房、切った。力無い手が握り損ねた黒髪がはらはらと舞う。
将の瞳から涙がこぼれた。二人の間に、およそ敵仇といった憎しみはなかったはずだ。時代と立場さえ違えば、幸せに結ばれた二人であろうに。
「ほら」
うながされて、将は小さく首を振った。
「翼さん」
忍び泣く将から、黒川に翼が目をうつした。連れて行け、と語っている。同時に行かないでくれとも告げていた。黒川は将の肩を抱いた。熱く震えている肩は、思っていたよりもずっと小さかった。
最後に振り向くと、翼は壁により掛かり、目を閉じかけていたが、黒川に気づき、うっすらと笑んだ。
目礼して、黒川は最後の王の前から立ち去った。
すでに夜明けを迎えていた。金公宮には火矢が打ち込まれ、すでに始まった最後の戦いに赴く兵たちの叫びが響いてくる。
宮殿の一角は空を焼いている。飛び散る火花が、宮殿全体に広がるのは時間の問題だ。閑散とした宮殿には、その炎を消そうとする者などいないのだろう。
黒川は将の手を引き、城壁を目指した。一度、持参していた血止めの薬草を傷口にすり込み、布で縛り上げる荒っぽい手当をしたとき以外は、立ち止まらず、足を動かし続けた。
人気のない宮殿のいくつもの廊下を駆け抜け、柱をくぐり、庭を横切り、扉を抜けた。
服や装飾品が撒き散らかされた部屋があり、割れた壺があり、引き裂かれた壁布があり、投げ捨てられた武具があった。時折、居残った女官や宦官、兵士と出くわしたが、追いかけても来なかった。彼らもすでにして諦めているのだろう。諦念がこの宮殿を覆っていた。滅びという影は、炎と共に、王宮を舐め尽くすだろう。
王にはどこから入り、どこから抜けるかを伝えてある。火矢をいかけるのなら、そこを最後にするだろう。それ以外の門には、千蘭の兵が、門扉を打ち破ろうとむらがっているはずだった。
彼らが宮内に入ってくれば、見咎められる。その前に、宮殿を脱したい。逸る心を抑えながら、黒川は先を急いだ。
と、将が途中で足を止めた。疲れたのかと黒川も足を止める。将は振り返り、王宮を眺めている。
黒々とした巨大な影が炎に縁取られている。将は瞳に焼き付けるように、一心に王宮を見つめた。
黒川はうながさなかった。何も言わなかった。
いま、言葉を口にすれば、使命を忘れてしまいそうだった。千蘭の武人でも、命を帯びた使いでもない、何者でもない、一人の男として、将に接したくなる。
やがて前を向いた将は、黒川を見上げ、うなずいた。
二人、走った。いざとなれば、将を背負い走るつもりだったが、将は息を切らしながらも、決して立ち止まらなかった。
その強さが、哀しい。その強さが、愛おしい。遅れがちになる腕を引き、ただ走り続けた。
城壁に辿り着く。近づく人影を見て、五助がはっとこちらに気づき、顔を輝かせた。
黒川はうなずき、先に行くように合図した。彼は城壁の見張り棟の入り口を駆け上がり始める。城壁下で待つ兄、六助にも伝えてくれるだろう。
「もう少しです」
膝が崩れそうな将を腕の中で支えるようにして、黒川は城壁の階段を登る。
城壁の上で、六助はすでに下へと降りる準備を終えていた。見下ろせば、薄暗がりの中で六助がこちらを見上げているのが分かる。ここに、兵の姿はないが時間の問題だろう。
黒川は将をうながそうとして、六助に水をくれるよう頼んだ。携帯用の革袋の栓を開いて、胸を押さえ、息を整えている将へ、差し出す。たぷん、と水の揺れる音を聞いた将が苦しげな息の合間に、ほほえんだ。
何も言わなかったが、思い出したことは同じだろう。笑い返すのがやっとだった。
水で口を湿し、息をついた将は、胸元から手巾を出し、口を付けた部分を拭うと、黒川へ礼を言い、返した。
