春暁
(2)



 二度目に会ったとき、将は小声で、黒川様、とそう呼んだ。小さな声であったのに、黒川の耳はその響きをしっかりと受け止め、立ち止まっていた。
 ――功が兵連所へと将を伴ってきていたのだ。
 功は大抵、供を数人連れて、馬でやって来るのだが、今日は馬上に同乗者を乗せていた。小柄で、頭巾付きの外套に全身を包み、脱ごうとしないので、いっかな、顔立ちも判然としない。みなは、功が気に入りの侍童でも連れてきたのか思い、気にもとめなかった。
 が、功の供が、いやに恭しく接している。なにしろ、供といっても、功の友人で同じ兵練所出身の者ばかりであるから、気安い態度で公子と話すし、接する。それが、その者に対しては、妙に遠慮がちだ。
 先日の春慶を思い出し、もしやと兵連所の若者達がささやきだした頃、松下が、ふと笑みを浮かべて、広場の隅にいる当人に近づき、話しかけた。何を言ったものか、横にいた供が止める素振りを見せたが、頭巾の人物はうなずいた。
 そうして、外套を脱いだ。現れたのは、やはり将だった。今日は袍を履いた動きやすそうな格好だが、凛々しくも優しい、春の公主と呼ばれるその人には間違いなかった。
 松下が練習用の木剣を手渡した。将は嬉しそうに受け取って、握りを確かめている。
「よろしいですか」
「はい。お願いします」
 そんなやり取りが聞こえ、二人は広場の一角へと進んだ。
 打ち合いを終えた功が、それに気づいて、ぎょっとしたような顔を浮かべた。止めようとしたのだが、すでに二人は向き合い、試合を始めていた。
 勝負にもならないと、黒川も、みなも思ったのだが、将は型にあった綺麗な構えを見せた。いくらかの心得はあるようだった。
 功がやれやれと言いたげな大きなため息をついた。
 それが合図であるかのように、将は松下へ向かって、歩を進めた。
 十数合の打ち合いの後、松下が将の木剣を払った。練習用の剣は手から飛んで、からんと乾いた音を立てる。
 将はその場で自らの敗北を認め、拳を片手で包んで、深々とお辞儀した。
 負けたというのに、瞳の輝きが前よりも増している。松下を見上げる目に憧れが見出せた。
 将は汗ばみ、紅潮した頬のままで、唇を開いた。
「以前から、お手合わせ願いたいと思っていました。今日は幸いでした」
 松下は笑いながらうなずいた。
「美しい型だ。お教えしたのはさしずめ、香取殿ではないでしょうか」
「はい。やはり、おわかりになるのですね」
 公主お出ましの話を聞いて、兵連所の長主が姿を見せた。驚いた様子だったが、公主をこのまま若い男ばかりが集う場にとどめておくのも何だからと別室へ案内する運びになった。将は残念そうな様子を見せていたが、功にうながされては否とも言えないらしく、供の者や松下に囲まれ、道場から立ち去った。
 自分を見ただろうか。将の視線の行方を追おうとした己を黒川は厳しく、諫めた。
 思いを振り払うように、黒川は弟弟子に稽古をつけ始めた。公主にまだ気を取られていた者たちも、徐々にそれにならい、ふたたび道場には木剣の打ち合わされる音と鋭い気合いを込めた声が響き始めた。
 五人ほどと手合いを行い、さらに友人とも、これは組み手だが、体術の模擬試合を行って、黒川は休むことにした。汗を拭きながら、道場の外へ出る。
 外の風が汗ばんだ肌を撫でていく。水を飲もうと井戸へ向かった。
 つるべをおろし、水のたっぷり入った手桶に直接、口を付ける。火照った体に冷たい水が染み渡る。ため息をつき、口をぬぐう。
 井戸の側に生える木が梢を揺らす。心地よい風に目を細めた。
 と、背後に人の気配を感じ、同じく水を飲みに来た友かと黒川は桶を井戸に戻した。
 聞こえたのは風のような声だった。思わず、息をのむ。
 黒川さま、そう呼びかけたのは、将の声だった。
 振り返れば、はたして、そこに立つのは将だった。外套はまとっていないが、さきほど松下と手合いをしたときのままの軽装だった。