受け取った黒川は将に城壁の下を指し示した。
「今からこの城壁を降ります。無礼とは承知していますが、お体に触れます、どうかご容赦ください」
将は構わぬというように首を振る。その腰に、五助から手渡された縄を巻き付け、しっかりと結ぶ。自分の体にも縄を結びつけ、また別の縄で、己と将の体を結びつける。
「怖ろしいですか」
「いいえ」
震えもせず、将は黒川を見上げた。
視線にこめられた信頼に、黒川はわずかに表情を和らげた。
「下ろしている間は、動かれないように」
うなずいた将を抱き上げ、己にしがみつくように頼む。長い距離を走ったために肌の熱いその体に震えはなかった。
「縄でつないではありますが、決して、腕をお離しにならぬよう」
「はい」
黒川は、五助にうなずいてみせた。
「行くぞ」
五助のうなずきと同時に、将を抱いたまま、片手で縄を握り、城壁の壁面を降りる。二人分の体重がかかり、縄がぎりぎりと軋む。革の手甲越しに、ぴんと張った縄の感触が伝わる。片手でしっかりと握り、両足を城壁に付けながら降りていく。将はひたと黒川の胸に顔を寄せ、しがみついている。恐れというよりは、黒川の動きを妨げてはならぬと思っているのだろう、ぴくりとも動かない。
声をかけようかと思ったが、無言のまま、地上へと着いた。将と自分を結ぶ縄をほどき、次に己の体の縄を、続いて、将の縄をほどいた。
ひゅっと短く、指笛を鳴らし、上へ合図する。将は縄を手元に引き寄せ、巻いて束ねている。五助が縄を伝い、こちらは黒川よりも早く降りてくる。
六助が馬を引いてきた。
轡を取って、将を馬上に上げる。黒川も騎乗した。
「ご無礼が続きますが」
背後から将を抱くようにする。かつては剣を取っていた公主だ。乗馬のたしなみもあるに間違いないが、戦場の中を行くのである。万が一にも落馬しては、救い出すのも困難だ。
「いくぞ」
五助と六助を先に行かせ、黒川も馬を走らせた。将は首にしがみつき、何も言わぬ。
背後には流れていく闇がある。数百年の繁栄を呑み込み、赤々と燃え狂う炎がある。金公宮を燃やし尽くす炎に照らされながら、黒川はひたすら、馬を走らせた。
向かう先には、灯明の輝きが無数にあった。希望の光ではなかった。腕の中の将にとっては、そうであろう。
ここから離したくないと、入輿の時すら及ばないほど激しく、思った。
馬は乗り手の心を読まず、まっすぐに駆けゆく。この道が、永遠であってくれと願った。
自陣での出迎えは手荒かった。
「何者だ!」
激しい誰何の声と共に兵士達が集まってくる。剣と槍、弓矢の出迎えだった。
密命であるゆえ、当然だ。怪しいと言えば、この一行ほど怪しい者もあるまい。
「王師黒川だ。公主をお連れした」
名乗りつつ黒川は手甲と胸の紋を見せた。男の瞳にいぶかしげな光がまたたく。
「黒川殿、公主とは……」
「金公宮より、おつれした。――将公主殿下である」
打たれたように、男の顔色が変わった。
「御前にお連れする。道を開けよ」
ざわめきがさざ波だって広がった。
将が被衣をそっと払い、その面を露わにした。居合わせた兵士たちには公主の顔を見知った者もいたらしい。
「公主殿下!」
「ご無事だったのか」
興奮が混乱を巻き起こそうとする中で、将の声がそれをとどめた。
「あわただしい中で、陛下にお目どおりを願い出ること心苦しく思いますが、どうか、お伝え下さいますよう」
「今すぐ!」
打たれたように兵たちが道を開いた。
将は前を一心に見つめていた。唇を引き結び、やがて本営の天幕が見えたとき、かすかに唇を震わせた。
先に下馬した黒川は、将に手をさしのべ、馬から下ろした。
離れ際、将がそっと囁いた。
「ありがとう……」
将の指先に、力がこもった。黒川は、将を静かに地面へ降ろした。
将が地面に降り立ち、すっくと背筋を伸ばした。そよぐ被衣を両の指で押さえている。横顔には侵しがたい誇りが漂っていた。
膝をつき、頭を垂れる黒川の仕草を見て、皆が我に返ったかのように、膝をつき、頭を垂れた。
「陣中です。構いません」
将の凛とした声が響く。
殿下だ、公主殿下だとの叫びが口々に伝えられていく。
天幕から、功が姿を見せた。
「兄上」
将は身をかがめ、略式の礼を送る。
功は目を見開いたが、ゆっくりうなずいた。
「陛下がお待ちだ」
将をうながし、天幕へと入れる。見送ろうとした黒川にも続くように命じた。
功の後に続き、黒川もまた天幕へと進んだ。
「――将」
椅子から立ち上がった護はそれだけ、言葉を発した。
「おひさしゅうございます、陛下」
将は膝をつき、叩頭した。護は踏み出そうとした足を止め、静かに言った。
「疲れておるだろう。ゆっくり休め」
「かたじけなく存じます」
戦場のことで、女手がない。王の天幕に、将はとどめ置かれた。
天幕から出る黒川の背に低く押し殺した声がかけられた。
「黒川、礼を言うぞ」
短いその言葉は、わずかに震え、そこに王の万感の思いが込められていた。
金公宮は三日間、昼夜通して、燃え続けた。炎は金の最後のあらがいであり、諦めでもあった。
金のすべてが灰燼に帰してのち、千蘭王は即位し、王を統べる者の呼称である皇帝を名乗った。後に、大蘭とも呼ばれる帝国の、これが始まりであった。
暦は改められ、鳳暦元年が始まった。
遷都を始めとした様々な儀式、行事が相次いだが、王族を始め、高位高官の列席するそれに、蘭公主の姿が見られる機会は、徐々に減っていった。
将は新都の一角、王宮にほど近い場所に邸を与えられ、そこでひっそりと暮らしていた。王宮も滅多に訪れることはなく、外出することもなかった。客といえば、ごくわずかな友人か僧侶である。たまに忍びで家族に会いに王宮へ行くか、あるいは逆に家族が将の邸へとやってくることもあったようだが、それすらもめずらしいことで、その暮らしぶりはいっそ、尼か道士といってもいいものだった。
ごく質素な暮らしとは対照的に、国内外からは幾度も縁談が持ちかけられた。
今や、大陸きっての繁栄を誇る大国の公主。一度、婚姻歴があろうともなかろうとも関係ない。ましてや、以前の相手は、いにしえの血を誇った金の王であった。そこにかしずいた公主を尊びこそすれ、蔑みなどはしない。
それぞれに立身出世したかつての千蘭の若者達も、若き日の憧れを我がものにと公主の降嫁を願ったが、護も功も決してうなずかなかった。
王族の婚姻に感情が入ることなどはない。あくまでも外交の一つである。自国に利あれば娶らせ、あるいは娶る。将の婚姻は千蘭にとってまたとない、有効な策になっただろう。
しかし、と千蘭の人々は囁きあった。今のこの繁栄は、かつて将が金へ人質として嫁いだその上に築かれているのであった。いわば、将は時を稼ぐための生贄であった。本当に血を分けたご自身のお子ならばそうされたであろうかとうそぶくものもいる。
将が生きて戻れたのは僥倖だ。反乱の時点で斬首されてもおかしくはない立場だったのだから。将を取り囲む種々の憶測や噂に対し、帝も后も皇太子も沈黙を守った。
それは、黒川も同じだった。
いくさ後、将を金公宮から救い出したことに対して、公主との噂が広がった。それは黒川にとっては苦痛だった。何をどうしようとも、将の身には、これから先、そのような目がつきまとうのだ。
見舞いにもいかなかった。文も届けなかった。離れて、なおかつ、思い、見つめ続けた。