「いま、俺を呼びましたか」
 振り返った黒川は、声が穏やかに聞こえるよう努めた。素っ気がない、と評される口調を気にしたのは今日が初めてだ。
 将はうなずいた。
「なぜ、お一人で?」
「井戸くらいは、一人で行けます」
 将は苦笑した。
「そんなに頼りなく見えますか?」
 こちらを見た瞳は、桃の花の下でみたものと何の変わりもない。優しく、同時に凛として、黒川の視線を包み込むようだった。
「いえ。あの剣の使いようを拝見すれば分かります」
 将がはにかみの笑みを見せた。魅入られそうになり、黒川は体を動かすことにした。
「――水をお汲みしましょう」
 黒川はふたたび、つるべをおろした。井戸近くにある柄杓で、手桶から水をすくう。
「杯があればいいのですが」
「いいえ」
 将はどこか嬉しげに柄杓を受け取り、口を付けた。唇が澄んだ赤い色に染まる。見つめていた黒川はあらぬ方に目をやった。
 この時を胸弾ませて、過ごす自分がいる。その甘さに身を委ねるのがためらわれた。
「とてもおいしかった」
 濡れた唇で将は笑った。無邪気な笑みだった。
 功が、この公主をどれほどに慈しんでいるか、その理由が推し量られる。
 春を手元にとどめておける、それが一体、どれだけの幸福なことか、功も千蘭王も分かっているのだろう。
 柄杓を戻した将の眼差しが、会話の糸口を探すように庭の緑にあてられた。
 頬の柔らかい線が、甘くほころんだ。瞬間、黒川は公主もまた、この時を心弾ませて過ごしているのだと理解した。そのときのこの胸の喜びをどうしたらいいのか――ただ、将の視線を受け止めるのみであった。
「……お父上の書は、ぼくも、読んでいます」
「ああ――」
 武人への道を選んだ息子と違い、黒川の父は、根っからの文官だ。古くからの書をまとめて、注釈をつけたものを編纂している。千蘭では名の知れた学者ではある。
「お言葉をお伝えします。父も光栄に思うでしょう」
 将は立ち去る様子を見せない。黒川は自分から足を踏み出した。あまり、話し込んで良い相手ではなかった。どこに人の目があるかも分からない。しかし、後ろ髪を引かれる思いだった。だからこそ、離れなければならない。
「あの」
 将が遠慮がちな声を出した。
 聞こえないふりが出来る大きさのそれだが、黒川は立ち止まった。歩きかけていた分、将とはほんの少し、距離が縮まっていた。
「花を――桃の花を、ありがとうございました」
 黒川は自分の頬に血が上るのが分かった。
 将は目を伏せている。睫毛が落とす影を黒川は見つめていた。
「どうしても、お礼がいいたくて」
「お礼など、言われることでは……」
 喉に言葉がからんだ。
「黒川さまは」
 将の声がかすかに震えた。
「あんな風に、いつもお優しいのですか」
「……誰にでも、というわけでは」
 言って、黒川はうろたえた。将の首筋までもがうっすらと色づくのを横目で見やりながら、足早にその場を去った。

 それ以来、将は時々、兵連所にやって来た。功自身は、このような荒っぽい場所にはあまり連れて来たくないらしいが、将がせがんでいるらしく、公主に甘い公子としては、その願いに従わざるを得ないようだ。
 内密の事とはいえ、公主がやってくるという事実は、兵連所に通う者達の士気を高めた。その上、公主自身も剣を使うと言えばなおさらである。松下に剣を教わるだけでなく、将は若者達と手合いを行うこともあった。
 公主は意外な使い手であった。果敢に相手に向かい、体格差を利用して、素早い切り込みを見せてくる。将を侮っていた兵連所の者の中にはその技に、手痛い目に遭わされたものも少なくない。
 王宮では、正妃を筆頭として女官達も女師範から剣を習うのだと将はみなに教えた。その師範が香取という名で、松下にとっては妹弟子にあたるらしい。