いずれ、折を見て、公主は落飾するのだろうと誰もが思い、黒川もまた、それを確信した。もはや、将には何の執着もない。俗世にとどまり、煩うくらいであるなら、身を引いた方が良いだろう。
将は、思い出すだろうか。髪を切るとき、わずかなりと、己とのやりとりを、そこに流れた心を思い、胸を痛めてくれるだろうか。そうであるならいい。それを願い、忘れよう。そうせねばならぬのだから。
千蘭には穏やかな時間が流れていた。戦は終わり、始まった新しい国に揺るぎはない。新しき帝の治世は盤石であり、公正にして公平であった。国の乱れや跋扈していた賊により、途絶えてきた他国との交易もふたたび、盛んになり、西国のめずらかな品や文化が、もたらされた。
耕す人々は収穫に喜び、商う人々に欺しもごまかしもなく、役人たちはかつてのように賂は受け取らずとも己の職務に尽くした。獲る人々も荒れぬ山に、賊の見あたらぬ海へと向かい、許された恵みを受け取った。
黄金期にふさわしい、何もかもが豊かで、人々の心が潤う年月であった。
千蘭の王都には、異国、自国問わず、かつてないほどの人々が訪れた。これほどの人の数、そして種々の肌の色、瞳の色、髪の色を見られるのは、まさに当時としては、千蘭の王都だけであっただろう。
露天で威勢良く品物を値切る客に、商人はのらりくらりと話を交わし、その前を髪の色の淡い異国人が、僧侶と共に、不可思議な響きの言葉を交わしながら歩く。馬が引く荷車が立てる音は絶え間なく、その中には砂漠から旅してきたのだろう、駱駝の姿もある。
輿を担がせた貴族が、異国渡りの芸人の手妻に見とれている傍らを、黒蜜のような肌を持った女性が大荷物を抱えて通り過ぎ、買い物途中で立ち話に夢中になる女たちの周りを、肉をねらった犬がうろつき周り、気づいた女たちに追い立てられる。見回りの兵士は、子どもたちにねだられて、先の戦の手柄話を語る。
大路には、人種も職も様々な人々が行き交い、その活気は、まさしくこの国の繁栄ぶりを示すがごとき、賑やかさだった。騒動はつきもので、喧嘩や、かっぱらい、破落戸同士のいざこざなどが、時には大勢の人を巻き込んでのそれになるが、すぐさま見回りの兵が駆けつけて、収まるのが常だ。
大路を吹きすぎる風にも、暖かさが混じり始め、いよいよ春は近い。すでに、衣装屋や小間物屋は、春慶のための衣装や装飾品を売り出し始め、この頃では貴族や裕福な商人たちだけでなく、平民にも手が入るくらいの値段になっている異国渡りの布地を手にしては、衣装の一部や飾りに、これを使うのが、今年の流行だと通り過ぎる人々に呼びかける。
目にも鮮やかな刺繍や色合いの布があちこちにひらめく都の大路は、すでに春の訪れを感じさせる。
いつになっても人波途絶えぬその大路を、昼過ぎの頃合いに、駆け抜ける十数騎の馬影があった。
槍を持ち、剣を腰に手挟み、背中には弓と矢筒を背負った男たちは、獣の牙を連ねた首飾りを幾重にも首に巻き付け、毛皮の腰巻きと革鎧をまとい、鞍もなしに馬にまたがっている。
彼らは屋台の商品を通り過ぎざまにかっさらい、笑い声を立てながら、王宮へと近づいていく。見慣れぬ不可思議な風体を不審に思い、衛兵は下馬を求めた。
馬を下りた男たちは老若関係なく、誰もが日焼けした黒い肌に、髭をたくわえた精悍な面構えで、粗暴な振る舞いで、皇帝への謁見を求めた。衛兵がうなずく訳がなく、押し問答の末、危うく抜刀沙汰になりかけたのだが、そこで、ようやく一人の男が懐からなにやら包みを出した。どこか訛りのある片言の共通語で、男は告げた。
「我らが偉大なる長からの手紙である。そなたらの長に見せよ」