 その香取も、卯具兵連所に一度、やってきたことがある。武術の使い手とは思えぬ、明るく美しい女性で、目を丸くする若者達相手に、見事な剣舞を披露し、二人ほどと立ち会い、勝利を収めた。
 手合いを終え、兵連所の者たちは口々に、質問を投げかける。なにしろ、若い娘が多い後宮にも出入りしている女師範だ。聞きたくなるのも無理はあるまい。
 香取は苦笑を浮かべたり、ときには、若者たちをたしなめつつも、出来る限り、答えを返していた。やがて、女官たちの中では、誰がもっとも強いのか、という問いに、香取は面白そうにほほえんだ。
「私の弟子の中では、公主殿下が一番、熱心で腕が立ちます」
 驚きのざわめきに、香取は笑みをこぼした。
「お優しさの影に、驚くほどの苛烈さがあります。あのお優しいご容姿ですから、あなどられる方も多いかもしれませんが、それは公主殿下のお心の一つを表しているに過ぎないでしょう」
 香取の言葉は嘘でなく、兵連所には将と手合わせをする者が増えるようになった。
 その頃には、兵連所にやって来る者は将が、その見かけだけでは想像もつかないほどの激しくも凛々しい心を持つと悟っていた。
 もっとも、手合いの希望者が増えるのは、将が手応えのある相手だからだけではない。
 剣を交える内に将のなめらかな肌は汗ばみ、黒髪を張りつかせる。頬を上気させ、濡れた紅唇を白い歯で噛みしめる。そんな表情が間近にあり、なおかつ、汗の匂いに混じるほの甘い、なんともいえないよい薫りが、若者たちの気を奮い立たせるのだ。甘美とさえいっていい思いだった。
「あれは、たまらないな」
「だめだと分かっていても浮き足立ってしまう」
 将との手合いを終えた若者たちは、声を潜め、そう囁き合った。
 公主の婿がねを希望するには、兵連所の若者達の身分は開きがあるが、護の公平さ、家柄第一でないありように、自分こそはとひそかに思う者もいたはずだった。
 功が将を兵連所に伴い、若者たちに引き合わせるのも、余計な思惑を生んだのだが、将は、自分をめぐる若者たちの考えや思いにはまったく気づいていなかった。
 彼らの輪に加われるのが純粋に楽しいらしく、簡素な身なりで兵連所を訪れては、みなと親しく交わるのだ。
 だが、将はどのようなときも己の立場を忘れるようなことはしていなかった。軽々しい言動もなければ、行動もなかった。どこまでも慎み深く、特定の誰かと二人きりになるような事はしなかった。
 黒川も将と二人きりで会ったのは、将が初めて兵連所を訪れたとき以来、一度もない。
 いつも側に誰かしら人の姿があり、目を合わせるだけに終始した。言葉を直接、交わしたことが幾度あるだろう。間近に見つめたことが、どれくらいあっただろう。
 優しい、羞じらいの浮かんだ瞳、何か言いかけて閉じてしまう唇。いつも将はもの言いたげであった。言葉をうながしていたのなら、何を口にしただろうか。言葉を口にしていたなら、どんな返事をくれただろうか。
 生来の性格もあって、思いを打ち明けるほどに恋に狂えなかった。心密かに、守るためなら命も惜しくないとは誓ったが。
 交わす視線の底には、優しい感情の流れがあった。将からも、黒川からも、その流れがあった。では、この感情の行き着く先には何があるのだろう。
 予感におののきを覚えた。
 未来とは手に届く場所にある。そこをひたすら目指せば、いつかたどり着くのではないのか。そう思い始めた。不相応であるのは承知している。口外はしなかった。ただ、己の中に溢れんばかりの思いを大切にしたかった。
 そのくらいからだっただろうか。功と手合いをするときに、他の者には感じられないほどの容赦のなさが感じられるようになってきたのは。
 また、松下や兵連所の長ではなく、なぜか黒川を、手合いの相手として功はよく指名した。
 優雅な構えからは想像もつかないほどの苛烈にして、冷たい剣を功は振るう。