皮に包まれているとはいえ、それは親書であった。ただちに皇帝の元へ届けられ、男たちは皇帝への目通りを許された。
彼らは阿寇と呼ばれる東の異民族の使者であった。
多くの兵たちが見守る中、彼らは来訪の目的を告げた。
それは千蘭公主を阿冦族長の妻の一人に求め、なおかつその持参金として、莫大な金銀類と、さらには陽河一帯の土地を与えることを求めるものだった。
――あくまでも、断られることを目的とした申し出であるのは明らかであった。
阿寇の使者は返書を携え、主の元へと戻った。
七日後、大軍を率いて、阿寇は千蘭の国境を侵し、漢治の砦を攻めた。怒濤のごとく攻めてくる阿寇と対しながら、砦は何とか持ちこたえ、その包囲をかいくぐって、伝令を出した。
奇しくも、阿寇の使者が大路を駆け抜けていったのと同じ時刻に、砦からの使者は、傷だらけで大路を駆け、背後に馬のそれか、乗り手のそれか定かではない血痕を残しながら、大門まで辿り着いた。
すわ何事かと集まる大門の兵たちの前で、使者は馬から飛び降りると同時に叫んだ。
「阿寇が陽河を渡り、漢治を襲った! 皇帝陛下にお伝えくだされ!」
そのまま、使者は馬と共に息絶えた。決死の知らせを受け、ただちに軍議が開かれた。すでに将軍位にあった黒川も当然、参加していた。
そのため、黒川がその文を受け取ったのは、軍議を終え、自分の詰め所へと戻る途中の道筋である。控えていた小者が黒川に呼びかけ、両手を頭よりも高く、差し出した。
白い上質の紙は、絹紐で結わえられている。心当たりがあった、というよりも、直感めいた思いで黒川は文を手に取った。それほど長くはない文章であった。終いまで読んでしまうと、黒川は丁寧に折りたたんで、小者の手へと戻した。
「この通りのお時間にお訪ねすると」
低く短く呟いた。
「はい」
走り去る小者の背中が小さくなる。黒川はしばらくたたずんでいた。なぜ今か、と思い、今でしかならないのだと気づいた。
夏が来る前に公主は落飾すると、すでに皇帝は、側近たちに告げていた。
訪れた邸は、持ち主の性質を反映してか風雅さは隠しようもない。だが、どこかひっそりと寂しげなのは、やはりその境遇故であろう。
心得ていたらしい侍女が案内してくれたのは、庭のあずまやであった。
忍びの黒川を出迎えた将は、大陸きっての繁栄と領土を誇る大国の公主とは思えぬほどに質素で、簡素な身なりであった。
侍女たちを遠ざけて、将は黒川へ椅子を勧めた。
その横顔には、押さえきれない若さがありながら、すでにいくつもの苦渋を飲み込んだ老成した影がちらついている。
銀の簪一つが差された将の髪は、翼に切られた部分だけが、今も短い。
あの若く美しい王は、将の心の中に、どのような形で存在し続けているのだろう。ほろ苦い思いが湧き上がる。
「お忙しい中、お呼び立てして、申し訳ありません」
「いえ。いずれにせよ、出立前にお目通りを願おうと思っておりました」
将が問うような眼差しを浮かべた。
黒川は懐を探り、袱紗を取り出すと、そっと開く。
「これをお返しするつもりでした」
黒川の差し出した指輪を将は静かに拒んだ。
「すでに、差し上げたものです」
「殿下のお母上の形見です。本来の持ち主の手にあるのが一番かと」
うながされて、指輪を持ち上げた将の指は震えていた。
「……戦に赴かれるのですね」
「はい。武人の務めです」
指輪を手のひらに握り込んだ将は、まばたきして、黒川を見つめた。
「僕が阿冦の元へ嫁げば……」
「何も変わりません。いずれ、阿冦は千蘭に攻め入るでしょうから」
将は口を閉じた。
それを問いたかったのか。それだけを確かめたかったのか。
言葉を飲み込んだ。
「――どうか、ご無事で」
呟いて、将は目を伏せた。
将を見つめるこの胸に湧き上がる苛立ちは、どこからのものか。何をもってすれば消えてくれるのか。
はかりかねたまま、黒川は立ち上がり、暇乞いした。見送ろうというのか、将は黒川の後に続く。
庭を歩く中、頭上では餌付けでもされているのか、季節には似合わぬ数の小鳥たちが、鳴き交わしている。
細い小さな足で留まる枝には、まだ新芽の息吹はなく、膨らみ始めた蕾も、まだ小さい。しかし、まもなく訪れる春の訪れを示すように、確かなものだった。
いずれ花開くその蕾の匂いの気配に、誘われたように、胸に様々な面影と思い出が去来する。
息苦しさに立ち止まり、激情に手を震わせ、やがて黒川は静かに、ゆっくりと告げた。
「桃の花が、もうすぐ咲くぞ」
将の瞳がまたたいた。
「あんたは、いつまで、そこにいるんだ?」
始めなければ何も変わらなかった。けれど、その始まりはどこにあるというのだろう。
季節は過ぎて、また巡り来る。一時一時が二度とは来ない、たった一度のそれである。かけがえのないその時を立ちつくし、ただ、やり過ごすのか。人として生まれたのなら、人として生きるべきではないのか。そうすることこそが、死者への償いではないのか。
「――俺は生きて戻る。そうして、あんたを奪う」
将は大きく目を見開いた。驚きにか、うっすら開いた唇が言葉を生む前に、黒川は歩き出した。
柔らかく震えるような響きが、背後から黒川を優しく襲った。
「戻ってきて」
振り返らなかった。ただ、立ち止まった。
「必ず、戻ってきて、黒川君!」
片手だけ挙げた。約束は出来ぬ。だが、言葉は届いた。受け止めた。今はそれだけで充分だ。それ以上は必要なかった。
千蘭が阿寇を征するための軍を起こしたのは翌日だった。二万の兵を率いる、上将軍に、任ぜられたのは黒川である。
砦を落とした阿寇は、呂久平原に陣を敷き、やってきた千蘭軍を迎えた。
千蘭が陣を構えたゆるやかな丘からは平原が見渡せた。いま、そこを地の果てまで埋めるのは阿冦である。
斥候がもたらした知らせによれば、阿寇の兵は一万五千。千蘭軍がその数、上回っているが、阿寇兵の剽悍さを侮ってはならぬ。
馬のいななき、武具や馬具が擦れ合う音。わずかな音が響き合い、背後から、いよいよ始まる戦に血を滾らせる兵たちの気配が、熱いほどに伝わってくる。この草地に、一体、今からどれだけの血が流れるか。
頭上を鳥が舞う中、雲の流れと風の向きを確かめた。天と地と人と、すべての時を征した者だけが勝利を得る。もはや、心は揺るぎもしない。
「進軍!」
前へと突き出された軍配を合図に、銅鑼が鳴らされ、太鼓が叩かれる。
敵味方双方の兵が上げる鬨の声が、地を揺るがす。
土埃の間には無数の白刃が煌めいている。黒川もまた、剣を抜き、馬を走らせた。
この戦で自分は死ぬだろうか?
――いや、勝つのみ。それだけだ。生も死もその果てにあるのだから。
蘭史抜粋。
鳳歴四年、阿冦、千蘭国境を侵す。
同年陽柳月、鎮将軍黒川、阿冦を征す。阿冦首長、恭順の意を誓い、蘭帝に拝謁す。
鳳歴五年、蘭帝護、鎮上将軍黒川を稀華王に封ず。
鳳暦六年春慶月、蘭公主将、稀華王に降嫁。稀華国夫人と人々は呼び奉る。
――のちに稀華は千蘭もなし得なかった大陸制覇を果たし、その威光は遙か、西の地にまで及んだ。
礎を築いた初代稀華王黒川は太祖帝と諡名され、稀華の民人から、稀華王生涯唯一の妃でもあった将と共に、篤い信仰心を持たれることとなる。
稀華の繁栄は、千数百年にも渡って続き、滅びてのちもなお、その名が忘れられることはなかった。
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