 そのたびに黒川の体には痣や傷が増えた。真剣でやり合えば、幾度、殺されていたことか。もっとも、やられるばかりではなかった。黒川も功から勝利を奪ったことは幾度となくある。宇具の兵連所では、黒川はすでに五指に入る腕前となっていた。
 公子殿下に嫌われているのではないかと黒川の技量を妬む者は囁いたのだが、手合いが終われば、功は誰にも、等しく笑みを向けた。それは、ついに母親に兵連所行きがばれて叱責され、訪れが少なくなってしまった将にも似ていた。誰を身びいきする訳でもない、公平な接し方だ。
 功の心を黒川は測りかねていたが、やがて考えることは止めた。剣を持って向き合う以上、余計な心は捨てるべきだった。
 三度、手合いを行い、二度、黒川が勝ったその日、功は黒川を井戸に誘った。
 水をくもうとする黒川をとどめて、功はつるべを落とし、水を汲んだ。先に、と言われたが、黒川は遠慮し、は功に飲むように勧めた。
 彼はほほえみ、水を飲む前に、黒川に話しかけた。
「相手が君だと思うと、力が入る」
 功の言葉に黒川は苦笑した。
「入りすぎてはしませんか。殿下とやり合うと傷ばかり増えます」
「俺だって同じだ。君こそ容赦ない」
 何度、殺されたかなと功は楽しげに言って、つるべに直接、口を付け、実にうまそうに喉を鳴らして飲んだ。
 額の汗をぬぐい、井戸に寄りかかった功は、同じように水を飲む黒川を見やり、微笑した。
 言葉は突然だった。
「柄杓で水を飲んだのは初めてだと、将は嬉しがっていたよ」
 黒川のかすかな動揺を見逃さず、功は笑みを深くした。
「俺たちは、仲が良いきょうだいなんだ」
 将は、どのような声や表情で、功にあの時間の事を教えたのだろうか。黒川の緊張と羞恥の入り交じる固い横顔に、功はくくっと忍び笑った。
「安心してくれ。何もかも聞いた訳じゃない。――将はすぐ顔に出るからね。分かりやすいんだ」
 楽しそうに、からかうように、功は言葉を続ける。
「君は腹の内はなかなか見せない男だと思っていたが、案外、素直だな」
「殿下も案外、お人が悪い」
 黒川がむっつりと言うと、功は声を立てて笑った。晴れやかな笑い声は、将のそれともどこか重なるようだ。
 やがて、笑いを納めると功は、静かに呟いた。
「君で良かったのかもしれない」
 功の瞳が光る。
「陛下は、将を国外に嫁がせようとはお考えでない」
 黒川と功の視線が出会った。
「最低でも将軍だ。そこからの話になる」
 小声でささやいた功は黒川の肩を叩いて、行ってしまった。
 言葉よりも、周囲に聞こえないように小声でささやいたという事が、黒川を戸惑わせ、同時に、普段はその冷静さに潜められている若者らしい情熱をかき立てた。
 ならば、と黒川は決意した。
 夢を掴んでみせよう。しかし、その道は人にも己にも恥じるものであってはならぬ。いつか、春を得たときにまっすぐに顔を上げておけるような道でなければならなかった。
 踏み出した道が、自分をどこに導くのか分からぬままに黒川は歩み始めたのだ。

 ――将が金へ嫁ぐと知った日、黒川の青春は終わった。
 夢を捨てた。望むとも望まなくとも、そうせざるを得なかった。事実を受け入れ、現実を生きていくことを選んだ。
 ただ、最後に将と会えた僥倖が、夢の残り香に黒川を迷わせた。
 馬で行列を追い、丘上から金へと向かう人馬の列を眺め下ろした。あの中に駆け込んで、輿から将を攫い、どこまでもどこまでも馬を走らせてゆけたのなら。
 それは黒川の最後の情熱だった。夢だった。
 主の手の震えを感じ取ったのか、馬は首をもたげた。己の心も宥めるように、その首を撫でた。
 同じ春は二度と巡り来ぬ。今生の別れともいえるこのときに、もはや未練は持ちたくなかった。馬首を返し、腹を蹴る。涙はなかった。一声だけ、将の名を叫び、すべてを胸に封じた。


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